My life as a cat
My life as a cat
DiaryINDEXpastwill


2014年06月28日(土) 限りなく少なく豊かに生きる

お気に入りの飯椀を割ってしまった。吉岡萬理さんという作家の作品だった。普段使いできるぎりぎりのそれなり価格だったというのもあるけど、何よりももう販売していないので、忘れるしかない。がっかりしたのは事実だけれど、いつしかドミニック・ローホーさんの著書を読み、″ミニマリスト″の考え方に賛同したこともあって、物や人は大切にしても、執着するのはやめた。割れてしまったものにお礼を言い、新しい飯椀を購入したら、心がスッキリとした。

ミニマリストの暮らしは心地良い。物や人で溢れかえった都心に暮らしていれば、自然と生活が複雑になって自分のエネルギーがそれらのことに吸い取られいく。あれをやらなければ、あの人にメールしなければ、あの人に会わなければ、、、と。暮らしは″Have to″に支配されるべきではなく、心の底から″Want to" という気持ちだけで営みたい。わたしが日々の暮らしでどんなに面倒でも怠れないことは、クロエちゃんのご飯を用意することだけで十分だ。持ち物は本当に欲しいものだけ。足りなければ借りでもすればいい。友達は心の底から話したいと思える人だけ。Like it!ボタンを押さなくたって、毎度誘いに乗らなくたって、心を開いてじっくり築いた人間関係は壊れはしない。

心と身のまわりはいつでも新しい風が吹き抜けるようにスッキリと保っていたいものだ。


2014年06月27日(金) Eoufs de Pâques

NHKのフランス語学習の番組でブルターニュ出身のシェフに紹介されていたイースターエッグを作ってみた。バゲッドをカリカリに焼いて、皿の底に敷く。生クリームに刻んだにんにくを入れてあたためる。温めた白ワインとパセリを加え塩コショウで味を調えたらソースは出来上がり。次はポーチドエッグを作る。卵を一個ずつカップに割入れて、塩、コショウをし、鍋に沸かしたお湯に赤ワインビネガーを加えて、かき混ぜて水流を作ってそこに卵をそっと流しいれる。4分待って掬い上げて、水けを拭き取ってバゲットの上に乗せ、ソースを注いでできあがり。

個人の好みでは卵と生クリームという動物性食品が″主役″の食べ物は重過ぎるが、来客にフランス料理のひとつも披露したい時のレシピとしてキープしておこうと思う。しかし、″Eoeuf de Pâques″をイースターエッグと呼んでいたのだが、イースターに食べられる料理なのだろうか。

料理用にと購入したフランス産の安いワインは、それでも″農民賞″を獲得したとかで、フルーティーで味がしっかりしていて美味しいので、惜しくなってそのまま飲みはじめてしまった。


恵比寿の交差点にて、通り雨に降られて、傘もなく信号待ちをしていたら、すっと頭上に黒い傘があらわれた。振り返るとわたしよりもずっと背の低いおばあちゃんが、

「信号が変わるまでね」

とうんと腕を伸ばして傘を差しのべてくれていた。その親切ぶりはあまりにも自然で、その人の心の平穏さが滲み出ていた。彼女だったら相手が子供でもおじさんでも誰だろうと同じ事をするのだろうと思った。誰にでも親切でいようと思って相手に勘違いされたりするわたしはまだまだ人生修行が足りないのだろう。自然と発した親切がそのままするりと人の懐に収まるようになるまでにはあと数十年かかりそうだ。


2014年06月21日(土) How Starbucks saved my life - Michael Gates Gill

これを読んでスタバに走る。これは至って通常の人の反応だろう。いや、最初からスタバでゆっくり腰かけて読むのが正しいのかもしれない。コーヒーとミルクバタービスケットを買って本の続きに没頭した。

これは実話。ニューヨーク、アッパーイーストの上流階級育ちのマイケルはイェール大学を出て広報としてJWTに仕え、家族との時間を犠牲にして会社と仕事に忠誠を誓いひたすら働いた。全てが順風満帆で彼の自信をへし折るような出来事は何一つなく、大々的なアカウントのエグゼクティブにまで登りつめた頃には傲慢な中年男に成り果てていた。それが50代で突然かつて自分が出世を世話した小娘に解雇を言い渡される。アメリカのまともな利益をを出す企業では、エグゼクティブだろうと、何年会社に尽くそうと、過去に良い実績があろうと、老いて時代の流れを読めなくなればポイッと捨てられる。まさに″行き過ぎた資本主義″とはこういうことを言うのだろう。一瞬にして転落した彼はその後10年くらいは、どんないきさつにせよいい年で一線を退いた人の典型のような″企業コンサルタント″として地道に働いたが、このビジネスもパッとせず、さらには魔がさして不倫に走り、相手との間に子供まで出来てしまい、離婚する。アラ60で普通に″子供ができた″なんていうのもすごいけどね。やっぱり欧米人強し。挙句の果てに脳腫瘍が見つかった時には、すでに手術代どころかコーヒー代すら心配になっていた。

