私季彩々
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2001年08月22日(水) 2日おくれのお墓参り 

 田舎に帰る途中は深緑の森を通る事になる。札幌から支笏湖へ至る道は国道とはいえ途中に民家はない。走りやすい道だけど、途中峠のような急カーブもけっこうあったりする。九十九折の道を抜けると、深い水をたたえた支笏湖が現れる。恵庭岳もくっきりと見えて、荒々しい山頂の岩肌を見せている。
 札幌に近く最も身近な行楽地ではあるが、羆も多いし森も深い。そんな探求しがいのある大自然を苫小牧側に抜けると、なだらかに下る一本道が続く。高校生の頃の強歩遠足で延々と歩いた道だったりする。深夜通るとおばあさんが追いかけてくるという伝説の道だ。抜かされると死んでしまうらしい、こわひ。

 苫小牧市街に出る直前に霊園がある。そこに私の父方の墓がある。お盆も2日過ぎた日にちょこっと寄ってみた。
 わずか2日後だというのに誰もいない。一応週末だから少しはいるかと思ったのだけれど。緑の中にお供え物と花でどことなく華やかな墓苑のイメージも、緑と大理石のコントラストにカラスが舞うとても沈んだ雰囲気だった。盆以外ならこんなものなんだろう。
 車を誰もいない駐車場にとめて歩いた。お墓は2段目の奥にある。黒い石にキリストの言葉を書いたものや、卒塔婆のみの墓があったりでお墓も様々だ。線香すら用意していないのでお墓の前に立ってもばつが悪く、周囲を散歩してみることにした。

 塩野七生さんの著による”ローマ人の物語”によると彼らのお墓は街道沿いの賑やかなところに立てられたそうだ。旅人が休憩するところがお墓の横で、そこに刻まれた文を読んでなごんだとのこと。
 ”おいおいそんなにいそいでどうするんだい。君もそのうちここにはいるんだ、どこへいったって同じことだぜ”、なんていうユーモアに溢れたものらしい。

 さて日本では、そうはいかない。合い並ぶ墓石の中に、手入れのされていない卒塔婆のみの区画があったりする。いつからあるかわからないワンカップが痛々しい。永代管理の名のもとにある墓苑ではこのような形はつらい。石の空間に、このような朽ち行く木は似合わなく思えた。そんななか墓石に刻まれた贈名に目が行った。たいていのものは古くな亡くなった順に並んでいるが、ほとんどが”童女 二才”などというとても若く亡くなった人たちで始まっていた。明治や大正のものも多い。そのあとに昭和後半の70歳以上の方々が並ぶ。私の実家の墓石も同様だ。墓石を作った伯父が「早くなくなった姉2人を真っ先に弔いたかった」と言っていた気もする。同じ想いで墓を建立した方々も多いのだろう。そんななか贈り名のない墓標もあった。
 ”日露戦争にて戦死 ○○○○戦士”
 仏式の贈名もないが、この形が名誉という事だろうか。一連の流れの中で、この平和そうな北海道の墓苑の中にも歴史の楔が残っていた。
 賛美歌の一説を刻んだものもあった。仏式もキリスト教も一緒というまさに日本的なごった煮の宗教観は、世界に誇るべきものだと思ったりもする。

 で、一回りして我がご先祖様に合対面。ごめんなさい手ぶらで。ふがいない私をどうぞお導きください。

 そして実家へと旅立った。思えばお供え物の残りなどどこにもない。やけに綺麗な墓苑だった。そういえば、カラスが増えてるからお供え物は持ち帰るようにいってたっけ。
 おっと。それよりも去年はそれ目当てで熊が出たんだった。危ない危ない。人気のないお墓で熊にあったんじゃ、葬式のひまなくすぐ納骨じゃあできすぎだ。ま、それもいいかね。シンプルで。”鳥葬”というのもあったそうだから”熊葬”もいいかも。 Home&Photo


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