| 2022年04月29日(金) |
今日はじきに雨になるという。ベランダの植物たちに水を遣ろうかどうしようか迷い、結局明日にしようと決める。東の空を見やればぱくっと雲の割れ目、そこから漏れ出づる微かな朝の光。このところ朝の光を浴びていないから何だかとても愛おしい。
めいめいビニール傘を持って歩く。息子は傘をばんばん足で蹴り上げながら、それが面白いという顔をして歩いている。ねぇ傘が可哀想だと思わないの?と言うと、あ、可哀想だね、うんうん、なんて言うのだけれど、すぐまた蹴りが始まる。周りの人に迷惑だからやめなさい、と言っても、すぐまた再開。延々そんなやりとりをしながら歩く。いつ雨が降り出してもおかしくないような鼠色の重たげな空模様。ツツジが今が盛りと言わんばかりに咲き乱れている。子どもの頃、ツツジの花をこっそり摘んでは、その花の根元の蜜をちゅっと吸っていた。別にそんなに美味しいわけでもなかったと思うのだけれど、でも、特別な何かをもらっている気がして、だからいつもこっそりやった。懐かしい。今の子どもはそうした「特別」はあるんだろうか、ふと思う。 昨日の離人感はだいぶ薄らいで、息子の隣で映画を観るのもそんな苦ではない。たぶん、座席が一個置きだったおかげもある。コロナのおかげで映画館は大変だろうなあなんて思いながら、でも、この一個置きの座席が私みたいな人間には助かるのだよな、とつくづく思う。ひとがびっしり座っているところで映画を観るのは、まだ私にはできない。
降り出した雨の中歩いていると、息子の手が伸びて来た。いつの間にか私の片手を握り、ぶんぶん振りながら歩いている。彼の口から出るのはさっきの映画の感想。彼は要所要所の台詞をすでに覚えており、すらすら言ってのける。私はそんな彼の声をぼんやり聴きながら、雨筋を眺めている。 こんなふうに、雨の中手を繋いで歩くこと。どうってことのない日常の一コマが、いつか愛おしい情景に変わるんだ。いつだってそうだ、日常の、どうということもない一コマ一コマこそが、慈しむべきものだったと、そう、後になって気づく。たとえばこの小さな手は、あっという間に大きくなり、私の手を離れてゆくに違いない。こうして手を握り合えるのもあと僅かに違いない。あと数年すれば彼のこの高い声は声変わりし、反抗期も始まるんだろう。そうしたら手を握るどころの話じゃなくなるに違いない。今を生きるのでめいいっぱいな彼の横顔は今、うきうきと弾んでいる。こんなふうに横顔を眺められるのも、今だからかもしれない。 娘がこのくらいの頃、私はどうしていたんだろう。もはや思い出せない。ただ、いつも、伸ばしたさらさらの髪の毛を揺らして私の隣でぴょんぴょんしていたな、という、そういう印象が残っている。彼女の髪の毛はいつもさらさらで、つやつやで、触るのももったいない気がするくらいだった。彼女のくっきりした目元も、小さなおちょぼ口も、そのさらさらつやつやな髪も。私の自慢だった。そんなこと、口に出したことはないけれど。 今、隣には息子がいて、寝癖で見事に跳ねた髪の毛と、家人にそっくりな目元と、小さな顔。体つきも細っこい家人にそっくりで。よく似たものだと思う。いずれ私の背を抜くのだろうか。今こんな小さな体つきの彼も、私を見下ろすんだろうか。不思議な感じがする。でも、まぁそんなものだろう。
現実感消失の度合いが薄れ、世界がくっきりしてくると、いつも思うのは、なんて色に溢れているのだろうということ。眩しくて、私にはちょっと眩すぎて、いつも気後れする。ここは私のいていい場所じゃないと思えてしまう。 たとえば咲き乱れるツツジの色の鮮やかさ。たとえばすれ違うひとのオレンジ色のコートの鮮やかさ。振り返ればたとえばあの、観覧車を彩る灯の鮮やかさ。こんな鮮色に満ち満ちた世界は、もう目を閉じたくなるくらいで、お尻がもぞもぞしてきてしまう。 でも。これがきっと、世界なんだ。 被害に遭い、世界がモノクロになって十数年そのモノクロの中に居た私では、どうしてもそれらが「特別」な、私とは縁遠いものに思えてしまうけれど。きっと隣を跳ねながら歩く息子には、これが当たり前の日常に違いない。 世界はひとつ。でも、ひとの数だけ世界の見え方は違って在って。だからこうしてぶつかりあいもするしすれ違いもするんだろう。見える世界の違いの数だけ。
ふと雨筋に手を伸ばす。それに気づいた息子がすぐ真似をする。にっと笑いながら、ふたりして雨に手を伸ばす。音が聞こえるわけでもないのに掌を濡らす雨音が伝わって来る。 今日は、そんな日。 |
|