| 2022年03月01日(火) |
他者の気持ちを考えられるようになること。加害者の方が返信にそう書いてきた。それを読んで改めて、彼らの認知の歪みについて思いを馳せた。 よく性欲が抑えられなくて性加害を行なう、と言われる。でもそれだけじゃぁない、そこには支配欲や自己顕示欲も絡み合っていることがほとんどだ。相手を自分の思う通りに支配したい、支配できるという錯覚、そもそも相手を人間と見做していないことも多々ある。相手を人間と見做していないからこそ、自分が都合よく扱える人形或いはゲームの駒と見做しているからこそ、加害行為を為すことが可能だったりする。 もしそこで、相手の気持ちなんて理解できてしまったら、そもそも加害行為を為すことができなかった。 この、認知の歪みの闇の深さ。改めて、その闇深さに愕然とする。
実際に彼らに会いに行く対話と、文通とを続けていて、こういう言葉に出会う時、私は身が引き締まる思いがする。彼らからそういった言葉を受け取ることの意味を思う。ごまかすこと、適当にやり過ごすこと、偽善的な言葉でやり過ごすこともできるはずなのだ。実際そういうひとたちもいないわけでは、ない。 でも、そういう中に、彼らの切実な言葉が散見される。認知の歪みに気づいてしまったが故の苦しみもそうした中から見て取れたりする。そういう言葉や想いに出会うたび、私は、対話の意味を噛みしめる。
性依存症は依存症の中にさえいまだカウントされないのだそうだ。何故?と思ったが、それは被害者を生んでしまう代物だからだと聞かされたことがある。被害者感情を考えてのことだ、と。 なるほどな、とも思ったが、同時に、それが治療につながることを遮ることにならなければいいのだけれどと思った。彼らの認知の歪みは間違いなく病的だ。その見事なまでの歪み。ここに治療を加えなければ、再犯防止も何もあったもんじゃない、と思うのは私だけだろうか。
「罪と向き合うことが自分を卑下することだと間違え、勝手に自己肯定感を下げ、挙句の果てに何故か、自分が責められていると「被害者ヅラ」になる…。そういう自分に気づい」た、という言葉を彼らからの返事の中に読んで、なるほどなと思った。罪と向き合うことが自分を卑下することと間違え自己肯定感を下げ、という悪循環。その結果の被害者ヅラ。ここまで自分を分析し言語化できるようになるまで、彼はどんな道を辿ってきたのだろう。 加害者はもっと、己を語るべきだ。何処までも自分を分析し、語るべきだ。自分を語る言葉を育まなくちゃいけない。それがなければ、彼らの認知の歪みは歪みのままになってしまうに違いない。
被害者は。 己の被害体験直後というのは、語る言葉を持てない。それまで培ってきた言葉ではとてもじゃないが語れない体験を経てしまったが故に、言語化できない時期がある。その時期を経て、ようやっと言語化できるようになるまで、灯りひとつない真っ暗闇の、長い長いトンネルをたった独りで歩かされているような感覚を味合わなければならない。辛い辛い、何よりしんどい時期だ。そして、「もう二度と元には戻れない」ことを見せつけられ、そのことを受け容れるのにまた、苦しい時期を味わう。二重三重に苦しみは続く。だからこそ、被害者は己の語りを手に入れる必要があるんだ。己の語りの為の、己の言葉を新たに構築する必要が。
それは加害者にもきっと言えることなのだ、と、改めて最近思うのだ。自分の認知の歪みを歪みとして語り得ること。その歪み故に為せた加害行為について自らの言葉で向き合うこと。とても大事なことだと思う。そして、でき得るならば、後に続いてしまった加害者仲間に伝えてゆくこと。もう二度と繰り返さないのだという位置から、言葉を紡ぎ続けること。もう二度と悲しみ苦しむ被害者を生まないのだという位置から、言葉を紡ぎ続けること。
被害者にも加害者にも、己の語りを手に入れる必要が、ある。私はそう、思う。 |
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