ぶらんこ
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父が夢に出て来た。 これはすごいことだ。初めてではないかもしれないけれど、もし前にもあったとしたら40年いや45年以上は経ってるかも。
父はわたしが6歳の頃、他界した。正直、父と話した記憶すらない。 思い出の父は兄や姉たちが語る父であり、わたしの中の父は病床で横たわっている。でもそれも後から付けられた記憶なのかもしれない。 父は脳腫瘍だった。母は一向に良くならない父を連れ、最終的には東京の病院まで行ったが診断を受けたときには既に手遅れだった。
最期は島の病院で亡くなった。
夜のまだ明けない頃、長兄に起こされたわたしたちは父の入院先へ向かった。 海岸線、兄の車の窓から、黒い波しぶきをずっと見ていたのを覚えている。モノクロの世界。 幼かったわたしと弟は、病院の地下、あれはどこへ向かう扉だったのだろう、もしかしたら霊安室だったのか?そのホールで待たされた。大きな丸いタイル張りの柱がいくつもあって、かくれんぼをしたり鬼ごっこをしたりした。 それから、父の病室へ連れて行ってもらったと思うのだが、記憶は朧げでほとんど覚えていない。
次の記憶は、父がオモテに横たわっているところ。 母は泣いていた。兄たちが母の少し後方に順番に正座していて、弟は次兄の膝の上にいた。兄たちも泣いていたので、わたしは怖ろしく心細くなって、弟みたいに誰かに抱っこしてもらいたいなと思った。 それが父の最後の記憶。
・・・
家にいる。どこか忙しない。母が少しピリピリしている。どうやら「ハンクヮイ(寄り合い)」があるらしい。酒や料理の準備が必要だ。
とにかく何か準備をしなくては、、と、あるもので拵える。町の料亭から海鮮サラダが届いた。母が頼んだのか?ハイカラだな・・と意外に思う。 兄2が焼酎を運んでいる。 プラスティックのケースに入った筆のようなハケのようなものをわたしに見せ、「これは料理用だけど使うなよ、あれのだから」と言う。あれというのは兄4のことだったので、「いやー使われんわーあれのだれば〜」とわざと大袈裟に答えると、兄貴は振り向いて「その通り!」と意味深な顔をしながら大きく笑った。
食器を運ぶと、場所が変更になっていた。いつものオモテではなく、隣の離れを使うのだと言う。 そこへ行くと、既にハルカうじやらシズカおばやら、他にもわたしの幼馴染(ワタル?と、ひとつ下の誰か)もいた。他にもよく知っているおじさんおばさんたちがいて、食卓は大賑わい。誰がどの席とか関係なく、それぞれ思いのままに飲んだり食べたりしている。
父がその中にいた。穏やかに笑っていた。 母は食事をすすめたり焼酎やビールをすすめたり、それから友人のおばさんたちと大声で笑いあったりして、とても楽しそうだった。 母は集まりが大好きな人なのだ。
喧騒。
あぁそうだ、と不意に思い出し、iPadを取りに母屋へ戻った。 そこに幼馴染が2人(一人はヨシヤ?もう一人は同級ではない年下の誰か)いて、「マコーヤァに電話が通じらん、っちどー」と言われる。電話番号はもらえんのじゃ、と心の中で思ったが、面倒だったので無視していると、もう一人が「アメリカの電話だから電話番号が違うっちー」とか言っている。なんだ知ってるんかい、と思う。部屋の隅に置き去りにしていたiPadを手に取ると、スクリーンにはメッセージも何も表示されていなかった。
離れに戻ると、宴はいよいよ賑やかである。 父の姿はない。 と、父は、布団に寝転がっていた。眠ってはいない。わたしを見て、にこりと笑った。 離れはLの形になっていて、宴会場所から折れたところで休めるようになっていた。今、まさに母はそのための布団をいくつか敷いていた。
なに、ユックライはここで眠るのか、、、、と驚く。と同時に、まぁ合理的だな、とも思う。 母は忙しそうに布団を準備している。シズカおばが大笑いしながら手伝っている。既に出来上がった連中もいて、すぐにでも必要な感じだ。
わたしは父のそばへ行った。父は何も言わずに笑いながら皆のことを見ていた。 わたしは痩せた父の体と、相変わらずハンサムな顔をじーっと見て、なぜか急に「会いたかったー」と思う。 そして、父ちゃん〜と言って、父のすぐ隣に横になった。 父はポンポンとわたしの背中を叩いた。何も言わなかったけれど、「わらぶっかじゃが」という顔をして笑っていた。父に抱きつこうかなーと思ったけれど、なぜかそれはダメだと思ってやめた。
