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2007年10月03日(水)
先日の日曜日に1977年以来、30年ぶりに富士スピードウェイで F1の日本グランプリが開催された。 初開催の1976年を髣髴とさせる悪天候の中で予選も決勝も行われたが、 67周中23周にセーフティーカーが入るという前代未聞のレースとなった。 試合が雨天順延となったためにリアルタイムでテレビ観戦できたが、 開催前から色々と言われていたが、現地に行った人にとっては 予想通り、最悪だったみたいだね。
レースは荒れた天候の中、終始安定した走りを見せた マクラーレンのルイス・ハミルトンが優勝してワールドチャンピオンに 王手をかけたが、水しぶきが上がる戦いは観客席からよく見えず、 セーフティカーの先導が3分の1以上を占めたレースは、 大雨のうえに気温19度という寒い中で集まったファンにとって、 ちょっと物足りなかったのではないだろうか。 それでも、レース中はそれなりに見所はあったけどね。
しかし、今回はレース自体よりも興行の点でトラブルが続出。 富士スピードウェイは初開催の1976年は台風を伴う大荒れの天気で 自らリタイアするドライバーが続出し、翌1977年はコースアウトした ジル・ヴィルヌーヴのフェラーリに巻き込まれて2人が死亡するという 大事故が発生した因縁の場所。 そんなこともあり開催わずか2年でF1は富士からというか日本から去ってしまい、 その後の日本開催は鈴鹿サーキットに、その座を譲ってしまった。 30年前の当時も安全性に加えて問題となっていたのが交通渋滞。 サーキットまでは一本道なので迂回路がなく、 御殿場ICまで6時間以上もかかったとか。 1977年に優勝したジェームス・ハントは、渋滞を避けるためという理由で なんと表彰式を欠席していた。
30年ぶりの開催となった今回、富士スピードウェイ側は、 指定の駐車場や駅から会場までのアクセスをシャトルバスに限定し、 徒歩すらも禁止するという渋滞対策を講じた。 ところが29日の予選終了後、雨のためにシャトルバスの場内走路3ヶ所が 陥没したため9万人の観客のうち約2万人(一説には4万人という説も)が 足止めされるというトラブルが発生。 雨の降る気温の低いの富士山の麓で、5時間以上待たされた人もいたようだ。 しかも、お詫びにと富士スピードウェイ側が配ったのは冷たい飲み物であり、 トイレは常に1時間待ちの状態だったとか。 バスに乗っても渋滞していたため、降りて歩く人の姿もあったそうだ。
それでも翌日の決勝には約14万人が来場したが、会場へ向かうシャトルバスが 大渋滞となり、午後1時半のスタートに間に合わなかった観客が続出。 さらに第1コーナー寄りのC指定席の一部からレースが見えないことが判明し、 この席を買った観客約7000人分の指定席料金を返却し、 スタートに間に合わなかった85人にもチケット代の他、 交通費や宿泊費なども含めて全額返却することになった。 この払い戻しの総額は3億5000万円にものぼるそう。 レース終了後は帰りのバスに乗るために大混乱を起こしたようで 雨の中でバスを待つ観客の群れはまるで難民キャンプか、 はたまたシベリア拘留者たちのようだったとか。 バスに乗るまで4時間待ち、やっと出発しても大渋滞でまったく動かず。 やっと御殿場の駐車場に着いたのが23時半だったとか。
こうした混乱から観客達から「この混雑が改善されない限り、もう来たくない」 「やっぱり鈴鹿でやれ」などと厳しいというか怒りの声が上がっており、 鈴鹿サーキットと比較して、そのお粗末な運営を非難する人も少なくなかった。 やはり30年の空白は埋められなかったようだ。 また、鈴鹿と比べて弁当が高かったことにも不満が続出している。 なんと1万円もする「F1グランプリ弁当」なるものまで売られていたし、 カレーパン1ヶ500円とかフランクフルト1本500円、焼そば1000円…。
日本GPは来年も富士で開催され、2009年以降は鈴鹿サーキットと 交互で開かれることがFIAにより決定しているのだが、 このままではファンの心が離れ、来年以降の開催も危ぶまれるのではないかな。
さて31年前の1976年に初めて日本にやってきたF1GP。 当時はマルボロカラーのマクラーレンに乗るジェームス・ハントや 大やけどを負う事故から不死鳥のように復活したフェラーリのニキ・ラウダ、 珍しい6輪タイヤのタイレル(ティレル)に乗るロニー・ピーターソン、 真っ黒のボディにゴールドのラインとロゴでJPSと描かれた ロータスのマリオ・アンドレッティ、 雨のレースには滅法強かったサーティースのヴィットリオ・ブランビラや フェラーリのセカンドドライバー、クレイ・レガッツォーニ、 史上最年少チャンピオンにも輝いたブラジルの英雄、 コパスカーのエマーソン・フィッツパルディ、 金色のアロウズに乗るルーキー、リカルド・パトレーゼ、 その他にもブラバムのジョン・ワトソンやリジェのジャック・ラフィーなど 蒼々たるF1ドライバーが来日した。
