蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 I'm sick(愛夏)

「冷た…っ」

浅瀬の波が、ぱしゃん、と足首に跳ね返って水飛沫を作った。

「そりゃ季節外れだしー」
振り返れば、少し離れた砂浜でしゃがんでこちらを向いた伊聡が欠伸を噛み殺していた。深く被ったキャップのせいで、あたしを見ているのかどうかまではわからない。

「こっち、来てよ」
「やだね」
「どーして」
「濡れんのヤだから」

そう言って、ふいと横を向いたきり無言。
伊聡は基本的にあたしに合わせてくれない。自分がしたいからする、したくないからしない。
海が好きじゃないのは知ってる。全く似合わないし。でもせっかく来たんだし、季節外れにしても涼し過ぎるにしても、これだけ綺麗な海を目の前にすれば入ってみたくなったりなるもんじゃないの。

日曜日、晴れ、泊まり込んだ翌朝。
渋る伊聡を半ば無理矢理に連れ出した遠出。
こっちに着いたのは日がかなり傾いた頃だったけれど、透けるような日本海の水にあたしは十分満足していた。靴を脱いで歩く砂浜は気持ち良い。時々、甲にかかる波に触れたりしている間、伊聡は離れた所にあった岸壁に背中を預けたままちっとも動こうとしなかった。

「つまんない?」
「うん」

折り曲げていた両足を前に投げ出して、離れた場所から声が返って来る。

「後、喉渇いた」
「どっかで買ってくればいいじゃない」
「どっかって。コンビニもないし」
「だから、着く前に何か買おっかって言ったじゃんか」

少し冷えてしまった足を浅瀬から上げて、拗ねたような声を出す伊聡の元へ歩み出して。自然と声が大きくなるのは、すぐ近くで鳴る波音のせいだ。

「こんなに何も無いとか思わなかったんだよな」

砂の上に座り込んで手にした小石を掌で弄び、近付くあたしを捉える目は少し冷たくて。
時々見せるこういう表情は、何だか知らない人みたいで嫌いだ。

「んー…じゃあもう、いい。帰ればいーんでしょ」

無い返事は気にしないことにして、潮気で少しベタついてしまった髪を手で梳かした。
今となっては雲を朱色に染め始めた太陽は、随分と大人しい光に変わっている。さらさらと厚みのある砂が素足に纏わり付いて。その冷たさに、周囲の静けさに、夏の終わりを肌で感じる。羽織って来ただけのパーカーの胸元を合わせて、伊聡の傍へ来たところで、「ちょ…っ…」あたしは慌てた声を上げなくてはならなかった。

「何すんの…っ」

不意に掴まれた指先を舐められて。

「だって濡れてる」

ぬるりとした舌が指腹を舐め上げて、軽く唇に吸われて小さな水音を立てる。昨日の夜を思い出す舌の柔らかさに、ぞくぞくと震える身体。それを強く押さえ付けなくちゃならないのがくやしい。

「海の匂いだ」
「……つ」

慌てて引いた指先を握り込んで、唇を尖らせて伊聡を睨んだ。

「んで塩辛い」
「…っ当たり前だよ、海水で濡れてんだから」
「あー…。余計に喉、渇いたかも」
「知らないよ、そんなの。我慢してれば?」

知らずに上擦る声。指先が熱い。わかってやっていないことが、更にくやしいって思った。

「帰るんだろ」

簡単に離さないでよ。

「わかってるってば」

濡れた足はまだ乾きそうにない。
立ち上がり砂を払う相手を、視界から追い払い脱ぎっぱなしになっていた靴を手にした。
しばらく歩いた先にある石の階段で立ち止まり、ほんのちょっぴり海に顔を付けた夕日を眺めそれから伊聡を視線で追う。

