暴かれた真光日本語版
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2005年09月30日(金) 考古学と真光

考古学と真光

30●考古学と真光 目次              
29●崇教真光と考古学 その1(教義1) 
28●崇教真光と考古学 その2(教義2) 
27●崇教真光と考古学 その3(批判1)
26●崇教真光と考古学 その4(批判2)
25●縄文時代の謎
24●紀行紀 戸来を尋ねて 聖地キリスト村


2005年09月29日(木) 崇教真光と考古学 その1(教義1)

崇教真光と考古学

真光全般(友乃會、文明教団、崇教、正法の會、etc)への苦情板
http://religion.log.thebbs.jp/1116855595.html

No.[548]-[557]9Hqd6qPk93氏の投稿を転載。
通し番号と「教義1、2」、「批判1、2」は当サイトへ纏めるにあたり日記作者が便宜上つけた。


崇教真光と考古学 その1(教義1)


[548]崇教真光と考古学 05/10/06 14:07 9Hqd6qPk93
岡田光玉師述み教え集(昭和41年)
[五月度月始祭ご教示要旨]
 考古学会もずい分以前とは変わってきて、この縄文土器のさらに前期に石器時代があって、それを新石器時代と名付けた。これはざっと六十万年前を新石器時代と名付けていますが、そういう太古時代のさらにもう一つ前に旧石器時代というのがあったことがわかってきた。・・・・
 世界の太陽信仰はずっと後期に属し、一万年以下の歴史しかもっていない。日本の太陽信仰は少なくとも六十万年前の旧石器時代にはじまっている。飛騨で旧石器時代のいろんなものを見せてもらってきましたが、あちらでは今でも到る所で、山に登って太陽を拝む習慣があります。
[七周年大祭ご教示要旨]
 しかし、最近の日本と外国の考古学者や人類学者や、民間の心あるかたがたによって、少なくとも日本には、六十万年から百万年以上の歴史があることが、ようやくハッキリしてきました。世界の学者も日本が最古の国であるといい出しています。

[2] 岡田光玉師述み教え集(昭和42年)
[立春大祭ご教示要旨]
 相沢氏の発掘されました標本によると、三十万年前の石器、二十万年前、十万年前の石器はざらにあります。

「真光」誌昭和47年12月号19-31頁
●北関東方面合同周年祭記念講演会ご教示要旨(昭和47年6月11日・桐生サンケイホールにて)
『迫る人類共滅期をいかにして超えるか』 聖凰(岡田光玉)師述
 …日本の太古史を調べていきますと、出雲の文明というのは、何千万年前に開拓されてしまっている。この文明がやがて朝鮮を通り、コンロンを通って、インドの文明にまで影響を及ばしていると私は見ている。今は古文書からその流れを感知せざるを得ない。
 そういう所であるだけに、一千万年や二千万年のものは急には出ないとしても、関東の岩宿のように、五万年〜十万年の石器が出ないはずがない。
 だから私は、別に考古学を研究していないけれども、歴史の上からいえは、必ず出ると断言できるので、ぜひ研究をつづけてやっていただきたい、といってきたのです。
 皆さんはもう新聞でご承知と思いますが、それをやっと三年前恩田氏が発見してくださった。「日本で最古の石器を発見した。巨石器ではないが、小石器では日本最古のものである」と新聞は紹介している。
 発見者の恩田氏に、さっそく合いに行きましたが、現在の学会に通すために、一応五十万年前のものとしてあるけれども、私はもっと古いものだと思うといわれるので、発掘された石器を見せてもらった。これは一昨年のことでありますが、もう今日では五十万年以前という判定が学会で出ています。
 昨年のお正月に伺って、「恩田さん、あなたはくたびれましたか?」と尋ねましたら「もう岡田さん、金がかかって私材じゃどうしようもないのです。もう私は止めようかと思っているんです」
 「冗談じゃないですよ。これからは日本の石器などの擡頭期にはいってくるので、ここまでくれば百万年前のものはすぐ出ますよ」といってお励ましして別れてきました。
 その時恩田さんは「岡田先生がそうおっしゃってくださるなら、私はもう少し元気を出してやりますよ」といわれた。
 「ぜひ第三期層の下のほうへ研究を進めてください」そういって帰って、一週聞か十日目に恩田さんから「百二十万年前の石器を発見しました」という嬉しい手紙をいただいた。
 現在百万年前の石器の研究をしておられます。
(広報部注・さらに九月五日ついに五十万年前と推定される人骨を発見された)


[549]崇教真光と考古学 05/10/06 14:08 9Hqd6qPk93
崇教・真光誌昭和54年6月号P32
 さて、ずっと時代をさかのぼって約六十万年前。この時代について救い主様は「石ブームと霊石、玉石」という御教示の中で次のように述べておられます。
 「(前略)……私の踏査研究では少なくとも六十万年前と思われる日本の石器文化は、巨石器文化時代にサカノポロウとしています。世界最古のものとして、世にクローズアップし出そうとしていることは、世界人類史にも日本皇統の宏遠さが浮彫りにされるのも遠くないでしょう。」

崇教・真光誌平成8年11月号 P10-
平成八年十月度 月始祭 教え主様御教示
『人類歴史の大曲がり角』
  秋涼の候となりましたが、陽光子神組み手は愈々正法神向き信仰を深めておられることと存じます。
 神の御経倫は日進月歩の勢いで進展しております。犖羞佻世紡┗した魂霊の昇華″が求められております。
 陽光子神組み手の更なる「想念転換」「意識の変革」がなされなくてはなりません。
 「天意の大転換」により、今までの常識や通念では解決出来ない事が次々と起きており
ます。歴史・宗教・科学・経済・政治の万般に亘りまして大変革が起きつつあります。
例えば、近年まで牢乎として動くことのない「歴史迷信」が崩れ出してまいりました。
戦後、この歴史迷信を切り崩す端緒となりましたのは、群馬県新田郡で発見されました
「岩宿遺跡」でありました。岩宿遺跡の発見は、わが国の旧石器文化に画期的な一ページを開きました。
 この旧石器を発見いたしましたのは、相沢忠洋先生でございました。
 それまで日本には、一万年以前の石器は存在しないとされておりました。ところが、相沢先生は納豆の行商をなさりながらコツコツと探究を続けられました。
ある日、切り通しの赤土の中から黒曜石で造られた見事な石器を発見したのであります。
茲に、日本の「旧石器時代」の存在が初めて明らかとなりましたわけでございます。
御祖師・救い主様は、群馬県に御巡光あそばされます度に、相沢先生と共に岩宿遺跡や夏井戸遺跡をお歩きになられました。
 その折、救い主様がステッキにて地面を指し示され、「この下から遺跡が出ますよ」と
おっしゃられますと、間もなくその場所より貴重な遺跡が発見されております。
 爾来、岩宿、夏井戸遺跡から次々と旧石器が発掘されております。
 救い主様が「まだまだ古い石器が出ますよ」とご予告なされました通り、夏井戸遺跡では三十万年前の石器が発掘されるようになりました。
 しかし、当時の学会は、これをなかなか認めようとはしませんでした。
 近年、宮城県座散乱木遺跡や馬場壇遺跡の発見により、旧石器時代は十万年以上に遡ることとなりました。これにより、それまで反対しておりました学者も、前期旧石器の存在を認めざるを得なくなってまいりました。
 そして平成六年には、同じく宮城県上高森遺跡において驚くべき発見がなされました。北京原人出現より十万年も早い、なんと六十万年前の地層から見事な旧石器が発見されたのであります。遺跡の表面には火で焼いた跡がありました。これは北京原人よりも古い時期に、日本原人が火を使用しておりましたことを意味しております。この事実が確認されれば、”最古の火の使用″を裏付ける大発見となります。火の使用は、人類の文化・文明を起こす基であります。火の使用によりまして、生活環境は飛躍的な向上を遂げるわけでございます。
 発見されました十五点の石器は、赤い碧玉製の石器を中心として、放射線状に並べられて出土いたしました。このことから、原人にはきれいに並べる美意識があり、豊かな精神性を持っておることが分かります。
 わが民族の遠つ世の祖先は、少なくとも六十万年前の太古の昔から神祀りを行ない、死者には副葬品を供える習慣がありましたことを示しております。
 茲に、「人類歴史」は大きく変更を迫られる天の時が到来いたしました。


[550]崇教真光と考古学 05/10/06 14:08 9Hqd6qPk93
 神歌に、
 あかときの 神の光のさしそめて
   人類歴史の大曲がり角来ぬ
 めざめかし 人類歴史は正法に
   書き換うる外なき魁の時
とございます。
 救い主様は、「新考古学の発掘と発展によって、日本列島から少なくとも百万年前の遺跡が発見されるであろう」とご予告あそばされていらっしやいます。即ち、六十万年はおろか、”百万年前に比の霊の元つ国に人類が既に存在していた“ということになります。
 今までの常識では考えも及ばざる出来事が、考古学という実証の世界から起きつつあります。
アメリカ、カリフォルニア大学のブラウン博士は、生化学の立場から、人間の細胞の中にありますミトコンドリアという小さな器官の遺伝子を解析いたしました。その結果、
“人類の先祖はアジアに起源を持つ”ことが分かってまいりました。
 愈々、「救い主様の壮大なる人類史のご予告」が現実になりつつあります。
 神の御経倫は、人知人力を超えて進展してまいります。万人に魁けて早くから「神の御
経倫」を知らされた陽光子乃友どちは、猯遒慮気長饋佑領鄒辧蹐北楹个瓩胴圓なくてはなりません。
 旧石器時代の次に訪れましたのが、「縄文時代」でございます。縄文時代は約一万二千年前より始められました。この縄文の地層から、数々の土器が出土しております。
 本年四月、東京都新宿区百人町の遺跡から一万二千年前の土器が出土いたしました。これは世界最古級の土器であります。
 また、鹿児島の栫ノ原(かこいのはら)遺跡からも一万二千年前の土器と定住を示す遺構が発見されております。
 剰え、先年、青森県三内丸山遺跡の発見により、縄文時代前期掛から中期にかけましての壮大な生活がはじめて明らかとなりました。
 また、日本から六千キロも離れました南太平洋の島国バヌアツ共和国からは、縄文文様をもつ土器片が多数出土いたしました。
 この土器が発見されましたのは、1960年代半ばのことでありました。土器を調べておりましたハワイ・ビショップ博物館の日・米・仏の考古学者チームは、これが五千年前の日本の縄文土器であることを断定いたしました。即ち、縄文土器が南太平洋へ南下、移動したことを示唆しております。
 わが国の祖先は、五千年の昔より世界各地へ雄飛していたのであります。
 正しく、明治陛下の「国を肇むること宏遠に 徳を樹つること深厚なり」のご神勅の通り、霊の元つ国の万世一系の歴史は、遠つ世の神代にまで遡ることをしっかりと胆に納めておかなくてはなりません。
 さて、縄文時代の次に「弥生時代」が始まりました。今より二千年前のことであります。
 この頃に、大陸から多くの渡来人が日本列島に住みつくようになりました。そして二千年の間に、わが民族は文化文明を発展させてまいりましたが、反対に霊の元つ国人の狢舅多粥匹狼淆に失われてしまいました。
 正法はやがて像法となり、像法は遂に逆法の時代へと突入し、今日では毒気充満、文化の悪筆が咲き乱れ、猖獗を極めております。
 この末世混濁の世にあって、霊の元つ国人は「温故知新」故きを温ね求めて、そこから新しい”霊的な生き方″を開始して行かなくてはなりません。
 陽光子乃友どちは、世の中が急速に変動して行くことを前提において、日々のご神業・生業・学業に邁進していただきたいと存じます。
 来月度の大祭には、世界各地より五色人代表のみなさんが参集いたします。世界の陽光子乃友のお世話をさせていただくのが、国内の陽光子神組み手でございます。
 猯遒慮気長饋佑領鄒辧蹐鮗覚し、以て犂脅奸蹲爛皇勝蹲牴失臓蹐痢峪安臚遡棔廚鮴就し、世界の人びとから慕われる狄世了辧蹐悗半魂擇魏未燭靴討い燭世なくてはなりません。
 狄世慮羞佻世紡┗し得る魂″が結集することによりまして、神の火柱が天に届き、遍く世界を照らすのであります


