ぶらんこ
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2011年09月06日(火) 信仰 

今でこそ母ちゃんは、色々いろいろ、「ちのちの」したり「やなぐり」したりするけれど、昔はどうだったよ?


 ・・・


昔(こう書くと、本当に遠い過去のように感じる、)母ちゃんは朝から晩まで働いていて、
くゎんきゃを学校に送り出したら、たぶん洗濯とか済ませてコーバへ向かったのだ。
日中、わたしたちくゎんきゃは学校に行って、家に帰って来てからはすぐ遊びに行った。
ちょっと大きくなってからは、洗濯物を取りこんでおくとか、そういう手伝いはした。ような気がする。


母ちゃんはいつも晩ご飯まで帰って来ない。
晩ご飯が出来る間際に、わたしたちきょでのひとりが、コーバまで母ちゃんを呼びに行った。
母ちゃんが帰って来るのを待って、それから皆で一緒にご飯をいただく。

「食前の祈り」は、ときに誰かが代表で唱え、大抵はそれぞれが胸の内で唱えた。
くゎんきゃは、ゆわさぬ、かっつれむん。
唱えるのは速いよ、超スピード。5秒もかからん。最初から最後まで拍を入れず一気に唱え、がっつく。
というよりも、形だけ唱えていたのかもしれない。食前の「ちとーことー」は習慣になっていたから。
母ちゃんは、そんなくゎんきゃに混じって、ひとり、目を閉じ、スローモーションのように十字を切って、祈っていた。
祈りを終えたあと、母ちゃんは一拍おいて、「いただきます」と言った。


晩ご飯を食べた後、母ちゃんはもう一度コーバへ行って「あとちょっと」の仕事をしてきた。
その後に帰って来るのは、夜遅い11時とかだった。
わたしたちくゎんきゃは、母ちゃんのために布団を敷いておくのが常だった。誰が始めたことだろう。物心のついた頃には、もう既にそんなならわしになっていた。
姉たちからよく、「母ちゃんのために布団敷いておけよ」と言われたのは覚えている。
母ちゃんは「トゴラ」で眠った。トゴラにはTVがあったので、母ちゃんの隣に自分の分の布団を敷いて、TVを見ながら眠ったりもした。



食事係は長姉から始まり、学年が上がるにつれて妹へと随時引き継がれていった。
たいした食事は作らなかった。否、作れなかった。あるもので何かをこしらえただけだ。
そんな中、母ちゃんの分はちょっと「特別」だった。
例えば、カレーとかスパゲティとか、いわゆる和食でないとき。そんなときは決まって母ちゃんの分は別に作った。
うどんを別にこしらえたり、ご飯とみそ汁と刺身とか、そういうの。
不思議なもので、当時、母ちゃんは洋食なんか食べない、と思い込んでいたらしい。
また、父ちゃん亡き後、母ちゃんはわたしたちにとって「家長」であり、無意識ながら尊敬の気持ちがあった。
同時に、わたしたちくゎんきゃは、シンプルに母ちゃんのことが好きだったのだなぁ・・と、思う。今さらながらに、そう思う。


母ちゃんは出される食事はなんでも、いつものようにゆっくり祈りを唱えてから、食べた。
遠い記憶を辿って、あの頃の母ちゃんの様子を思い出そうとするのだけれど・・・食事に文句を言うことなど、一切なかったように思う。



食事以外ではどうだったか。
洗濯物を畳まずそのままにしておくと、怒られた記憶はある。皺になるとかなんとか言っていた。
だから、母ちゃんが帰って来るまでに、誰かが畳んでおかないと、という気持ちはあった。
そうだった、あの頃の母ちゃんにも、ちょっとした小言はあったんだった。


日曜日。ミドウに行く日。当時、御ミサは月によって時間帯が違った。神父さんが各集落をまわるので、輪番制だったのだ。
「一番ミサ」と呼ばれる月は、早朝6時半からだった(と思う)。
「明日は一番ミサだからね」前の晩に、母ちゃんはいつもそうやって念を入れた。
そして、6時前くらいから、母ちゃんはわたしたちきょでを起こし始める。
が、誰も起きないもんだから、だんだん声が大きくなる。荒くなる。しまいには足蹴りが出る。
ま、二番ミサでも三番ミサでも同じことだったけれど(時間がずれるだけ)。

深夜ミサも同様だった。クリスマスイブの夜、大晦日の夜。深夜ミサはその名のとおり、真夜中からだった。
起きていられず眠ってしまうわたしたちきょでは、母ちゃんの怒号で起こされる。
身も心も半分眠ったまま、ミドウへ行く準備をしたものだ。



怖い母ちゃん。もうひとつ、思い出したよ。
わたしがいわゆる「登校拒否」をしたときのこと。
母ちゃんは容赦なかった。学校休みたい、と泣くわたしを、絶対に許さなかった。
あのときなんであれほどまでに学校へ行きたくなかったのか、実のところ、よく思い出せない。
いつだったか長姉は、「父ちゃんが亡くなった後だったし、どこか『愛情不足』だったのだろうね」と言った。
強烈に覚えているのは、「家にいたい」という気持ちだ。家にいたからって、母ちゃんがコーバへ行ってしまうのはわかっていた。
なのに、家にいたかった。学校になんか行きたくなかった。
泣いて、泣いて、さめざめと泣いて、母ちゃんが折れるのを待った。が、その戦法は効かなかった。
わめいて、大声出して、強情に粘って、母ちゃんがあきらめるのを待った。が、それは逆効果だった。