「待ってってば。靴履いてないんだよ、あたし」
「はいはい」
「ねえ、」
「んー?」

止まない風に飛びそうになるキャップを深くして、立ち止まる伊聡に、あたしの事好き?なんて聞いてみる。深く考えたわけじゃないけど、でも何だか聞いてみたくてそうした。唐突なあたしの問いにほんの少し考えるように空を見上げた――ように見えた――伊聡が、首を傾ける。
何よその反応は。こういう場合は嘘でも、好き、とか返すべきなんじゃないの。
砂を払い無理矢理履いた靴の中は、湿っていて気持ち悪いけど仕方ないと諦めた。

「好きっていうか」

階段の上から降る声は風に流れがちで、聞こえにくい。夕暮れの風は冷たくて、もう海の中に入ってみたいなんて思わない。靴を履き終えて、階段を上がる。待っていた伊聡と同じ高さになって、「って言うか何」聞き返した。

「すごく大事」

頬に触れた唇が、囁くようにそう言った。

【END】

2008年10月22日(水)



 帰り道(シュウスケ×マヒロ)

「あ、」
「え?」
「あれ、何だと思う?」

午後六時。
この季節にもなればすっかりと日は沈みきって、薄暗いどころか夏の夜並の暗さになる。紫色をした空から吹き抜ける風は、コートを羽織っていても身体を震わせる程の寒さで。

いつもように学校からの帰り道を、あたしとシュウスケは二人して並んで歩いていた。繋いだ手はお互い冷たくって、大して会話が弾まないのはいつものこと。あたしが一方的に喋る事をシュウスケは、適当に首だけで相槌を打ったり時には無視したりして、ひたすら家路を目指して歩くだけ。

恋人、というには微妙すぎる間柄だけど、あたしは充分満足していたりする。シュウスケの家に一緒に帰って、ハルちゃんの美味しいご飯を食べて、
部屋で二人で過ごす。別に甘い言葉を掛けてくれるわけでも、構ってくれるわけでもないけれど、あたしはそれで満足してる。

今までだって押し掛けて同じようなことをしていたんだから、大して変化が無いと言えば無いのかもしれないけれど、シュウスケがあたしを迎えてくれるという面では大きすぎる変化だと思う。

恋愛で自分の気持ちが報われるか報われないかの差は、余りあるくらい大きい。

だからシュウスケがあたしの話に適当に相槌を打っても、反応を返さなくても、こうやって手を繋いでいられるだけで充分なんだ。

そんな事を考えて幸せに浸っていた矢先、シュウスケが急に立ち止まり、繋いでいた手を離して、差し掛かっていた公園の中を指差したのだった。

何だと思う?
そう言って指差した先には、大きな雑木林。
今の時間帯の暗さも手伝ってそこは闇の中のように真っ暗で、木々の形を把握するぐらいが精一杯のあたしには何を言われているのか全くわからなかった。

「何って。どこ?」
「ほら、あそこ。そんな向こうじゃなくて、手前にあるちっさいの、見えるだろ?」
「あの木?」

雑木林の手前に視線を移せば、他の木とは違って植えられたばかりに見える、小さな小さな木の影が視界に入った。

シュウスケを振り返れば、あたしを見て軽く頷いてもう一度同じ事を言った。

その小さな影は天辺の葉の上から、白い布のような物で、ぐるぐると巻かれているように見えて。
ただその量がやたらと多くて、目に留まってしまえば、この暗さも手伝って妙に不気味にすら感じた。

「何だろ」

少し近付こうと歩けば、清掃されていない落ち葉がきしきしと音を鳴らした。大きい遊具もなく防ぐ物の公園は、風がやたらと通り抜けてさらに温度が下がった気がする。近くで見れば、銀や金の紙テープみたいな物で、らせん状に巻きつけられているのがわかった。