幼馴染が、サラダが違うっちょ、としきりに言っていた。 失礼な奴だ、と思い、何が違うんじゃ、と訊いたら、「海老はいいっちょ。だんば、イクラが入っとる」と言っていた。 ばかたれじゃ、と心の中で思う。そして、「イクラどければいいがな」と言ってやった。 失礼な奴だ。海鮮サラダ、じゃ。料亭からのものじゃ、と心の中で言う。
・・・
不思議な夢だった。
まず、登場人物は亡くなった人ばかり。何これ、、、何かのしるしなのか??? 父、母、兄2、ハルカうじ、シズカおば。みーんな、もういない。
それから、我が家の「離れ」。 これは昔、確かにあった。兄2が実家の庭を取り壊して建てた。でも、夢の中のそれは兄のものとは違っていた。
海鮮サラダと料亭。 これも島のどこのものなのか不明。てか、「料亭」って何?って感じ。島に料亭なんかない。 笑える。
2017年の記録。 これを見つけて読んだとき、思いきり笑った。 泣き笑い、じゃ。 はげはげ、母ちゃんすごいわ。じつねぇ、いまだに健在。
(6/18) わかとぅんよ あおおに、かん、きしんに たるんちゅり、通らんが
にへら顔しち ぬぅーよ
(6/19) まるー あんたひとりね
(6/20) 口先女
(6/21) うなぐぬ はぎっちば かーし あぎてぃ 時代の変わてぃ 昔や くゎんきゃぬ ゆうばんしち はたらきゅん うやじ ゆうばんぬ準備しもたっとー ち ゆびが いじゃある なまや うやぬ ゆうばん準備しち くゎんきゃぬ ゆうばんじゃがうら っち 世の中 ひっくりかえってやー うがしゅん 暮らし あた
(6/27) ミソば カメち うつさんば
(6/30) ウヤバ ハゴハゴ シチ ヌッチュン カイ ウバ ユムタ ボォリ ユウナ
(7/1) アオゾラ ッチ テント ナンティ ワンバ スィティヨ ッチナ ヤンキャ イノリ ダガ シランダロ トナエララン ダロガ トナエテミ シチュランダロガ
(7/4) 一番さーは たるよ ただしんたむだか いしょ道具っか つぃかわしよー
(7/10) あん むじゃらむじゃら しゅんや ぬぅよ (姉作のごぼうとコーンのかき揚げを見ての一言)
(7/17) セェボーリコラティ ユラユラユラユラ シチ ヌゥヨ ナンドガ ワンバ ミオクリド ナンガ ウガシアタレバ ワンヤ シナランド ワンバ ミオクルンガ ナンヌ セキニンド ワカトゥンナ!
(7/25) みこんじ やしなわってぃ みしょり元気! おわりゅん日ば 楽しみっくゎにしんかなよー ・・・終わる、ではなく、会える、という意味らしい、と、姉3と笑いあった
(日付は逸したが・・・母の寝言?いくつか思い出したのを記しておく。) ・キュウノツユコ ッチ タズネテイケバ・・ ・ワン バンナ? チギヤ ワン バン アナンナ?
(7/26) トゥクバリタインバン インガン クヮンキャ マタンバ チ ウムティ お客さんが来たら お茶っくゎ 出してね よろしくね(標準語!で寝言)
・・・
もっと母ちゃんbの言葉を記録しておくべきだった。 今更だけど。
2020年03月15日(日) |
むがりどころ、ニコニコ |
ピクニックに行くよ、と言った母の話を前に書いた。
その時のことを覚えているかと母に訊いたことがある。 今思えば、母はすでに認知症が発症していたように思う。それでも、認知障害とは思わず、年齢によるものだろうと思っていた時期だ。
覚えているよ。 と、母は言った。 その日(週?)は、教会で「巡礼」と呼ばれる旅行があったのだそうだ。 母はそれに参加することが出来なかった。父は既におらず、もちろん旅行に行くような蓄えはなく、しかもくゎんきゃがぼろぼろといる中で、どうして行くことが出来ようか。
前に母はこうも言っていた。 「教会の巡礼だけが楽しみっくゎ」
女手ひとりで子育てをしながらも、巡礼旅行のために細々と積み立て貯金をした。 それが母ちゃんの唯一の息抜きだったのだろう。
あの日、母は巡礼に参加することは叶わなかった。
「ちゅや ごっと 巡礼ち、 母ちゃんや うがしゅん余裕ぬぬん はぐはぐ 情けぬぬん なだがり うとぅる だんば やんきゃや でけぶちくゎんきゃ なてぃや ニコニコしゅん顔 みし わきゃ だか 行こ ち うむてぃよ」
母ちゃんは、気持ちを奮い立たして、そうやって出かけたのだ、あのピクニックへ。
「母ちゃん、すごいね」
わたしがそう言うと、母は笑いながら言った。
すごいち あんにゃ 母ちゃんは 情けなくてや くゎんきゃだか きもさげさ ち うむたんば ありがてなんやー やなんかくゎんきゃは ごっとでけぶちなてぃだろや むがりどころ、 ニコニコ! はげはげ、ありがてなんやー神さま、 ちどが うむたっと