そんな時、たまたま立ち寄ったスターバックスで就職フェアが開催されていた。ぼんやりカフェオレを啜るマイケルの耳にこんな言葉が入る。

″Would you like a job?″

我にかえると若い黒人女性が顔を覗き込んでいる。頭が真っ白になった彼は思わず口走ってしまう。

″Yes″

こうしてホワイトカラーから完全にブルーカラーに転身。かつて蔑んできた若い黒人女性の下でコーヒーを売ることになる。

そこは完全に彼が生きてきたのとは別世界だった。スラム育ちの若い黒人の″Partner" 達の日常はドラッグと暴力に晒されていた。彼らがスタバで真面目に働き大学を出てもスラムで育ったという事実は社会に受け入れられがたい。その″社会″とはまさにかつてマイケルのような一部の裕福な白人が取り仕切っていた場所だった。彼はかつての自分の傲慢さを深く反省する。そして次第にそこに自分の居場所を見つけていく。

上流階級の出でもないし、学生の時にコーヒーを売ったりしたこともあるし、ブルーカラーの職に就くことを″転落″と思わなくて済む家庭環境にあるわたしにはマイケルの日々の気付きなどさほど感じ入るところもないが、希望を失った老人が生き甲斐を見つけていくという話は単純に嬉しい。何よりもコーヒーの発祥や歴史、スタバの名前の由来などの話も興味深い。

全体的にアメリカ臭のぷんぷんする物語だが、このスタバのレジ閉めでは個人がプラスマイナス5ドルま誤差が許されるらしいのだが、彼は2度5ドル以上の誤差を出し、注意され、集中したら3セントしか誤差がなかったなんて喜んだりするところは誤差が出ないのが″当たり前″の日本からすると解せない。

しかし、マイケルの働くスタバではホームレスがトイレだけ利用しに来ても、店内に入ってきた人は皆大事なお客様としてもてなすのだそうだ。ヨーロッパのスタバも見習ったほうがいいね。パリのスタバなんて、鍵がかかってて、レシートを見せないと鍵を渡してくれなかったりする。


2014年06月20日(金) あの頃君を追いかけた

青春は恥と後悔と初恋で作られる―

というフレーズの台湾映画。監督の自伝的小説がベースになっているというだけあって青春の絵がリアルに描かれていた。あの時素直に謝っていれば、もっと頑張っていれば、あんなことしなければ。。。。と、人生で初めて直面する困難に手探りで挑んで成功したり失敗したり、青春の思い出は誰にとっても甘くてほろ苦いものなのでしょう。同じ経験はしてなくても、あの頃胸を満たしていた感情が甦ってきて、映画の中にどっぷり入り込んでしまう。

ストーリーはありきたりだが、演出がとにかく良い。コメディタッチで飽きさせず、ゲラゲラと笑わせておいて、まさかの場面でワッと人間の感情の深いところを突き刺して泣かせる。落ちこぼれだった主人公のコートンは家では真っ裸で、なぜかお父さんも真っ裸。家族の夕飯の場面で、裸の父が真顔で裸の息子に説教する。

「いつまでたっても成績がどん底なのは女の子ばかり気になるからか?」

何食わぬ顔で答えるコートン。

「女の子には興味ないよ」

その瞬間父と母は息子はゲイなのかと疑い、食事をする手が完全に停止してしまったのだが、その手には母はソーセージを、父は春巻きを箸に挟んで持っていたりする(笑)。

あとは大学に進学したコートンが恋い焦がれたチーアイ(笑窪の愛らしいとにかく美人)の女子寮に電話する場面。チーアイのルームメイトが背後で脇の毛の処理をしているのだが、あり得ないというくらい脇毛が濃い。これも笑えた。

しかし終盤の式でコートンが新郎にわっと飛びかかってキスしたシーンは泣けた。追いかけても追いかけても手のひらをすり抜けていくようなチーアイとの関係に気を揉んだ日々に終止符を打ってひとまわり成長した瞬間だったのでしょう。誰といようと幸せになって欲しいと思えたらそれは本当に相手のことを好きな証拠でしょう。この映画の監督はきっととてもきれいな心の持主なのだろうと思った。