[551]崇教真光と考古学 05/10/06 14:09 9Hqd6qPk93
崇教・真光誌平成8年12月号 秋季大祭教示(岡田恵珠氏)
P13-14
 神霊界にお帰りになられました大神様のご威徳を人びとはお慕い申し上げました。
 しかし、お姿を直接拝することは出来ません。そこで神の子は、大神様(おほかみさま)をお慕い申し上げ、対象物としての太陽を拝むようになりました。これが今も世界に残ります「太陽信仰」の淵源でございます。
 救い主様は、昭和四十年に日玉の国をご探訪なされました。そして「太陽信仰は、少なくとも六十万年以前の巨石器時代に劫(さかのぽ)る」ことをご垂示くださいました。
 そして、ご承知の通り、平成六年には、宮城県上高森遺跡に於いて、北京原人よりも十万年古い六十万年前の地層から「日本原人」の存在を示す前期旧石器が出土したのであります。これは、六十万年前の太陽信仰を裏付ける発見でもありました。
 わが国の旧石器時代を開きましたのは、相沢忠洋先生でありました。旧石器時代は、今日一気に六十万年前まで遡ることとなったのでございます。
 救い主様は、「日本列島から、少くとも百万年前の遺跡が発見されるであろう」とご予告になられておられます。

「天意の大転換―岡田光玉師の大予告2」八坂東明著 リヨン社99.6.15初版
(P249-255)
 光玉師は、40年前に歴史上の常識が打破されると予告した。
 『日本の歴史はすくなくとも百万年以上前に溯るのである。やがていたるところから数十万年以上前の石器が発掘され、日本歴史は書き換えるほかない時代が来る。』
 40年前、この預言は一笑に付された。狂気の説として退けられた。しかし今日、日本列島の各地から最古の遺跡が続々と発掘されている。
(中略)
 実にここ十年の間に考古学界の発掘が進み、歴史の謎が次々と解明されている。
 相澤忠洋氏によって、群馬県岩宿遺跡から1万年前の旧石器が日本で初めて発掘されたのは戦後まもなくの昭和24年であった。それまでわが国には旧石器時代はないとされていたのだ。この定説をくつがえした相澤氏の発見によって、日本の歴史は1万年前まで溯ることとなった。相澤氏と光玉師は奇しき御神縁によって邂逅(かいこう)した。
 昭和39年のことである。このとき、師はまだまだ古い石器が発見されると予告した。
 そして相澤氏は、岩宿発見に続いて夏井戸遺跡の発見に着手した。
 夏井戸遺跡からは、1万年はおろか10万年、20万年前の石器が発掘された。
 それでもわが国の歴史教科書は、旧態依然たる記述ばかりで旧石器時代が20万年前まで遡ることを記載しなかった。
 しかし昨今はどうであろう。
 平成9年には、宮城県上高森遺跡において推定60万年以上前の石器が発見され、考古学会をアッと驚かせた。十数個の石器は思わせぶりに円形にきれいに並べられていた。
 この石器を見た岡田恵珠師は、
『当時、すでに日本原人に神を祀り拝む習慣があったのではないか。』
 と指摘した。
 60万年前といえば、あの中国の北京原人よりも十万年も古いことになる。
 北京原人より十万年前に、わが国に日本原人が住み、しかも美的な認識を示していたという事実に驚嘆するほかはない。
 そして平成10年11月には、推定70万年前の石器が上高森遺跡から発見された。
 師の預言したとおり、百万年前が見えてきたのである。
 この事実を見ても、歴史の常識が通用しない新時代が到来している。


[552]崇教真光と考古学 05/10/06 14:09 9Hqd6qPk93
 次に驚くべき発見は、三内丸山遺跡をはじめとする縄文時代の素晴らしさであろう。
 今から5500年前に縄文人は、東北地方に一大サークルをもって豊かな縄文文明を構築していった。高床式の建物や集会場もあった。高度な縄文土器、うるし、ヒスイ、黒曜石を使ってのおしゃれでグルメな生活跡が発見されると、現代人の考古学ファンはその優雅さに睦目するばかりであった。
 あのシュメール文明が五千年前であるから、それより五百年早く東北に栄えた縄文文化は、歴史家の森本哲郎氏が言うように世界五大文明と比肩して書き加えられるべきであろう。
 しかも驚くべきことには、平成10年7月に青森県蟹田町から発掘された土器は、なんと今から1万6500年前の縄文土器であった。ここに今日までの定説であった1万2000年前の縄文時代を大きくぬり変える驚異的な数字が示された。すなわち、世界最古の土器が日本から発見されたのだった。
 人類史からいっても超太古人は、親神や先祖を拝んできたのである。
 惟神のミチとは、神社神道より遥かに古い神代の物語にまで遡る。上古の神話の世界には、小異の人類歴史が横たわっていることがわかってきた。新考古学の進展によって日本歴史を遡行していけば、ついに人類歴史の発祥に突き当たるというのが光玉師の持論であった。
 新考古学老でもある岡田光玉師とそれを継承した恵珠師は、神話の実在を予見し、その実証としての考古学的発掘を重視してきたのである。
『神はまわりから仕組むぞよ』
 この御神示のとおり、今日、日本をはじめ世界各地で歴史的発掘が相次ぎ、日本の歴史を書き換えるほかない転換期を迎えている。
 最近では、日本最古の文字が三重県大城遺跡で発見された。
「奉」と読める文字が刻まれた2世紀中ごろの高杯が出土した。従来の通説では文字の伝播は5世紀とされているが、それを300年も溯り、弥生時代に文字があったことが証明された。これで弥生時代には文字がなかった、というこれまでの定説は覆されることになった。
 また平成10年5月には、鹿児島県喜入町の帖地遺跡において校形線刻を持った石が発見された。これはなんと約二万五千年前の線刻の入った石であった。
 線刻は30センチの凝灰石の表面を刻んだもので、全体で数十本もあり、なんらかの記号ではないかと見られている。
 光玉師は、日本には超太古の神代文字が存在したと述べている。最近では岐阜県の岩刻文字の相次ぐ発見により、いよいよ「日本に文字なし」の歴史迷信を打破することになるかもしれない。


2005年09月28日(水) 崇教真光と考古学 その2(教義2)

崇教真光と考古学 その2(教義2)


[553]崇教真光と考古学 05/10/06 14:10 9Hqd6qPk93
崇教真光誌平成12年1月号P64-74
御立教四十周年記念特集
世の大建て替えの時来たる!
【第2回】次々と実証される救い主様の御予告
 「考古学が以前と比べると大変進歩してきて、その再新の考古学のおかげで、われわれの日本が地球上の一番古い国だということがわかり出してきた。三千年の建国などとはとんでもない嘘八百である。神武天皇ご討征の頃などといったら、天祖皇祖からは、はるかに後世のそのまた後世の近代史に属する。
 そういうことが歴史のほうからもわかってくるし、また考古学の方からもわかってくる。一方人類学のほうでは、人骨の中で日本人の人骨は古いということさえわかってきた。それらのことすべてが、私が立教当時から神様に教えられたとおりになってきたのである。
 神様が「アバクゾ」とおっしやると、どんどん考古学会でアバキ始めた。そうして先にも育ったように、ついに石器が至る所で発掘されだしたと思っていたら、つい最近になって、巨石器文化が発掘されるにいたったしだいである』
(救い主様み教え (S41.5)より抜粋)

 『いずれ細かく、歴史的に実証させて頂きたいと思っておりますが、かつては、世界政治の、というより世界教化の中心地は、たしかに日本、特に東北にあるということがいえると思います。(中略)今某大学から内緒で大分(だいぶ)東北あたりへ発掘に行っております。ちょうど発掘中のところへぶつかりまして、そういう方々の研究を見ましても、かつての東大の考古学者で、日本で有名な方にお会い致しましても、ハッキリ「日本の考古学界は、もう曙の時代がきました。今迄の考古学はウソであったことを立証しなければならん」こういうことを直接、私にいっておられます。やっと歴史家も考古学者も正直にいわねばならなくなってきています』
(救い主様み教え(S42.7)より抜粋)

 『日の元つ国は新真歴史学では、本来「人類創造の地」であり、「五大文明五大宗教発祥の源泉地」であり、いいかえれば人類文明というものの創造地である。日の元つ国は人類五色人を全地球に分布したスメル族の「本案」であったことは、もはや新しい考古学上からいっても、ムー大陸史からみても、生物学言語、神代文字と世界の文字からいっても、もう人類史の夜明けとして判明してくるのも、時間の問題である。その発見も自前に迫りつつあることを、研修会によって知られたであろう。まだ知り得ないとすれば、陽光子としては、不勉強の不幸者「次期文明への種人としては失格者」というよりほかはないであろう』
(救い主様み教え(S46・11)より抜粋)

 「現代の人類、特に肝心の日本人が持っている歴史迷信というのは、恐るべき迷信というよりほかない。(中略)世界歴史が偽りにみちていることが、いずれは証明される時がくる。もしかりに、私の存命中にこの論文が書けないとしても、私の周囲の学者の方々が内密に研究を進めておられる。やがては、学校の生徒達が「お父さんお母さんは古いなあ」という時代がもう間もなくやってくる』
(救い主様み教え(S47・6)より抜粋)

 『「天意の大転換」により、今までの常識や通念では解決出来ない事が次々と起きております。歴史・宗教・科学・経済・政治の万般に亘りまして大変革が起きつつあります。
 例えば、近年まで牢乎として動くことのない「歴史迷信」が崩れ出してまいりました。(中略)
 故に、「人類歴史」は大きく変更を迫られる天の時が到来いたしました。
 神歌に、
 あかときの 神の光のさしそめて
   人類歴史の大曲がり角来ぬ
 めざめかし 人類歴史は正法に
   書き換うる外なき魁の時
とございます。


