ささやかな日々

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2021年01月26日(火) 
大好きな樹のひとつに、今朝は会いに行った。一本ぽつんと公園のただなかに立つその樹は、太い太い節くれだった根を大地にしっかり這わせており。何があってもびくともしない、何があっても動じない、何があってもブレない、この樹は世界にちゃんと立っている。
私はその樹を見上げること、その樹を背に海を見やることが昔大好きだった。たまらなく落ち着くひとりの時間だった。どんなに日常がぼろぼろになっても、この樹の足元に戻ってきていい、というような、そういう感覚があって。この樹があるかぎりここに帰ってこれる、そんな。
冬という季節柄、葉をみんな落とした枝々に、時折鳥が留まり、また去って行く。その様子がくっきりはっきり見上げられて、私はしばらくじっと、写真を撮ることも忘れて見上げていた。
樹から見たら、私なんて豆粒みたいなんだろうななんて思ってちょっと笑えた。
その間にも南東の空はぐいぐい色合いを変えており。一瞬たりともとどまっておらず。ああ、世界は色が溢れてる。

いつか、この樹のように私も世界に根を張れたらいい。何があっても動じない、ブレない。誰がよりかかってもびくともしない、そんな場所になれたら。と思うのだけれど、同時に、ブレブレでよれよれでも、まぁそれはそれでいいかなと思ったりもするのだ。結局自分をどれだけ引き受けられるかだもんな、と。どういう自分であっても。

明日は記念日だ。それはあの被害から丸26年が経つということ。もう、被害前より被害後の時間の方が、長くなっているんだな、と改めて思う。


2021年01月24日(日) 
旧い友人から珍しくメッセージが届く。冬になると具合が悪くなる、心が辛い、と書いてある。
記念日反応はそうやって、被害者の心を蝕むんだよな、と、ひとりごちる。被害が一度でなく複数回だとなおさらに。

雪になる予報だったのが残念ながら外れ。雪を楽しみにうずうずしていた息子のがっかりぶりは半端ではなく。泣きそうな顔で「雪だるま作りたかったのに」と言っていた。冷たい雨に閉ざされた週末。親友の家に遊びに行くことにする。着いて早々、息子は親友のテレビゲームに齧りつき、私たちは梱包作業を。彼女のメモに従って為していくのだけれど、優先順位の高いもの、しかも重いものから詰めていかなくちゃいけなくて、そのメモの細かさといったら。しかもそのメモは彼女の頭の中にあって、だからその都度彼女の指示を受けてからしか作業できず。なかなか進まない。ふたりして苦笑しながらも、何とか梱包を完成させる。海外用梱包がこんなに大変だとは知らなかった。

Aと久しぶりに電話をする。仕事がこれまでの十倍くらいは忙しくなって、でもそのおかげで気が紛れているようで。一時期の弱々しさがどこかに消えていた。そうか、よかった、と思う一方で、ちょっと心配も。その反動がどこかでどばっとでなければいいけれど、と。でもそんなの余計なおせっかいというもの。今はこれで何とかなっているのだから、余計なことは言わずにおこう。またその時が来たらその時に。

月のものが久しぶりに来て、身体がしんどい。どうもおかしいなと思ったら、何か月ぶりかに。月のもののしんどさとおつきあいしてもう何十年経つんだろう。何十年経ってもしんどさは続くということを、生理が始まった頃は知らなかった。いつか終わるこのしんどさもいつか終わる、と、勝手に思って、何度も願ったっけ、早く終わりますように、と。頭痛や身体痛、だるさ、憂鬱、もろもろが何層にも絡み合ってやってくるこの時間。
どうしてこれ、女だけなんだろう。男も等しくそうなればいいのに。不平等だよな、ほんと。女だけ、って。

カウンセリングで、「解離しちゃうかもしれないけどここ大事なところだと思うから突っ込むわね」とカウンセラーが。でも、そうされればされるほど、カウンセラーの声が、言葉が、異邦人の、いや異星人の言語に響いてきて、頭の中がぱちぱちする。目の中でそのぱちぱちが小さく破裂し続けて、何がなんだか分からなくなる。「先生、先生の言葉がショートして全然理解できない」と訴えるのだが、カウンセラーは何度もそれを繰り返す。私はちっとも彼女の言葉を理解できず。
診察になって、主治医にそのことを伝えると、「そういう反応が出るのは、あなたの解離による防衛反応だから、おかしいことじゃないのよ」と言われる。「それがあなたを守ってるんだから」とも。
ぽろり、涙が零れた。