当時、中学生だった自分が好きだったマシンは ブラックにゴールドラインのJPSロータスかな。 ロータスと言えば1980年代、中嶋悟やアイルトン・セナが乗った キャメルイエローのロータスホンダのイメージのほうが強いのかもしれないが、 やはり自分の中ではロータス=JPSカラーだ。 なのでJPSがスポンサー撤退の時は何気にショックだった。 そしてタイレル6輪も愛嬌があって好きだったな。 決してキワモノマシンではなく1、2フィニッシュをあげるほどの速いマシンだった。 本当の名称はティレルなのに、なぜ当時はタイレルと呼んでいたのか不思議だ。 1976年の日本GP参戦時にはノーズの「Tyrrell」ロゴの下に「たいれる」と 平仮名でチーム名が表記されていた。 そのユニークなデザインはスーパーカーブームに沸く日本の子供達にも受け、 当時に放映されていたアニメ「アローエンブレム グランプリの鷹」にも オリジナルの6輪車が登場したっけ。 田宮模型から発売されたプラモデルやラジコンも好評だったが、 模型化の際チーム側にロイヤリティーを支払うようになったのは このマシンが最初だったという。
初の日本開催ということで日本から富士だけのスポット参戦として 星野一義、長谷見昌弘、高原敬武という当時の日本トップ3もグリッドに並んだ。 しかし日本勢が乗るマシンは2年落ちのポンコツマシン。 さらに日本人レーサーなんて三流以下と見られていたために レース前のドライバーズミーティングでチャンピオンシップ・ポイントトップの ジェームス・ハントに「日本人は抜いてほしい方の手を上げろ」などと ヒドイことを言われたのは有名な話。 それにカチンときた日本一速い男・星野一義は予選21番スタートながら 大雨の富士で鬼神のような走りを見せて2年落ちのマシンながら その当事者であるジェームス・ハントを抜き去り、 一時は3位を走るという快挙を見せてくれた。 まさか、カーナンバー52番を付け2年落ちのマシンを操る日本人が 並み居る一流レーサーと肩を並べて3位を走るなどとは 全世界中がその目を疑ったが、台風の影響で大荒れとなった 富士スピードウェイは、マシンやタイヤの性能ではなく ドライバーの腕と度胸が順位を決めていた。 当然、一流と呼ばれるドライバー達は富士のコースを走ったこともなかったので 地の利を生かし、レース前に屈辱的な言葉を浴びせられた反骨心から 星野一義は快走を見せ、当時生放映されたTBSを観ながら テレビの前で大興奮した思い出がある。 しかし残念ながら、今では信じられないことだが、 用意していたタイヤを全て使い切ってしまいレース半ばでリタイア。 だが日本人でも世界で戦えることを証明してくれた。
翌1979年にも富士にF1がやってきたが、このレースで 日本でのレース史上、最も大きな事故が起こってしまい、 自分の記憶も大事故の記憶しか残っていない。 ジル・ビルヌーブのフェラーリとロニー・ピーターソンのタイレルが接触し フェラーリがガードレールを飛び越えて芝生へ飛び込んでしまう。 そこは観客席ではなかったが、数名の観客が勝手に入って観戦していた。 結局、コースマーシャルと警備員の2人が死亡。 観客からも数十人の怪我人が出て、一時は騒然となった。 FIAから安全対策の不備を指摘され、レース不適格サーキットとされてしまい、 翌年以降は日本にF1が来ることはなかった。
もう15年以上も前だが、富士山の麓にある 「河口湖自動車博物館」に行ったことがある。 まったく知らないで入ったのだが、そこには、あのタイレル6輪と JPSロータスが展示してあり、すごい興奮したっけ。 1976年と1977年のF1日本GPのポスターも貼られていて 当時の懐かしい思い出を甦らせてくれた。 久しぶりに行ってみたいね「河口湖自動車博物館」 ちょっと調べてみたら今は飛行館もできてゼロ戦や ブルーインパルスも展示されているようだ。 だけど気になったのは「展示物は年度で変更される」という。 今もタイレル6輪やJPSロータスは展示しているのかな?
中学生ながら当時から「AUTO SPORTS」を毎月読んでは 世界各地を転戦するF1サーカスを気にしていた。 そういえば「赤いペガサス」ってF1マンガがあったな。 当時は日本ではマイナーな存在だったF1グランプリを描いた 先駆的な作品だった。 時期尚早でブームを呼ぶまでには至らなかったけど、 F1の世界を世間に認識させたといえるのではないかな。 確か実家に全巻あると思うので、今度機会があったら読み直してみたいね。
1987年にホンダの力で中嶋悟がF1デビューし、それ以来、 毎年、鈴鹿サーキットにF1は来るようになった。 1994年と1995年にはパシフィックGPなどという名前で TIサーキット英田(現:岡山国際サーキット)にも来日し、 年に2度の日本開催の時期もあったくらい 今や日本でのF1人気や知名度は上がった。 しかし70年代、日本人のほんの一握りしかF1なんて興味がなかった。 やっと30年ぶりに富士にF1が帰ってきたのだから、 当時、不適格のレッテルを貼られた安全対策は万全かもしれないが 観客が帰りに「楽しかった」と言えるような運営を行ってもらいたいと思う。 鈴鹿は遠くて行く気になれないが、富士なら行こうと思えばいける場所。 やっぱり死ぬまでに一度はF1マシンが走っているところを生で観てみたい。 当時を知るF1ファンとして、富士にはしっかりとした運営を望みたいものだ。
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