[554]崇教真光と考古学 05/10/06 14:10 9Hqd6qPk93
 救い主様は、「新考古学の発掘と発展によって、日本列島から少なくとも百万年前の遺跡が発見されるであろう」とご予告あそばされていらっしゃいます。即ち、六十万年はおろか、”百万年前にこの霊の元つ国に人類が既に存在していた”ということになります。
 今までの常識では考えも及ばざる出来事が、考古学という実証の世界から起きつつあります。(中略)
 愈々、「救い主様の壮大なる人類史のご予告」が現実となりつつあります。
 神の御接点は、人知人力を越て進展してまいります。万人に魁けて早くから「神の御経綸」を知らされた陽光子乃友どちは、”霊の元つ国人の霊籍”に目覚めて行かなくてはなりません。(教え主様御教示(H8・10)より抜粋)
 これまで、人類の誕生から現代に至るまでの世界の正史(正しい歴史)は、長い年月の中で忘れ去られ、あるいは故意に隠滅・改竄されて参りました。
 しかし『天意の大転換』が進展するに伴い、神様は次々と「真実の歴史」をアバき出しておられます。特に御立教三十周年以降の十年間は、“歴史が塗り替えられ、教科書が書き替えられる”驚くべき発見が相次ぎました。
 つい数年前まで「常識」だったことが次々と覆され、学校の教科書もどんどん書き替えられているのです。今や「縄文時代は未開で野蛮な時代だった」などと言おうものなら、「まだそんなことを言っているのか、遅れてるなー」と馬鹿にされかねません。
 『周りから仕組むぞ』とのお示し通り、神様は現代人の「歴史迷信」を打ち破る新発見を、次々と私共の眼前にお示し下さっておられるのです。不勉強のままでいては、神様の御経倫に乗り遅れてしまうことにもなりかねません。
 これから、最近の主な考古学的発見を、かいつまんでご紹介させていただきます。
「霊文明人としての欠くべからざる素養」として、ご一緒に復習させていただきましょう。

◇世界から注自される日本の縄文文化
 最近、日本の「縄文文化」に世界の注目が集まっています。
 青森県の三内丸山遺跡から、縄文のイメージを覆す巨大集落跡が発掘されたのを皮切りに、日本各地から原日本人の驚くべき姿を浮き彫りにする新発見が相次いでいるのです。
 その結果、縄文人は世界に四大文明が花開く遙か以前から、優れた農工や建築技術を持ち、成熟した定住社会を築いていたことが解明されて参りました。最近の主な発見を簡単にご紹介させていただきます。

イ、縄文のイメージが覆る
 平成四年から発掘の始まった「三内丸山遺跡」は、それまでの縄文観を大きく変えるものとして、一躍有名になりました。(資料1)
 それまで「縄文時代の集落はせいぜい30人規模」というのが一般的な説でした。しかし発掘が進むにつれ、三内丸山は想像を絶する巨大な集落であることがわかってきたのです。
 六百棟にものぼる住居群、長さ32メートルにも達する十数棟の大集会場跡、百棟を超す高床式倉庫跡、そして高さ20メートルにも達するといわれる大型掘立柱建物(神殿〜)跡……。30人どころか、500人以上の人々が悠々と暮らせる巨大集落だったのです。
 出土品の多さも群を抜いていました。耳飾りや腕輪、ペンダント、ヘアピンなどの装飾品、みごとな漆器や翡翠の大珠などは、豊かでゆとりのある生活を彷彿とさせます。
 さらに、クリやヒエを計画的に栽培し、酒を造り、豊富な海産物を食していた痕
せき跡も発見され、グルメでおしゃれな縄文人の姿が浮き彫りになりました。
 正しく「三内丸山遺跡」は、それまでの貧弱な縄文観を根底から覆す衝撃的な発見でした。そしてこの頃から、高度な原日本人の姿を実証する驚くべき遺物が、日本中から相次いで発見されるようになったのです。

ロ、高度な縄文の大工技
 平成9年9月、富山県小矢部市の桜町遺跡から、「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」と呼ばれる木の組み方をした、縄文時代中期(約四千年前)の建築部材が発掘されました。(資料2)
 渡腮仕口とは、クギを使わず木の一部を切ってかみ合わせる工法で、これまでこの工法を使った最古の建物は飛鳥時代に建造された法隆寺(西暦607年)が日本最古とされていました。
 この発見は、その起源が一挙に2700年も遡ることを示すもので、建築技術史上画期的な発見となりました。
 この遺跡からは、同時に今まで猝鐇源代以降にしか無い瓩噺られていた高床式建築が、縄文時代にすでに存在していたことを実証する大量の建築部材も見つかっています。
 現代にも通じる高度な建築技術を持ち、快適な暮らしを送っていた縄文人の姿が、建築学の分野からも明らかにされつつあるのです。


[555]崇教真光と考古学 05/10/06 14:11 GoRGEoUS
ハ、世界最古級の土器発見!
 平成10年7月、青森県蟹田町にある縄文草創期の遺跡で発掘された土器片が、実に「1万6500年前」に作られたものであることが、最新の科学分析法で明らかになりました。(資料3)
 これまで縄文時代の始まりとされてきた1万2000年前より4500年も古く、考古学者は「従来の定説を覆す、極めて重要な発見・研究だ」としています。
 この土器の年代は世界的に見ても最も古いもので、「世界最古の土器文化」としての原日本・縄文文化の起源に、いま改めて世界中の関心が集まっています。
 ナイル川やチグリス川流域などに四大文明が出現する一万年以上も前、大陸と陸続きだった日本列島では、すでに土器の製作が始まっていたのです。
 ヨーロッパに初めて土器が登場するのは紀元前五千年頃、西アジアからドナウ川沿いに伝わったと考えられています。このことから見ても、日本の土器が如何にケタ違いに古いものであるかがわかります。
 「日本で発明された土器が、世界中に広がっていった」という説も、あながちデタラメとは言えなくなってきました。

二、縄文前期から米作り!
 「稲作は今から2500年前の弥生時代初頭に始まった」。長らく続いたこの定説が、いま完全に打ち砕かれようとしています。
 平成11年4月、岡山市・朝寝鼻遺跡の約六千年前の地層から、稲の細胞化石(プラント・オパール)が発見されました。これは、実に定説を3500年も遡る縄文時代前期初頭から、稲の栽培が行われていたことを示しています。(資料4)
 稲の本場、中国の長江下流域で本格的に稲作が行われはじめた時期とほぼ同時期に、縄文人もまた稲作を行っていたのです。
 さらに、同じ地層から発見された別のプラント・オパールを調べたところ、東アジア最古の「小麦栽培」の証拠であることが確認されました。中国最古の小麦栽培の痕跡は約五千年前。中国でもまだ小麦栽培が始まっていなかった時代に、縄文人が早くも栽培に取り組んでいたことが明らかになったのです。(資料5)
 イノシシやシカなどの獲物を追って、地域を転々として暮らしたという従来の縄文人のイメージは完全に覆り、翌年の為に種籾を備える優れた計画性や、稲の不作に備えて小麦を植える緻密さを兼ね備えた原日本人の姿が明らかになったのです。

ホ、海を渡った縄文土器
 南太平洋の島国、バヌアツ共和国から出土した縄文を持つ土器片を調べていたハワイ・ビショップ博物館の篠遠喜彦博士(太平洋考古学)ら日米仏の考古学者ら6人は、これが約五千年前に日本で作られた縄文土器であると断定しました。
(資料6)
 その根拠は、土器の文様や成分を厳密に比較調査した結果、それらのデーターが青森県で出土する土器と完全に一致したためです。
 五千年も昔、船に土器を積み、六千キロもの海路を運んだ縄文人たち……。私たちの祖先は、五千年の昔より世界各地へと雄飛していたのです。
 さらに現在、南米大陸で発掘された土器と、日本の縄文土器の整合性に関する研究も進んでおり、縄文人が太平洋を渡り、南米大陸にまで到達していたことが証明される日も近いものと思われます。
 すでに、遺伝子レベルの研究では、中南米に高度なピラミッド文明を築き上げてきた原住民と、日本の縄文人のDNAがピッタリと一致することが確認されています。
 これは、両者がかつて同じ村で生活していた「全く同一の民族」であったことを、科学的に証明するものなのです
 今後の研究が、大いに期待されるところです。


[556]崇教真光と考古学 05/10/06 14:11 9Hqd6qPk93
ヘ、日来神堂を築いた縄文人
 平成5年10月、古くから“縄文のピラミッド“との説があった秋田県鹿角市十和田大場の黒又山(標高280メートル)を調査していた環太平洋学会の調査団は、地中レーダー探査の結果から、「黒又山は自然の山を削って階段ピラミッド状に仕上げた縄文遺跡である」と結論付けました。(資料7)
 周辺は縄文時代の遺跡が多く、黒又山の南西約2キロには、約四千年前のものとされる直径約50メートルの大湯環状列石(国の特別史跡)がありますが、どちらも古代人の太陽信仰と深い関係があると考えられています。
 救い主様は、『ピラミッドは太陽神の神殿(日来神堂)である。世界各地のピラミッドは日本から広がって行ったもので、原型は日本にある。日本の太陽信仰というのは、少なくとも60万年以前の巨石時代に遡る』とお示し下さっておられます。
 今後、日本各地で発見されているピラミッド遺跡の本格的な調査が進めば、旧石器時代から連綿と日来神堂を築き続け、太陽神を崇めてきた原日本人の姿が明らかになってくるものと思われます。
 戦前の日本では「わが国には旧石器文化は存在しない」というのが定説でした。この歴史迷信を切り崩す端緒となったのが「岩宿遺跡」の発見です。
 1949年、市井の考古学者・相沢忠洋氏は、群馬県笠懸町岩宿の切り通しになった赤土の中から、黒曜石で作られた見事な石器を発見しました。ここに、日本の「旧石器時代」の存在が初めて明らかにされたのです。
 救い主様は、群馬県に御巡光される度に、相沢先生と共に岩宿遺跡や夏井戸遺跡をお歩きになられました。救い主様の『まだまだ古い石器が出ますよ』との御予告通り、間もなく夏井戸遺跡からは30万年前の石器が発掘されました。しかし、当時の学界はなかなかそれを認めようとしなかったのです。
 しかし、昭和56年に宮城県で「座散乱木遺跡」が、そして昭和59年に同じく宮城県から「馬場壇遺跡」が発見されたことにより、それまで反対していた学者達も、日本の旧石器文化の存在を認めざるを得なくなりました。
 その後、平成5年には、同じ宮城県の「高森遺跡」において驚くべき発見がなされました。北京原人と同時期の約50万年前の地層から、みごとな旧石器が発見されたのです。(資料八)
 さらに、翌平成6年には、隣接する「上高森遺跡」から、さらに十万年も遡る約六十万年前の旧石器が発見されました。(資料9)
 平成7年、同遺跡からまとまって発見された15点の石器は、まるで太陽を意識しているかのように、赤い碧玉の石器を中心として、放射線状に並べられた状態で出土しました。(資料10)このことから、日本原人にはものを椅麗に並べる豊かな精神性があったことが分かっています。
 さらに平成8年には、石器の表面に火で焼いた跡が見つかりました。これは北京原人よりも古い時期に、日本原人が火を使用していたことを意味しています。この事実がハッキリと確認されれば、“世界最古の火の使用”を裏付ける大発見となります。(資料11)
 その後、発掘を進めるにつれて旧石器の年代はどんどん古くなり、平成10年11月には、60万年前の地層の20センチほど下から、さらに古い時代の石器が発掘されています。
 そして、平成11年10月始まった第5次発掘調査では、前の地層のさらに3メートル以上も下からら次々と石器が発見され始めまのした.地層の古さは、少なく見積もっても70〜80万年前とのことですが、中国で出土した百万年〜150万年前の石器と酷似しているとの専門家の指摘もあり、今後の正確な年代測定に注目が集まっています。
 発掘担当者も「間もなく百万年前のものが出てくる」と確信を持って語っており、日本原人の古さが一体どこまで遡るのか、全く見当がつかなくなってきました。(資料12)
 救い主様は、「新考古学の発展によって、日本列島から少なくとも百万年前の遺跡が発見されるであろう」とご予告あそばされていらっしやいますが、西暦2000年に突入した今、まさにそれが現実のものとなってきているのです。
 少し前の常識では考えも及ばざる出来事が、考古学という実証の世界から、ハッキリと起きつつあります。


