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「優雅な生活が最高の復讐である」、カルヴィン・トムキンズ。これ以上のタイトルはない。何も付け加えることがない。
あきらめることはつらいことでも難しいことでもない。ただ、いつか遠い日に、あきらめたということを思い出すときに、胸が焼け焦げて引き攣れるだけ。それでもいいなら。そんな覚悟ができているなら。
わたしは、わたしたちは、とてもとてもたくさんの物語を必要としている。それがどんなに安っぽくても薄っぺらでも、その場しのぎの退屈しのぎであっても、次の朝目が覚めたらもう思い出せないような移ろいやすいものであっても、どうか助けて、どうか、どうか、背中にはりついて離れないわたしの、わたしたちの物語を忘れさせて、と、わたしは、わたしたちは、たくさんの物語に次から次にすがりつく。
空洞をかかえているときに、緊張の糸を緩めると、あっという間にぬるい水が満ちてきて、内側から溺れる羽目に陥りますよ。だからあなたは、いつでも水門の鍵を注意深く握っていなさい。水量を調整し、うまく泳ぎなさい、ぬるい水を手懐けなさい。ぬるい水を拒絶することなど、もう決して誰にもできないのですから。
PCを前にしているよりも、右手にペンを持ち、白い紙に向かっているほうが、ずっと効率が良い。モレスキンの方眼ノートを買った。ゆっくりと次の文字を探しながら、丁寧に、ひとつひとつのマス目を文字で埋めていく作業がとても新鮮で心地よい。パズルみたいで。
「自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間の半分は、考えないこと」 (スーザン・ソンタグ 『良心の領界』 NTT出版)
若い読者へ、ということで巻頭に置かれていたアドバイスより。ソンタグ自身が自分自身に言い聞かせていることでもあるという。任意の瞬間にいったい何を考えているかについて少し意識的になってみれば、主に自分のことについてしか考えていないことに気づいて愕然とする。自分以外の誰かのことを自分のためでなく考えることはとても難しい。いったい何を考えればいいのか、まずそれを考える必要がある。
図書館で、悲しい悲しい物語を探したが、今日はうまく巡り会えなかった。悲惨というのではなく、もちろん扇情的でもなく、控えめで、静かで、明け方降る小雨のような、悲しい悲しい物語がないものだろうか。
いやあ、美談だね、みんなで手を合わせ声を合わせ心を合わせてひとつになって。なんてわたしが書くと嫌みっぽく響くかもしれないけど、案外そういうことは嫌いではないんだよ、とても、愛おしいな、と思う。
あなたは子どもの手を引いて、わたしは老婆の手を引いて。 それが必然であるのなら。
雨の日曜日。水の底に沈んだ日曜日。溜め息が泡になって漏れていくほかは、とても静かで、何の動きもない。
夜空に突き刺さるように聳え立つ巨大なビルが規則的に明滅させるフラッシュを見上げていてふと、この街に見捨てられたような気がした。この街は既にきらびやかで騒々しいだけの退屈な遊園地だった。
知らないよりは知っているほうが良い、という原則に従っているが、本当に知らなければならないことをわたしはちっとも知らない。
あぶく銭をつかむために爪が黒く汚れていく。どれだけ手を洗っても、耳の奥にこびりつく騒音をかきけすことまではできない、網膜に焼き付いた強烈な光をぬぐいさることまではできない。精神をじかに汚染されるというのは、こういうことなのだ、たぶん。
同じ音楽ばかり聴くのは少々病的な状態なのかもしれない。一つの旋律、一つのフレーズがぴったり自分自身によりそっているかのごとくに思えてきて、楽曲的にさほど優れたものでないことが分かっていても、逆にそのチープさが象徴性を高め、気づいたら何度も何度もリピートをしている。こうして次第に乗っ取られていき、やがてわたし自身がほんとうにその音楽に似たものになっていく。
「キリスト教の本質的真理の一つは、不完全さの少ない状態にむかっての進歩が、不完全さのより少ない状態への欲求によっては達成されないという教えである。完全さへの欲求のみが、魂のなかでそれを穢す悪の部分を滅ぼす力を有する。」 (シモーヌ・ヴェーユ 『根をもつこと』 春秋社)
完全でないものは退けてかまわない、ということではない。われわれに完全さは赦されていない。不可能であると知りつつ、不可能であればこそ、というヴェイユ特有の逆説。
ヒトは言葉を操る生き物であるはずなのに、肩がふれあうほど、息がかかるほど近くにいても、大部分は沈黙していて、ヒトでないものとのやりとりに魂を奪われているという不思議。
この世界にたったひとりだけでも決して不幸になってほしくない人がいる、と思えることはきっと幸福なことである。ねえ、母さん。
シモーヌ、あなたはどうしてそんなに信じることができるのか。あなたの思考の核にある人間本性への揺るぎない信頼はいったい何を根拠にしているのか。ほんとうは決して信じていなかったのではないか、まさか此の世で、かなうことがあろうとは。
