げっかん かちょうふうげつ
Home



 そっちには、行かない




「神様はサービスいいなぁ、うーん!ありがとう♪」
雪の日に、何度もこう思いました。
(詳しくはこの日記の昨年の十月をご覧ください。)


上の写真を撮る少し前、とても足の長い三脚を抱えたおじさんが、
自分の行く方向を指して
「○○がいますよ。」
(よく聞き取れなかったけど、たぶん鳥の名前。)
と声をかけてくださいました。
はい、ありがとうございますと言いつつ、指す方向へは行きません。
そっちへは、行かないと思っていたので。


春や秋、大きな公園や観光名所へ行くと、
撮る人がたくさんいる場所があります。
行列と同じで、人が人を呼ぶところもあるのでしょう。
そこには誰が見てもよい光景があります。

でも、私は目で楽しんで通りすぎることが多く、カメラに手はかかりません。
無意識のうちに、以前からそんな傾向のあることを
うすうすわかっていたようですが、この時は、はっきりわかりました。
それは針の穴に糸を通すような発見だったのかもしれません。
撮るものがより見えるようになった気がします。

写真は灯台ツツジの芽、おそらく。

大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年02月10日(日)



 誰にも見せたくない風景





今月のタイトルは、ある写真家の言葉。
全くの引用ではないのですが、趣旨は同じ。
外的に、内的にも見せたくない、明かしたくない風景は
確かにある、と思うのです。

今月の写真は、
私がいる間、誰も来なけれないいなぁと思いながら
しばらくいた場所。
そうして、誰も来なかったわけではないのですが、
ほぼそのように、時間は過ぎました。

この場所から離れて、しばらく歩くと、
娘さんとお父さん、という感じの組み合わせの
外国の方とすれ違いました。
カメラを持った彼らが、あそこを見つけてしまうのかなぁ、
「見て」しまうのかなぁと、
不安なような、楽しいような。

家に帰って、この日、撮った、最初のほうの写真を、
消してしまったことに気がつきました。
昔なら、数日はがっかりしてそうなことですが
そんなにがっかりしていないのは、
誰にも見せたくない風景もあったから、かもしれません。


この言葉は、矛盾を含んでいるような気がします。
とても魅力的な矛盾。
そしてその方の写真、
見てると、なんだかドギマギするほど。
このドキマギ感、いつのまにか自分を肯定する材料、
写真を続ける動機にもなったかもしれません。
それが、いいのか、わるいのか、よくわからないですが、
写真が
「空間を切り取ったもの」
ということを超えて届いた、確実な例だなと思いました。

それが何方か、知りたくなったかもしれません、でも秘密。
私がもうちょっと大人になったら(?)、書きましょう。

大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年03月11日(火)



 春とモーツァルト




モーツァルトの音楽は、春のようです。
すると、うららとやさしいことを
想像されるかもしれません。
私の思うことは、ちょっと違うのです。


暖かかったものが、急に寒くなる。
風が吹こうが、雨が降ろうが、
花が咲いても、散っても、
一定の尺度のなかに、それらをきっちりおさめてすすむ。

実にさまざまなことが、勢いよくどっと、春には起るのですが、
まるですべてが必要なことであったかのように、
みんなの胸のなかに
「春」として、ちゃんと納まってしまう。

それは初めて弾いてみた時の、
モーツァルトの感触とよく似ていました。


私のモーツァルトは、私のダメさ加減がよく出ます。
正直に書くと、聴いていて、弾いていて、
付き合ってられないなと、思うことすら。
モーツァルトを上手く弾ける人は、
どんな状況でも、最終的には自分の望むように
ものごとをおさめられるような気がするのは、
ヒガミかな。

短調のモーツァルトは、上のこととは一転して、
吐き出してる、ぶつけているような、
あるいは、
長い独白を、きかされているような。
こっちのほうが、断然好きだと思うことも、
やっぱり「そのひと」をあらわしている気がします。

