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2008年06月26日(木)
最近、身体の調子が良くない。 なんだか急に不整脈のような状態になり、動悸がする。 ほんの数秒なんだが、こんなこと初めてだ。 最近は仕事も何かと忙しかった。 先週の土日もなんだかんだで外出し、休日なのに休んだ気がしない。 きっと疲れが溜まって身体がSOSを発しているのかも。 今度の日曜は野球はないし、特に何も用事もないので ゆっくりと身体のリカバリーに充てたい。 だけど…土曜日は久々の仕事になってしまった(T_T) 明日の金曜も超忙しい。 あと2日、なんとか頑張らねば。
さて、日本人がまた海外で信じられない事をやらかしてくれた。 岐阜市立女子短大2年の学生6人が今年2月に イタリアに研修旅行に出かけた際、 世界遺産であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の壁に 油性マジックで、よりによって学校名や名前などを落書きしてしまった。 6人は「気分が高揚して書いてしまった」などと話している。 学校側は修復費用の負担を申し出たが、大聖堂側から 「謝罪してもらえば責任は問わない。費用負担は不要」と連絡があり、 とりあえずは円満解決したようだ。
しかし、気分が高揚して書いてしまったって…理由があまりにも短絡的すぎだ。 酒でも飲んで酔っ払っていたのかもしれないが、 海外に行ってまで日本の恥を晒すことはないだろうよ。 短大生で2年というと来年は社会人になる連中。 この年齢になっても、モラルというものを身に着けていないのかと疑ってしまうね。
さらに大聖堂に落書きを書いた日本人は 岐阜の短大生以外にもいたことが新たに分かってしまった…。 京都産業大学2年の男子学生3人が、イタリア旅行中の今年3月に 同じくサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の柱に、 名前や大学名などを落書きしていたことが発覚した。
まったく揃いも揃って何やっているんだか(-o-;) 京都産業大学の学生の言い分は 「たくさん落書きがあったのでやってしまった」とか…。 まぁ、そうなると日本人以外にも大聖堂に 落書きしている観光客がいるということだろう。 もし、そうだとすると、大聖堂側の管理にも問題があるとは思うが しかし、落書きはれっきとした犯罪である。 大聖堂側が寛大だったから最悪の事態は免れたが、 もしもこれが他宗派だったらタダじゃ済まなかった所もあっただろう。 しかも対象は世界遺産だ。 このようなことが連続して発覚してしまい、日本人に対する印象も悪くなる。 大学生と言えど立派な大人なんだから、やっていい事と悪い事の区別くらい 自分でつけられるだろうよ。 このような事を平気でするような人間には社会に出て来てほしくないね。 公私の区別もつけられないような人間は欠陥人間と言われても仕方ない。
それにしても、こんなことがニュースになるなんて日本の恥だ。 「旅の恥はかきすて」という諺があるが、海外では1人の日本人観光客が 「日本代表」になってしまうということを忘れないでもらいたい。 まして世界遺産に落書きをしたとなると、一歩間違えると国際問題だ。 もしも日本に来た外国人観光客が、日光東照宮や姫路城に 落書きしたと聞いたら我々、日本人がどう思うのか、よく考えてもらいたい。 それに「旅の恥はかきすて」の本来の意味は、 旅先で何やってもいいという意味ではなく、 旅先でしかできないような体験を恥ずかしがることなくやっておいで。 という意味。そうすることで旅先の文化や人との交流ができるよ。 ということになる。 「旅」は決して免罪符ではないのだ。この点は勘違いしないでほしいものだ。
ただ…、そもそも論だけど、海外旅行に限らず、 とかく「公私の区別がつかない」人が最近増えてきているような気がする。 国内でも観光地で落書きをする輩が結構いる。 もっと小さい話では、町中で普通にポイ捨てができる、タバコを捨てる、 駅や電車のポスターを無断で剥がして持っていく、乗り物の中で大声で話す、 乗り物の中で携帯、化粧、飲食等々…している人を見かけることが増えた。 これらはマナー違反だし、ものによっては犯罪行為である。 なぜこんなことをやるのか? それは「公共の場=なんでもあり」という 誤った方程式ができあがっているからだろう。 むしろ「公共の場はお客さんとして伺う場所」という認識を 持たせる必要があるだろう。 誰も人の家に行ったとき、ゴミを畳や床に捨てたり、人の家の壁に いきなり落書きをする人はいないはず。 さらに言うと、そうした行為をを自分の家でやられたらどう思うか。 そのような発想力が必要な人間が数多くいる。
今回の学生どもだが、まったく何の研修だか分からないが、 おそらく国際化社会を学ぶという視点もあったのだと思う。 しかし、国際化よりも、まず学ぶべきこと、 それは「マナーを守る」という基本的な社会性である。 社会性のない人間が海外でウロウロされると、 「日本人ってバカばっかりだな」と、世界中から思われてしまう。 それこそ国際社会から取り残されかねない。 まず基本的な人間教育、次に国内文化の教育、そして、それらが全て備わって 初めて国際化教育を受けるというのが良いだろう。 猫も杓子も国際化というのはナンセンスだ。 国際化教育の前にまず人間教育をしっかりと叩き込んでもらいたい。
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