My life as a cat
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2014年07月29日(火) 酒を辞めたはなし

酒を辞めたきっかけは、ある人とのデートだった。相手は一つを除けばもうパーフェクトな人だった。物静かで、知的で、背もスラリと高いブリティッシュジェントルマンで、読書と映画という共通の趣味でいくらでも話していられた。数回デートを重ねれば距離が縮まるのも当然だが、それにつれて、相手の口臭や体臭が鼻につくようになっていた。たまたま体調の悪い日というのはあるが、そうではなく会うたびに同じ匂いがした。一緒に食事をするとわたしよりも余程健康的なチョイスをするのだから、匂いの原因は老化と飲酒としか考えられなかった。大酒飲みではないが、仲間と会えばワイン2、3杯は飲むらしかった。

彼との今後についてとても悩んだ。匂いが嫌だといって辞めるなんて、人として未熟なのだろうかと思う一方で、もう性的興味が全く沸かないのだから、無理だろうとも思えた。友人達に相談すると、男女ともみんな口を揃えて、″匂いがダメなら無理だ″と言う。

数週間悩んで、彼とは友達として付き合うことで合意して(意外にも数か月経った今でも交流している)、同時にわたしも酒を辞めた。気をつけなくても匂わないのは20代くらいまでで、30代くらいからは匂いには気をつかうべきだ。加齢臭に不摂生と喫煙や飲酒の匂いが混ざっているなんて最悪だ。アルコールは腸内の善玉菌を殺してしまうのだそうだ。悪玉菌が増えるということは全ての不健康の元凶になるだろう。″酒を辞めた″というのは、足がふらついたり、その後のことをやりたくなくなるまで飲まないという意味で、食事と一緒に味わう程度のおちょこ一杯、ワイン一杯は飲むが、それも週1回くらいになった。代わりに養命酒を飲むようになったのだが、これがすごい。冷えがなくなって、夜の寝つきもいいし、何より生理痛と生理そのものが軽くなった。

職場の若いコが近寄ってくると、グリーンアップルのような良い匂いがする。さすがにそれはわたしには難しいだろうが、努力をしなくなったら、それは精神的に末期の病なのだろう。

「もっとも重い病気は、己のからだに無頓着でいることである」

とはフランスの哲学者モンテーニュの言葉だ。


2014年07月27日(日) Birthday girl

クロエちゃん4才の誕生日。プレゼントは大好物のセブンイレブンのおかかとじゃこのおにぎりの具。鼻を鳴らして食べていた。

夕方コンサートに出かけて、帰りに仲間と一杯飲ることになった。国籍や生い立ちはてんでバラバラで、″真剣に相手を探している″ことだけが唯一の共通点のような独身の男女ばかりの集まりだ。スパニッシュレストランの屋外のテーブルに席を取り、タパスをつまみながら、よく冷えたフルーティーなサングリアを飲んだ。心地良い夜風を肌に感じながら、陽気な会話の合間を彷徨う男女の探り合いのような小さな刺激も夏を感じさせる良い材料となっているようだった。最高に楽しい夜だったと言いたいところだが、そうはいかなかった。その輪の中の一人で、以前デートを断った相手が依然つきまとってくるのだった。数人で飲む中に彼がいるのはかまわない。むしろその中で会話を円滑にする良い役目を果たしていると思う。でも二人きりは嫌だし、一度たりともデートするに及ばない、要は″可能性のない″相手だ。ハッキリと断ったのに、あちらはまだ可能性を感じているのか、余程執着心が強いか、厚かましいか、忘れっぽいのか、その全部なのか諦める様子がない。それなりに興味の湧く男の子がいたりするのに、いつも彼が隣にピタリと引っ付いていて、チャンスも剥奪されている。サングリア一杯で酔うはずもなく、帰り道に彼と二人きりになってしまった時には、完全に心がシラリとしていて、素っ気ない応答しかできなかった。誰にでも優しくありたいと思いながらも、そうやって人に冷ややかな顔を見せる自分が嫌で疚しい気持ちになった。しかし、それはやがてわたしをそういう気持ちにさせる無神経な彼への怒りに変わった。

一方的な思いではいかなる関係も成り立たないのが大人だ。一方的な思いで相手の迷惑を考えず立ち振る舞うような男性は精神的に幼稚なのだろう。わたしが自分の心を守る最善の方法はひたすら無視を決めこむことなのだろう。


2014年07月19日(土) ざくろ

喉まで出かかった言葉を呑み込むのは難しくて、大変なストレスがかかる。しかし、後になってその衝動もすっかり収まってみると、やはりあの時言わなくてよかったのだと納得する。きっちりと説明のつかないことを感情にまかせて口にすればたちまち信用を失いかねない。

「この年になると、あの時あぁ言ってればよかったということより、あの時何も言わなくてよかったということのほうが多くなる」

とは田辺聖子さんの言葉だ。生産性のない陰口を叩く体力があれば、人に恐がられても当事者に直接話して前に進みたい。言葉にだしてくれなきゃわかんないという人もいる。それでもやっぱり理屈ではなく感覚で黙っていたほうがいい時というのがあるのだ。

無言の主張が言葉よりも余程相手のみぞおちに食い込むことがある。静かな足取りで、物音をたてない控え目な態度でありつつも、好きなことには喉を鳴らし、嫌いなことは全身全霊で拒否する猫は無言でどれだけ主張しているだろう。その心が透明で、簡素ゆえにその主張はよく響く。ぐっと呑み込んだ言葉を自分の心からも葬り去った時、人としてほんの少し成長したように思えた。


