月に舞う桜

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2018年12月31日(月) 2018年のまとめ

今年中に書いておきたいことがいっぱいあったけど、もう書いてる時間がないので来年に回すとして、今年のまとめを。

◆今年一年、全体的に
なんとなーく調子が悪かった一年。
寝込むほど具合が悪いわけではなく、おおむね元気だったけれど、ゆるく不調というか、体のあちこちにガタがきているというか。
あと、いろんなことがあったような、なかったような気がするけど、数年前の出来事のように記憶の彼方へ飛んでいてクリアに思い出せないこと多し。

◆今年の抱負の結果
ここにも書いたかどうか忘れたけれど、Facebookにはお正月に「今年の抱負は土屋太鳳とディーン・フジオカの顔を覚えること」と書いた。まあ、おおむね達成……かな。
来年は、竹内涼真と、竹内涼真じゃない人の区別を付けたい!

◆今年一番の収穫
熊谷晋一郎先生の講演会に行けたこと

◆今年一番尊敬した人
法政大学の上西充子教授

→裁量労働制に関する安倍首相の国会答弁で使われた厚労省データが不適切であることを指摘し、その後、政府の国会答弁の問題点を街角で可視化・解説する「国会パブリックビューイング」という活動を始めた。

◆今年の「初めて」
・大人向けの講演
・Toshlとツーショット撮影

◆今年読んで良かった本(一冊に絞れないので、三冊)
・山崎雅弘『[増補版]戦前回帰 「大日本病」の再発』(朝日新聞出版、2018年)
→読むなら2015年版ではなく、今年、文庫で出た増補版がおすすめ

・綾屋紗月、熊谷晋一郎『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく』(NHK出版、2010年)

・ハーバービジネスオンライン編集部『枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」』(扶桑社、2018年)

◆今年観て一番良かった映画
『大統領の執事の涙』(アメリカ、2014年)

◆今年のToshlとの思い出
・5月:DS昼の部、夜の部
・6月:Toshlove大感謝祭(ファンクラブミーティング)
・8月:ライブ2days
・10月:山崎育三郎さんコンサート(ゲスト出演)
・11月:カバーアルバム『IM A SINGER』リリースイベント
・オールナイトニッポンでメールが読まれた
・初めてのツーショット写真撮影
・握手3回
・ツイッターをフォローされた
・ニコニコのToshlチャンネルでメールが読まれた

◆今年の心残り
小説をあまり読めなかった。
以前は小説一辺倒で、ノンフィクションはほとんど読まなかったのに、今年はほぼノンフィクションばかり。
小説は『レ・ミゼラブル』くらいしか、はっきりした記憶がない。去年はポアロを読み漁ったのになあ。
来年はもう少し小説を読みたいけど、「読みたい本リスト」に並んでいるのはノンフィクションのオンパレード……。

◆今年最後の日に……
大晦日なのでパソコンの中身を整理していたら、パスワードが全く思い出せないファイルを発見。
しかも、内容を推測できないようなファイル名……。
たぶん、たいした内容ではないと思うんだけど、しかし、捨ててもいいものか僅かなためらいが。
いや、でも、どうせ開くことができないんだしなあ。

というわけで、今年もお世話になりました。
皆様、良いお年をお迎えください。


2018年12月28日(金) 障害児者の性暴力被害リスク

刑法の性犯罪処罰規定に、「被害者が障害児者であることに乗じた性犯罪」の創設などを盛り込むことを求める署名キャンペーンに賛同しました。

★署名キャンペーン「なぜ障がい者が性暴力を経験しているの?〜刑法に『性犯罪被害者としての障がい者』の概念を盛り込みたい〜」
http://chng.it/dWpzgvdk

どの障害種別でも、それぞれに性暴力被害リスクが高い要因があると思う。
例えば、身体接触を伴う介助が必要な障害者の場合、そもそもプライベートゾーンやパーソナルスペースが曖昧になりやすいうえに、そういった領域への侵入を受け入れなければ生きることさえままならない。
また、「恐怖で抵抗できない」といった心理的圧迫の他に、身体障害上の理由から「その場を離れる」「相手を押しのける」などの物理的な抵抗や防衛が難しいことが多い。