「何だと思う?」
「―…何って」

いつのまにか隣に来ていたシュウスケが、試すように訊ねる。まるで答えを知っているかのような口ぶりに、それを問うように仰ぎ見た。

「そんな事言われても、わかんないよ。ただの悪戯でしょ」
「かもな」

かもなって。小さく笑って答えるシュウスケを咎めるようにして繰り返せば。

「片付けたほうがいいかなぁ」

ここの公園はゴミ箱も置いてあるし、管理の人がやったんじゃないだろうし。そう思って紙テープに触れようとした手を、シュウスケが押し止めた。

「やめとけよ」
「どうして?」

違うかもしれないけど。そう前置きをしてから、シュウスケが不規則に巻かれた木を指して。

「たぶん、ツリーのつもりなんじゃねえの」

さらり、と指先が木に触れ、幾重にも巻かれた紙が揺れる。

「ツリー?」
「クリスマスツリー。幼稚園の時にさ、俺らも二人で作っただろ。ハル兄にすぐに片付けられたけど」
「そー…だっけ…?」
「そうだよ。薄情な奴。お前って本当色々覚えてないよな」

わざとらしく吐かれた溜息に言い返そうにも、あたしの記憶の中にそんなことはちっとも無くて。

「誰かと間違えてる、とか」
「マジで言ってんの?」
「う…ごめんなさい」

シュウスケが覚えていてあたしが覚えてないなんて、情けない。
まあいいけどさ。そう言って、歩き出すシュウスケの広くない背中を追いかける。公園を抜けてから振り返れば、もうあの小さな木はさらに小さくなって。

見えなくなっても、妙に目に焼きついた金と銀が、まるでイルミネーションみたいに思い浮かぶ。

「シュウスケ」
「ん?」
「今年はさ、作ろうよ。ツリー」

ぎゅう、と掴んだ腕を引いてそう提案すれば、「お前が覚えてたらな」シュウスケは前を向いたまま笑って言った。

【END】

2008年10月09日(木)



 土曜の夜は「黒」

土曜の夜は「白」の伊聡視点。


呼ばれて顔を上げれば、明かりを背にした愛夏が頬を上気させていた。
黒目がちの大きな瞳がたっぷりとした水気を帯びて、困惑したように揺れる。
そんな表情に内心そっと舌を出して、わからない振りを装ってもう少し近付いて。

つんとして澄ました顔は今は鳴りを潜めて、快感に流される寸前、のような濡れた唇が目に止まる。
軽く舌なめずりしてから、ゆっくりと起き上がり口付ければ甘い声があがった。

「い、さと」
「しー…」

繰り返し俺を呼ぶ唇に自分のを押し付けて塞いで、テレビの電源を手にしたリモコンで落とした。
俺達以外誰もいない家は、いつも以上に静かで冷たい空気を感じさせる。

両親が健在にも関わらず、この家に家族が揃う事なんてほとんど無い。
年に数回、どちらかと顔を合わせる事があるにはあるけど。
ああいうのをカウントすると、家族か他人かの線引きが微妙だ。

手に余るほどの自由と、俺しかいないこの家。
人からは羨ましがられるくらい自由だったけど、あまりにも周りが目まぐるしいから、誰が誰かなんて認識するのも一苦労で、その内そんな努力もしなくなった。

でも、そんな努力をしなくなっても、誰も俺を責めないし。
適当に懐いていれば、偉いね、賢いねって言ってくれるからそれでいいんだって解釈して。
高校に入ったら入ったで、尚更口出す人間なんていなくなってその部分は増長していく一方だった。

金で雇われた全くの他人に世話されて育って、年が変わる毎に出入りする人間も変わってその度に名札でも付けてくれりゃ楽なのに、なんて考えて。

そうやって色々な人間が俺の周りで入れ代わり立ち代わりして行く中、変わらないのは気付けば愛夏だけ。
そりゃ頼めば傍にいてくれる子もいたりする。でも、その場限りの女の子を覚えるのは、ガキの時に放棄した努力のせいで困難なことだったし、楽しいけど『居心地が良い』かと聞かれればそうでもなくて。

愛夏は俺より勝手なところも沢山あるけど、ずっと傍にいた分、心地良さのほうがウェイトが高かったし。

だから、昔から『特別』な存在だったのは自覚してた。自覚してたんだけど、『そういう』特別かどうかまでは認識していなかった俺は、愛夏に「好き」と言われて初めて「俺もそうなのかも」って考えた。