母ちゃんはいよいよ怒り、わたしはびんたを喰らわされた。
「学校に行かんっちなんか、父ちゃんは絶対に許さんよ!」
この言葉は効いたね。後は泣きながら母ちゃんに引きずられるだけだったよ。

遅刻して、みんなの一斉の視線を浴びながら、母ちゃんは先生に謝ってわたしのことをお願いします、と言っていた。
わたしは泣きつかれて、腫れた瞼で、帰って行く母ちゃんを眺めて、初めて、ごめん母ちゃん、と思った。
(けど、それを翌年また繰り返しちゃったのだけれど、、、)



明るい思い出も書いておこう。
いや、母ちゃんに関しては、実は明るい思い出のほうのが多いのだ。
これが、母ちゃんがよく言う「くゎんきゃはでけぶちで〜」だからなのかどうかはわからない。
母親ひとりにくゎんきゃがごろごろ。貧乏子沢山を絵に描いたような暮らし。
でもね、当時のわたしたちは、貧しいとは感じていなかった。それどころか、とてもとても豊かだったのだ。


今、思えば、本当に、今になって思えば、それは母ちゃんの資質の、母ちゃんという人間の暮らしぶりの、その賜物だったのではないだろか。



ある日曜日。ミドウの後に、母ちゃんはわたしたちきょでを「まんきち公園」に連れて行った。
まんきち公園は、山の麓にあるハカショを過ぎて、そのまま登って行くとある、湾を見下ろせる場所だ。
誰が付けた名か、まんきち公園。公園と言うにはおこがましい、当時はただの峠だった。

そこで、わたしたちはおにぎりを食べ、聖歌を歌った。
湾を臨みながら座っていたわたしたち。
いきなり母ちゃんは聖歌集を取り出して歌い出した。わたしたちきょではその後を追い、合唱した。
なんて光景!まるでサウンド・オブ・ミュージック!

わたしはこのことをよく覚えている。とても嬉しかった。何が嬉しかったって、あの朝、母ちゃんはこう言ったのだ。
「ピクニックに行くよ」
ピクニック!ピクニック!なんて素敵な響き、ピクニック。遠足じゃないよ、ピクニックだよ。
母ちゃんはとってもハイカラだったのだ。



 
 ・・・


今でこそ、今でこそ母ちゃんは、色々いろいろ、「ちのちの」したり「やなぐり」したりするけれど、昔はどうだったよ?


もしかしたら昔もそうだったのだろか。
ちのちのしたりやなぐりしたり、してたのに、わたしたちくゎんきゃはでけぶちで、そんな母ちゃんに気付かなかったのだろか。
わたしたちはへらへら笑ってばかりで、家がいちばんで、きょでが大好きで、母ちゃんが大好きで、
母ちゃんの抱えていた苦労、苦悩に、気付かなかっただけだろか。


それとも、母ちゃんのちのちの、やなぐりは、その昔、抑え込んでいたものが、今になってあぶり出されたのだろか。
本当は文句を言いたかった。
投げ出してしまいたいこともあった。
したくない我慢も沢山したろう。
本当は、本当は、辛かったことを、苦しかったことを、誰かに打ち明けたかったのに、それが許されなかったのか。
或いは、母ちゃん自身がそれを許さなかったのか。


母ちゃんはよく、「母ちゃんの十字架っち思って、」と言った。
母ちゃんの、「十字架の道行き」。
「信仰があったから、ここまで来られたんだっち思うよ」ともよく言った。

確かにそうだと思う。
母ちゃんと母ちゃんの信仰は、切っても切れない。

でも、母ちゃん。
母ちゃんの沢山の我慢とか苦労とか試練とか、犠牲とか、そういうのよりも、わたしの、わたしたちきょでの中にあるのは、
それは、母ちゃんのなかにある光なんだよ。母ちゃんが大事にしてきた、けっして消えることのなかった、信仰の灯。


その灯がわたしたちきょでを明るく照らし、わたしたちを導いたのだ。
その光が、わたしのなかの、わたしたちのなかの、明るさの源なのだ。


母ちゃんは強い女性だ。
こんなでけぶちくゎんきゃを9人も育て上げたのだから、凄いよ。
だからね、母ちゃん、これからも、ちのちの、やなぐり、なんでも来い! ですよ。
(いや、ちょっとは加減っかして欲しいけどー!)



母ちゃん、退院おめでとう。
この日が来たことに、感謝します。
神さま、ありがとう。母ちゃん、ありがとう。
姉ちゃん、兄貴たち、弟、ありがとう。
姪っ子、甥っ子、母ちゃんの孫たち、ありがとう。
みんなみんな、ありがとう。

これからも、みんなで、ばーさんのちのちのやなぐりに、長くながーく、付き合っていきましょう。 ね!









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