月に舞う桜
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| 2019年01月26日(土) |
2016年7月26日から、2年半 |
相模原市の「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件から2年半。 今日(1月26日)は、19名の月命日です。
私たちは、死者のために何もできない。 名前を呼ぶことも思い出すことも祈ることも花を手向けることも、天国を想像することも、すべては、結局は生きている私たちのためだ。
死なせてしまったこと、事件を防げなかったことの取り返しのつかなさ。 それを忘れないために、私は、死者のために何かができるなどとは思わないようにしている。 いまさら死者のために何かをだなんて、生きている者の甘えだ。 死者のためにできることなんて、何一つない。 私たちは、いま生きている者のため、これから生まれてくる誰かのためにしか、何かを為すことができない。 いま生きている者とこれから生まれてくる誰かのために、何かを為すこと。それが、死者のために何もできない生き残った私たちの、せめてもの責任だと思う。
私たちは、社会のいたるところに溢れているヘイトと闘わなければならない。 植松聖的な思考と闘わなければならない。 そして、私(たち)は、ヘイトに対する己の中の憎悪とも闘わなければならない。
名も知らぬ、けれどもたしかにそれぞれの人生を生きた19名の、冥福を祈ります。
◆相模原殺傷、2年半で追悼 やまゆり園、施設再建「頑張る」 https://this.kiji.is/461717132381996129
| 2019年01月25日(金) |
己の死について考える |
自分はどんなふうに死ぬんだろう、どんな場所で死ぬんだろうと、ときどき考える。 死ぬこと自体はそれほど怖くないけれど、死にゆく過程で苦しむのが嫌だ。 電灯のスイッチをパチンとOFFにするように死ねたらいいのに。
信頼している(いた)友人や、テレビやネットで「この人の姿勢とか考え方とか言葉とか、好きだな」と感銘を受けていた人が、ある物事に関してものすごく差別的で排他的なことをものすごく無自覚に言っているのを見聞きすると、ものすごくがっかりする。
そして、テレビやネットの向こうの人なら「信用できない枠」に移動させれば済むけれど、それがリアル知り合いだった場合、差別的で排他的な言葉が私に向けられたものではなくても、ショックを受けるし傷つく。
差別というのは悪人が悪意を持ってするものではなく、むしろ善意に潜む差別のほうがはるかに多い、ということは重々わかっているけれど、あっけらかんと吐き出されるその差別的な言葉がたとえ私とは別の属性に向けられたものだとしても、「この人、心の中では私のこともどう思ってるか分かったもんじゃないな」と感じて、精神的に距離を置く。
あっけらかんとした差別(無)意識や排他感情を隠し持っている善人は、おそらくいたるところに――お店にも電車の中にもライブ会場にも――いて、油断ならない社会だ。
自分をフェミニストだと思っていて、フェミニストっぽいことを言っているつもりの人はたくさんいるけれど、トランスジェンダーの権利擁護や障害者の性の問題について何か言わせたら、馬脚を現すことも多い。 労働問題や在日外国人へのヘイトの問題では高い人権意識を持っているのに、性犯罪の話になると女性蔑視の発言をする人だって多い。
すべての人の権利擁護を目指しているのか、自分と異なる属性の人に対しては実は差別的で排他的なのかのリトマス紙は、あちこちに散らばっている。
| 2019年01月12日(土) |
それでも何かを言えるとすれば |
私が考える程度のことは既に誰かが言っていて、いったいこの私に何が言えるだろう、何を言うべきなんだろうと、いつも自問する。 でも、たとえ他の誰かが既に言い尽くしていても、私の言葉で言うべきこと、言っていいこと、言う価値のあることはきっとある。 そう思いたい。
| 2019年01月11日(金) |
生きていくうえで大切にしたいこと。 |
私の生きるうえでの指針。
�ー�分の権利を主張したり権利擁護を求めたりするときに、他の誰かを排除するようなやり方を用いない
�△△詭未任魯泪ぅ離螢謄�だが、別の面でマジョリティ(特権者)でもある自覚を持つ (日本における日本人、異性愛者、シスジェンダー、大卒、経済的に困ってない、脳性まひ以外の意味では健常者etc.)
| 2019年01月10日(木) |
中華街にて、義務教育とか子供の格差とかを考える。 |
先日、数年ぶりに中華街へ行った。 感動するほどおいしいわけではないけれども、複数の料理を少しずつ食べられるのが、食べ放題の良いところ!
就学前の子供がいる友達から、ランドセルがものすごく高いという話を聞いて、義務教育(の無償)って何なのだろうかと考えてしまった。 授業料がタダでも、子ども一人を小学校、中学校に通わせるのにお金がかかりすぎやしないか? ランドセルだけじゃなく、算数セットやら習字セットやら絵の具セットやら制服やら、いろいろと。 見直すべき風習や社会システムはいろいろあって、例えばランドセルもそのうちの一つではないかと思う。 経済的合理性や子どもの負担減の意味でも、「小学生はランドセルが当たり前」はもうやめたらいいのに。
多くの場合、「これじゃなきゃダメ」というのは基本的におかしい(合理的な説明がつかない)のだけれど、「これじゃなきゃダメ」が長く続いてきた社会で急に「何でもいいですよ」と言うだけでは、なかなか「これじゃなきゃ」は解消されない。 かと言って、別のものを推奨すると、今度はそればかりになって結局同じことの繰り返しだったり。 同質性を求めて一つのものにわーっと群がる傾向や同調圧力は、いろんな場面で大きな弊害を生み出していると思うのよね。
それから、友達の「子どもと○○に行った」という話から、子どもを遊びにつれて行くのもお金がかかるよねえとしみじみ思い、この記事↓を思い出した。
●「大学生を見たことがない」子どもたち…日本が抱える貧困問題 https://media.moneyforward.com/articles/2291
貧困家庭の子どもは、教育にお金をかけてもらえないだけでなく、楽しいと感じる体験や文化的体験、他者とのつながりを感じられる体験に乏しく、孤立感を深めやすいし、いろいろなことを諦めてしまう。 衣食住や教育が最低限保障されるべきなのはもちろん、「楽しい」と思える体験も、生きていくうえですごく大事なんだなあ。 だから、友達から「子どもと○○に行った」(←遊び)という話を聞くと、良かったねえと嬉しくなる。
記事の続編↓に「貧困家庭を圧迫する"学校指定"」という話も出てきて、「ああ、ランドセルで感じたことだわ」となった。
●「低所得・低学力の子どもは怠け者」のウソ https://media.moneyforward.com/articles/2305
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