Leben雑記
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2006年04月23日(日) 皮肉にも…

 コミュニケーションで伝達されるのは、コミュニケーション可能性であるというのは良く知られた話だが、果たしてこれを現実に生きている人間がどれくらいいると言うのか。
 理解されたいと望み、理解しようと努める。あまりにも素朴なその姿勢は、皮肉にも、そう考えれば考えるほど達成されない。そのときその人が念頭に置いてしまうのは、コミュニケーションの形式にではなく、中身についてだから。相手のいうことを必死になって聞き、きちんとした答えを返そうと頭をフル回転させて考える。しかしそれでは、逆説的にコミュニケーションは成り立たない。

 幸福を、人と交わることの幸福を目指すからこその、他人との断絶。


2006年04月21日(金) 桜の季節だね……って、なにこれ!?

 中学生の頃に読んだ、あだち充の漫画『ラフ』で、 高校生のヒロインが好きな男と春の桜の下を歩く……というシーンがあった。 「あれ? 何でこの道通るんだよ? 遠回りだろ?」という男に「ま、いいではないか」と言いながら少し離れて歩くヒロイン。二人はただ、歩く。他愛もない会話と無言。
 高校生になれば自分にもこんな青春が待っているのだろうかと、淡い期待を抱いた。

                        ※



 実際の高校生活では、自分の根暗な性格と、自分を優秀と思い他人を見下す思考のせいで、それはそれは悲惨3年間を送った。友達もほとんどいなかったし、女には影でバカにされていた。

 二年間の浪人中、これは俺の今まででもっとも孤独な期間だったが、このときに気づいた。他人と本当の意味で交わる必要はないのだと。理解してもらう必要はなく、理解してあげる必要もない。自分の考え、感情を伝えなくてもいいんだと。なぜならコミュニケーションには、本質的に、相互完全理解の不可能性が潜んでいたのだから。
 このことに気づけたのは、本を読みまくっていたのもそうであるが、皮肉にも親との不仲、そして親同士の不仲のためだった。俺に最も近い人間のことが分からず、分かってもらえないのなら、一体誰とその理想的関係にたどり着けるというのか。

 やっと、大学生になることができ、上に書いたことをキモに銘じていた俺は、コミュニケーションに「あるべき姿」を投影・期待をしていない分、コミュニケーションそれ自体を体験することができるようになった。それは、上辺だけの関係だ、と高校までの俺なら吐き捨てていたものだ。
 しかし俺は、もはやそのようなコミュニケーションに絶望しなかった。それこそが本当の姿なのだと思えるようになっていたから。

                        ※


 大学2年になった春、クラスメートの女の子と、ふとした用事で満開の桜の下を歩いた。桜が綺麗だねと俺が言うと、彼女は、とてものんびりした口調で「そうだね、今が一番綺麗だね」と答えた。
 彼女と付き合ってたわけではないし、好きだったわけでもない。気の置けない仲の女友達だというのでもない。何の変哲もない日常会話だ。会話のないように意味はなく、相互理解がされた訳もない。外から見たら、会話は高校までと何の変わりもない。
 このとき、俺は単に、みんなから遅れながら――それも周回遅れだ――、ただ「普通」になっただけなのだ。やっと、みんなと同じになった。

 …でも、彼女の言うとおり、その日の桜は本当に綺麗だった。


2006年04月20日(木) 好みのタイプは? と訊ねることのおぞましさ

 エネルギーが向かう方向が変わるということ。
 ある経路に押し寄せたエネルギーが行き詰まり、より乗り越えるためのエネルギーが少なくて済む部分へと進路を変更して殺到する現象。このとき、エネルギーの性質そのものは変わらないのであろうか? 言い換えれば、性的エネルギーとフロイトが呼んだあの衝動は、代替行為に再配置されたときも、元の性質を幾分かは保持するのだろうか?
 あるいはまた、代替行為に再配置されたエネルギーは、以前の自分の配置を覚えているのだろうか? つまり、我々は自分自身の或る衝動が、抑圧されたほかの衝動の代替物であることに気づくのだろうか?

 防衛機制として語られるこうした現象ならともかく、精神分析過程で現れる様な転移性神経症は…、医師に対する転移は…? その転移は、神経症患者だけでなく、正常とされるような僕らにも、構造的に備わっているのでは?


2006年04月19日(水) ゴン太

 今日、説明会&一次試験があったのですが、見事にすっぽかしました。さすが俺。そんなに褒めないで! 照れるやん!
 そんな茶目っ気たっぷりの僕ですが、たぶんニート街道まっしぐらですね。ネコまっしぐら。そんな勢い。いや、俺は望んでないんけどね、もちろん。
 なぜすっぽかしたかというと、デートがありました嘘です寝てました。
 え? ダメ人間?
 そんなことないよ! こんなに優れた人格そうそうないよ! 俺が企業なら絶対採用しないけど!
 俺が面接監督だったらすぐ見抜くね、あらゆる新卒者の嘘を。
 あ、コイツは毎週のように遅刻する奴だなとか、毎日のように会社のパソコン使って2ちゃんするなとか、こんな女の子タイプだなぁとか、俺も早く彼女欲しいなぁとか、ちゃんと卒業できんのかなぁとか、考えるね。じゃなかった、見抜くね。なにをだ。
 今日もグダグダな感じでお開き。そんなお気楽な一日、ならぬ日記。

 そういえば笑点の円楽さん、変わっちゃったね。ヘンなやつ入ってるし。ラーメン食いながらテレビ見てびびった。ちなみにニボシダシの良い感じのしょうゆラーメンでした。なんて脈絡のなさ。


2006年04月04日(火) 内田樹…ウチダ・キ

 内田樹(ウチダ・タツル)はイイ。おもろいよ。
 『街場の現代思想』を読んだんだけど、最近めっきり本に触れなくなっていた身には良い気つけでした。
 フリーターってやっぱ優秀なんですね。労働者としては。内田がこの中で書いているところによると、フリーター批判は主に二つの源泉から来ていて、一つは忠誠心の高い低賃金労働者という性質に関して、左翼的革新を望む人にとっては都合が悪いから。もうひとつは、低賃金労働に甘んじる人が増えると経済そのものが回らなくなるから、というのは、フリーターは貧乏だからモノを買わない、という意味で。

 今の自分の状況が、主に就活からなっているもんだから、なんかこの本の内容はいちいち刺さってくるものがあった。択一的な選択を迫られている時点で、自身の舵取りにすでに失敗した証なのだ、といったこととか。そういう話が、結構仕事とか会社とかの具体例で書かれてる。痛いよ、ママン。
 社会派の学者というか、こういう、メディアとかの外部に発信するタイプのセンセというのは、結構いいものだと思うよ。うちの大学にも、人文学部にそういうタイプの人がいるけれど、パスマガにロックの連載をしていたりする。やっぱ授業はそれなりに面白い。俺はまったく人文学部と関係ないんだけれども。

 想像力の欠如といっていたことが印象的だが、それと、仕事や勉強に覇気のない若者…というのは、おそらく内田が考えているであろう通り、つながっているんだろうね。この本自体は同じ生で扱われていたりしなかったけど、こうして一つの本に二つの話題が乗っているあたり、同じ論法でゆっているわけで。
 ま、とにかく、自分の未来について考えることをしないから、覇気が出てこない、ということは、自分にとっても当てはまることだと思った。
 痛いよ、ママン。


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