台湾の文化や風俗が垣間見えるのもとても興味深かった。ポルノは日本ものが人気で飯島愛は男子の救世主だ。その一方で男子に一番人気の女子の髪型はポニーテールという清純路線だったりする。これは日本と同じだ。しかし、これはわたしの経験からの独断だが、中国人というのは性に関しては日本よりよほどオープンで健康志向だと思われる。変ないやらしさを感じない。学費が盗まれた時、クラスのみんなが″クラスの人を疑うのはよくないことだ″と公安に鞄を投げつけたのも胸にぐさりと響いた。台湾の純真な若者の感情は、社会的秩序なんかよりも仲間との信頼に揺さぶられるのだろう。


2014年06月06日(金) おっさんとランチ

ランチの時間は貴重な読書の時間としてるのに、わざわざ前に座って話しかけてくる男性がいる。毎日は来ないけど週1くらいかな。どうもあちらとしては、いつもひとりでいるからさびしいだろうという気遣いのようなのだが、こちらとしては週1でも貴重な読書の時間を失うのが惜しい。週1くらいはソーシャルランチをするのが人として正しいのだろうかとも考えたが、その男性と本を比べると一方通行でも本のほうがずっと面白く、とても本から顔をあげて彼と喋る気にはなれない。仕事ではお世話になっているから邪険にはできず、挨拶くらいはするが、その後に言葉を発すると読書に戻るタイミングを逃す。″読書がしたいので″とはっきり言ったほうがお互い気持ちがいいのか、やはりソーシャルすべきなのかとなどと悶々と考えているうちに、やがてそれは彼の無神経さに対する苛立ちに変わった。彼のことは仕事は有能で早くに結婚して子供がふたりいるということくらいしか知らない。仕事にも家庭にも飽き飽きしているのはみえみえだ。だったら趣味の話のひとつでもしてくれればいいが、そんな話も聞いたことがない。少なくともわたしの目に映っているのは、一生懸命勉強して、良い学校を出て、良い企業に就職して、結婚して、子供が出来て。。。そこまでは面白い人だったに違いないが、そこら辺から歩みを止めてしまったただの″おっさん″だ(ホリエモン曰くおっさんの定義は思考停止していることらしい)。だいたい読んでる本の筆者だって彼くらいの年だったりするが、経験値や想像力は雲泥の差だ。人と人や人と物を天秤にかけてどちらがより面白いかなどとやって選び取っていくのは愚かなことなのか、もっと誰にでも心を開いて汎愛するべきなのかとも悩んだが、こういう思考停止したおっさんは相手では、優しさなど脚を開いただけのように取られるのが目に見えている。無視を決めこむのも彼にとって何か考えるきっかけになるかもしれないという結論に達した。

金曜日。またランチの時間にやってくる。ひょっとしたら夕方飲みに誘えるかもという魂胆がみえみえだ(何年も誘われ続けたが一度も行ったことはない)。一度決めたらもう迷うことなく、挨拶だけして毅然と本を読み続けた。


2014年06月01日(日) Wild berries hunting

旬のベリーハンティングへ出かけた。道中はなかなか険しく、肌は全て被服で覆って臨む。″森の先生″を先頭にブッシュを掻き分けながら川沿いをそぞろ歩く。大勢でわいわい進まなければ、叢や木の上に潜んだ蛇や産卵期の野鳥になめられて襲われそうだ。マルベリーの木は豊作。殆ど黒に近い色になるまでよく熟れた実は、ちょっと手で触れただけでポロリと落ちる。″先生″ほどの達人になると枝の下に傘を逆さまに広げて受け皿にし、バサバサと枝を揺すって熟れた実を落として収穫している。地面にはヘビイチゴもあったが、名前の由来のとおり蛇がイチゴの実を食べにくる小動物を目当てにそこら辺で見張っているのかもしれないと思うと怖気づいて摘めなかった。

歩いては収穫し、疲れると土手に座り込んでおやつを食べたりしながら数時間かけて摘んだベリーは、ジャムにしたら一瓶くらいの量にしかならかなった。しかし森の小動物のごとく、ほんの一瓶のジャムのために日がな森を練り歩く時間のなんとも愛しいことよ。″食べるため″の直接労働に鞭打った体に流れ込んでいく甘酸っぱいジャムの味は格別だ。見捨てられたような川の土手で、人の手を借りず、農薬もなく、強く自然に実をつけてそこに住む野生の動物を養っている逞しいベリーを体に入れたら、なんだか強くなれそうな気がした。


Michelina |MAIL