2021年01月21日(木) 
友人Yの退院が無事に決まった。明日午前中にはできるそうで。本当によかった。ほっとした。心配することしかできない自分が本当に歯がゆい日々だった。でも、退院したらしたで独り暮らし大変だろう。確かに彼女は入院には慣れている。病慣れしている。それでも、大変なものは大変に違いない。特にこのコロナ禍、気を遣わなければならない場面がいつもよりずっと多くあるに違いない。どうか何事もありませんように。祈ることしかできない自分に半ば腹が立つのだけれども。

そして今日は会いたいと以前から思っていた人Jに会えた。お互いにはじめての気がしないねと笑い合った。確かに、お互い番組等で見知っている。周りも私たちがこれまで実際に会ったことがないなんて思ってもみないくらいで。Jの佇まいがかつてのカウンセラーととても似ていて不思議な感じがした。一言一言、私の喋る言葉をオウム返しにしてくるところも、ああ、彼女はカウンセリングの勉強を為したのだなと手に取るように分かった。彼女は犯罪加害者たちとのグループワークに参加したことがあるとも話していて、本当に頭が下がる。勉強家だ。
これから何か一緒にできることがあるかもしれないと思うと楽しみ。

一日一日を、こつこつと生きる。しんどいこともいろいろあるけれど、それはそれ。しんどさを数え始めるときりがないからできるだけしない。それをするくらいなら、今日あった素敵なことよかったことをひとつひとつ愛でる方がずっといい。数がたとえ少なくても、たったひとつでも、そういうものが私を生かしてくれる。


2021年01月19日(火) 
早朝撮影に出かけた月曜日。埠頭の端っこに立って辺りを見廻した時、すーっと胸に降りてくる思いがあった。ああここが私の街だ、という思い。
私がこの辺りに一人で来るようになってもう何十年。当時在った建物はほとんどなくなってしまった。次々新しい建造物が、古いそれらに取って代わっていった。それでも。何だろう、この変化し続ける街が、私の立つべき場所だと私には思えるのだ。
ここでいろんなものを失くしたし、いろんな傷も得たし、途方に暮れることもたくさんあった。でもそういったもの一切合切、全部ひっくるめて、私、というものを形作っている気がするのだ。この土地に生き、呼吸している気がするのだ。
シャッターを切りながら、そのことを再確認した朝。きーんと大気が凍えていた。

ほんのちょっとのすれ違い、ボタンの掛け違い、なのかもしれないけれども。そのほんのちょっとが許せないことって、ある。これっぽっち、と他人が聞いたら思うに違いない、そんな事柄であっても。それがあるからもうどうしようもなくなることって、ある。
それが絶対になってしまうことだって、ある。

息子を自転車の後部座席に乗せて公文へ。その帰り道いつもの床屋へ立ち寄る。息子の散髪はいつもここ。お気に入りのお姉さんがちょうど手隙で、息子の髪を切ってくれた。ご満悦の表情の息子を、私は鏡越しにまにましながら見守った。

いつまでこんなこと、続けてなくちゃいけないんだろう。

6月に展示を控えている。その展示内容について今改めて迷っている。今これを為していいのかどうか、と。作品は作品として発表すればいいと言ってくれる友人がいた。確かにそう言えるなあと思うのに、私はまだ迷っている。
どうしたものか。写真集は仕上げてしまったけれども。本当にこれでいいのかどうか。
もう少し、悩もう。

