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【yanai ism】・・・いつまで経っても忘れぬ思い - 2006年03月13日(月)

昨晩は最初に勤務した設計事務所の恒例のOB会が浜松・館山寺温泉に於いて行われた。参加者は22名だったが予想通り今回も私が一番年下であった。入社前に既に退職されていた先輩もいれば、一緒に仕事をさせて頂いた先輩、本当に雲の上の存在だった怖くて声も掛けられなかった先輩・・・。そういうメンバーの中に参加させて頂ける喜びを感じると共に、その会社の一番いい時期を過ごせた誇りと感謝の気持ちを忘れてはいけない。

ここでも何度か綴ったことがあるが、その会社は普通では考えられないような発想で独特のスタイルを構築し、人材育成に於いては非常に秀でた企業であったと思う。とにかく全て出来て一人前で、今でこそ分業制となっているが先発してマウンドに上がったらゲームセットのコールを聞くまではマウンドを降りることは許されない。万が一降りてしまったら半人前という評価が当たり前。みんな必死だし、厳しい規則や決まり事の中で本当に一生懸命に頑張った。

まあ怖いもの知らずというのが分かり易い例えかもしれないね。若くして支店を任されとにかくやるしかない。当時は競ってその立場になることを目標に寝る間も惜しんで一心不乱に仕事をしていた先輩方を見て育っていったものである。只、そういう風潮も私が入社する数年前位から次第に変化し、守りに入る社員が目に付くようになってしまった。そんな中で私は恵まれていたのかなと思っているが、本当にギリギリというか既に風潮が変わりつつある中での入社だったが、いろんな意味で多くの先輩方と接する機会が多く、その方々の姿勢や思いを見ながら年月を費やしていくことが出来たのである。

私の入社後何年かすると当時の先輩方がドタバタと辞めて行ってしまった。今から思えばその社内の変化に気付き去って行ったのかなと・・・。でも、残った先輩方の多くはその更に先輩方の思いを継承し【yanai ism】を守り抜いていったのだと思う。そういう良き伝統を見て学んで実行出来た最後の世代が私であり、これからもそれを忘れることなく自分自身の誇りとして守り通していきたい。

当時は雲の上の存在で話なんかしたことなかった大先輩が「参加してもらって本当に嬉しいよ!」って声を掛けて下さった時は嬉しくて堪らなかった・・・。その会社で学んだ人間は大抵のところで通用すると言われた位にいろいろなことを実戦で経験し、失敗しながらも育てて上げられていったのだと思うが、経営者からすれば一種の冒険でもあっただろう。だって物凄いリスクを背負っている訳だからね。そういうことって中々出来ることではないと今の年齢といろいろな経験を重ねてきた中で感じるのである。

しかし、私が辞めた14年前には新たにその思いを継承する人間はいなかった。いわゆるサラリーマン技術者だよね。私が見てきたのはそういう人達ではなかった。文句を言いながらもとにかく我武者羅に目の前の仕事を片付けていったし、【yanai ism】というものを守り抜くことが生き様とも思えるくらいだったと思っている。ここ1〜2年で最後まで残っていた先輩方が一気に辞めてしまい、今や何の魅力も興味を感じなくなってしまったのはそこから巣立った者としては寂しい限りである。

とある先輩が言っていたが「誰も皆、当時のまま変わらず年だけ取ったんだよ」って。将にその通りかもしれないね。髪の毛が薄くなったり白髪が増えたりしているが私が記憶している当時のままだったし、変わらずそのまま年輪を重ねてきたんだなと・・・。今回も参加したのは熱い人間ばかり・・・冷めた人間なんていない。その思いがあるから参加しようという意識が働くのだろうし、私も予定が入っていたが何とか調整して参加することが出来たのである。

仙台から参加した先輩と共に地元の先輩の車に便乗し3時にはチェックイン。風呂に入るにも早過ぎるし、とりあえず飲もうかということで冷蔵庫の缶ビールで久々の再会を祝して乾杯。既に私は朝の車中で缶ビールを飲み、島田のお店で日本酒を飲んでいるので半分出来上がっている状態。6時半からの宴会では流石にそれほど飲まずに大人しくしていたが、9時からは部屋に集まりいつもお世話になっている酒屋さんに手配した焼酎と日本酒を飲みながら当時の話や近況報告などをし、熱い激論を語る先輩や既にヘロヘロになった先輩もいたりしながら時計は12時を廻っていた。