私自身、そういった障害者ゆえの弱みを利用されて暴力を受けたことがある。
自分の中で暴力と暴力でないものの線引きが難しい……いや、むしろ、「これは暴力ではない」と無理やり線を引いてきた経験もある。プライベートゾーンやパーソナルスペースへの侵入を受け入れなければ生きていけない以上、健常者であれば当然に拒否するであろうことも「不快だけど仕方ない」と自分に思い込ませてきた経験。

厚労省が、2017年度の障害者に対する養護者・施設従事者・使用者からの虐待状況調査結果を公表している。
https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000189859_00001.html

昨年、監護者わいせつ罪と監護者性交等罪が新設されたが、どちらも被害者を18歳未満に限定しているため、十分ではない。障害特性を鑑みるに、18歳以上でも障害者の性暴力被害リスクが下がるわけではないだろう。

(また、強制性交等罪が基本的に暴行または脅迫を要件としていることや、被害者がどの程度抵抗したかが問題視される現状、そもそも日本の刑法は性犯罪の加害性・暴力性をかなり低く見ている。)

「明らかに暴力である」とは言えないような事象でも、自分の尊厳が傷つけられ、存在が揺らぐ感覚に陥り、「なぜ自分はああいう目に遭い、それを我慢しなければならなかったのだろう」と考え続けることになる。
ましてや明らかな性暴力被害に遭えば、それはなおさらで、加えて憎悪が後々までずっと残ることになる(性的なものに限らず、暴力全般に言えることだろうが)。

署名キャンペーン発起人の進捗報告に

「『性的虐待』として報告されている事案の中には、本来刑法性犯罪で、強制性交等罪もしくは強制わいせつ罪に該当するものもあります。しかし『障がいがあることにより裁判が困難』といった理由から、そのほとんどは事件化されず、対応は『施設・従事者への指導』等にとどまっています。」

とある。
障害に起因する「防衛・抵抗の困難さ」を利用されて性犯罪に遭い、さらに、被害者の障害を理由に加害者が罰せられない現実。
これは、司法が障害者を見捨てているということだし、被害者が「加害者を罰すると、自分が生きていけなくなる」と思い込んでしまうような社会的構造の問題もあるかもしれない。

すべての障害者が尊厳を守られ、心身を脅かされずに生きていけるようになるためには、福祉や教育など様々な分野の取り組みが必須だが、司法の力も不可欠だ。
性犯罪が厳罰化されるとともに、障害者の性暴力被害リスクが社会的に認知されることを望む。

★「障がい児者への性暴力に関するアドボカシー事業」の報告書(発達障害児者へのアンケート結果や当事者インタビューなど)はこちら↓
http://disabled.shiawasenamida.org/shiawasenamida_a4.pdf

※報告書の表紙に「障がい児者への性暴力が認められるへ」とあるが、ここでの「認められる」とは、もちろん「許可」の意味ではなく「認知・認識」の意味。大変意義ある報告書なのに、言葉のチョイスがかなり残念。
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この機会に、ついでに書いておく。

健常者であれ障害者であれ、性暴力の被害者側が責められたり「落ち度」を問題視されたりする理由は微塵もない。
どんな服装をしていてようが、食事や飲酒をともにしようが、加害者の部屋へ行こうが、道端に裸で寝転んでいようが、加害者が免責されたり「性暴力に遭っても仕方ない」などと言われたりする筋合いはない。
(道端に裸で寝転ぶのは公然わいせつ罪なので罰せられる理由にはなるが、性的に加害されても仕方ない理由にはならない。)

よく「加害者が悪いのは当然だけど」と前置きしたあとに、被害者のあれこれをあげつらう人がいるが、私はそういう人を性暴力に加担する人間とみなします。
もしも加害者個人だけに責任を問うべきではないとしたら、語られるべきは権利教育や性教育の不十分さや、社会のいたるところにある権力・支配構造の問題などであって、断じて被害者がどうのこうのという話ではない。


2018年12月26日(水) 人を救うカバーメイク

★「美しい、はみんなに与えられている」――化粧の力で心を癒やす、カバーメイクの60年(Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/feature/1175?fbclid=IwAR1tAeREpIOQZo_P2yoOKlJacAKy4kpoMSEoo4PIb0Kl4VHQ9XzJ9z_kbgI

資生堂のカバーメイクの取り組みに関する記事↑
カバーメイクとは、病気や怪我の痕(腫れや痣、縫合痕など)を隠すメイクのこと。
メイクは外見を美しくするだけでなく、内面を救ってもくれる。
こういう、人に生きる力や希望をもたらす仕事は本当に尊い。