記念日まであと少し。
早く病院の日が来てほしい、と、先週からずっと思ってる。


2021年01月16日(土) 
アディクションリカバリープログラムに出席する日。今日は被害者のある一日というテーマで対話を為す。
たとえば解離、たとえばフラッシュバック、そういったものを単体でそれぞれ知ることはあっても、それが実際どんなふうに連なって一日が成っているのか、参加者の加害者さんたちはなかなか知る機会がない。だから今回、このテーマで、一日という連なりを見て感じてもらおうと思った。
また、想像する力がとても偏っている彼らに、想像力を駆使してもらい、自分なりの像をそこに描いてもらいたいとも思った。
思った以上にみんな真剣に取り組んでくれて、ディスカッションも活発に行われた。質問も彼らの方から幾つも出てきた。
プログラム終了後、S先生と、これは定期的に行うテーマなのかもしれないと話し合う。

帰り道、ちょっとぼんやりしていたら、全く覚えのない電車に乗り込んでしまっており。気づいたら知らない駅に。慌てて路線図を調べる。まさに言葉通り、ここは何処、私は誰、の状態で、もうちょっとでこの歳にして迷子になるところだった。
よほどプログラムの最中緊張していたんだろう。解離する心と体を必死に繋ぎ留めながら何とか本来の帰り道に自分を運ぶ。
慣れた電車に辿り着いて空いた座席に座った時には、冷や汗びっしょりだった。

ようやっとの帰宅後、遅い夕飯を食べる。シチューの残りだけ食べるつもりが、気づいたらごぼうサラダやら何やらにまで手を出しており。あ、これは過食しかかっているなと気づくも止められず。
疲れがピークに達して、丁度いい食事の量も分からなくなってしまっている自分を感じつつ、ぱくぱく冷蔵庫のものを食べてしまう。だめだだめだと、もういい加減止めないとと頭の何処かが言っているのに止められない。何やってんだ自分、とも思うのに。
結局気づいたら、空っぽになった皿が幾つも流し台に。自己嫌悪。

顔を洗いながら、今日一日を思い返す。もはや断片的になっている記憶。それでも、今日は今日として何とか終えたぞ、と自分を慰める。
自分ひとりにできることなんて所詮たかが知れている。それでもせっせと行動し続ける。そうしかできない自分。せめてそのくらいは、納得してやろう。


2021年01月14日(木) 
夜明け前、息子とコンビニまで自転車を走らせる。帰り道はいつものように競争。息子が勢い余ってゴールを越えてもずいぶん走っていってしまう。寝ぐせでぐっしゃぐしゃな髪の毛に向かって「髪の毛は爆発だ!」なんて意味不明なことを言っている。私はくすくす笑いながら彼の髪の毛を梳く。

昔の日記を書き写していて、そこに清宮質文先生の名前を見つける。ああ、この時に展示をしたんだったと改めて思い出す。
当時、私にとってそれが全てだった。それを為したらもう、死んでもいいとさえ思っていた。全身全霊を賭けてそれを為した。
夢半ばで出版社を辞めざるを得ない状況になり、ずっと後悔がつきまとっていた。どうしてもそれを拭いたくて、気づいたら清宮先生にのめり込んでいた。あれほど展示や対談集制作に執念を燃やしたのはきっと、何とかして自分のトラウマを上塗りしたかったからに違いない。今ならそう、思う。

あんな事件があっても、大丈夫だと持っていた。あんな被害に遭っても、自分は大丈夫だと思い込んでいた。それがことごとく、ひっくり返った。
何もかもを失って、自分がこれっぽっちの存在だということを痛感した。自分なんていてもいなくても同じ程度の存在で、むしろ私がいない方が都合のいい人間の方が当時いっぱいいるように思えた。

孤独だった。

独りって、こういうことか、と、毎晩のように思った。病気になってしまったことも会社を辞めざるを得なかったことも何もかもが、自分のせいに思えた。自分さえもう少し強かったら、自分さえもう少し。そうしたらこんなことにならずに済んだんじゃないか、と。
今ならまた、違ったことを言えたかもしれないけれど。当時はそれが全てだった。

亮子奥様は、その後ホームに入ったと人づてに聞いた。今はどうなさっているのだろう。まだご存命だろうか。分からない。もしもう一度お会いすることがあるのなら。もう一度、お礼を、感謝を、伝えたい。


2021年01月12日(火) 
珍しくマサラチャイを淹れる。二十代三十代の頃はよく淹れていた。濃いめに淹れるのがコツ。今日はジンジャーチャイとマサラチャイの茶葉をブレンドして淹れてみる。