痛ましい希望を綴る勇気がわたしにはない。
「根こぎにされたものは他を根こぎにする。根をおろしているものは、他を根こぎにすることはない。」 (シモーヌ・ヴェーユ 『根をもつこと』 春秋社)
土壌が腐っているので根をおろすことができない。わたしは眠りたかったのではなかっただろうか。ゆっくりと、根をはって。そうすることで誰かを、守ることができたはずではなかっただろうか。
何か書いているようで何も書いていない、という状態を維持するよう心がけること。何も起こらない日々のための、レトリックとして。
それが必要かどうかは、受け取り手の側で判断すればいいことなのだから、こちらの側であれこれと気をもむ必要はない。そんな余計な気遣いは、躓きの石にしかならない。
日々のぬかるみ。何もする気がないらしいのはいったい何人目のわたしなのか。あなたはもうダメね、交代よ、と言われて出てくる別のわたしもおそらく何もしないだろう。そうはいっても何もしないでいることは簡単なことではない、超低空飛行はなかなか技術の要るものなのだから、と口先だけは相変わらず達者な様子。
「あんたがみんなと同じなんだから、あたしもみんなと同じ」と女はこたえる。女のかすかな笑いがはるかな叫びのように響く。「だからさ、あんたはあたしに助けられるがいい」 (ミヒャエル・エンデ 『鏡のなかの鏡』 岩波書店)
そう、ほんとうは、みんな同じ。いともたやすく。
「昔からはじまってるんです」とジンはこたえる。「希望を失ったときにはいつも悪がはじまるんです」。 (ミヒャエル・エンデ 『鏡のなかの鏡』 岩波書店)
ただ信じること。いつの間にかカーテンの向こうで夜が明けているように、見知らぬところで何かが動き出していることを、ただ信じること。
今日は昨日より悪い。明日は今日よりさらに悪いだろう。それが分かっているのに、どうしてだか、半年後には、1年後には、今より良くなっているだろう、というまるで根拠のない確信が、希望と呼ばれる。
忘れないことが最大の罪である、と以前書いたように思うが、忘れることは罪であり、忘れないことは罰であるのだった。
無限の無限倍は極点で反転して虚無へ返る。虚しい言葉が無限に反響する、死霊の世界。ここも同じか。
「文学というものは、しばしば死んでいるように見えても、思いがけない起爆力を持って生きかえる、永い時をかけた、人類の習慣なのです。」
引き続き、1991年に東京で行われた大江健三郎の「小説の知恵」と題された講演より。美しく力強い断言である。けれども、しばしばどころかほとんど死んでいるように見える、ほこり臭い文学という習慣は、人類がたくさんの新しい習慣を身につけて、スタイルも在りようも日々めまぐるしく変化していくその過程のなかで、放棄されようとしているように感じる。読むこと/書くことは、視ることや聴くことよりも間接的で退屈で、そうして本質的に孤独な作業だから。
何事にも用だたぬ無益な悪癖、といったら自虐的にすぎるだろうか。
大江健三郎が『あいまいな日本の私』、『人生の習慣』などで引いてきているところのフラナリー・オコナー、habit of being、について。
「芸術は、芸術家の習慣なのであって、習慣は、人格全体に深い根を下したものであるはずである。」
あまり明確な概念ではないが、常日頃からなんとなく感じていることを言葉にするとぴったりこのhabit of beingという言葉があてはまるだろう、という直感を得た。作品に限らず立ち振る舞いや物言いにおのずと滲み出る全人格的なもの、雰囲気や個性といった言葉で把捉されがちな「特性」、表面的な生き方をどのように変えようと容易には変更されない生の傾向、生き方の、モード。
おのずと滲み出るものを小手先で操作することなどできない。
どこにも誰にも何にも属していないという無限の解放感、または疎外感のただ中で、昨日と今日の区別も今日と明日の区別もなくし、現実と妄想の区別も他人と自分の区別も次第に曖昧になっていき、わたしはどんどん稀薄になっていく。このまま溶けてなくなってしまうことが一番の望みなのかもしれない。
書かない日々の退屈さをもてあましたので、読みたいなら好きなだけ読めば良いと思うことにして、再開することにする。どうせたいしたことを書いているわけではない。
わたしの部屋はあまりに寒いのだとおまえが言った。寒い、ひもじい、死にたい、の順番に物事は悪くなっていくのだ、と関西ローカルの漫画を引き合いに出して言うおまえの口調は笑っていたが、目は奇妙なほど真剣で、わたしは「ひもじくないから」と答えてその話を即シャットアウトした。わたしが一言「死にたい」と言えば彼女はすぐさま駆けつけてわたしを殺すのだと言う。見上げた自己犠牲だがおまえなんかに殺されてたまるか。
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