幕夕(まくゆう)の海外旅行日記
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1992年08月29日(土) 26歳 サンクト・ペテルブルク→飛行機

 プルコボ空港までは簡単に行けた。外国人用の待合室で時間をつぶす。日本人の団体客といっしょになって、ロシアの現状について話した。
 アエロフロートの国内線(トゥポレフ)は狭い。隣に犬を連れた客がいた。
 シェレメーチェボIからIIへ行くのにはバスを使うのだが、間違えて市外へ行く方のバスに乗ってしまった。何とかシェレメーチェボIIへたどり着いた。搭乗までかなり時間があったので待たされた。出発ロビーは到着ロビーほど暗くない。
 免税店は別世界だ。上等なマトリョーシカはこんなに高いものなのか。



1992年08月28日(金) 26歳 サンクト・ペテルブルク(日帰りでペトロドボレツへ)

 ペトロドボレツに行くのは、割と簡単だった。三十分ぐらいの高速艇の旅。一番の見物のサムソンと大滝が壊れたままになっていたのは残念だ。工事が中断されたままなんだろうか。
 エルミタージュにも圧倒されたが、ここの大宮殿はさらにすごかった。これでもか、これでもかという具合に、贅の限りを尽くした部屋が現れた。特に、いきなり中国趣味の部屋が現れたのには驚いた。
 午後は雨が降っていたので、あまり自由に行動できなかった。見残していた要塞を見に行って、何とかマトリョーシカを買って帰って来た。
 ここのレストランはどうもいんちきくさい。昨日より食べてないのに、どうしてあんなに高くなるのだ。



1992年08月27日(木) 26歳 列車→サンクト・ペテルブルク

 ペテルブルクの雰囲気もモスクワと同じだと思ったが、ネフスキー大通りに来て、そうではないことがわかった。幅の広い通りの両側には、床面積の広い建物が並ぶ。グリンカやゴーゴリの像を見つけると、なぜかほっとする。ネバ川の景色はとてもすばらしい。ここに来て初めて、ロシアに来てよかったと思った。
 ホテルも、モスクワのホテルとは同じ国のホテルと思えないほど違う。ただ、外貨バーや外貨ショップは普通のロシア人の世界とはあまりに違いすぎて、ほとんど外国である。
 ホテルから地下鉄でエルミタージュへ行くのは少し不便だ。結構歩かなければならない。エルミタージュを飾っているのは、ギリシャ神話の世界である。初めて本物の宮殿を見た。ロシア文化の展示室は宮殿という感じの部屋だったが、フランスの絵画の部屋はありふれた美術館の展示室だった。一番印象に残ったのは、アレクサンドル一世の巨大な絵。
 ペテルブルクはピョートル一世以後の町だから、ロシアにとっては新しい都市なのだ。それに対して、モスクワにあるのはイワン三世からピョートル一世までと革命以後の歴史で、ペテルブルクと感じが違うのも当然なのだ。ソビエト政府が残していったものも、歴史上の事実として見つめるべきだと思った。



1992年08月26日(水) 26歳 列車

 一日中車内にいたが、結構楽しかった。同じコンパートメントになったおじさんはゲーム・ウォッチをやっていた。狼が落ちて来る卵を次々に受け止めるゲームで、四個地面に落としたら終わりというもの。上段にいた二人は、一日中寝ていて何も食べなかったみたいだ。私は『真夜中は別の顔』の上巻を読み終わった。
 途中の駅でアイス・クリームを売っていた。すると、老若男女、ほとんど全員が買っていた。私も食べてみたが、ほとんど何の味つけもしていなくて、アイス・クリーム本来のおいしさがわかるようになっていた。
 ウズベキスタンの少年二人と友達になった。キエフで勉強していて、ペテルブルクの恋人に会いに行くところだそうだ。日本の車の値段などを聞かれた。ウズベキスタンでの生活はよくなくて、日本へ行きたいと言っていた。中国人と違って、就学生として日本に来ることもできないのだろうか。



