今朝はケロの病院へ。まだ咳とぜろぜろも残っているので薬がもう3日分追加。 待合室でケロより大きい男の子が、ケロのファスナーにつけたミニカーを見て「ママー、あの子どうして車ついてるのかなー」と言ってケロ近づき、じーっと見て「フェアレディZだったよー、タイヤ1個壊れてるよー」とまたお母さんに報告していた。あんな小さいもので見分けがつくマニアっぷりに恐れ入った。(そして指摘のあったタイヤはゴムがずれていたので直した。)
それからあわてて仕事に。時間のかかる仕事に、社長から振ってくる仕事が挟まって捗らず。まぁいいや。
昼休み図書館で、着物熱が冷めかけたといいつつ着物本とようやく!ようやく!小説に手が出たリクエスト本を借りてきた。そして書棚を巡っていて辻邦生氏の題名の美しさに頬を叩かれる。ああ、何故こんな素晴らしい本達を忘れて着物本ばっかり読んでたんでしょう私。
ケロは今日の帰宅時も「ちゅーのおうち、いくのよー」と言っていたので、自分のことをちゅーと呼んでいるのは間違いなさそう。
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私信
>Sちゃん 保育園では定時に食事してるんだけど。朝「ホットケーキ、食べたいなー」と言いながら起きるとか、食事の時間に関係なく思いついたものを要求するとかの、「おまえはどこのお嬢様か」という贅沢っぷりを「今日のご飯何ー?」という受身の姿勢にしたいというささやかな願いなのでした。(食が細かった頃にとにかく何でも自分から食べたいと言うだけで親が喜んでたのがいけない。)
>Pさん まさに「おんなじおんなじ」という絵本もあるんですよね。相似形の発見もそうだけど、子どもの発達について「子どもは『動物』と『犬』『猫』を同列にならべない(言語の階層構造を理解している)」というのを聞いたことがあって、こういうグルーピングの発想がどこからくるのかが凄く不思議です。
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荻原規子「樹上のゆりかご」(2006-040)
作者のサイトの日記やエッセイはずっと読んでいたのに、なぜか小説の方は何冊か出たの知ってて読んでいなかった。これも出た時に荻原さんが「『樹上のゆりかご』の樹上はスーザン・クーパー『樹上の銀』から取った」と書いていらして「闇の戦い」好きな私は「おおっ」と思ったにもかかわらず読んでいなかったので、遅ればせながら読んでみた。 (ちなみに『樹上の銀』と『樹上のゆりかご』は内容には全く関連はないと思う。)
私は幸いにして(おそらく)女子高だったので、主人公のような学生生活におけるジェンダーバイアスにそれほどひっかかることなく(力仕事も大工仕事も自分たちでやる以外の選択肢ないのよ)楽しく過ごしたが、共学って色々大変なんだな、恋愛感情とかも混ざって。というのが素朴で他人事な感想。
でも中性的な女性を良いなと思う気持ちというのは、長く自分の中にもあったので、そこのあたりの葛藤は感じるものがあった。 主人公と同じく(と、この本の中では特に言及してない気がするけど、分身である荻原さんが児童文学を多く読んだ時期−おそらく大学時代−が私が児童文学を多く読んだ時期−小学〜中学時代−と重なっているらしく、エッセイなどで触れる本がツボにはまるので、同じような本を読んできたと言ってしまおう)児童文学を一通り読んでくると、長靴下のピッピや若草物語のジョーのような「男の子みたいな女の子」が「格好いい」という刷り込みがされるように思う。これはもしかして、20世紀に女性に対する社会的制約が緩んだことを意味しているのかもしれないし、ただ主人公がいわゆる女らしくしてるとお話が進まないという理由かもしれない。
でもね。「女の子みたいな女の子」や「女の子みたいな男の子」が「格好いい」という刷り込みがされないのって、それ以前の前提としての「男の子の美点とされるもの」が「格好いいもの」とされるところが原因なんじゃないのかな。なんて今更書いてるけどこれって女性学の基礎の基礎のような気もするぞ。
この辺の横道思考が喚起されて面白かったといえば面白かったのだが、 「…ハールーン、 ハールーン、 ハールーン!」 と叫んでいったん終了しておこう。
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