実際好きかどうかなんて、正直自分自身でよくわかってなかったりはするけど――未だに愛夏からも適当な奴と言われたりする――それでも、愛夏が俺を好きだって思うなら、俺も愛夏が好きなんだと思う。
一緒に過ごす度に思ってた『居心地の良さ』を恋愛感情に置き換えて考えても、何の違和感もなかったし。

収まるべき場所に、すとん、と落ちたような自然な感覚はきっと誰にもわからないだろうけど、俺がわかってるからそれでいい。
いいから、誰にも言わない。
勿論、今キスしてる目の前の幼馴染にも。

唇を離して、ちらりと時計を見れば八時ちょうど。
あぁこれで、三十五分のオーバー。
せっかく今日一日言わないでいたのに、これじゃ全然意味が無い。
記憶力は悪いほうじゃないと思うだけど、愛夏の傍はやたらと眠くなるんだ。
昨日でも明日でも意味が無いってのに。

「…また考え事してる」
「ぁ? してないって」
「してるよ。いいよ、約束あったんなら行ってもさ」

つんと拗ねた小さくて赤い唇が、小憎らしいことを言ってくれて。
脱ぎ散らかして少し皺になった制服に袖を通して、また俺を見るものだから。

「ちょい、待って」

細い手首を強めに握れば、振り返る愛夏の目は僅かに揺れて。
その目の中の感情は、きっと俺のものだと思うから。

「誕生日、オメデトウ」

零時ぴったりなんて、俺らには当たり前過ぎるし。
だから。たまには生まれた時間に言うのもアリかなあ、なんて思ったんだけど。

「…。ん、ありがと」

ふわりと綻ぶ愛夏の顔を見れば、来年こそは眠ってしまわないようにしよう、と決めた。

【END】

2008年10月06日(月)



 雪、はらり。(LOVESICK)

「うーあー…寒い…っ」

白い吐息が漏れる。
それは冬の訪れを確かに示していて、着実に時を刻んでいる事の証明だった。
深くキャップを被り直した伊聡が、もう一度「寒い」と低く呻る。

「そりゃもう十二月だもん」
「…帰りてー」
「だから帰ってんじゃん」

擦れ違った会話は、いつものことすぎて気にならない。
だいたい伊聡は、人の話をちゃんと最後まで聞けないし。忍耐力がないんだよね、たぶん。
慣れた会話のついでに当の本人を見れば、ポケットに両手を突っ込んで、首を竦めて数歩先を歩いていた。
薄雲の隙間から、ちらちらと白い物が、あたし達の間に舞って。
地面に落ちたそれは瞬時に溶けて、消えて水に変わり濡らした。
暖房の効いた心地良い電車から降り立った瞬間から、伊聡の機嫌は下降しっぱなしで、さっきからあたしはそれを宥めてばかりいる。

「もう少しなんだから我慢してよ」
「すげーしてる」
「してないよ」

あ――、なんてよくわからない声が漏れて、伊聡が振り返って。
肌の色味が無くなって青白くなった顔が、恨めしげにあたしを見た。

「寒いんだって」
「それはもう何回も聞いた。だから帰ってるんでしょ、これも何回言ったら良いわけ?」
「お前はいーよ、俺より体温高いし」
「そんなの関係ないじゃん、あたしだって寒いよ」
「違う。体温の一度なんてめちゃめちゃでかいだろ、お前三十六度以上あるし、絶対お前のほうが寒くない」

段々会話のレベルが低くなってきた、と溜め息が漏れる頃には、ちらついていた雪が本格的に降り出していた。
吐息の白が、更に濃くなった気がした。
積もらないかな。すぐに溶けてしまうような、こんな雪じゃ無理か。