[557]崇教真光と考古学 05/10/06 14:12 9Hqd6qPk93
◇人類の起源はアジア!?
 これまで、「人類の発祥の地はアフリカ大陸」というのが世界的な常識でした。しかし最近、この説が危なくなってきています。アジアでの人類誕生を示す、古い化石が相次いで発見されているためです。
 平成10年11月、ミャンマー日本ポンダウン地区化石調査隊(隊長、茂原信生・京都大学霊長類研究所教授)は、「ミャンマーの約四千万年前の地層から、ヒトを含む真猿類に極めて近い世界最古の高等サルの化石を発見した」と発表しました。
(資料13)
 これは、人類がアフリカではなく、アジアに起源を持つ可能性を示す有力な証拠として注目を集めています。
 また、フランスとミャンマーの共同研究チームが、昨年(平成11年10月) アメリカの科学誌「サイエンス」に、別の発掘結果をもとに「ヒトを含む高等サル(真猿類)の起源は間違いなくアジアにある」という研究結果を発表しました。(資料14)
 一方、アメリカ・カリフォルニア大学のブラウン博士は、生化学の立場から、人間の細胞の中にあるミトコンドリアの遺伝子を解析した結果、「人類の先祖はアジアに起源を持つ可能性が高い」と発表しています。
 救い主様は、御立教当時より『人類発祥の地は霊の元つ国(日本)である』とお示し下さっておられました.今まで、有識者の多くはこれを荒唐無稽な説として耳を仮装としませんでしたが、天意の大転換と共に、「救い主様の壮大なる人類史のご予告」が次第に現実のものとなりつつあるのです。

◇ベトログラフ(岩刻文字)の発見
 最後に、未だ学術的には認められていませんが「ペトログラフ」と呼ばれる岩刻文字について紹介させていただきます。
 「日本ペトログラフ学会」の調査によりますと、紀元前四千年頃シュメール人が使用していたとされる古拙文字が刻まれた岩石が、日本各地から続々と発見されはじめています。(資料15)
 解読されたペトログラフの中には、太陽神を表わすものや、海に沈んだムー帝国を追悼するものまであるそうです。(資料16)
 海外では30年ほど前からペトログラフの研究が進み、すでに世界各地から同じような岩刻文字が多数発見されているそうです。その分布状況から、ある固有の文明と言語を待った人々が、太古、かなり広範囲に一旦って地球上を移動していたことがわかってきています。
 日本での研究はまだ始まったばかりですが、今後日本と世界のつながりを示す重大発見がもたらされるかもしれません。
 「天意の大転換」が急激に進展する今、どのような驚くべき新事実が明らかにされるのか。これからの新しいミレニアム(千年紀)は、考古学から一時も目が離せそうにありません−−。
    ◇
 今回ご紹介した考古学上の発見は、全体のごく一部分ではありますが,
 わずかな期間に大変な発見が続いていることがお判り頂けると思います。
 神様の御経倫は人知人力を越えて進展し、救い主様の壮大なる人類史の御子告は、これから愈々本格的に現実化して参ります。すなわち、現代物質文明の行き詰まり・崩壊現象が加速する一方で、新真文明の建設に向かう動きもまた、加速的に推進されて行くのです。
 万人に魁けて早くから「神の御経倫」をお知らせ項いた陽光子乃友は、今こそ『霊の元つ国人の霊籍』にハッキリと目覚めさせていただき、敢然と世の大建て替えに立ち上がって行かねばなりません。(つづく)


2005年09月27日(火) 崇教真光と考古学 その3(批判1)

崇教真光と考古学 その3(批判1)


[558]崇教真光と考古学 05/10/06 14:12 9Hqd6qPk93
【批判】
 石器捏造事件についてはいまさら書くまでもない。最近恵珠氏の教示をまとめた『神の契約の虹』が出版されたが、この平成8年10月度月始祭・秋季大祭の教示は当然ながら掲載されていない。
 また、相沢氏が夏井戸遺跡より30万年前の石器を発見したなどと何度も書いているが、せいぜい6万年前である。
●相沢忠洋記念館公認ホームページ――『夏井戸遺跡は約6万年以上前の年代』
www.interq.or.jp/gold/waki/aizawa/tenji/tadahiro/tadahiro.html
 現在、もっとも古いのは岩手県金取遺跡と長崎県入口遺跡で、9-10年前とみられている。

【解説】
イ.『三内丸山遺跡の500人説』を斬る
■三内丸山遺跡2 急がれる論争の検証 (デーリー東北新聞社04.01.27掲載)
 保存が決定されてから、今年でちょうど十年目を迎える三内丸山遺跡だが、新たな“縄文時代像”を打ち立てる上で、本当に画期的な意味をもつ「特別な遺跡」なのか、それとも、単にスケールが大きいだけの「普通の遺跡」なのか。
◎問われる意義
 これほど、さまざまな角度から縄文の議論が盛り上がったのも珍しい。遺跡をどう評価するか、は三内丸山をめぐる重要な論争の一つとされ、発掘が始まって以来、問われ続けてきたテーマでもある。
 上の図をみてほしい。大型の盛り土はちょっとした古墳クラスの規模という。墓とセットになった大型道路しかり。このため縄文の“聖域”をイメージする研究者もいるほど。
 少なくとも、ここから見えてくるのは「特別な遺跡」像と言っていいだろう。「ほかの縄文遺跡に比べて、量的にも質的な面でも際立っている」(岡田康博・文化庁文化財調査官)というわけである。
 だが、遺跡の解釈を異にするサイドからは、こんな意見が出されている。
 三内丸山が高く評価されるのは、この遺跡に縄文の要素が凝縮されているからで、大型構築物や豊富な出土遺物などの事例は、既にほかの遺跡でも確認されており、三内丸山の“専売特許”ではない。従って、ここだけ特別視するのは、結果的に縄文文化の本当の姿を見誤ることにつながり兼ねない―と。
◎ムラ人口とクリ栽培
 「500人居住説」をめぐる論争もあった。
 一時期、この三内丸山のムラには約百軒の竪穴住居が同時に存在しており、一軒当たり五人家族と単純計算して、ざっと500人が生活を営んでいたというのが「500人説」。
 そのころ、考えられていた縄文時代集落の住居戸数はせいぜい数軒、多くても十軒程度というものだった。つまり、一集落の居住人口は最大にみても「30〜50人前後」となるわけだが、佐原真さん(元国立歴史民俗博物館館長・故人)も、そんな見方をしていたという。
 それに比べると「500人」はまさに、考古学的な常識を根底から塗り替えるもの。「実はボクもそう考えていた」。村越潔・青森大学教授がそう話すくらいだから、当時は圧倒的な支持を受けていたのだろう。
 縄文論争はこれだけにとどまらない。▽「社会階層」▽「縄文都市」▽「縄文農耕」▽「遠隔地交易」。ざっと見てもこれほどあるわけだが、もう一つだけ紹介する。静岡大学助教授の佐藤洋一郎さんが、クリ栽培が行われていた可能性が強い―という説を提唱している。
 クリのDNA分析という科学的な手法で注目されたが、栽培を具体的に裏付ける痕跡は、検出されていない。どのようなレベルを栽培と定義するのか、難しい問題もあり、これも「まだ仮説の段階」(県三内丸山対策室)にとどまっている。
 論争点が多いのは、それだけ三内丸山への関心が高いことを意味している。しかし、だからといって喜んでばかりもいられない。なぜなら、これまで浮上してきた論争事例の多くは、いまだに決着をみておらず、ほとんどペンディングの状態になっているからだ。
 これまでの発掘を通して、何が分かったのか、そして何が分かっていないのか。三内丸山が今、求められているのはそんな答えなのかもしれない。
 ところで、遺跡発掘調査報告書の取りまとめが膨大な出土資料の整理分析に手を奪われ、大幅に遅れているという。これまでに完了したのは「盛り土」関連だけで、六本柱も正式報告書ではなく、まだ概要版の段階にとどまっているらしい。
 「過剰なロマンは縄文文化の真実をくもらせる」。ある考古学者の言葉だが、三内丸山がそうならないように、正しい情報を発信する調査報告書の作成を急ぐべきだろう。課題は山積している。(編集委員・江波戸 宏)


[559]崇教真光と考古学 05/10/06 14:13 9Hqd6qPk93
ズームイン
千五百年続いたムラ
 三内丸山の特徴を示す「大」「多」「長」のうち、「大」は巨大木柱に代表されるが、これはここだけに限った特別の遺構ではない。国内最初の発見例は新潟県・寺地遺跡の四本柱(直径約60センチ、縄文晩期)で、それ以降は石川県の新保チカモリ遺跡(晩期)などで見つかっている。用途は不明。巨木遺構は北陸に多い。
 その次の「多」は、大量に出土した土器や土偶などの遺物のことだが、函館市の中野B遺跡(中期)では、膨大な量の土器が発掘されている。その数、ざっと19万点。
 「長」は約1500年間続いたムラの継続期間だが、さすがにこれだけの記録をもつ縄文集落はほかにない。「長」を除けば「大」「多」をを示す、ほかの遺跡もないわけではない。

縄文雑記帳
「500人説」は未解明
 三内丸山の居住人口「500人説」が批判にさらされ、今ではすっかり影をひそめてしまった理由は何だったのか。
 1つは食料問題。クリを中心とした堅果類が主な食料と考えられているが、それだけで500人分の食料はとても賄い切れないというわけだ。もう1つは竪穴住居の算定上の問題。
 集落は約1500年の長期にわたって営まれた。住居は原則的に元の場所に立て替えられており、当然、その柱穴跡は激しい切り合いを示している。
 500人とすれば当時、竪穴住居が少なくとも100軒程度、同時存在していたことになるわけだが、それを柱穴の激しい切り合いの中から、証明するのは可能か。県考古学学会長の市川金丸さんは「一定の時期に限り、同時に存在した住居数を割り出すのは難しい」としている。加えて、縄文人の家族構成も解明されていない。どうやら、不確定要素の上に構築されたのが「500人説」だったようである。人口の多さは集落の継続性によるという見方が強い。
www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2003/jomon/jomon_40.htm

ロ、『高度な縄文の大工技』は誤り!
富山新聞社2003年7月14日更新
www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20030714002.htm
「貫穴のある木材」だった 小矢部・桜町遺跡の柱材出土品 市教委、調査結果を発表
 小矢部市教委は14日、1997(平成9)年9月に縄文時代中期末(約四千年前)に木工技術「渡腮(わたりあご)」が施された日本最古の柱材として出土を発表した同市の桜町遺跡の木材が、保存処理後の確認調査などの結果、木材を通すために穴を貫通させた「貫穴のある木材」と訂正した。東北芸術工科大の宮本長二郎教授と市教委が明らかにした。
 同柱材はクリ材で長さ3.17メートルで、縦約20センチ、横約15センチにわたって加工が施されている。当初は柱に切り込みを入れ、木組みを頑丈にするための凹凸細工を施した「渡腮」と考えられていたが、土や汚れを落として調べた結果、穴が貫通していることが確認された。
 このため、現状では同技法が施された「渡腮仕口(しぐち)材」とはいえないとし、「貫穴のある材」と訂正した。


