てくてくミーハー道場

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2012年12月02日(日) 『日の浦姫物語』(Bunkamuraシアターコクーン)

(観劇日は1日)






井上ひさしで蜷川幸雄で大竹しのぶで藤原竜也。

(なぜか)語呂がいい。

失敗するわけがない。

そんな多大な期待は不吉。←

だが、不吉な予感は幸いにも大はずれ。

上々吉でした。





もう、改めて書く気にもなれないけれど、大竹しのぶ。

魔女だ。←

「ニッポンヲダイヒョウスルダイジョユウデスネ」なんて賛辞は、空しいだけだ。

もう、この人に与えられる称号は「魔女」、それだけだ。

大竹しのぶで失敗したのは、『瞼の母』ぐらいかなぁ(お、おい/汗)

おっと、余計な一言でした。



藤原竜也。

「天才美少年」として(“美”が大切)認識してはや15年。

いつの間にか三十路ですよ。

まぁそれはいいとして、昔は「この子は芝居の申し子だ」と思っていた彼独特の芝居癖に、ちょっと「?」となった作品もないではなかったここ数年。

『黙阿彌オペラ』なんかは、(井上ひさし先生が「藤原に五郎蔵をやらせたい」とおっしゃっていたそうなのだけど)ぼくにはどうも「???」て感じだった(作品が「?」だったんじゃなく、竜也くんが演じた役が、彼に本当に合っていたのか? という点が「???」だった)

だから、近年ぼくは「脱・タツヤ信者」を標榜していた。

なので、今回も正直、「あのセリフ癖が気にならなきゃいいけど・・・」と若干ドキドキして出かけたのだった。

その辺は見事にクリア。

大竹しのぶに気圧されてないか? その辺もクリア。

美貌が衰えてないか?(←失礼やぞ)

その辺も全然大丈夫(ラストシーンの袈裟姿は、背が高すぎて似合ってなかったが)

とにかく、稲若(藤原)と日の浦(大竹)が15歳のときからこの二人の出番がスタートするのだが、あまりにもお二人の“若作り”がすさまじすぎて(褒めてるんですよ!)、心の中で大笑い(感心・感動したときのぼくのクセです。決して可笑しいのではありません)

めっちゃ可愛かった(*^^*)



そして、ワキの方々も、井上戯曲ではおなじみのベストキャストと言っても良い方々。

今回は特に、初めて認識した役者さんだったが、金勢資永役の星智也さんがカッコ良くて(^^ゞ印象に残りました。



いやしかし、兄妹、そして母子の近親相姦がテーマになっている話というので、どんなにおどろおどろしい悲しい話(過去、ニナガワ作品でも『オイディプス王』や『エレクトラ』がありました。テーマ的には『身毒丸』なんかも入れていいはずだ)かと思ったら、なんとも井上作品らしい、「ケ・セラセラ」な話だった。

んー、それは決してこういうことを不真面目に捉えているってことじゃなく、「まじめに考えあぐねた結果、ケ・セラセラが一番」と達観した感じといいますか。

もちろん、日の浦も、魚名(稲若と日の浦との間に生まれた子)も、自分の出自や人生を深刻に嘆いているんですよ?

でも、そんな中で、説経節特有の事態というか、「普通だったら死んどる!」ってほどの苦境の中でしばらく生き続けて、改悛が認められてミホトケのお慈悲が下ると、すぱっとその罪業が濯がれて、「解決しました」みたいな展開になる。そのご都合主義が実にポップで、日本人の宗教観や道徳観が如実に表れている気がする。

逆に言えば、「そうとでも考えなきゃ、いくつ命があっても足りない」苦境が、当時の日本人には日常的だったのかもしれない。

「日の浦姫」のお話は今回初めて知ったけど、説経節と言えば有名な「小栗判官」にせよ「しんとく丸」にせよ、ほとんどパターンが一緒だもんね。



そして、これらのストーリーが、なぜか遠く離れたギリシャ神話や古代ローマの聖人の伝説に酷似しているというのも興味深い(イザナギノミコトとオルフェウスがそっくりなエピソードを持っているがごとく)

国の風土や成り立ちなんか、たいして似てない気がするのに、面白いものだ(この辺の民俗学的考証は立派に修めていらっしゃる方もたくさん存在するので、いちいちここでは考察しませんが)



てなわけで、4連チャンの3本目、無事満足。

あー、明日の作品は、予習(原作を読む)しときたかったんだがなぁ・・・。

仕方がない。「先入観あって予備知識なし」という最悪のパターンになってしまったが、それで行くことにしましょう。うう。


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