記念日が近いせいだろう、あれやこれや要らないことを思い出す。たとえば、昔よくバスの中や電車の中でぶっ倒れていた時のこと。唐突に身体ががくがくしてきて、手すりに掴まっていても耐えられなくて結局後ろにばたんと倒れる。でも誰も助けてはくれない。声をかけてさえくれない。だから私はいつだってひとりで身体を持ち上げたんだ。
ペンを握る手もがくがく震えたものだった。あまりに震えが強すぎて字が書けない程のこともあったっけ。
副作用止めの薬を全部断ってみて、改めてそれらを思い出す。ああ、確かに私は、元気になっていっているのだな、と。でも、それらは健康な人たちから見たら「ない」も同じことで。みんながふつうにできることが今までできなくて、それが最近少しできるようになった、というだけで。つまり、そういうこと。

久しぶりにKちゃんから連絡がある。奥さんが乳がん再発だという。掛ける言葉が見つからなくてしばらく沈黙してしまう私。でも沈黙されても困るだろうと必死にあれやこれや言葉を繋いで声にしてみる。
そうして思うのは。うちは全員が癌で死んでいる。まさしく癌家系以外の何物でもない。父方にしても母方にしても、親戚はすべて癌。つまり、私も癌になる可能性がとても高いということ。なのだが、私はみんなみたいに治療に勤しみたいと思っていない。もし癌と分かっても、延命治療は断るだろう。祖母たちのように、薬漬けになってまで生きたいとはどうしてももう思えない。彼らの最期を私なりに知ってしまっているから。

生きて生まれた者は誰もが等しく、死ぬ。私もその一人だ。まごうことなき、それが真実。私もその、一人。


2021年01月11日(月) 
今日覚えていること。オットがいらいらしていたこと。息子がダンス教室で頑張ってたこと。そのくらい。それ以外全部ぼやけて、焦点が合わない。

親友が怒っている。何に怒っているかといえば別に私に対してではなく、そうでなくて、私のオットに怒っている。
私がオットから為されていることはもはや「虐待」だ、と。少なくとも伴侶に為すことではない、と。

そうなのだろうか。私は正直、分からないでいる。彼女の言っていることは至極もっともだと思えるのだけれど、でも、それが実際私に為されていることと認識できない。本当に私そんな酷いことされてるのかしらと思ってしまう。それを彼女に伝えたら、「もはや心身共に麻痺してるからだよ」とあっさり言われる。「麻痺してるからちっとも自覚できない。でも心の何処かで感じてるから身体のひどい痛みとして発せられてくる」とも。
本当に、そうなんだろうか。

まるで、他人事のようにしか私には感じられない。

そしてふと思い出す。かつて恋人から為されていたこと、それはDVなんだよ、と主治医から言われた時の事を。その時も私はこんな反応をしたんじゃなかったか?

参ったな。本当に参った。自分に起こってる事柄に自分の頭も心もついていってない。むしろ拒否してる。感じることを拒否してる。「手遅れになってからじゃ遅いんだよ」と親友が言う。そりゃそうだ、手遅れになってからじゃ。
そう思うのだけれど。

そういえば今朝の朝焼けがきれいだったこと。思い出す。張り詰めた冷気の中立ち昇るグラデーションは実に美しかった。片隅に三日月がはりついていたっけ。

私は。
どうしたいんだろう。


2021年01月09日(土) 
親友が身体を壊して倒れているので今日は息子を連れて親友宅へカレーを配達しに行った。少し動けるようになった友が息子にテレビゲームを伝授。夢中になって始める息子。私はゲームのことはまったく分からず目、白黒。
ひたすらゲームをやりながら鬼滅の刃の炎を歌い続ける息子の横で友がこれまたけたけた笑っている。ありがたい光景だ、と思う。私はベランダに出てぷかり、一服。
陽射しがなければすぐぶるっと来るような冷たい大気。でもそれがまた気持ちよかったりして。私は一服しながらベランダに置かれたひとつのシクラメンの鉢を見つけ、枯れた花芽を摘む。