「伊聡」

呼び声に仕方無さそうに振り向いた目が、あたしを見て細められる。
あたしが足を止めたせいで開いてしまった距離では、その目からは感情は読み取れなかった。

「何で立ち止まってんの」
「え? あ、だってほら、雪…」

かざした掌に落ちる白く淡い結晶。

「雪、積もらないかなぁって思って。積もって欲しいんだけどな」
「冗談」
「…ぁ、待ってってば」

また向けられる背中を追うけれど、ふうわりとした白い綿毛のような雪がどんどん降ってくるのがあまりにも綺麗で。

「止まるなって。あぁもう、寒すぎて死にそう。出掛けるんじゃなかった、こんな天気に」

足早に歩く伊聡は、あたしなんか待つ気もないようにどんどんと距離が開いていく。
恋人なのにさ。さっさと行くなんて、どうなんだろ。
手とか繋いでくれないかな、そう思うけどコートのポケットに入った掌を出してくれるとは思えない。
こんな事なら、手袋も持って来れば良かった。気温がぐっと下がり出した十二月半ば。
寒がりな伊聡を連れ出したのは、やっぱり失敗だったかもしれない。

「あたしは嬉しいけど」

寒すぎて、鼻の先の感覚が失くなるくらい寒いけど。
でも二人でいられるなら、それだけで嬉しいし。家でもいいんだけど、今までがそればかりだったせいか外に向かってしまうんだよね、欲求が。
一緒にいられれば幸せ、なんてあたしはなんて安い女なんだろう。

「なんて?」
「え」
「嬉しいって言った」
「あ、うん、言った」
「俺と居て嬉しい? 歩いてるだけでも?」

至極真面目な音に空に向けていた顔を戻せば、同じように真面目な顔をした伊聡がまた振り向いて答えを待っていた。
何を今更。

「嬉しいよ。そんなの当たり前じゃん」

やっと追い付いて、隣に立つ。
今までだって、ずっと隣を歩いて過ごしていた筈なのに、これが初めてかのように感じるのは恋人という間柄のせいなのだろうか。
そんな事を考えている内にまた歩き出す伊聡の背中を追い掛けるようにして、すっかりと濡れてしまった路面を歩いて行く。今度は後ろじゃなくて、隣を。

「じゃあ俺も嬉しい」
「じゃあ…って、何よそれ」

いつかも聞いた返し方なんだけど、と憮然と睨めばさっきとは打って変わって機嫌の直ったような顔付き。
あたしをしばらく眺めてから、思いついたように目の前に差し出される手に、どうしていいかわからなくて首を傾けた。

「手」
「え」

繋ごっか、とそう聞こえた時には、幾分冷えた掌があたしの手を握りこんでいた。

【END】

2008年10月03日(金)



 土曜の夜は「白」

眺めてるテレビから流れる笑い声。
どこが笑いどころなのかわからないまま、番組は後半に差し掛かって。
チャンネルを変えようかどうしようか、と悩んだけれどそのままにしておいた。
このバラエティいつもは面白くて好きなんだけど、今日はちっとも面白くないのは一人だからかな。

ちょっと、寒い。
素肌にかかったシーツを引き寄せれば、眠っていた伊聡がもぞりと身じろぎする。
それから、驚いたように目を開けた。

「あ、ごめん。起こしちゃった?」
「…あ? いや、俺、寝てた?」

寝起き特有の少し掠れた声音が、あたしに向けられる。

「うん」
「どれくらい?」
「一時間、くらいかなあ」
「マジで? うぁ、最悪」

小さく軋むベッドの上。
ぼんやりとした眼差しで、あたしに寄りかかってくる頭から髪が滑り落ちる。
あたしとは違うシャンプーの匂い。
何使ってたっけ、この間変えたって言ってたような気もするけど、わりと好きな匂い。夏の終わり、みたいな。

後で入った時にでも確認しよう、と考えて寄りかかってきた身体を、押し退けるように腕を突っ張る。
機嫌が下降した時に、すぐに人を支えにしようとする癖は、いい加減やめてほしい。

