ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2020年07月15日(水) 義父と茄子と南瓜と

曇り時々雨。それは濡れても気にならないような小粒の雨だった。

どうやら大雨のピークは過ぎたようで梅雨明けが近いのかもしれない。

けれども豪雨の爪痕があまりにも大きくて手放しでは喜べない。

今度は猛暑がやってくるだろう。復旧作業もどんなにか辛い事だろう。

それでも青空を見あげればきっと希望が湧いてくると信じたいものだ。




仕事中にお客さんから電話があり帰りに寄るようにと。

畑の夏野菜をたくさん収穫したので持って帰るようにと言ってくれる。

なんとありがたいこと。仕事を終えるなりお宅におじゃまする。

段ボール箱にリュウキュウと茄子、大きな南瓜も入っていた。

とても食べきれない量でまた職場に戻りみんなで分ける。

ちょうど常連のお客さんが来ていてお裾分けしたのだけれど

義父の分が足らなくなってしまって私の分をと思ったのだけれど

「俺はいいからみんなで食べろ」と言って聞かない。

気のせいかもしれないけれどなんだか義父がいじけているように見えた。


母がいなくなってから義父は料理に目覚めており自炊を頑張っている。

茄子を炒めたかったのではないか。南瓜を煮たかったのではないか。

あれこれと思いつつ「またもらって来るから」と帰路についた。


母は仕事をしながらも義父の食事の支度だけは怠らなかった。

いつもお昼に夕食の分も作っておき明くる日になると

「全部食べてくれていた」ととても嬉しそうな顔をしていた。


長い別居生活。母も義父と一緒に夕食を食べたかったことだろう。

義父のためだけに作る夕食はとても切なかったのではないだろうか。



おかあさん今夜の夕食は何でしたか?

美味しかったですか?おなかいっぱいになりましたか?