今、窓の向こう拡がる闇色を、珈琲を啜りながらじっと見つめている。その目の中には、そこにはあるはずのないカレンダーが映っていて、刻一刻近づく記念日がありありと浮かび上がっている。いっそ塗り潰してしまったらその日は来ないんじゃないかなんて、そんな、ありえない妄想を抱いてみたりする。無駄な抵抗。

毎年巡って来るこの記念日反応は、いったいいつになったら薄れるんだろう。なくなってくれるんだろう。どうやったら記念日が記念日なんかじゃなくなってくれるんだろう。

とりあえず。笑おう。意味なんてないけど笑い飛ばそう。この欝々とした気持ちを吹き飛ばしてしまおう。昨日のようにパンでも焼こうか、それとも。
気持ちを堕ちたままにしておいても何もいいことは、ない。とりあえず意味なんてなくても笑って。明日を迎えよう。


2021年01月08日(金) 
昨夜半熟チーズケーキを作り始めた。クリームチーズとマスカルポーネを捏ねている時唐突に木べらが折れた。
それは私が一人暮らしを始める折に実家から持ち出したものの一つで。長年愛用してきたものだった。だから折れた木べらを前に、しばし呆然と立ち尽くしてしまった。
何となしに嫌な感じが背中を走り、母にLINEする。「実は木べらが折れちゃったの」とだけ。すると「ああ、あの木べら、あなたが持って行ってたの?ずっと探してたのよ」とすぐ返信が来る。しばしの沈黙の後、「私が犯人でした!」と文字を打つ。すると母からこんな返事が。「あれはね、浅草橋で買ったのよ。使いやすいでしょう、とっても。コロナが終わったらまた買ってあげるわよ」。
私はその文字をごくり呑み込む。コロナが終わることなんてあるんだろうか? 恐らくそれはないだろう。コロナはこれからずっと私たちが付き合い続けていかなかければならない代物に違いない。でも、年老いた母にそれをそのまま突きつけるのは、何か違う気がして私は何も返事ができなかった。だからこう打った。「うん、楽しみに待ってる!」。嘘、ではない。楽しみにしてることは本当だ。でも。
そうして改めて思ったのは。私の知らない母たちの歴史がどれほどにあったのか、ということ。母と浅草橋は私の中ではちっとも結びつかない線だった。今言われなければ生涯知らなかったろう。
父と母は結婚当初とても貧乏だったと聞いた。六畳一間で暮らしていたと。給料日前は湯豆腐を食べて凌いでいたって。そう聞いたことがあった。昔々のこと。
本当は。
もっと早く、二人から話をそれぞれに聞かせてほしかった。そのつもりで動き始めたこともあった。でも結局叶わなかった。私と彼らとは、違い過ぎた。水と油過ぎた。だからこれからも、たまにこうやって「知らなかったこと」を見聞きすることはあっても、改めてその場を設けて聞くということはないのだろう。そういう意味で、私は実に親不孝な娘だと思う。不義理な娘だと思う。
父よ母よ、ごめん。

被害に遭い、すべてが変わってしまった。それまでの人生の流れがすっぱり切断されて、滝つぼに叩き落されたかのような、そんな落下の仕方だった。そうしてずっと、滝つぼの中でぐるぐる浮かんだり沈んだりを繰り返している気がする。私の人生。
そういう状況にだいぶ慣れて、私は私なりの泳ぎ方浮かび上がり方息継ぎの仕方を体得してきた。でもそれはあくまで「私の方法」であって、他の誰かに合うわけでは、ない。父母から見ても理解できるものでは、ない。だから彼らが私にアレルギー反応を起こすのは、仕方のないことでもある。
もちろん私も、彼らにアレルギー反応を示すのだから、お互い、どっちもどっち、ということか。

今日は通院日だった。カウンセラーとのやりとりを細かく思い出そうとしても頭がぼんやりしていてうまく思い出せない。ただ、主治医とのやりとりのこの部分はくっきり覚えている。「過緊張は、さらにその上を行く緊張でしか解せないのよ」と。主治医が言うので、何ですかそれは、と問うと、たとえば肩が痛いとき肩をぎゅーっと上げる、そしてそれを唐突に落として解す、それは、過度な緊張で凝り固まった肩にさらに力を入れ、それを一気に解放することで緊張を解すことであり。過緊張はだから、さらなる緊張を与えることでしか、解せない、と。
なるほどなあと頷く。