もちろん、カバーメイクは必要ない、痕をさらけ出して大丈夫と思える人は、それでいい。

隠すことで生きやすくなる人も、隠さなくて良いと思うことで生きやすくなる人も、いるでしょう。
みんながそれぞれのやり方でハッピーになれると良くて、そのためには「それぞれのやり方」が選択できる社会であることが大事。

カバーメイクの商品の販売個数はとても少ないが、この商品に関しては利益を出さなくて良いという考えだそう。
他の商品で利益出して、今後もカバーメイク商品が維持できるといいなあ。
資生堂の化粧品は結構使っているので、自己満足ながら、ちょっと貢献している思い。


2018年12月24日(月) クリスマスの奇跡

世田谷にある上馬キリスト教会のツイッターが、教会のわりにゆるいやら面白いやらで、ときどき私のTLにも流れてきていた。
そんな上馬教会アカウントの「中の人」を取材した記事↓

★教会が言っちゃう?「クリスマスにイチャイチャすんなよ」自虐の狙い(withnews)
https://withnews.jp/article/f0181224002qq000000000000000W0bc10701qq000018541A?fbclid=IwAR3M_Gnj4Zr-D8UQ7kVfIC9IQ-Q6XeEfnMYlGo6MttIAv5v0ZtmeTijA1PQ

この記事を何気なく読んでいたら、二人いる「中の人」のうち、まじめ担当がなんと大学時代のゼミ仲間だったという衝撃!
思えば、大学1年で同じクラスになり(1年次だけクラスというものがあり、第二外国語で分けられていた)、2年から同じ専攻に所属し、さらに3、4年で同じゼミに所属し、結局4年間ずっと一緒だったわ。

たぶん卒業以来会ってないか、それに近いくらいのご無沙汰だと思うし全然連絡も取っていなかったんだけど、こうやって広いネットの世界で名前を見かけて(ネット上で)再会できるとか、世間は案外狭いなー。すごいなー。
こうやって活躍して名前が出る人の友人知人って、こんな気持ちなのかあ。

ゼミと言えば思い出したんだけど、今年プチショックだったことの一つは、何かのきっかけで出身大学のサイトを見たら、ゼミの先生の名前が既になかったこと。
尊敬できる先生で、卒業後も数年は年賀状やり取りさせていただいてたけど、それも自然になくなり、それでも、先生の最後の授業は聴講に行きたいなと思っていた。
でも、名前がないってことは、たぶん退官されたんだな。

何か、そんなことも思い出した、今日の記事でした。

というわけで、みなさん、Merry Christmas!!

ちなみに、上馬キリスト教会の公式ツイッターは、こちらです↓
https://twitter.com/kamiumach

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12/26追記

ネット上で再会できた友人(教会アカウントの中の人)によれば、ゼミの先生は名誉教授になられたそうな。


2018年12月23日(日) この幸せな気分に何と名前をつけようか。

今日は新しくオープンした羽田のLDH kitchenでToshlのクリスマス・ラグジュアリーコンサートがあったけど、行こうかどうしようか迷ってる間にチケットが売り切れて行けなかった。
でも、コンサートに行けなかったおかげで、障害者団体系の某セミナー(セミナーと言っても怪しいやつじゃない)に行くことができたので、塞翁が馬? 災い転じて福となす? 禍福はあざなえるナントカ? まあ、そんな感じでした。

Toshlのコンサートはニコニコで生配信されることになっていて、セミナーからの帰りの電車で配信開始の通知メールを見た。
コンサートには行けなかったし、ニコニコもリアルタイムでは見れないけれど、これからToshlとファンとの素敵なひとときが始まるんだなあ、真新しいきらびやかな会場で歌うんだなあと思ったら、メールを見ただけで何か分かんないけどものすごく幸せな気持ちになった。

セミナー自体は結構良かったけど、孤独を感じる部分もあって、だからこそ、幸せな空間へ馳せる想いというか、感度が上がっていたのだろうと思う。
自分がいられなかった場所の幸福を想って孤独を深めるのではなく、羨むでもなく、自分がそこにいられなくても、大切な人たちが幸福であろうことを思ったら自分の孤独も少し癒えるような心持ちになれた。

