Jagged Glass Nuts
AS



 わたしがすきなひと

特別趣味がよくなくてもいい。
ありふれたものが好きでかまわない。
自分が何をすきなのか、自分できちんとわかっている人は
素敵だと思う。

2004年11月06日(土)



 題名はなし。

歯が痛いときはぎゅっとだきしめてくれている
えむさんは、わたしのお守りだ といったのがきにいらなかったらしい。
自分の歯が全部抜けてなくなってしまっても、このひとは
わたしを大切にしてくれるだろうか

歯医者の診察台はセクシュアルだと
自分が書いたのとまったく同じ文章が

文章が思い浮かばないときは一行づつでよいといわれたので
一行づつかいてみる。

かなり、小川洋子に影響を受けている。
少女小説のきわどい境界。

ラムネという存在をどこまで描けるかわかったものではない。



2004年11月08日(月)



 a girl with a peal

真珠の耳飾の少女 をみた。
三軒茶屋の古い映画館で千円だった。
ビニール袋に入ったまま冷凍で中国から輸入されてくる
やたら安い肉の卸売りの店の隣にある、お化けの出そうな映画館である。
パルメザンチーズのかかったポテトチップスとレモン味のペリエを途中で買って
券売機でいちまい、券を買うと
泣き黒子の、地味な顔立ちだが黒目がちの切れ長な目がきれいな
モギリのねえさんが
「二階へ。二階へ。」
と買ったばかりのそのチケットをぺりぺり音を立ててやぶる。 
スプリングのきかない観客席のシートは擦り切れて、なかのばねが見えていた。

少しあざといくらいにフェルメールの絵をまねた画像である。
「絵のようにきれいな」という表現は
このためにあるのかと思った。

うまいなあ、と思い、よい映画を観たと人に話すと思う。
感動はしなかったけれど感心した。

2004年11月11日(木)



 ポッキーの日

11月11日はポッキーの日だ、といって
仕事の後に、たくまくんがポッキーを買ってきた。
仕事が終わった後のゆるい空気がすきらしい。
わたしは、そういうくだんない記念日を大切にするたくまくんがすきだ。

「ジュース何がいいですか」
ときくので
「甘くないコーヒーがいいな。ミルクがたくさん入ってるやつ」
と答えるとコーヒーの小さなビンを買ってきてくれた。
「木村拓也は嫌いって言ってたから、○○はやめた」
というのでなんだかうれしくなってじっと見つめていると
「だめだった?ジャスミン茶にする?俺のだけど」という。
「ジャスミンティでしょう。じゃすみんちゃ、ってなんかへん」
と適当なことをいってさっさとコーヒーのふたをあけた。

ムースチョコのポッキーと、ココアのまぶしてある冬のポッキーだった。
わたしは、普段はGと大きく箱に書いてある
新芽のついたさくらの小枝のようにかたいポッキーが好きなのだけれど
ありがとうといってたくさんたべた。
なんだかイチゴの味がするのでそういうと、たしかに、と真剣にうなづいていた。


2004年11月12日(金)



 センチメンタリズム

センチメンタリズムはほんとに好ましくないものです。
これはいつまでたっても
人を深みに徹底させません。(広津和郎)

なにかある心理の一端にふれようとあがくとき
感傷は、本当に邪魔なものだろうか。
人を主観を交えずみようとする努力だけが
人という枠を飛び出すことができるのだろうか。

わたしにはわからない。
りんごの皮が中心に吸い込まれ、芯へとつながっていくように
中心へもぐりこむことが外へとつながっていくこともある。

2004年11月13日(土)



 サタデーナイトフィーバー

自分が悪いのはわかっている。
一歩一歩かけ。
一歩一歩が賭け。

サタデーナイトフィーバーはよかった。
こういう、クラシック作品としての名作をかたるのは難しい。
語られつくした物語から、個人的な体験ではないなにかを
見出そうとするのが難しい。

いい映画なら、ただシンプルに「よい」といえばよさそうなものだけれど
音楽にせよ芸術にせよ、よい作品は見るものに言葉を与えてくれる
と平生個人的に考えているとおり、この作品も、
どこそこの部分がどういう風によかった、という言葉というよりは
作品を媒介にして私自身のイマジネーションがふくらんで
ひとりあるきしていく部分がおおくある。
作品にたいし生まれる言葉はまったく別世界のものなのだ。


相変わらず、キャラメルポップコーンとひとりの映画以上に
おもしろいものを見つけられないでいる。

微妙に型にはまりきらないストーリーがまずいい。
たんなるサクセスストーリーでもなければ民族意識をクローズアップした
社会派映画でもない。

世の中のすべての事実はわかものの挫折のためにある。

2004年11月14日(日)
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