それにしても。今日は身体痛が酷い。一日中テニスボールと鎮痛剤を手に握っていた気がする。天気のせいかなあなんて自分を慰めてみるが、それで痛みが去るわけでもなし、せっせせっせとボールでケアするほかにない。
今年一番の冷気ですっぽり覆われたせいか、今日の夕暮れはいつも以上の静謐さでもってそこにあった。


2021年01月06日(水) 
あと三週間もすれば記念日だ。それは必ずやってくる。当たり前だ、私に時間を止める術なんてないのだから。頭の芯がじんじんする。唐突にフラッシュバックしてくる映像に吐き気を覚える。フラッシュバックにフリーズして半身が痺れてくる。
時間を止めることができないならせめて、時の進みを倍速にできたらいいのに、なんて、ばかみたいに願っている自分がいる。

私の記念日が来るということは、阪神淡路大震災のあの日もその前にやってくるということで。つまりは友人の命日がやってくるということで。
友人は恋人から酷い暴力を受けていた。それに耐えられなくなった彼女がやっとの思いで逃げた先が、神戸の知人宅だった。それが地震が起きる一週間前のこと。他の誰にも告げないから、と、着の身着のままで逃げていった彼女。毎晩10時に電話連絡を取って生存確認をしていた。地震が起きる前の晩も電話をし、「大丈夫。少しご飯食べられるようになったよ」と彼女は笑ったんだった。
そしてあの朝、早朝のこと。飼い猫のモモが、ぐるぐると部屋の中を廻って何かを私に知らせていた。どうしたの、何かあった?と声をかけた直後、つけっぱなしにしていたテレビの映像がぐわんと歪んだ。
阪神淡路大震災。彼女は死亡欄に名前さえ載らなかった。当たり前だ、彼女が神戸に逃げたことを知っていたのは私ともう一人の友人だけだったのだから。
今思い出しても胸がぎゅうと鷲掴みにされるような感覚を覚える。やっと普通に眠れるようになったのに。それもたった一週間で終わりだなんて。どうしてこんな残酷な仕打ちを神様はしてのけるんだろう。彼女が一体何をした?
彼女のことで頭がまだまだいっぱいだったその十日後に、今度は自分が被害に遭うことになった。何がなんだかわからんとはこのことだと思った。
生きてるって、そういうことだ。何が起こるかなんて分かったもんじゃない。あり得ないと思っていることががんがん起こる。夢見てた将来も恋も何もかも、私はそうして失った。自分の健康も何も全部、だ。
そんなもんだ。
じゃあ何で私はまだ生きてるんだろう。否、死ねなかったというのが正解だ。何度も何度も死のうと試みて、でも失敗を繰り返して、生き残ってしまった。どれほどその生き残ったことを恨んだことか知れない。
でも。
今はそういう恨みも薄らいだ。生き残ったことをどんなに恨んだって、誰も何も助けてくれやしない、何一つ変わってくれやしない。結局、すべて、自分で自分を引き受けるほかにない。
「他人と過去は変えられない。変えられるのは今と自分のみ」。本当にそうだと思う。