[560]崇教真光と考古学 05/10/06 14:13 9Hqd6qPk93
北日本新聞2003/07/15朝刊
www.kitanippon.co.jp/pub/fmail/backno/oyabe/2003/0063.html
●「渡腮でなく貫穴」桜町遺跡の建築技法を訂正 小矢部市教委
 小矢部市教委は14日、桜町遺跡から出土し、木材を削って凹部と凸部を交差させる「渡腮仕口(わたりあごしぐち)」の技法を用いた縄文時代の建築部材に関し、穴を開けた木材に別の木材を通す「貫穴(ぬきあな)」の技法だったとみられると訂正した。古代建築史の第1人者、東北芸術工科大(山形市)の宮本長二郎教授は会見で「貫穴を使った建築部材としても、日本最古。縄文時代の木材加工技術の高さは変わらない」と説明した。
 建築部材はクリを用い、長さ3.2メートル、太さは約20センチで縄文中期末(約4,000年前)の木材。同市教委は平成9年、複数の専門家の鑑定を経て、高床建物の建築部材の中に渡腮仕口の技法が用いられていたと発表した。保存処理のため元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)に移送。土を取り除き、樹脂などを使って復元した結果、凸部に高さ2.5センチ、幅12センチの穴があり、貫穴工法の穴と判断した。
 宮本教授は「渡腮仕口の木材を転用するため、後に穴を開けたとも考えられるが、貫穴として建築に使用されたとみられる」と説明。建物の地面に垂直に立つ柱として用いられたと推測する。
 貫穴の使われた建築部材は、桜町遺跡では既に3つ発見され、今回で計4つとなった。
 訂正の原因について市教委は「付着していた泥を完全に除去しないまま判断した。今後は発表に慎重を期す」と述べた。宮本教授は「建築部材はもろく、破損の可能性もあるため、現場で泥を完全に取り除くことは難しい」と話した。
 訂正のあった建築部材は14日から、桜町JOMONパーク出土品展示室で公開した。

●発表・検証の難しさ示す 桜町遺跡の発表訂正
 桜町遺跡に関する小矢部市教委の発表訂正は、平成13年に縄文晩期(2500年前)とみられていた高床建物の屋根材を放射性炭素年代測定(C14)の結果で古墳時代前期(1700年前)と改めたのに続き2回目。未知の発見を扱う考古学の発表と検証の難しさをあらためて示した。
 有機物が残る遺跡自体が少ない中、破損しやすい遺物を壊さないよう保護し、保存処理に回した当時の判断について、「致し方なかったのではないか」と同情する声が多い。しかし、付着していた泥を完全に除去しないままの判断で、「国内最古の発見例」とした市教委の発表が全国を駆けめぐった。ほかの遺物に対しても信頼性に疑問符が付くことが危ぐされる。
 実際、屋根材が年代訂正されたときは、同遺跡の遺物を縄文時代の建築を考察する上で引用するのを避ける研究者もいた。市教委はその後、C14年代測定法で十点の木材を測定し、それらは従来通り縄文中期末(約4000年前)に間違いがないことを検証した。
 今回の訂正で多くの木製品を出土した遺跡の価値が下がるわけではないが、早く信頼を取り戻すため、正確な発掘調査報告書の刊行が待たれる。


[561]崇教真光と考古学 05/10/06 14:14 9Hqd6qPk93
ハ、『世界最古級の土器発見!』の舞台裏
■7 大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感 (デーリー東北新聞社03.05.20掲載)
 青森市の県立郷土館。ここの展示室に親指大くらいの土器の破片十個が展示されている。そばの説明プレートにはこう書かれている。「無文土器片 縄文時代草創期」。ただの土くれではない。日本最古という肩書付きの土器で、縄文時代の起源に関する論議には、必ずといってよいほど登場してくる。
◎常識覆す衝撃
 「困った…。予感もないわけではなかったが、その時は本気でそう思った」。同館の三宅徹也学芸課長は、28年前のその日をこう振り返る。昭和50年の文化の日。場所は蟹田町の西端に位置する「大平山元1遺跡」の発掘現場。
 そこから、石製ナイフなどの石器と一緒に、新しいタイプの石鏃(ぞく)などとともに、土器の破片二点が出土したのである。三宅さん(当時学芸員)らを混乱させたのは出土遺物の奇妙な組み合わせだった。前者は旧石器時代、後者の石鏃=矢じり=と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識だったからだ。
 異なった時代に属する石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めて。ただ、土器を除けば、石器群の構成は東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっていた。
 土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。
◎日本最古の土器
 これが後に、考古学界をアッといわせる衝撃につながっていくとは、三宅さん自身「夢にも思わなかった」。
 それから25年後。新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片5個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万2000―1万3000年前という結果が出てきた。
 それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきたわけだが、衝撃はそれだけで終わらなかった。さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6000年」前、平均値で「約1万5000年」前、という数値が得られたのである。
 縄文時代はざっと五千年ぐらい前というのが、ひところの常識だった。最近は1万2000―1万3000年前が一般的な見方だが、較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータ。それは土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の真っただ中という可能性が出てきたことを意味している。
 炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになった。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されなければならない時期にきていることは間違いないだろう。


[562]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
 ◎定説がない!
 「教科書は一万年前、授業でもその通り教えています」
 縄文時代の起源について、ある中学校で聞いたらこんな答えが返ってきた。教育の現場で生徒に教える「一万年前」はいささか、時代遅れの印象もないではない。一般の専門書では一万二、三千年前という記述が主流となっている。
 三月初め、中里町の町立博物館で開かれた「十三湖周辺の遺跡」展をのぞいてみた。驚いたことに、会場の年代説明プレートには「縄文草創期 一万五千年・一万年前」とあるではないか。一般にはまだ、なじみの薄い較正暦年代からの“借用”であることは明らか。こっちは逆に走りすぎとも言えるが、いずれにしても縄文の起源は諸説が乱れ飛んでいる格好。
 揺らぐ縄文の年代観。これだと何を信じたらいいか、さっぱり分からない。定説自体が揺れているわけだから、それも無理のない話なのだが…。

 ズームイン
 暦年較正で誤差補正
 青森県教育委員会発行の「縄文文化の扉を開く」は、縄文時代の始まりを今から約一万二千年以上も前とし、カッコ付きでこう、続けている。「(最新の炭素14年代測定法での実年代では約一万五千年前頃まで)」。可能性の問題として、縄文時代の起源は一万五千年以前にまでさかのぼれるというわけだ。
 発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多い。放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するのもの。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げている。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しない。大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているためで、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年較正」。冒頭の約一万五千年前は較正暦年代(calBP)のことだが、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題という。

 縄文雑記帳
 “日本最古”の遺跡
 蟹田町の「大平山元遺跡」は津軽半島の東側ほぼ中央部に位置し、旧石器と縄文時代の複合遺跡。国道沿いに「日本最古の縄文遺跡」の標識があるくらいだから、簡単に探せると気楽に思ったが、そうではなかった。
 やっと見つけた「1遺跡」は県道から奥まった場所の住宅脇に、小さな案内板がひっそり立っているだけ。これでは見つけるのも難しい。いささか拍子抜けの感もあり、そんな思いを町役場の担当者にぶつけたら、こんな返事が戻ってきた。「遺跡は個人の所有地。迷惑が掛かるので、そんなに大々的に宣伝もできないんです」
 全国からの照会も多い。蟹田町は同遺跡の重要性から、保存や整備に向けて国の史跡指定を申請するため、平成12年から遺跡の範囲の確認や内容などの学術調査を5年計画で展開中。気になる国史跡の指定の見通しだが「今回の調査を通じて、もっと新しい史実の発見があること、それが鍵になるでしょう」と、同町教育委員会の駒田透主査は言う。
www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/kikaku2003/jomon/jomon_07.htm
【書込み者注】年代測定は、複数の方法を用いて比較検討すべきである。


2005年09月26日(月) 崇教真光と考古学 その4(批判2)

崇教真光と考古学 その4(批判2)


[563]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
二、『縄文前期から米作り!』――中国のほうが古い
■世界の稲作文明史を書き換える 中国浙江省の上山遺跡(2005.1)
www.china-news.co.jp/culture/2005/01/cul05012401.htm
 (中国通信=東京)杭州22日発新華社電によると、浙江省文物考古研究所と浙江浦江博物館はこのほど、▽浦江県にある上山遺跡は中国でこれまで発見されたものとしては最も年代の古い新石器時代遺跡の一つである▽それは世界の稲作文明の歴史を書き換えるとともに、まったく新しい人類初期の定住生活様式を示している―と発表した。
 浙江省文物考古研究所は国家文物局の承認を受け、浙江浦江博物館と共同で、2001年と04年に上山遺跡の考古学発掘を行い、重要な発見をした。北京大学文博学院が新しい炭素14法で年代を測定したところ、上山遺跡から出土した炭素を含む大量の陶片は1万年前後の歴史があり、このことから中国でこれまで発見された中で年代の最も古い新石器時代遺跡の一つとされた。
 同研究所研究員で、上山遺跡考古学チーム・リーダーの蒋楽平氏は、次のように話した。炭素を含む陶片の表面から、大量の籾殻跡が発見され、こね土にも大量の籾殻が混ざっていた。陶片からサンプルをとって植物ケイ酸体分析に行ったところ、多くの陶片に稲葉片の運動細胞に由来する扇形ケイ酸体が含まれていた。陶片中の籾殻の形状を観察した結果、粒の長さは野生稲より短いが、幅は野生稲より広く、人間によって選別された初期の栽培稲であることが分かった。
 これまで発見された中で年代の最も古い稲作の遺物は長江中流と淮河上流一帯から出ているため、伝統的にはこれらの地帯が中国の稲作の起源とされていた。上山遺跡で1万年以上前の栽培稲の遺物が発見されたことで、長江下流の稲作の歴史が2000年遡るだけでなく、上山遺跡のある長江下流地区が世界の稲作農業の最も古い起源の一つであることも証明された。
 上山の考古学発掘では、比較的多数の打製石器のほか、チョッパー、スクレーパー、尖状器、小石器や石核石器などが出土した。こうした打製石器を中心に、打製、磨製石器が併存している現象は、原始的な狩猟、採集と原始農業との複合的経済方式に対応するもので、上山遺跡に旧石器から新石器への移行という原始的特徴が強く残されていることを示している。
 また上山遺跡は浙中盆地にあり、まわりは平坦で広々としている。中国でこれまで発見された1万年以上の初期新石器時代遺跡がたいてい洞穴や山地遺跡型であったのとはっきり違っており、これは人類初期の定住生活というまったく新しい選択の反映だという。

■岡山・6000年前の貝塚――縄文前期に本格稲作? 稲の化石大量出土
 縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文晩期に大陸から伝わったとされるわが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2.5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは千分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」としている。
(2005年02月19日 読売新聞)