もう何も心配することはないからぐっすりと眠ってくださいね。





2020年07月14日(火) 空を信じてあげなくてはいけない

雨のち曇り。午後ほんのつかの間だったけれど小さな青空が見える。

雲をかきわけるようにそれはまるで希望のように見えた。

空を信じてあげなくてはいけない。空もきっと辛いのだろう。



朝の峠路を越えると山里の民家が見え始め

雨に打たれているのは化石のような紫陽花

その傍らで百日紅の濃い桃色が微笑んでいた


紫陽花はみじめな気持ちになっただろうか

もううつくしくはないと涙雨を流しただろうか

いやそうではないとわたしはおもうのだった


この世にはなんとうけとめなければいけないことが

あるのだろうこれでもかこれでもかと雨に打たれる


それでも生きているとほっと空を仰ぐ時がくる

土にしがみつくように生きなければいけない

またきっと紫陽花の季節がやってくるのだから



2020年07月13日(月) 読みかけの本をそっと閉じるように

ずいぶんと涼しい曇り日。午後少しだけ小雨がぱらつく。

山里では稲の穂が出揃ったけれど日照不足なのだそう。

もう忘れるほど日光を浴びていない。なんとも憐れなこと。


豪雨の被災地では泥だらけになって復旧作業をする人々。

そんな人達にマイクを向ける報道陣に複雑な思いが込み上げる。

けれども報道が無かったら私達には何も伝わらないのだろう。

決して他人事であってはならない。せめて寄り添う心でありたい。




職場にハーレーに乗ったお客様。ヘルメットを外すと白髪の紳士。

それは私が二十歳の頃だったかとても憧れていた人だった。

もうときめくこともないけれどただただ懐かしくてならない。

思い出は思い出のまま胸にしまっておこうと思った。

もしもタイムマシーンがあっても私はきっと乗らないだろう。



我が家の軽トラックが車検受けのため午後にじいちゃんが来店。

私の帰宅時間に合わせて一緒に帰る。助手席に座るじいちゃん。

なんだかドキドキする。まるでじいちゃんが彼氏のようだった。

会話が途切れると途惑う。何か話さなくちゃとあたふたとして愉快。

わずか30分のドライブだったけれどなんだかとても新鮮だった。



この日記を書き始めた時間には夕散歩の孫たちの声が聴こえていたけれど

いつの間にかもう外はすっかり暗く夜になっている。

ゆっくりと時間をかけて一日を振り返っていたのだろう。


読みかけの本をそっと閉じるように一日が終わろうとしている。







2020年07月12日(日) 四万十川の天然うなぎを食べました

曇り日。空ももう荒れたくはないだろうと思ったり。

被災地の惨さの報道を見ながら涙ぐむ朝だった。

「希望を」とかんたんに口にしてはいけないのかもしれない。

それでも少しでも希望の光を届けてあげたいものだ。




朝のうちにお大師堂へ。先々週からお大師ノートが見当たらず

Sさんにメールしたらある方が持ち帰っているとのこと。

よく新聞に投稿される方で今回もそうではないかと言う。

ノートにはお遍路さんの出身地や名前が記されているので

Sさんが個人情報を心配していた。私も同じことを思う。

新聞記事に掲載されるのは嬉しいことだけれど複雑な気持ちになる。



午後は例のごとくでひたすら怠惰に過ごす。

寝たり起きたり録画番組を見ながらごろごろするばかり。


娘むこが天然うなぎを釣って来ていて今夜は蒲焼。

手慣れている友人に手ほどきを受けて初めて捌いたようだった。

それがとても上手に捌けたようで悦に入っていて愉快なり。

丑の日にはまだ少し早いけれどまるで今日が丑の日のようだった。


我が家は元々川漁師の家系なのでお舅さんが生きていたら

どんなにか孫の婿と意気投合したことだろうと思う。

亡きお舅さんを懐かしく偲ぶ一日でもあった。

40年近い歳月が流れまた天然うなぎが食べられるなんてありがたいこと。





2020年07月11日(土) この日記を書き終えたら雨が降り始めた

夜明け前まで降っていた雨がやみ日中は曇り空。

もう強い雨の峠を越えたのかなと思いきや今夜はまた雨になりそう。

週間天気予報にもおひさまのマークは一日もなかった。

梅雨明けが待ち遠しくてならない。夏らしい青空にあいたい。


「雨ならば雨を受けとめ」と雨の季節を受けとめていたつもりだけれど

今回のように大きな水害があるとそれは不謹慎な言葉なのだろう。

言葉はむつかしい。使い方を間違えてしまうと人を傷つけてしまう。

こうしてひっそりと隠れるように言葉を綴っていても

公開している以上は誰の目に触れるやらわからないのだもの。




残り仕事があり今日も山里の職場へ。

お客様は神様。来客が多く嬉しい悲鳴をあげていた。

同僚一人では手の回らないのを義父が手伝ってくれてとても助かる。


私のことをいつも「姫」と呼んでくれるお客さんがオイル交換に。

「姫はそろそろ帰る時間だな」と気遣ってくれるのが嬉しい。

「殿がいらしてくれているのに帰るわけにはいけませぬわ」などと

言って笑い合う。一時間の残業になってしまったけれど苦にはならず。



帰宅したら孫たちのふたいとこの「まあちゃん」が遊びに来ていた。

まあちゃんはそれは活発でおしゃべりな女の子。

まるでめいちゃんが3人いるのではないかと思うほど賑やかだった。

お母さんが迎えに来ても「まだ帰らない」と駄々をこねる。

晩ご飯のあと夕散歩をする約束をしてやっと帰って行った。


娘と肩を並べて夕飯の支度。娘が海老の天ぷらを揚げていたら

めいちゃんがまるで赤ちゃんみたいに「だっこして」と甘える。

「今は駄目よ」と娘が言えば大泣きになって暴れる始末。


仕方なくじいちゃんが天ぷらを揚げてくれた。

私は「鶏ごぼう」を作っていた。じいちゃんと肩を並べるのも良いもの。


玄関に誰か来たよと見に行ったらまあちゃんが心配そうに立っていた。

めいちゃんの泣き声があたり中に聴こえていたらしい。

ぴたっと泣き止むめいちゃん。「恥ずかしいねえ」と娘。


夕食後はお約束の夕散歩。土手からのはしゃぎ声をほのぼのと聴く。






2020年07月10日(金) ひとはひと、わたしはわたし

朝方少し強い雨が降ったけれど日中はほとんど降らず。

心苦しいけれど恵まれているとしか思えない一日。


SNSでは豪雨災害にまったく触れようとしない人が多く途惑う。

他人事だと思っているのだろうか。見て見ぬふりをしているのだろうか。

もしかしたらそれが当たり前のことなのだろうか。

「今日も素敵な一日を過ごしましょう」などとよく言えたものだ。

あまりにも配慮の足らない言葉なのではと思わずにいられない。


そんな怒りにも似た感情を宥めつつ私はわたしの言葉を発する。

「ひとはひと、わたしはわたし」と言い聞かすように。




晩ご飯の後めいちゃんが食器を洗ってくれていた。

小さな手でそれは上手に洗ってくれていたのだけれど

水量が少なく洗剤の泡が残っているのが気になり

「もうすこしおみずをだそうかね」と蛇口をひねったのがいけなかった。


すっかり機嫌を損ねてしまって「もうあらわない」と泣きじゃくる。

洗いかけのお皿を投げるようにして泣きながら二階へ上がってしまう。

「ごめんね、おばあちゃんがわるかったね」

せっかく洗ってくれていたのに余計なことをしてしまった。


もうすぐ6歳になろうとしているめいちゃんの自我が芽生えている。

「ちゃんとできるよ」と。だからほめてあげなければいけなかった。

明日も洗ってくれるかな。おばあちゃんはとても助かるよ。

ありがとうねめいちゃん。ぴっかぴかのお皿がとても愛しい。








2020年07月09日(木) どうかどうか希望と勇気を

午後7時を過ぎた。空は薄黒い雲に覆われている。

けれどもまだ明るいのはおひさまのおかげだろう。

今は希望を持たなければいけない時。

辛い思いをされている人達にそんな希望を届けてあげたいものだ。



仕事は来客が多く活気に満ちていた。

笑顔で応対をしながらふと自分の顔を鏡に映してみたくなる。

愛想笑いではなく心からの微笑みを見てみたかったのだ。



東京のコロナが凄い。すでに第2波が到来しているとしか思えない。

今の状態では封じ込めることは困難に思える。

やがて飛び火するだろう。覚悟をしていなければいけない。

どんなに用心していてもそれは必ずやって来る。

甚大な水害に加えコロナの不安。日本はいったいどうなるのだろう。


嘆こうと思えばいくらでも嘆ける。

けれどもそれでは何も変わらないのだと思う。

希望はもちろんのことだけれど立ち向かう勇気が必要。


ひとはみな弱い生き物だけれど強いこころを持つことは出来る。

そのこころを育てられるのは自分自身なのではないだろうか。


駄目だなと思ったら駄目になる。

大丈夫と思ったらきっと何だって乗り越えられると思うのだ。




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