2021年01月05日(火) 
定期的に寝床を覗く。オットと、息子が寝ている。その息子の隣にはサスケが寝ている。息子とサスケは今夜は向き合うように横になっており、戸の陰から見つめているととっても仲良しの兄弟に見える。サスケは犬だけど。
今ちょうど彼らの体重は同じくらい。身体の大きさもだいたい同じ。オジサン顔のサスケに童顔の息子、だからこんなふうに並んでいるとサスケがお兄ちゃんで息子が弟みたいに見える。
と、ここまで書いたところで物音がしたので飛んでゆくと、サスケが扉のところまで出てきており。あら、ついさっきまで仲良ししてたのにどうしたの?と声をかけると、自分のケージにつつつと入ってゆき、水をがしがし飲み始めた。ああそうか、息子と並んで布団に入っていたサスケにとっては暑かったのだと気づく。サスケの頭をくしゃくしゃっと撫でると、サスケは丸く大きな潤んだ目でこちらを見上げてくる。
緊急事態宣言がまた出されるんだという。
懇意にしている喫茶店のマスターたちの顔が脳裏に浮かぶ。大丈夫だろうか。大丈夫なわけがない。でもどうしようもない。このもどかしさ。
六月の展示に向けて最後の撮影を今月来月で為そうと思っている私にとっても。
コロナとのおつきあいは、年単位と覚悟している。だから、ここで緊急事態宣言が出ても基本うちの家族の生活は変わらない。でも、うちは変わらなくても周りが変われば、否応なくそれによって強いられるものが出てくるわけで。
コロナに対する人々の温度差も、きっとこれからますます大きくなるんだろうな。窓の向こうに広がる夜闇をぼんやり見やりながら、ため息ひとつ、ついてみる。
神奈川県座間市のアパートで2017年、男女9人の遺体が見つかった座間9人殺害事件で、強盗・強制性交殺人罪などに問われた白石隆浩被告の死刑が5日に確定したという。
死刑について、昔は仕方のないこと、と思っていた。でも、いつからか私は、死刑反対に傾いていった。今ははっきりと、死刑は反対だ、と言う側にいる。
こう言うと、自分の身内が殺されたりしたことがないからそんなことが言えるんだ、と言われるかもしれない。でも。私は、死刑なんて簡単な死に方をさせたくないだけだ。生きることの方がずっとしんどい。死ぬことの方がずっと容易い。そう考える人間というだけだ。決して、死刑なんて可哀想、という立場ではない。
終身刑、というものがこの国にもあったらいいのに、とつくづく思っている。「税金の無駄遣い!」という意見を時々目にするけれど。確かにそういう一面もあるかもしれないが、それでも、「簡単に死なせてなんかやらねえよ」と思うのだ。
そういう意味で、私は誰より、冷たいのかもしれない、と思う。


2021年01月04日(月) 
アメリカンブルーから新芽がなかなか出てこない。一度枯れかかっているから心配で何度も様子を見に行ってしまう。そんなことしたって何も事態は変わらないのに。挿し枝した子たちはほとんどの子が新葉を出してくれていてほっとする。親株さん、頑張って。お願い。
クリサンセマムはこの寒い朝にも律義に咲いてくれて、そこだけベランダに灯が燈ったかのよう。きらきらして見える。三色スミレは順調に育っている。ラベンダーもあの時株をひっくり返してよかった。だいぶ元気に回復してきてくれている。

このところ毎日、親友と励まし合ってる。記念日反応が今年はふたりともひときわ強くて、だから共にしんどくて。ひとりだったらもう凹みきってぺちゃんこになっていたかもしれない。でも、ふたりなら何とか越えられるんじゃないか。そんなことを思っている。
振り返れば、彼女との縁はもう、二十年を越えるんだった。当時まだ、性被害によるPTSDの個人サイト/体験記なんて彼女と私のところくらいしかなくて、まるで唯一の仲間を見つけたかのように当時思ったものだった。娘を出産する前後なんて、毎日のように泣きながら国際電話を繋いでいた。今思っても、当時彼女がそこにいてくれなければ、私はもっと自暴自棄になっていたに違いない。

今日はCちゃんが遊びにやってきた。今年のお正月はひとりで過ごしたという彼女に、それならせめてと家にあるおせち料理を出す。ぱくぱく食べてくれる彼女がちょっと眩しくて嬉しくなる。途中何度か解離しかけて、話がちぐはぐになってしまったりしたけれど、何とか戻る。彼女は今日も私の譲ったスカートを履いてくれていた。ああ、かわいがってもらってるんだな、と、そのスカートの裾の模様を見つめながら思った。ありがたいことだ。

身体の痛みがはんぱなく強いので、せっせとテニスボールでケアする夜。テニスボールはストッキングに入れている。そうすると、ストッキングの端っこを持てば背中にもボールを当てられて便利なのだ。背中と壁とでボールを挟んでぎゅっぎゅっと背中を押す。痛気持ちいい箇所が幾つもあって、いつまでたってもやめられない。とりあえず、この肩甲骨の周りが解れるまで、続けようか。その間にお湯を沸かして、珍しくカシスティーでも淹れよう。