[564]崇教真光と考古学 05/10/06 14:15 9Hqd6qPk93
ホ、『海を渡った縄文土器』――とんだガセネタ
■ガセビアだったバヌアツ縄文土器
www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/vanuatu.htm
 1996年8月14日読売新聞(夕刊)に「南太平洋に縄文土器...」という記事が載った。内容は、バヌアツ・ポートビラ(Port Vila, Vanuatu)で開催された西太平洋考古学会で8月5日、ハワイ・ビショップ・ミュージアムの篠遠喜彦氏ら(日米仏の研究者六人連名)が、バヌアツの縄文土器(表採資料14点)について研究発表したというもの。文様や胎土分析の結果、東北北部の縄文前期円筒下層c、d式そのものであると断定されたのだ。日本の縄文土器そのものが、何らかの原因で直接バヌアツに運ばれたものと結論づけられ、具体的には漂着が可能性として指摘された。なお1997・1998年には現地で発掘調査が行われたが、在地の後期マンガッシ式土器が1000点以上発見されたものの、縄文土器資料は得られなかった(文献)。
 2000年11月5日に旧石器捏造が発覚した後の、2001年2月14日読売新聞(大阪版・夕刊)に「日本からの寄贈物…」という記事が載った。真相は以下のようなものだった。
 1964年2月、慶応大学考古学教室を訪問したパリ人類博物館(Musse de l'Homme)の洞窟壁画専門家アンリ・ロート氏に、円筒下層式土器片10数点がプレゼントされた(氏は縄文土器に興味を持っていた…そんな氏に円筒下層式がプレゼントされたのは、いかにも縄文的な縄文土器だったからではなかろうか)。ロート氏はそれらを人類博物館に持ち帰ったと考えられる。同館では日本とバヌアツの考古資料は、同じ太平洋地域に区分されていた。1972年になって、同館に所属していたジョゼ・ガランジェ氏が、バヌアツでの現地調査を元に博士論文を書いた。そこでバヌアツ・エファテ島(Efate)メレ平野のヤムイモ畑表採資料が報告された中に、縄文土器片が含まれていた。状況的にみて、人類博物館を媒介として資料の混在が起こってしまったと考えられる。ガランジェ氏の論文を送られた篠遠氏が、図版の中に縄文土器に酷似しているものがある事に気づき、その実物をハワイに送ってもらい、ちょうどハワイを訪れた芹沢長介氏らの鑑定で円筒下層式と確認された。さらに胎土分析や熱ルミネッセンス法による年代測定が行われ、まさに縄文人によって日本列島で作られた真正の縄文土器そのものである事が裏付けられた。
 元々一箇所だけの表採資料という事だったし、周辺地域に同種資料もなく、1997・1998年に行われた発掘調査でも追加資料が得られていない。日本から遠く離れたバヌアツに縄文土器が孤立して存在しているとしたら極めて異例だし、何か特異な事情があったと考えるしかなかった(その可能性が、point to pointでの漂着だ)。報告書がある以上、その土器資料の追求は必要な事だし、追跡研究にかけられた努力は多とすべきだ。結局、土器の寄贈から37年を経て、慶応大学関係者(寄贈者)の証言が公になり、真相が明かされた(話自体は1999年の某懇親会で出たものらしい)。アンリ・ロート氏の証言も聞いてみたい気がするが、すでに故人であり、そのすべはない。ちなみに土器表面に付着した土粒子は、バヌアツのものではなく、日本の土だったようだ。
 やや後味の悪い結末となったが、事はまだ終わらなかった。2003年のコンテンツにその一例がある[沖縄デジタルアーカイブ Wonder沖縄>海底遺跡>人類学は何を語っているか>]。また2003年刊行の『南海文明クルーズ−南太平洋は古代史の謎を秘める−』(平凡社 ISBN4-582-51229-1)に篠遠氏の詳細な反論が載っている(pp.266-285)。だが、ここで興味深い事実が記されている。即ち14点の縄文土器には、中・後期の土器片が1〜2点含まれていたというのだ。このような資料構成は、まさに人為的なコレクション由来である事を裏付けている(日本の複合遺跡での表採なら、時期が混じる事は不自然ではないが)。仮にだが、漂着事件が、前期・中期・後期にそれぞれ別個に起こり、それらが一箇所にまとまって表採されたという結論は受け入れがたいし、後期の漂着物(舟の搭載物)に前期と中期の土器が混じっていたとも考えられない(それに、大部分は前期なのだ)。土器が日本の土で作られた事は確認されており(誰にも異論はない)、ニューギニアのような文化の中継地を考える事も(この資料に関する限り)意味がない。土器表面に付着した土粒子も決定的な証拠となるだろう。それがバヌアツの土に数千年埋まっていたなら、まさにバヌアツの土の粒子がこびり付いていなければならない。


[565]崇教真光と考古学 05/10/06 14:16 9Hqd6qPk93
ヘ、『日来神堂を築いた縄文人』――実際は棚田?
■「縄文時代の黒又山ピラミッド」説への疑問点
ttp://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/ganseki1pira.html#55
 日本ピラミッドは縄文時代の構築物であるという話がよくあります。
 よくよく考えれば、ほとんどの日本ピラミッドでは特に縄文時代の遺物が見つかっている訳でもないし、古くから神聖視されている「岩石祭祀場」があるとは言っても、それが明らかなのはあくまでも古墳時代以降といったものばかりです(石巻山・三上山・三輪山など)。基本的に、日本ピラミッドを縄文時代の築成と主張するからには、あくまでも縄文時代の生活痕跡が明確に確認されなければダメでしょう。
 しかし、日本ピラミッドの中で1つだけ、縄文時代の遺物が見つかり、ピラミッド形に人工整形された可能性があると具体的に説明されている山があります。それが秋田県鹿角市にある黒又山です。
 鹿角市といえば、縄文時代の代表的な環状列石遺構「大湯環状列石」があることで有名です。しかし、その環状列石のすぐ近くに「日本ピラミッド」と呼ばれる山があることはあまり知られていません。
 それが、地元では昔から「クロマンタ」と呼ばれていた黒又山であり、麓からの比高は80m程です。山としては小丘と言っても良いほどの小山ですが、もしこれが人工物ながら巨大な構造物と言えます。
 平成3年、「黒又山は、環太平洋型ピラミッドに相当する可能性がある」という仮説の下に、環太平洋学会という組織が黒又山の調査を実施しました。
 環太平洋学会の調査目的は、この山が「階段型ピラミッド」になっているかどうかを確かめることでした。そこで、斜面部分が階段構造になっているかどうか、レーダーを使って地中の構造を探査する調査方法をとりました。
 結果、環太平洋学会が発表したのは、山麓から山頂部に向かって、7段から10段程の階段状構造が地中に見られるという驚くべき話でした。
 現在、山の地表面を見ても階段状構造になっている様子は分かりませんが、地表を覆う腐葉土の下には、そういう整形の痕跡が残っているのではないかということです。
 また、山の地表面からは多くの礫が発見されましたが、これはピラミッド築成時に覆われた一種の葺石ではないかと推測されています。これが本当ならば、白亜の階段状ピラミッドと言って差し支えないと思います。
 環太平洋学会によると、黒又山からは縄文時代後期の土器片が表面採集されていることと(註3)、周辺の神社の配置から(註4)、黒又山のピラミッド整形を縄文時代の頃と推定しています。この黒又山調査以後、全国各地で日本ピラミッドと呼ばれているものは、おおむね縄文時代の遺跡なのではないかという通念が広まっているようです。
 しかし、疑問に思うところがあります。
 7〜10段あるという階段状構造ですが、これが仮に本当にあったとしても、縄文時代に行なわれた整形とは限りません。縄文土器が山から出ていると言っても、採集された地点と地層が階段状構造のある場所と違うのですから、当てになりません。1つの場所で、複数の時期に渡って生活の痕跡が残る複合遺跡はよくあります。
 個人的には今の状況なら、昔の農民が山腹斜面に棚田を作った、というような可能性でもいけると思います。山の斜面に畑地を作るため地形整形を加えるのはよくある話ですしね。また、レーダ探査をしたのはごく一部の箇所ですから、この階段状整形が全山を巡って行なわれていたという保証は実はありません。たまたま昔の棚田の部分を探査してしまったのかもしれません。
 この疑問を解決するには、実際に階段状構造があるとされるポイントを発掘するほかないでしょう。そもそも本当に階段状構造面が検出されるのかという懐疑もハッキリしますし、その地層面から縄文時代の遺物が見つかれば、初めて階段状構造整形時期が縄文時代であるという推測が可能になると思います。
 黒又山は科学的調査のメスが入ったから縄文時代のピラミッドだという認識が広まっていますが、改めて考えてみると、黒又山が本当に階段状のピラミッド構造をしていたのか、していたとしてもそれが縄文土器の採集された時期と一緒なのかということは、いまだ証明されていないダークゾーンの段階と言えます。


[566]崇教真光と考古学 05/10/06 14:17 9Hqd6qPk93
 黒又山に限らず、日本ピラミッドの築成・使用年代を縄文時代にもっていく傾向が強いですが、それには恣意的なバイアスがかかっており、批判的に目を向けていく必要があるでしょう。
 また、そこにある「岩石祭祀遺構」も本当に「祭祀」に用いられていた「遺構」だったのか、仮にそうだったとしても、それは日本ピラミッド築成時期と同一の時期に使用されていたものなのか、ということを綿密に調べ上げていく必要があるでしょう。
【書込み者より】環太平洋学会が黒又山に関する調査報告書を複数出版しているが、青森県埋蔵文化財調査センターのdata baseには一切収録されていない。また同学会の機関誌が所蔵されている大学図書館は、国会図書館と学会長の勤務する同志社大学図書館だけである。他の研究者から評価されていない。
www.ao-maibun.jp

◇ 人類の起源はアジア!?――アフリカ説が優勢
国立科学博物館HP
www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/1/index.html

●茂原信生氏研究業績 www.pri.kyoto-u.ac.jp/report/2001tenken/SHIGE.HTM
 ミャンマー中央部のポンダウン地域の中期始新世末期(約3700万年前)の地層で発掘調査をおこない,多数の霊長類化石を発見した。これらの霊長類は始新世に繁栄した化石原猿類と漸新世以降に進化した真猿類のちょうど中間的な形態を示しており,真猿類のアジア起源説を支持する証拠として注目されている。Pondaungia(Shigehara et al., in press),Amphipithecus(Takai et al., 2000b),Myanmarpithecus(Takai et al., 2001a),Bahinia(Takai et al., 2000b),そして未記載の2種類の霊長類(Takai et al., in prep.)を発見している。
 さらにこういったミャンマーの初期真猿類化石に基づいて初期真猿類の進化に関する複数の論文を発表した(高井ほか,1999;高井,1999;2000)。またポンダウンの霊長類化石の体重推定に関する論文(江木ほか,印刷中),ポンダウンの地質年代に関する論文(Tsubamoto et al., in press),ポンダウンの新種の奇蹄類化石に関する論文(Tsubamoto et al., 2000a, b)を共著論文として執筆した。

◇ ベトログラフ(岩刻文字)の発見――岩のひび割れ?
 ペトログラフを妄信する人達は、我国で漢字渡来以前からシュメール文字が使われ、岩石に書いていた、と言っています。岩石に書くのなら、石器・土器・鉄器などにも書いたはずですが、そのようなものは当時の遺跡・古墳から全く発見されていない。結局は岩のひび割れを文字だとごじつけているようです。


