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2007年12月26日(水)
昨日は聖なるクリスマス。 数あるクリスマスの物語の中で多くの日本人を感動させたシーンが 「フランダースの犬」のラストシーンである。 ネロとパトラッシュがルーベンスの絵の前で永眠についてしまう… という涙なしでは観れないシーンだ。 そんな感動シーンが、実は「感動するのは日本人だけ」という 面白い検証結果が出たそうである。
検証したのはベルギー北部フランドル地方在住の 映画監督、ディディエ・ボルカールト氏。 この監督の感想として欧米では「フランダースの犬」は 「負け犬の死」としか映らず、海外ではまったく評価されることはなかったそうだ。 実際、何度か米国で実写化されているものの、 全てパトラッシュが生き返ったりとハッピーエンドに書き換えられている。 あのお涙頂戴シーンのままだと米国人には滑稽に映ってしまうらしい。 日本ではこの悲しい結末に感動の涙を流す人ばかりなのに…。
欧米人と日本人との感情の違いをボルカールト氏が 3年の年月をかけて解明した結果、日本人の心に潜む「破滅の美学」が 感情の違いの原因と発表されている。 日本人は「敗北や挫折を受け入れることにある種の崇高さを見出す」と 結論づけていた。
うーん、破滅の美学ねぇ…。 勝手に日本人の感情を解析するなよ。と言いたいところだが、 正直、日本人としてこれは反論できないかも。 確かに、日本では人が死んだりする物語は 「感動の名作」と宣伝されるものが多い。 逆に駄作と扱われる作品の多くは人の死に触れていないものが多いかも。
さらに自分なりに美学を追求すると、死を明確に描くのではなく、 死んだのではないか?と想像させるシーンの方が よりいっそうの感動を呼ぶのではないかと思う。 ネロとパトラッシュも最後は天使と共に昇天するが、 これは「明確に死んだ」と言う表現ではなく、 「夢かもしれない」という想像もできる。 あしたのジョーの最後も真っ白に燃え尽きていたが 「明確に死んだ」とは設定されていない。 様々な感動ドラマでも、不治の病の闘病の末どうなったかは 視聴者の想像に任せられてラストを迎えるような手法が多い。
アニメやドラマ、映画だけでなく特撮など様々なジャンルの物語で 「死んだかもしれない」という表現の方が、 日本人にはより多くの感動を味わえるのだろう。 まぁ、感動作品の全部が全部、死なないとダメってわけではないけどね。
日本人と欧米人の感情の違い、これは「文化の違い」ってヤツだろう。 海外から見たら滑稽かもしれないけど、 実際に「死んだかもしれない」という感動の手法は泣けたりするからね。
他の地域で言うと、たとえばインドの映画では 歌って踊らないとウケないと聞いた時は、何か変わっているなぁと思ったが、 今回の感動の検証は、これと同じことだろうね。 まぁ、ディズニー映画なども悲しいシーンなどになると ミュージカルのように歌って踊りだすシーンがあるけど あれにはかなりの違和感を感じてしまうけど…。
しかし、どんな人でも死ねば感動するってわけではない。 物語で、その人がどんな生き方をしてきたかによって感動の度合いが上下する。 その辺もしっかりと解明してもらわないと 第二次世界大戦中の日本軍のように「死ぬことが美学」と勘違いされそうだな。
そういえば次回の仮面ライダー電王の予告では、 キンタロスが「俺の最期にお前が泣いた」と言っていたが、 これはどっちなのだろう?! やっぱりキンタロスが……? 幅広い年齢層が見ているんだから、破滅の美学を理解していない 子供たちにもウケる作りを期待したいものだ。
そうそう、肺がん検診の結果が来た。 なんとなくドキドキしながら封を切る。 その結果、まったくもって異常なし(^-^)v
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