ああ、南東の空に半月がくっきり浮かんでいる。


2021年01月03日(日) 
娘と孫娘が遊びにやってくる。一段とおしゃべりがはっきりできるようになった孫娘が、ちょっと背伸びした言葉を使ってみたりしていて、その表情を見るたびついぷっと笑ってしまう。
夕刻二人を見送りがてらサスケの散歩へ。途中、カイくんというラブラドールの子犬に出会う。ああお噂の!と挨拶すると、あちらも「バウちゃんのママからよくお話伺ってます」と。カイくんはちょっと怖がりなのか、サスケに向かって一生懸命吠えてみたり匂いを嗅いだり落ち着かない。一方サスケはでーんと座り込んでうんともすんとも言わない。ふたりのそんなちぐはぐな様子に、私たちはにっこりしてしまう。
今日はちょっと遠回りをしてみる。かかりつけの小児科の方まで降りてきて、ぐるり廻って急坂を上る。サスケが「え、上るの?」みたいな顔をするので「上るんだよ!」と舌を出して応える。散歩が終わる頃には上着がいらないくらい身体がほかほかになっていた。

家人がどう考えているのか知らないが、写真集作りはもう、今回を最後にしてほしいなとつくづく思う。二人の作業部屋も息子の部屋も占拠し繊細な作業を行ない続けるのはハッキリ言って無理がある。独り暮らしの家なら分かるがここはそうじゃない。家族が暮らす家だ。「そっち入るな!」「こっちにも入るな!」はただの身勝手としか思えない。ある程度理解しているから我慢はしているが、それは私が彼と同じ写真家だからだ。息子は関係ない。つい部屋に入って怒鳴られる息子を見かけるたび、理不尽だなと思う。この写真集作りが終盤を迎えたら、ちゃんと話をしないといけないと思う。そうでなきゃ別居するか。私がそこまで考えていることをきっと彼は知らないだろう。でも、私も息子も、限界に来ている。

空がすこんと突き抜けている。暮れ始めるとあっという間、駆け足で黄昏がやってくる。富士山が遠くにくっきり浮かぶほど、今日は大気が澄んでいた。天気予報は晴れ続き。ちょっくら湿り気がほしい今日この頃。


2021年01月02日(土) 
おせち料理づくりに勤しみすぎたのか、昨夜ぶっ倒れてしまった。そんなに頑張ったつもりはなかったのだけれどもなぁとひとり激痛に襲われる頭を抱え思った。煮しめに膾に栗きんとんに伊達巻3本。それだけしか作っていないのだけれど。あ、あとお雑煮などなど。あれ?結構作ってるのかな、もしや。

今夕はサスケのお友達バウちゃんと会えて、サスケが大フィーバー。いつものように取っ組み合い。もちろんふたりともちゃんと加減をしてるから怪我をするようなことはない。息子は柴犬のアヴィちゃんを見つけてリードを引かせてもらって遊んでいた。それだけ見れば何気ない日常なのだが、いつの間にかみんなマスクをつけてが当たり前になっており。暮れてゆく空の下、ぼんやり、日常って何だろう、と思った私。

明日は娘と孫娘が遊びにやって来る予定。この冬はトイレトレーニングに勤しむんだと娘が言っていたが、はてさて、どこまで進んだことやら。寒い中トイレトレーニングは難しいだろうなぁなんて思う次第。

去年2月だったと思う。新潟に雪の中撮影に出かけた。直前まで雪がなかなか降らなくてひやひやした。今年はとんでもなく雪が降っているという。またいつか、今度は舞踏家さんと撮りに行きたい。

港から汽笛が響いていた黄昏時。何処までも何処までも響いていきそうなその音。中学生の頃はその音を聞くために桟橋に通ったものだった。その桟橋はいつの間にか建て替えられ、今ではきれいな観光地風になっている。
いろんなものが変わってゆく。永遠に失われてゆくものもある。そうしたただ中に、私たちは生きているのだよなぁと思う。


浅岡忍 HOMEMAIL

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