[567]崇教真光と考古学 05/10/06 14:19 9Hqd6qPk93
崇教真光中級研修テキストE版(2002年改訂)
P54

270〜250万年前 最古の石器エチオピア(ハダール)
200万年前 石器、猿人の石(アフリカオルドワイ遺跡)
180〜110万年前 アウストラロビテクスの礫器(東アフリカ)
160万年前 細石器(中国河北省)
120万年前 木の葉形石器(松江)
50万年前 出雲メノウ石器(島根)
50〜40万年前 石器(マレーシア、コタ・タンバ遺跡)
30万年前 石器(岩宿遺跡)
30万年前 水晶石器(山口)
20万年前 石器(岡山)
20万年前 核石器(インド)
50〜10万年前 原人使用石器(シリア)
約10万年前 尖頭器とスクレーバー(岩宿)
約10万年前 ハンドアックス(大分早水台)
約7〜5万年前 小形石器(栃木、星野)
5万年前 ナイフ形石器(京都)
5〜4万年前 旧人使用石器(シリア)
3〜1万2千年前 石器(石刃、掻器)(石川)
3万5千年前 磨製石斧(東京・下高井戸塚山遺跡)
2万6,000年前 ヤリ先(野尻湖)
2万5,000年前 焼礫(多摩ニュータウン)
2〜1万2,000年前 新人使用石器(フランス、マドレーヌ)

【解説】2001年以前のD版と比較して、160万年前 細石器(中国河北省)と3万5千年前 磨製石斧(東京・下高井戸塚山遺跡)が加えられた。120万年前の木の葉形石器はインチキである。


2005年09月25日(日) 縄文時代の謎

縄文時代の謎

縄文時代の謎
http://archaeology.log.thebbs.jp/1132578259.html


[15]バヌアツの縄文土器 06/02/09 09:30 Fnh/YfU5pN
■南太平洋に縄文土器 文様・技法一致、成分も 5000年、6000キロのナゾ
読売新聞1996.8.14東京夕刊 夕一面1頁
 南太平洋の島国バヌアツ共和国から出土した縄文を持つ土器片を調べていたハワイ・ビショップ博物館の篠遠喜彦博士(太平洋考古学)ら日米仏の考古学者ら六人はこのほど、これが約五千年前の日本の縄文土器であると断定した。なぜ、日本から約六千キロ離れたバヌアツで出たのかは謎(なぞ)だが、縄文世界に新視点を与える発見として注目されそうだ。博士らは同国で開催中の西太平洋考古学学会で五日、この研究結果を発表した。(バヌアツ共和国・ポートビラで、坂田誠一郎)
 この縄文土器片は、60年代中ごろ、フランスの考古学者ジョゼ・ガランジェ博士(現パリ大学考古学名誉教授)が、バヌアツのエファテ島メレ平野のヤムイモ畑で、同島特有の土器片とともに地表から採集したもの。同博士は72年、論文で縄文土器とは知らずにこの土器片についても言及したが、論文の掲載写真を見た篠遠博士が、日本の縄文土器との文様の酷似に驚き、調査が始まった。
 土器片は、長さ2-9センチ程度のもの計14点。うち3点を芹沢長介・東北大名誉教授(考古学)に見せたところ、独特の羽状縄文などから、青森・三内丸山遺跡など東北地方に多い縄文前期円筒下層c、d式土器と同様の縄文を持った土器であることが判明した。
 93年から行われている太平洋の土器分析の権威、ウィリアム・ディキンソン米アリゾナ大学名誉教授(地質学)による同土器片の成分分析では、バヌアツに存在しない鉱物添加物を含み、しかも青森県出土の典型的な円筒下層c、d式土器の鉱物添加物と組成、量とも一致することがわかった。
 続いて、最近、英オックスフォード大学などの熱ルミネッセンス法による年代測定で約五千年前のものであることが判明したため、研究チームは文様、製造技法、粘土成分、年代などを総合的に判断、日本で作られた縄文土器(複数)が、何らかの原因でバヌアツに運ばれたものと結論づけた。
 ◆漂流の舟に乗って?
 篠遠博士らは、この縄文土器が近年、〈1〉土器収集家が日本から持ち込んだ〈2〉日本の土砂を持ち込んだ際に混入していた――可能性なども十分検討したが「まず、あり得ない」としている。
 逆に、西太平洋地域ではパプアニューギニアで出土した古い土器に日本の縄文早期の土器の影響が見られる、との関連学説があることを支援材料として指摘。出席した考古学者から、フィジーでも縄文土器特有の文様を持つものが出土しているとの情報が寄せられた。
 博士は、現時点では、「偶然に到達した可能性」が強いとし、「縄文土器を積んでいた当時の舟が何らかの原因で日本からバヌアツへ漂着したケース」を推測する。傍証として日本から中部ミクロネシアへ漂流、漂着した過去の多数の例や、1951年に長さ8mの小舟が中部太平洋マーシャル諸島からバヌアツに到達した例などを挙げた。
 最近では、日米の人類学者により、人骨や歯の比較調査から縄文人が南太平洋へ南下、移動した可能性も指摘されており、今回の縄文土器との関連性にも関心を寄せている。
 同博士らは、この縄文土器片が狭い範囲での一回の採集で得られた40点のうちの14点であることに注目。「地元民がヤムイモを地中深くから掘り出す際に出土したことも考えられ、まだ深い地層に多数埋まっている可能性もある」として、本格的な現地発掘調査の必要性を指摘している。


[16]バヌアツの縄文土器 06/02/09 09:32 Fnh/YfU5pN
■[よみうり寸評]縄文ロマンに残暑を忘れる
読売新聞1996.8.17東京夕刊 夕一面1頁
 縄文人も、この力強い風景に見入ったことだろう。八甲田山に大きな入道雲が湧(わ)いている◆青森市南西の丘陵に広がる三内丸山遺跡を見て、そのスケールに圧倒された。5500年前から4000年前の巨大な集落跡は、これまでの縄文史観を覆すといわれる◆全体の七分の一、五ヘクタールの調査で四万箱にもなった出土品や住居群に文化の集積を感じるが、海上を通じて交易したことを示す展示品にも目を見張った。新潟のヒスイや岩手のコハク、北海道の黒曜石…◆“縄文の北前船”に海は土地を隔てるものではなく、結ぶものだということを知る。交流の範囲に思いをはせていると、14日付の小紙の夕刊で〈南太平洋に縄文土器〉の話題を目にした◆約六千キロも離れたバヌアツ共和国から出た土器片について日米仏の学者らが、文様や技法、成分などから三内丸山遺跡など東北に多い縄文前期の土器と同様の土器と結論づけた◆南の島にどのように漂着したのか。それは今後の研究に待つとして、はるばるとした縄文のロマンに、しばし残暑を忘れる。

■グラハム展 南太平洋の島で出土の縄文土器片公開 南へ数千キロ海渡る?/大阪
読売新聞1999.8.21大阪朝刊大阪2 30頁
 北区の新梅田シティミュージアム(梅田スカイビル5階)で開催中の「グラハム・ハンコックの世界展〜失われた文明を求めて」(読売新聞大阪本社など主催)に20日、新たな展示品が加わった。南太平洋のバヌアツ共和国で出土した縄文土器片7点で、日本では初公開。訪れた人たちは、早速興味深そうに見入っていた=写真。
 土器片は、五千年前の縄文時代早期に日本で製作されたと思われ、縄文人が南太平洋を数千キロ南下した可能性が指摘されている。ハンコック氏が、世界各地の古代遺跡にこん跡があるとして提唱している「超古代文明」との関連から話題を呼びそうだ。
 同展では、世界的なベストセラー『神々の指紋』の構想をもとに、ジオラマ模型やコンピューター・グラフィックス映像などを駆使し、ギザ・ピラミッドや与那国島海底遺跡など世界各地の古代遺跡群を再現、「失われた文明」の謎(なぞ)を紹介している。9月19日まで。一般1200円、高校・大学生900円、小・中学生600円。


[17]バヌアツの縄文土器 06/02/09 09:47 Fnh/YfU5pN
読売新聞2001.2.14大阪夕刊 文化7頁
◆仏博物館の登録ミスか 縄文人の太平洋渡航に疑問符
 五千年前の縄文土器が南太平洋の島国、バヌアツで“出土”した。このニュースが考古学界を驚かせたのは5年前のことだった。「太平洋を渡った縄文人」は新聞の一面で報じられ、テレビの特集番組や本にもなった。しかし、これが近年、日本から持ち出された可能性が高いことが国立民族学博物館の印東道子教授(オセアニア考古学)らの指摘で明らかになった。(森 恭彦)
 バヌアツ共和国エファテ島のイモ畑の地表近くで採取された14点の土器片。1972年、フランス人考古学者、ジョゼ・ガランジェ氏(現パリ大学名誉教授)が発掘報告書に、写真とともに記載した。
 その写真が縄文土器に酷似していることに、米ハワイ・ビショップ博物館の篠遠喜彦・上席特別研究員(太平洋考古学)が気付いた。芹沢長介・東北大名誉教授(考古学)らに鑑定を依頼したところ、東北地方の縄文前期・円筒下層c式、およびd式の土器で、鉱物学鑑定によって青森県内の砂がまじっていることも分かり、96年の西太平洋考古学会で発表した。
 これが大々的に報道されたため、「縄文人が海を渡り、六千キロ離れたバヌアツに到達していた」というロマンに満ちた推測が独り歩き。一般向けの本でも紹介されるようになった。
 しかし、この説に疑問を持ち、「土器は近代になって持ち込まれたものではないか、と指摘する声は当初からあった」と、印東教授は言う。
 たった一か所からの表面採取品であり、地層から年代を判定することができない。周辺から類似の土器が一点も出ていない――などが理由だ。97年に再調査が行われたが、やはり縄文土器は発見されなかった。
 ところが、最近になって慶応大考古学教室の関係者が、「64年2月、慶応大を訪れたフランスの考古学者アンリ・ロート氏に、まったく同じ縄文前期の円筒下層式土器をサンプルとして寄贈し、ロート氏は、土器をパリの人類博物館に持ち帰った」と証言した。
 ガランジェ氏は当時、同博物館に所属していた。しかも、同館では、バヌアツと日本の資料が同じ太平洋地域のコーナーに整理されていた。このため、慶応大から渡った縄文土器が、博物館のミスで「バヌアツ出土」と登録され、それをもとに報告書が書かれた可能性が高いことが分かった。
 篠遠研究員は「今ごろになってなぜそんなことを言われるのか」と当惑。ガランジェ氏も、「登録ミスはなかったと信じる」と反発しているが、バヌアツで新たに縄文土器が出土しない限り、〈縄文人の渡航〉には疑問符を付けざるをえないようだ。
 写真=バヌアツのエファテ島で“採取”された土器片

  □

【参考】ガセビアだったバヌアツ縄文土器
www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/vanuatu.htm
【Web解説】芹沢長介氏は藤村新一を推薦し、相沢賞受賞が実現したという前科がある。
www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/kataru/serizawa/index.html


[19]縄文の真実 06/02/11 11:19 LT73dbfvlA
三内丸山遺跡の『500人説』の岡村道雄氏にも疑問の声があがっている。
www.komakino.jp/shohyou-narita/shohyou-narita.htm
『岡村道雄 藤村』で検索してみると、例えば次のようなHPがみつかる
ttp://yamatai.cside.com/katudou/kiroku223.htm


2005年09月24日(土) 紀行記

紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村

(2004年11月10日と同じ物)

