| 2021年08月04日(水) |
ホワイトクリスマスを何本か挿し木して増やしている。その子たちが揃って蕾をつけ、綻ばせ始めた。本当は挿し木の状態で花を付けない方がいいって聞いた。そこに養分を吸い取られちゃうから。でもせっかくついた蕾をそのまま切り落とすことができず今日に至った。今朝、綻び始めた花をそそくさと切り、花瓶に活ける。菫の紫式部はぐいぐい拡がっていて、この子は何処までその領地を拡げようとするんだろうとじっと見つめてしまう。這いつくばるように生えてるのに、この勢い。強いんだな、と、心の中、思う。向日葵は今年も失敗かもしれない。小さな小さな花がついて花弁もちょこっとだけ開いたのだけれど、そこから微動だにしない。どうしてなんだろう。 夏休みになってから、息子は時々公園に出掛けるのだけれど、友達の誰とも会えないという。誰もいないのだ、と。昨日も、公文の帰りに公園に寄ってみたのだけれど、誰もいなかったらしい。すぐに走って帰ってきた。 それにしても暑い日が続いている。私が子供の頃とは全く異なる暑さだ。スコールのような雨も、昔はこんなになかった。私が生きている半世紀のうちに、こんなにも気候が変化するなんて。そうして息子や孫娘のことを思い、ちょっと途方に暮れる。この子らが大人になる頃には一体、この国の気候はどうなってしまっているのだろう、と。いつか、四季、という言葉さえなくなるのだろうか。
「修復的司法とは何か 応報から関係修復へ」と「性暴力被害の実際 被害はどのように起き、どう回復するのか」をぱらぱら捲ってみている。どうも活字がまったくだめだめな時期に突入してしまったようで、文字を追うほど文字が逃げる。いや、違う、文字が記号にしか捉えられなくなってしまっていて、ありとあらゆる文字が私から逃げるのだ。どうにもこうにも入って来てくれない。 こうなるとしばらく、読書がまともにできない。それが、苦しい。 こんなふうに読書ができなくなる、文字が解読できなくなっていつも思うのは、文字にはあらかじめ意味が込められているのだなということ。意味なくして文字は生まれなかった、と。そうでなければ、こんなふうに記号化してしまった文字に苦しくなることは、あり得ないに違いない。文字は、言葉は、記号であってはならないのだ、きっと。
部屋を片付けていたら、娘が中学生の頃に私にくれたプリクラが二枚出てきた。一枚は当時の親しいお友達と一緒に満面の笑顔で写っている。ペン字であれこれ書き込んであったりもする。まだまだ幼い表情の、娘の笑顔。もう一枚は、1歳くらいの息子、彼女にとっての弟と一緒に写っている。彼女がぐいっと息子を抱き上げて、頬をくっつけたりチューをする真似をしたり、一枚一枚違う表情で。息子は息子で、ねぇねに抱っこされたりイジられたりするのが楽しいらしく、にこにこ笑顔。少し色褪せてきてしまっている二枚のプリクラ。私は、眺め終えた後、そっとグラシンに挟んで、ファイルに仕舞い込む。 |
|