ちなみに・・・
春が大好きとは言えないな、わたしは。

大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年04月06日(日)



 




しばらく、周囲がうるさいように思いました。

それは生活が落ち着かなかったから、ということではなくて
小さなことが、いちいちわたしに引っかかってくるような具合。

この日記スペース「エンピツ」も、
更新するかどうかを考えなくてはいけない時期。
実はこのスペース、有料です。
が、あまり使い勝手はよくありません。

広告が目に付くページは、好きではなく、
その他、いろいろなことがさっぱりして
安定したサービスを提供してくれるところを探すと、
あまりないかもしれませんね。
ここは、blog風にはしたくないので、特に!

「かちょうふうげつ」の写真が、今月でちょうど三年分たまりました。
ざわざわとして、遠くの景色もよくわからないけど、
目の前を進もうと思うこのごろです。

大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年05月10日(土)



 みず みちて みどりの みなづき




雨風をしのぐ、と言う言葉があります。

「雨風をしのげたら、どんなにありがたいことか!」
という境遇も体験も、できれば、したくはないもの。

この言葉は、雨と風が、やっかいなものとして扱われていますが、
何か、育てるものがあるならば、
雨や風は、ありがたいもの。

雨のありがたさは、誰でも知るところ。
風は、植物の活動を促します。

内に、なにか、育てるものがあれば、
世の中の、雨と風も、きっとやりすごせるでしょう。
育てるものは、
たくさんあったほうがよいのです。

写真は枝豆でしょうか。
この畑の主は、ビール好き?

有刺鉄線に覆われたフェンスに、腕をのばしての、撮影でした。



大きな写真でお楽しみください →こちら

2008年06月13日(金)



 好きなところで 止まる




今月のタイトルは、(私の)写真の定義かもしれません。

止まっているものは、もちろん、
動いているもの、または、自ら動いている時ですら
撮る人は、止めて収めてしまいます。

こう書くと、なんてことはないことですが、
好きなところで、止まること、
人は無意識に、
多くのことをやり過ごしているので、
実は、かなり難しい。

「好きなところで、止まる」は
「好きなときに、止まる」。

名景絶景の、ベストシーズンを
狙うのも、楽しいですが、
私の好きな場所や時間は、
それとは、ぜんぜん違う場所にあるみたいです。

止まる意識も、好きな時間も、すごく足りないことが、
遠くへ行くと、さらに強く感じます。
自分の能力も、考えなくてはいけませんが、
いろいろな制約も、つきまといます。


自分を取り囲む条件や望みが
将来も、今とまったくかわらないというのは、
誰にでもありえず
どこかで、ゆるく、あるいは、急カーブして、
違う景色の中にいることが、ほとんど。

変化は、ある日突然、目に付くものかもしれませんが
その加減は、案外、
好きなところで止められるように
なっているのかもしれません。

大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年07月28日(月)



 海を見ている時間






そこへ行けば、誰でもが、しばらく見入ってしまう。
海を見ている、特別の時間。

それはなぜかと、しばらく考えたのですが、
海が「素」であるから、
ということ以上の答えを、
今、見つけられそうにありません。

もうとっくに、一年の半分を過ぎていますが、
ちょっと一休みできる、今ぐらいが、半分というもの、
人の生活のリズムに合って、
いいかもしれません。

一年の写真の「山」は、やっぱり春と秋。
私の目的の一つは「花」なので、
バラの咲く頃から六月にも、小さい山があります。
桜が終わると、ちょっと休憩してる私の日常が
写真を見ているだけで、わかります。

「山」は、勝手にやってくるものでもなく、
これは、その季節がやってくる前に、
よし、やろうと、思ってないと、
やってはこない。

そうやって、また、写真に連れて行かれるために
もうしばらく、海に見ていようと思います。
次の季節のための、新しい気持ちの準備の時間です。


お待たせしました!
大きな写真でお楽しみください →こちら



2008年08月14日(木)
初日 最新 目次 HOME