いやいや、母ちゃん、すごいのはやっぱり母ちゃんじゃ。
こんな話 きょでとしたかったやー 母ちゃんの三回忌に。
素晴らしい人生の大先輩に恵まれたことは幸せなこと その人から教わったこと、その人に報いるよう、恥じらんように生きること そういう道順をあんたに示してくださったことに感謝して生きなさい。
もう認知症がだいぶん進んでいた母ちゃんが、この日はしっかりとしていた。 動画に撮れば良かった、とも書いてある。
今となってはもう後戻りできないけれど、この言葉はきちんと残しておこうと思う。 2017年8月2日のこと。
2019年06月09日(日) |
オボクレルハハ、ナンセンス |
3/27/2017
湖からNYへ行くツアーに参加することになった。 わたし、母、姉1、姉2、姉3に兄1と4も一緒だったと思う。 参加者のうちの誰か(アメ人)が、「こんなダサいツアーでNY入りするなんて恥ずかしい!」と冗談っぽく言っていた。 ここはペンシルバニア州の湖らしい。昔からある典型的なツアーなのだそう。
ボートに乗り込むと、それは案外小さな船で、え?こんなんで行っちゃうの?と、拍子抜け。昔、兄2が連れて行ってくれた加計呂麻島への渡し舟程度の大きさ。 そこへ乗客がずらずらと乗り込んだ。
ガイドの案内とともに船が出航した。 わたしは母と姉1と一緒に座った。 水面が近い。深緑色。
と、そのとき。ボートがいきなり弧を描くようにカーブした、と思ったら、母がその動きに体を取られ、なんとそのまま上半身が湖に落ちてしまった。 慌てて母を引き上げる。 母はどっぷりと湖水の中に入り(母の顔がはっきりと見えた)、ぶくぶくと引き上げられた。 姉もわたしも必死だった。
姉が母を介抱している間、わたしはガイドのところへ行って、自分たちだけ降ろしてほしい、と頼んだ。 「母が溺れたんです!」 でもガイドは、ツアー中にボートを止めることはできない、目的地まで行ってもらう、と言う。「死にかけたんですよ!」わたしは激昂してしまった。
そうこうしているうちにNYへ着いたらしい。
・・・
6/3/2018
母が帰ってきた。 数人の男性陣によって丁寧に運ばれた母は仰向けにあまりにもまっすぐと横たわっていて、その姿勢は明らかにいつもの母とは違うのだが、それでも安らかな表情をしていたのでホッとした。
姉たちは台所で何やら準備をしていた。 わたしは母のそばにいた。 皆がそれぞれ色々な話をしていたが、わたしはぼんやりと母の顔を見ていた。
ふと、母の腕がかすかに動いた。ような気がした。 と、間もなく、母の閉じられた瞼がほんの少しだけ、開いた。 そして、ゆっくりと、その目が開かれた。
母ちゃん!!
わたしは思わず声をあげた。 母ちゃん、わかる?家よ、家に帰って来たんだよ!
姉たちもみんなやって来た。 母はしばらくはぼぉーっとしていたが、だんだん目に輝きが戻って来た。
母の頭の下には四角くて硬そうな枕が3つ重ねられていた。わたしはそのうちの一つを外し、「これでどぉ?少し楽?」と、母に聞いた。 母は頷き、周りをゆっくりと見渡した。 皆で母の布団を整え、上半身だけを少し起こした。 母は皆が集まってユラウのを眺めるのが大好きなのだ。
宴の準備が始まった。 わたしは、そうだ、記念撮影をしなくては!と、思う。 姉たちに頼んで、母とわたしのために飯椀を持って来てもらった。 黄色い柄の入った飯椀だ。写真だけだから、中身はなくても良いよね、そんなことを言っていた。 お箸も持った方が良いかな?わざとらし過ぎる?
姉が大きめの四角いお盆を持って来た。 こっちの方が母ちゃんは楽でしょう、と言う。確かにそうだ。 それから姉は、小さくカットされたレタスとコーン粒が混じったものをお盆の上に乗せた。 黄色いコーンと薄緑のレタス。それらを飯椀に入れるのはちょっと変かな、と思い、そのままにしておく。 でも、これって写真に写るのかしら?
母は、早くしろよ、という顔でわたしたちを見る。 そうだ、早くしないと、母が疲れてしまうよ。写真、写真、早く、早く! 母はこんなの馬鹿げているね、と言って笑っていた。 わたしも、ホントだよね、と言って笑う。ナンセンスな記念撮影。 でも、母はからからと笑っていた。 わたしたちは母の笑顔が嬉しくて、わはははははーと、笑いあった。
・・・
ユメモ2話。 じつねぇ大活躍。 むじらっさんばぁさんじゃ。
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