「重いってば。何、どうしたの、用事でもあったとか」
「んー…」

土曜の時間割をこなし帰る間際に会った友達と少し話してから、あたしはそのまま伊聡の家へと直行して。
少し遅れて帰って来た伊聡にいいようにされてから、まどろむようにして今まで過ごしていたのが、さっきまでの事。
昔あたしが持って来てそのままになっているアナログの時計が、ぴたりと八時十五分前を指している。
後十五分で、テレビを騒がしている番組も終わるのか、なんてどうでもいい事を考えた。

「まぁいいや、別に」

あたしに寄りかかって保っていた姿勢が、ずるずると下へ降りていく。
誰かと約束してたんだろうか。
勝手に来られて迷惑とか、思われてたりして、本当は。

さらさらとした黒い髪が太腿に触れ、気持ち良さと擽ったさと。
妙な逡巡が綯交ぜになって。

「用が、あったの?」

聞いても、言わないだろうけど。

「別にー」

ほらね。
子供みたいに目を擦り、眩しいのか何度も瞬きをする伊聡の目を覗き込めば、少しだけ笑い返されて。
ほんの少し目元が優しくなったその表情に、まあいっか、とか思ってしまう辺り、自分でも驚くくらいこいつの事が好きらしい。

「って、何してんの?」
「膝枕。愛夏の足って、気持ちいーよな」

そのまま、腿を撫でる掌が擽ったくて身を捩る。
何かこう、胸の奥がきゅうっとするような、こそばゆいような、今まで感じた事のないような感覚。
伊聡を好きって理解してから、あたしは自分の気持ちに面白いくらい鈍感だったんだって思い知らされた。

自分自身が知らなかっただけで、結局あたしは伊聡と一緒にいる事をいつも選んでた。
さっきシてる時だって、そんな事を考え出したらちっとも集中出来なくて伊聡に笑われたのは、最近ずっと感じてるこの妙な高揚感がよくわからないからだ。
気持ち良くない?
首元に顔を埋めて聞かれた台詞は、否定したけど。
いいけど、いいんだけど、何ていうか。

この空気に慣れない。

自分の部屋よりも居心地が良かった筈なのに、どうしてこんな緊張感と高揚感を感じなければいけないんだか。
だから、変に――。

「愛夏」
「…ぁ、なに」

だからすぐに反応出来ないのも、変な返事になっちゃうのも、仕方がない事だと思う。
そう。こうやって太腿にかかる吐息、一つにしても。
横目で下から見上げてくる視線一つにしても。
何ていうか。
やけに情欲に満ちて艶めいて見えるのは、今までと同じなんだけど。そうじゃなくて。
何ていうか。

見た目もそうだけれど、伊聡は『そういう』雰囲気が物凄くあって。
でもそれは今までだって同じで、あたしが慣れないと焦るような事じゃないから、そういう意味じゃなくて。

問題は、その中に混じる今までにはない、柔らかさの混じる視線があたしをいつも困らせる。
見てもいないテレビの画面に視線を固定して、どうしても下に向かう意識を無理矢理そっちに集中しようとしては失敗して。
半ば諦めて仕方なく自身の心理分析に戻ろうとした時、脚を生温かい物が這った。

「…ひ…ゃっ」
「さっきからさー。愛夏、ぼーっとしすぎ。つまんない?」
「――なくない…っ」

小さく叫ぶようにして下を向けば、シーツを捲り上げて腿に舌を這わす伊聡がいて。
薄く笑ってわざとらしく出された舌は、赤く濡れていて、信じられないくらい扇情的だった。
―…見なきゃ良かった…っ、後悔しても遅いくらい、慣れた身体は喜んで反応を返すだけ。

思わず立てた両膝を抱えられてしまえば、あたしにはもうどうする事も出来なかった。
跳ねる脚を押さえつけて、腿の内側を舐め上げられる、という感覚さえ視線を天井に向けていても、わかりすぎるくらいわかって。

あぁ、こうやって今夜もあたしは流されちゃうんだなあ、なんて半ば諦めにも期待にも似た妙な感情を今夜も持て余しつつ。

「伊聡、」と、呼んだ。

【END】


2008年10月02日(木)
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