| 2020年11月18日(水) |
十五年ほど前の日記を、一字一字タイプしている。読み直している。最初それは辛かった。心を無にしないとタイプできないほど、おどろおどろしい想念で塗れていた。たった一行書き写す、タイプするだけで、吐き気を催すほどの念だった。よくもまぁこんな代物を私は当時書いていたものだ、と、我ながら呆れる。 何故今更当時の日記を?と知人に訊かれた。理由は簡単で、私が辿ってきた道を改めて知りたいと思ったことが一つ、もう一つは、回復に近道はないのだということをちゃんと形にして残しておきたかった。 被害に遭ったひとはたいていこう言う。元に戻りたい、元に戻して、と。でも悲しいかな、時は決して巻き戻せない。元通りに戻すことなど決してできない。それでも生きていかなければならない。一体自分は何のために生きているのかと、何故こんな思いまでして生きていかなければならないのかと、何度自問しようとも、答えは出ず。ずるずる、ずるずると死に損なった身体を引きずり、それでも生きなければならない。一体何のため? なにゆえに? 一体どのくらい、その自問を続けたろう。そうして私が辿り着いた今は、生きていることに意味はないのだ、と、そこだった。生まれて生きて死ぬ。ただそれだけのことに、何故か人間は意味を見出そうとする。でも。 生きて在ることに、特別な意味は、ない。そこに辿り着いた時、愕然とし、でも同時に、解き放たれた感もあったのだ。ああそうだ、そうだよ、と。もう、意味がないとか価値がないなんてことに雁字搦めにならなくていいのだ、と。 そこに辿り着くまでに一体どれほどの時を要したか。計り知れない長い長い道程だった。何度自分の首を括ろうと、掻き切ろうと思ったか知れない。それでも生きてきた、その末の私なりの答え。
クリサンセマムは今日も花弁を開かせ、私の心にすっと入って来る。それだけで私は、もうちょっと頑張れそうな気がしてくる。命のエネルギーは、いつだって尊い。私が植物を育てるのはきっと、彼らのエネルギーを分けてもらうためなんだろうな、なんて思う。彼らの尊いエネルギーのお裾分けで、私は今日もまた、ちょっと頑張れる。
漫画を読むことを始めた息子の集中力はすごい。これまで見せたことのない集中力。いつも途中からぐでぐで萎えるのに。私は換気扇の下で煙草を吸いながら、その姿をちらちら見やる。誰かの集中している背中を見るのは、いつだって気持ちがいい。
生きて在ることに特別な意味などない。だからこそ、我武者羅に生きる姿は美しい。無心に、生きることに無心である姿は、いつだって、そう、美しい。 |
|