ロングウイークエンドの初日。友人と「ざくろ」という名のトルコ料理屋のランチへ。奇抜で風変りな店という風評通り、オリジナリティ溢れるお店だった。次から次へと色んなものが運ばれてくるのだが、″よかったら食べて″というスタイルで、欲しいと言えばサーブしてくれて、首を横に振ればそのままひっこめる。こうすれば、コースだからと客の具合を聞かずにサーブして、残って廃棄したりする無駄はない。ベジタリアンも当たり前のような涼しい顔で対応してくれる。量がとにかくすごいという風評どおりだったが、どれもあっさりとした調理で、おなかいっぱい食べても胃が軽い。クセになるような味の強いものではなくて、毎日でも食べ続けられるような優しい味のものばかりだった。

デザートに千疋屋でピーチパフェをいただいた。1000円しないみはしのあんみつが最高にうまいと思っているわたしには2000円するパフェは大奮発だったが、価格に見合った美味さで、今後贅沢の味を占めてしまいそうでこわい。


2014年07月09日(水) めんどくさい人

世間ではあらゆることに″めんどくさい″と気だるく言うのがクールだと思っている人がなんと多いのだろう。ある同年代の女性の知人は、パーティーなどで出会うほぼ全ての男性を″めんどくさい人″と呼んでいる。よく聞いているとどうも″めんどくさい″という発言の裏には、自分が常に彼らより優位に立って評価する上の立場にありたいという無理な背伸びが見え隠れする。誰も無理強いしていないのだから、本当にめんどくさいなら参加しなければいいのに。

結婚したいと人にアドバイスを求めていた50歳で彼女いない歴50年の同僚は、

「まず実家を出たほうがいいですよ。50歳の男がいまだにお母さんが作ったごはん食べてるってフツーにキモいですよ」

と3度結婚した男に言われ、

「だって、家事とかめんどくさいんだもん」

などとぐじぐじ言う。

「家事がめんどくさいっていうのは人生がめんどくさいっていうのと同じですよ。そんな人と結婚したい女の人いると思う?」

と、口を挟むと、さすがに女のわたしの一撃が効いたようで、うな垂れていた。

″めんどくさい″という言葉には負の力が宿っているように感じられる。この言葉を連発する人の周囲にいて、良いことが起こりそうな気がしない。言葉に出さなくてもなんとなくめんどくさいと思ってしまうことは日常のあちこちにある。でもそれをめんどくさいと言って放置するか、黙々とこなすのかで長い人生の中で大きな違いが出てくるのではないのか。わたしは″めんどくさい″というフィーリングは捨てると決めた。ただその日やることの計画を立てる。例えば今夜はベッドルームを掃除して、夕飯は蒸したコーンとハーブライスを作る。そしてテレビでフランス語講座を観る。疲れて寝てしまったりして、計画を遂行できない日もある。でもそれはめんどくさいのとは違う。

″Just do it!"

ってな感じで爽やかで潔く生活したい。


2014年07月07日(月) Before Midnight

今日は七夕だけど、この物語の1作目の″Before Sunrise"と2作目の″Before Sunset″の間は10年。その間もお互いに一緒に過ごしたほんの一夜の思い出を胸の中で温め続けてたっていう、彦星と織姫より細い糸を心の拠り所にしてたふたりの話だったというのに、丁寧に時間をかけて組み立てた積木を一瞬で破壊されたような気分。

映画が始まった直後の子猫の話ですでに心が萎えてしまった。セリーヌが子供の頃飼ってた猫のクレオパトラが毎年必ず2匹の子猫を産んでいた。と思っていたら、大人になって実は父親が2匹だけ残して他の猫を袋に入れて捨てていたのを知ったという話。で、セリーヌが呟いた言葉。

″Poor dad"

″Poor cats"の間違いじゃないのかね?もう一回よく考え直して!と突っ込みたかった。しかし、この辺りでもうセリーヌがそういう家庭で育ったことと、自己中心的で他者に対してのイマジネーションが欠落してることが明白になっている。

人って一緒にいられるのが当たり前になってありがたみがなくなってくるのは自然なのかもしれないけど、それにしても見た目もモチベーションも劣化が顕著にでるのはやっぱり女のほうなのか。美しかったセリーヌ(ジュリー・デルピー)が年相応に崩れてきてるのは耐えられるとしても、あまりにもストレスに満ちた口うるさいおばちゃんみたいになってて、見るに耐えなかった。どんなにひどい喧嘩したって、男にセックスのダメ出しするってもう女としてオシマイみたいな感じがするな。変わらないところは、依然下ネタが好きなことだけど、下ネタを放出してもさっぱり見えるのは若くて美しい時だけだ。太った中年女がやると妙に下品で不気味に見える(これはいい勉強になった。わたしも気を付けよう)。口論になるとすぐFワードを連発したりするのもうんざりで、更にあのセックスシーン要らないでしょぉ。どうして今頃になってジュリー・デルピーの裸が出てきちゃうんだろう。これが現実って言いたかったんだろうけど、1、2作の淡い恋物語の行方を追って3作目を見て思いっきりズッコケた。


Michelina |MAIL