心がそういう動き方をできた今日は、いい日だったのだと思う。


2018年12月11日(火) エレベーター事件

そう言えば、11月にToshlのアルバムリリースイベントに行ったとき、ある事件が起きた。

東池袋駅の改札から地上に上がるエレベーターに乗ったときのこと。
「開くボタン」の下にあるのが「閉まるボタン」だと思い込んで押したら、何と「開放ボタン」(扉が開きっ放しになる)だった。
どうすることもできず、緊急ボタンを押す。

係員「どうしました?」

私「開放ボタンを押してしまったんですが、どうすればいいですか?」

係員「閉まるボタンを押してください」

私「あの、私、車椅子ユーザーで、ひとりで、車椅子用操作パネルに閉まるボタンがないんですが……」

係員さんが来て閉まるボタンを押してくれて、無事に解決。

昔は、エレベーター内の車椅子用操作パネルに閉まるボタンがなかった。
でも、ここ数年にできたエレベーターは車椅子用のパネルにもちゃんと閉まるボタンが付いているので、すっかり慣れてしまい、油断した。しかも、開放ボタンなんて今も昔もめったに見ないし。
いや、たしかに、ちゃんと見たら「開放」って書いてあったので確認しなかった私が悪いんだけども、「開」の下に同じ大きさ・形のボタンがあったら「閉」だと思い込むよ……。

結論。
古いエレベーターの車椅子用の操作パネルにも「閉まるボタン」を付けてください。
車椅子ユーザーだって、閉めたいんだよー!


2018年12月08日(土) 強烈な共感と救いの一冊

少し前に、タイトルに惹かれて立命館大学教授・立岩真也先生(社会学)の『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)を読んだ。

自己決定権を主張する立場の者が安楽死を否定する論理に共感する一方で、私自身は、自己決定を主張すると同時に安楽死の合法化を望む気持ちは変わらない。
ただ、私個人が安楽死の合法化を望むことと、今の日本社会で安楽死が合法化されても良いかどうかは別問題であるという認識が強まった。

私の頭では理解が及ばなかった箇所もあるが、強烈な共感を覚える一文が突然ひょいっと出てきたりする。閃光のように、あるいは救いのように。

例えば

「また例えば「自立の助長」が語られる。こんなことについてさえ間違える人がいるのだが、これは本人に委ねているのではなくて、生のあり方を特定の方向に導こうとするものである。(中略)
(投稿者註:経済的な自立や自己管理が)自己防衛の手段として必要であることと、それを存在意義として語ること、人間が人間であることの資格であるとすることは異なる。しかし、この社会にあってそれは第一のものに据えられてしまう。(中略)
分配、社会的支出を引き出そうとする側にとっても、その支出が意義のあることを言おうとしてしまう。「よいこと」が行われると言わないと、なかなか予算をとってくることはできない。」(p308)

「その時々の善意によってしか発動しない贈与を受けることによって暮さなければならないこと、その人の善意を発動させ、その人の善意に応答しながら暮らさなければならないことは――与える側、少なくとも受け取る側にいない人たちは時にそのことに気が付かないのだが――愉快なことではない。」(p326)

特に、引用した326ページの一文は、まさにその通りである。
障害当事者として様々な介助や配慮や支援を必要とするとき、私はそれらを誰かの善意として享受しなければならないのだろうか。介助や配慮や支援を必要とする者は、いつでも他人の善意に応答しなければならないのだろうか。
そもそも、社会の中で一人一人の権利を守る何がしかが行われるとき、それを普通、「善意」とは呼ばないのではないか。
人間の権利を守れるのは、個々の善意ではなく社会のシステムであり構造である。

これは東大准教授・熊谷晋一郎先生の講演を聴いたときにも感じたことだけれど、学問の世界で既に語られていることや乗り越えられていることが一般社会に普及するまでには、随分と時間がかかる。
この学問と一般社会とのタイムラグ、落差を埋めるために、学者ではない私は何ができるだろうと考える。

あまり学問の世界を神聖視しすぎるのも良くないかもしれないが、学問というのは究極のところ、救いであると思っている。
立岩先生の『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』も、以前聴いた熊谷先生の講演も、私にとっては知識や思考の深まり以上に、救いだった。
一般社会であまり語られないこと、省みられないこと、見ないふりをされていること、けれども真実であり切実なことを、理論的に言ったり書いたりしてもらえた点で。


★立岩真也『弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術』(青土社、2000年)
★立岩先生のサイト
★立岩先生のFacebook
★立岩先生のツイッター


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© 2005 Sakurai Yuzuki