1992年08月25日(火) 26歳 キエフ→列車

 キエフは結構広い街で、一人で見どころを回るのは難しい。地下鉄もあまり便利ではなく、観光をしたければ、インツーリストの世話になった方がいい。
 朝、ストレッチと太極拳をしたら、少し気分がよくなった。
 ウラジーミル公の像は見つけられたが、聖アンドレイ寺院は見つけられなかった。ウクライナ人にとってウラジーミル公はどのような存在なのだろう。
 列車の切符はすんなり手に入ったが、ウクライナのビザ代を取られた。
 黄金の門を見て、美術館か博物館を見に行きたかったが、足が痛くなってきたのでやめて、ホテルへ直行した。
 ホテルの17階のロビーは不思議と落ち着ける場所だった。子供の頃遊びに行った祖父の家の2階を思い出した。
 キエフ駅のあの雰囲気は何なのだろう。ほとんどウクライナ人だけなのに、異様に雑然とした雰囲気。駅舎は異様に大きく薄暗く、レーニン像が場違いに立っている。売店、窓口などの設備は皆一様に粗末で、新しいものにしようという気が起こらないのかが不思議である。



1992年08月24日(月) 26歳 列車→キエフ

 列車から見える景色は霧がかかっていた。
 キエフはモスクワよりずっと暖かく、半袖でも大丈夫。人々の服装も華やかなものが多い。
 クレシャーチク大通りではお祭りみたいなものをやっていた。
 ホテルへ行く途中でついに金をだましとられた。「金を見せろ。」なんて詐欺に決まってるのに。わからないふりをするに限る。
 このホテルは、モスクワのベルグラードよりはましだが、サービス精神がほとんどない。
 修道院へ行くのは大変だったが、行ってよかった。
 夕方やっとボルシチを食べられたが、ウェイターなどの態度は冷たかった。



1992年08月23日(日) 26歳 モスクワ→列車

 朝早く目が覚めたので、一時間ほどアルバート通りを歩いたが、人通りもほとんどなく、荒れ果てた感じ。
 朝食の時間はとても堅苦しい雰囲気。
 ルビャンカ広場から歩き始める。建物も道路も全体的に大きくて、人間の存在が小さいものに思える。
 クレムリンに来てやっと写真で見たことのあるものに出会う。赤の広場に入ってレーニン廟見学の列に並ぶ。レーニン廟の衛兵は今どこに所属しているのか。
 クレムリンの武器庫に入れないようだった。結局クレムリン内の建物には入らなかった。
 アルバート通りは特異な雰囲気だ。あの狭い空間に、露店がぎっしりと並んでいる。日本語の本は掘り出し物だった。
 列車の切符をもらったのは19:50。すぐに駅へ向かう。キエフ駅は巨大で寂しい。



1992年08月22日(土) 26歳 大宮→モスクワ

 税関申告を終えて出て来た時から、モスクワを肌で感じることになった。観光客を狙っている白タクのおじさんたち。インツーリストのカウンターの雰囲気から、バスと地下鉄を乗り継いでホテルに行くことはあきらめ、タクシーを雇うことにした。インツーリストの作戦にはまったのかもしれないが。
 空港からホテルまでの道中の印象は、だだっ広くて寂しい所というもの。荒廃しているようにも見える。少なくとも今の段階では、共産主義の廃墟という表現が当てはまるように感じる。今後どのような社会を作っていくかは、ロシア人一人一人にかかっている。
 共産党の消滅に伴う社会の変化は急速すぎたと思う。それまでのイデオロギーが間違っていたのなら、何がどう間違っていたのかはっきりさせないと、国民はどうしていいかわからないはず。
 せっかく個人旅行で来たのだから、ロシア人との交流を持ちたいと思うけど、一般のロシア人とはとても友達になれそうな雰囲気ではない。その国に行ってみないとわからないことはたくさんあるもの。




幕の内弁当の夕食 [MAIL]

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