てくてくミーハー道場
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2012年09月19日(水) |
『ダディ・ロング・レッグズ〜足ながおじさん より〜』(シアタークリエ) |
気を抜いているうちに、予定が空いた休日には休演で、その週の平日に千穐楽というひどい仕打ち。
だが、無理して行って本当に良かった。
名作です。
そして名演です。
私事ですが、このお話の原作にはとても胸キュンな思い出があります。
小学5年生から6年生にかけてこの小説を学校の図書館で読みまして、翻訳は誰だったのかなー? とにかく、主人公ジルーシャの怜悧かつ生意気な性格を端的に表現したステキな文体にすっぽりはまりまして、今考えれば恥ずかしさ500%なんですが、この文体そのままに大好きだった担任の先生に手紙を書いたりしてました。
くそ生意気な小学校高学年の顔から火の出るような背伸びに、真面目に返事をくれた先生に、今でも感謝している。
本当に素敵な先生だった。ぼくは、金八っつあんとか、北野広大先生とか、徳川龍之介とか、テレビの中の理想の先生じゃなく、彼らに匹敵・・・いや、彼ら以上に素晴らしい教師に現実に出会うことができたことが、未だに自慢だ。
ああ、今思えば、小学校6年の時がぼくのピークだったなあ。←
人生で一番頭が良かったのが12歳の時っていう。
あとは下る一方ですわ。(←たそがれるな!)
それはそうと、当時そんだけませてたにもかかわらず、やっぱしというか恋愛事には全く疎かったのが分かるエピソードとして、この原作小説『あしながおじさん』の結末が、ジルーシャと“あしながおじさん”との幸せな恋愛の成就だったことを、今回作品を観るまですっかり忘れていた。
個性的で時代の先進的な女の子の“自立”物語として強烈に記憶に残っていたんだよね。
もちろん、“王子様と結婚”したからと言ってジルーシャの“自立”が阻害されるものではないということは、今だったら理解できるんだが、幸せには二者択一しかないと思っていた幼い日のぼくには、記憶から消したいほど納得できないものだったのかもしれない。
今回ミュージカルとして上演されたこの作品も、あまたのハートウォーミングミュージカルのご多分にもれず(皮肉るな!)、二人が結ばれてめでたしめでたしのエンディングだった。
こういう話、いつものぼくだったら、若干「ケッ」っつって終わるのだが(非リア充すぎるよっ!ておどるさん!/号泣)、今回は「良かった、本当に良かったよぉ〜!(涙)」と幸せに見終えることができた。
さすがのぼくも、丸くなったのか?
いや、残念ながらちょっと違う。
今回、こんだけ歳とって改めてこのお話に触れてみて、この小説は、ジルーシャの成長物語であると同時に、“お金しか持っていなかった貧しい青年(こういうレトリックをしてしまうところが、ぼくが12歳時から成長してない証拠かな?)”ジャーヴィス・ペンドルトンの“自立物語”でもあるってことに気づくことができたのだ。
生まれつきの金持ちで、そのお金をどうすれば有意義に使えるのかを考え込みながら生きてきたジャーヴィスという青年が、
「金持ちであることに何の疑問も抱かずに、先祖代々の“優雅な”浪費っぷりを発揮している親戚たちとは、自分は違っていたい」
と、貧しい子どもたちを助けることが理想的な金の使い方だ、と思って行動してきたけれども、結局自分は「お金」と「屈辱」を同時に与えていたんじゃないか? と思い至り、「施し」って、ただの「傲慢」なんじゃないか? と悩み、全く何の見返りもほしがらずに人のために何かをすることの難しさを知っていく過程が、ここには描かれている。
人のために何かをする時には、絶対に、自分に何か返ってくるみたいなことを期待しちゃいけないんだ。
物質的なお礼とかだけじゃなく、それこそ、相手が自分に感謝してくれることすら、期待した時点で、それはもう「無償」じゃないんだ。
ジャーヴィスがそういうことに気づくシーンは、どっちかというと辛い場面だった。幸せな“気づき”じゃなかった。
だけど、だからこそ、ぼくはそのジャーヴィスの気づきに「良かったね」と涙した。
この気づきがあったからこそ、対等な男女としてジャーヴィスとジルーシャは結ばれることができたんだから。
と、いつものように理屈っぽい感想でしたが、作品自体はとてもキュートで、脚本はほこほこと面白く、音楽も温かく美しく、主演のお二人(そうそうこれ、「二人芝居」ってところも効果的だったんだと思うよ)は歌唱力・演技力・ルックス三拍子文句なし、という、皮肉屋のぼくをもってしても満点を差し上げたい良作でありました。
その証拠に、来年アタマに短期間だが再演が決まったそうです。良かった\(^v^)/今回観逃した方、ぜひ!
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