何人かは自分の部屋に戻って床に就いたが、残った6〜7人は3時まで熱く語り合ったのである。一番の年長者である当時の専務。今でもみんなは名前ではなく専務と言っているが、自ら宴会の司会を買って出てパワー全開!大丈夫なの?ってみんなが驚くほど元気だった方も3時まで全開モードでした・・・。それにしても凄いパワーである。当時は専務が支店に来た際、5時過ぎると同時に「お〜い、誰か缶チューハイ買って来〜い」と。その当時は私は今からは想像も出来ないが酒を口にすることは殆どなかったのである。だから買いに行けと言われても半ば嫌々状態であった・・・。

そういう思い出も蘇り名残惜しいが各部屋に戻って寝ることにしたのであったが、3人で部屋へ戻ると布団が二つしか空いてない・・・。アレ?一人多いぞ!5人部屋で二人が先に戻っているので布団は三つ空いていなければならないのだが、酔っ払ったのかどうか他の部屋の先輩が寝ていたのである。どうしよう・・・?じゃあ飲む?って感じで更に飲み続けることにしたが冷蔵庫には酒が残っていない。財布を片手にフロントまで行きベルを鳴らすと奥の事務所ではなく、ロビーの方から「何ですか〜」とあきらかに不機嫌そうな声がし、「館内で何処かお酒売っているところないですか?」と聞くと「酒はないがビールならある」だってさ。なんじゃそれ!って昼間なら突っ掛かっていたが流石に夜中の3時に起こしてしまったんだからグッと堪えて自販機の場所を教えて頂き缶ビールを抱えて部屋に戻り、小さなコタツを囲んで3人で先ほどの続きを・・・。

このとき既に私は6次会・・・。

1次会  朝から車中で・・・
2次会  島田のお店で・・・
3次会  部屋で先輩と・・・
4次会  メインの宴会・・・
5次会  専務の部屋で・・・
6次会  部屋に戻って・・・

朝7時45分に缶ビールのプルトップを開けて、最後にアルコールを口にしたのが翌朝6時過ぎ・・・。一体何時間飲んでいたんだい?7時半には起きて朝飯の為に大広間へ集合である。その後はそれぞれ現地解散となり車で浜松駅まで送って頂き、仙台から来た先輩と10時の新幹線に乗ったのである。


在籍中に貰った辞令が9枚。その内の一枚は激怒してその場で破り捨てしまったこともあったが、5と6の頃は蟄居幽閉の不遇の時代でもあった・・・。

1 仙台生産事業部
2 本社企画室
3 金沢設計室
4 東京設計室
5 浜松設計室
6 本社企画室
7 東京設計室
8 長野設計室
9 横浜設計室

普通の企業は何かをしでかすと地方へ飛ばされるのであるが、この会社は本社か名古屋へ飛ばされるのである。そこで一から叩き直され支店へ戻されるという一種独特のシステムである。ご多分に漏れず私も社長と仲良く?なり過ぎてしまい、更に仲良くなりたいが為に社長の目の届く範囲に置かれ辛い日々を送ったものである。まあ、今から思えばその時代があったからこそ今があるとも思っているのだが、そういう小生意気な若造だったからいろいろな先輩方との接点が出来て違った意味での有名人となった。

社長から「なんでお前はそんなに石頭なんだ!」って言われ続けた日々。諸先輩からは「八角形の石川」と呼ばれ、当時のことを思い出すと恥ずかしくなるくらいに偏屈な人間であった。大分丸くはなったが、今でも絶対に変えたくない点は意地でも変えないとか、強い拘りとかというのは当時の性格を引き摺っているとのだと思う。

本当にいい会社に入ったな・・・と思っている。全ての基礎はそこからスタートしているし、厳しく半ば理不尽な言い付けもあった?かもしれない社長の教えも、今では感謝の気持ちしか残っていない。最後の【yanai ism】の世代として決して忘れてはいけないと教えだと思う。でも、私の後から入社した後輩たちは可哀相だったかもしれない。一番いい時代のあの会社の良さを知らぬままに只単に流された中での仕事しかしていないのだから・・・。辞めた人間の殆どが独立開業しているが、今残っている人達の中にはそういう度胸も思いもないのだろうと思う。

今日集まった先輩方がまだ残っていたらどういう会社になっていただろうか?とふと考えてみたりもしたが、多分収拾つかないくらいに大変な状況になっていたかもしれないね。【yanai ism】を守りながらも個性が強過ぎてまとまりがつかなくなっていたかもしれない。ある意味組織には属せないタイプだから独立するんだろうし・・・。


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