480 キリストの墓の真実(1)――お代理紀行(a) 2004/12/23 14:30

「真光」誌昭和44年12月号P18-24
紀行記――戸来を尋ねて 聖地キリスト村
東京青年隊々長 手島○六 (国学院大学四年)

 私が、昨年に続いて今年も又、青森県十和田湖近辺にある戸来(ヘライ)村を訪れた理由は、過去、教え主様より中級、上級研修会において、「イエス・キリストはゴルゴタの丘で十字架を逃れ、イスラエルを脱出して東方の果て日本に上陸し、青森県三戸郡戸来村でその一生を終えられた」という歴史上の真実を知る事が出来たからである。昨年、その目的を全て果たす事の出来なかった私は、今年も大学が夏期休暇にはいると居ても立ってもいられず、再度、東北へ旅立ったのである。
●【写真】沢口家の紋章:イエス子孫と称している沢口家の紋章,ダビデの紋に非常に似ている。中央老婦人は故沢口氏の妻女。他は筆者・手島○六君(前列右)と同行の青年隊員。

 私は、学友である金丸○弘と共に、まず北陸へ向かい、三道場各青年隊と心暖まる有意義な交流会を行なった後、勇み立って東北へと向かった。これに北陸青年隊の伊藤○す子さんが同行し、途中、長岡の車中で石渡○夜子さんと落ち合った。
 第一の目的地は、青森県五所河原市近くにある梵珠(ぼんじゆ)山である。大釈迦駅に着いて見ると、驚いた事に東京青年隊の沢柳○一君がホームに立ってニコニコと笑っているではないか。なんと東京から八百数十キロの道程を、ちっぽけな一台のオートバイで走破してきたのだ。私は、彼が青森行きを強く希望していた事は知っていた。しかし、彼が青森まで来る事は危険がともなうので反対もし、又、実際ここまで来るとは思ってもみなかった。だが彼は遠く長い道程を越えて、大釈迦の駅に今立っている。その勇気と情熱に、私は感動を覚えずにはいられなかった。そして彼のバイクが、これから登ろうとしている釈尊の御骨が祭られてある梵珠山において、大変な活躍をしてくれたのだった。
 霊山に登る頃、すでに夕刻の陽が私達の背後に迫っていた。標高四百六十八メートルという比較的低い梵珠山(教え主様が六年前登られたみ山)は登ってみると以外にも困難をきたした。途中から「神向き妙法見実相観神通力」を連唱しながら登って行った。頂上に到達した時、あたりはすでに暗闇であり、時計は七時五十五分を指していた。私達はそそくさと荷物をまとめ、カンテラを照らした。釈迦堂に人影は全くなく、むしろ御堂とはいい難いそまつな釈尊の塚があるに過ぎなかった。しかし私達の胸は高鳴り、興奮していた。周囲には遠く青森の灯と大釈迦の町々の灯が奇麗なコントラストを描いて美しい。私達がお参りの用意を始めると、ほどなく雲が一面を覆い町の灯は消え去った。私達はそれこそ心から敬虔な祈りを捧げた。最中、水滴がポッリと落ちてきた。それはあたかも釈尊の涙のように思えて仕方がなかった。お参りを終えてあたりを見渡すと雲は切れ、再び私達の目に町の灯が映ってきた。
 この山の由来記に、霊峰梵珠山は昔より旧歴七月九日には数千人の人々が参拝登山し、丑満(うしみつ)時になるとローソク大の釈迦の霊燈の出現を見た人も少なくないといわれている。(教え主様は真昼ここに登られて、大変な奇跡に会わされた由)
●【写真】戸来(ヘライ)塚:戸来村にあり、イエスの墓所と現地では言っているが、一説には弟イスキリの髪と耳が葬ってあるといわれている。
(写真上はその説明掲示板)


481 キリストの墓の真実(2)――お代理紀行(b) 2004/12/23 14:32

 翌朝、私達は第二の目的地、十和田湖畔の奥にある眉ケ岱《マユガタイ》(別称迷ケ平《まゆがだいら》エデンの花園)と呼ばれる聖なる土地に向かった。その途中奥入瀬渓流は誠に美しく、多くの巨石にも驚かされ、又、十和田湖の神秘なたたずまいに感嘆したけれども、宇樽部(うたるべ)からうっそうと生い茂る山道を車で抜けて行くと、突然視界が開け、あたりには朽ち果てた巨木が草原の中にどこまでも続き、その雄大な景観は確かにそれらを更に上回るものだった。
 明日からいよいよ本格的にイエス・キリストの遺跡について調査を開始するわけである。此の日、私達は十和利山(とわりざん:別名トガリ山といい、キリストの本塚とされている)の麓にあるエデン荘という小屋に落ち付き、バイブルを勉強して休んだ。
 眉ケ岱の朝は霧が流れ、やがて陽の光が輝き初め、エデンの花園を照らした。
 私達は教え主様より「古代エジプト文明の象徴であるピラミッド(日来神堂 《ヒラミドウ》)は日本から行ったのであり、原型は十和田湖の一角に、その他ピラミッド山は方々に現存している」と言うみ教えを戴いている。現地の人々はその一つを大石上山(おおいしがみやま)にある石上(いしがみ)と言っている。山の入口と思われる付近で村人に大石上(御石上)の場所を尋ねてみると、親切にも案内してあげようと言うではないか。私は神様の御守護に感謝せずにはおれなかった。明るい希望が体の底からふつふつと湧いてきた。大石上山を登り始めると小径はしだいに草で被われて行く。草をかき分け、かき分け、道なき道を歩き、沢を渡り、ようやくにして石上(ピラミッド)の前に立った。もし道案内をして戴けなかったなら、ここ迄はとてもたどり着く事は出来なかったに違いない。
 途中、禁断の木の実とバイブルで言われているコカの実を見つける事が出来た。
●【写真】石切様:ピラミッドの頂上に、土地の人が代々イエスを祀ってきたという石切様がある。
 ピラミッドの一つは過去幾千年の風雪に耐え、その面影を今も残していた。巨石は大石上山のそこにだけ山積していた。長さ四メートル余りの楕円形の巨石は、太陽信仰に用いられた鏡石と思われる。だがかつての地震で倒れ、今もそのままになっている。この削られた跡のはっきりしている巨石を、誰が、いつ、どうしてこの山奥へ持ち運んだのであろうか。村の人々は誰も知らない。多分、イエスが神様をお祀りする為に造られたのであろうか。それとも弟子がイエスを祀ったのだろうか。地名イシガミもイエスガミから来ているのかもしれない。村人の話によれば「いつもはこの大石の上の大木に大蛇がとぐろを巻いている」と言う。どういう訳か私達の前にその姿を現わさなかった。村人は「いつも居るはじゅなのに」と不思議がっていた。
 その後、私達はキリストの墓といわれている墓所がある戸来村沢口(さわぐち)へ行き、入口で、キリストの聖水と呼ばれる湧き水でミソギをし、なだらかな坂道を登って行くと二つのこんもりとした土まんじゅうに出逢った。私達の立っている所は小高い丘である。向かって左側の墓は「十代墓(じゆうだいぼ)」と呼ばれ、父ヨセフと母マリア、そしてイエスの身変わりとして処刑された弟イスキリの髪の毛と耳が土中に収められ、右側の「十来塚(とらいづか)」は、イエスキリストの墓と呼ばれている。だが、実際は違っていて、イエスの高弟であろうと言う説がある。
 そこから更に百メートルも登り切らない所に、比較的広い土地がある。これこそがイエスの住まわれた館跡である。今はその大部分がリンゴ園となっている。リンゴもその昔、イスラエル人が作ったとされている。


482 キリストの墓の真実(3)――お代理紀行(c) 2004/12/23 14:33

 これらを見終えた私達は、早速丘を降りてすぐそばにある沢口家を訪れた。沢口家とは今日まで代々この二つの墓を先租の主(あるじ)として守り通してきた家の事である。私は咋年、キリストの子孫という噂のある沢口三次郎氏と親しくお話しする機会に恵まれた。ご自分ではキリストの子孫と思っているらしかったけれども、事実はイエスの高弟の子孫であるらしい。今年も、あのユダヤ人のような赤ら顔とワシ鼻をした独特の風貌に接する事を楽しみにしていた。
 私は沢口家の玄関に立ち、大声で「こんにちは」「こんにちは」と声を張り上げた。応答がない。もう一度言ってみた。暫くするとおばあさんが出てきた。私は言った。
 「昨年親しくお話し頂いた者です。おじいさんはおられますか」
 おばあさんが言った。
 「おじいさんはもういねえだ」 
ぽつんと一言もらした。
 私は慄然としてしまった。
 「この春亡くなっただ」
 間をおいて私は重く口を開いた。
 「そうですか」
 おばあさんはなつかしそうに、いとおしそうに、おじいさんの面影を語ってくれた。おばあさんは私達を本当に暖かくむかえてくれ、次々に家の宝物を見せてくれたのだった。イエスが使ったと思われる神にお使えする石の食台を手にした時の胸の高鳴りを、どうする事も出来なかった。又、タビデの紋章に良く似た、非常に古ぼけた家紋が戸袋に使われていた。無論、何故この紋を沢口家がつけたか、何時からあったか、家の人は全く分かっていないそうだ。
 今日、最後の目的地へ向かう。しかし、果たしてイエスがあのキリストの墓と呼ばれる所に眠っていないとすれば、一体何処に御墓はあるのだろうか。恐らくそれは戸来岳であり、十和利山であろう。ここにイエスの本塚があると思われる。九百九十メートルの十和利山を中腹まで登れば、下界西に十和田湖全貌が朝日に映え光っている。中腹一面には枯れた巨木があった。頂上にたどり着くと霧がたちこめ、視界はきかない。私達は真剣にお参りをし、イエス様に祈った!
 イエスの死について、一説には十和利山頂で百十八歳の天寿を全うし、風葬され、その御骨を山に残した。又キリストの墓と言われる二つの土まんじゅは父母の墓として守り祀ったと言う。
 再び眉ケ岱にもどった私達は、その近くを詳しく調査した処、そこで”神秘の泉”のような池を見つけた。ここの泉は決して枯れはしない。どんなに日照りが続こうとも渇する事がないそうだ。そして、この近くに古井戸の跡とみられる深い穴も見つけた。日照(にっしょう)は地の底までとどいてはいない。底は真暗闇だった。村人の語で興味を引くのは、この地域で古井戸と泉の一角のみが大昔から私有地となっているという。つまり一角を除けば全て国有地で、美しいが実に辺鄙(へんぴ)な所である。だがここに昔、人々が住んでいた事は確かであることを誰しも感ずる事であろう。
 果たしてエデンの園と呼ばれるこの土地がアダムとイブの物語の土地であるのか、その真偽の程は良く分からないが、この地方の人々は男をアダ又はアヤ、女エパ又はアパ(み教えでは神代語)と言うのであるからちょっと驚かざるを得ない。
 私達はエデンの花園、眉ケ岱をあとにして現代離れした名称を持つドコノ森に向かった。途中、牧場近く迄きて車を降りた。そこには誘いこむようなたたずまいの一本の朽ちた巨木と木陰があったからである。魅せられるように奥には入って行くとあたりに草原が開け、正に美しき山アジサイが咲き乱れ、シダ(み教えでは南方樹の先祖)が繁茂している。私達はそのあざやかさに、オー素晴らしいと大声を上げた。このような所がエデンの花園か、そのヒナガタに違いないと思った。
 ああ有難し! この名もない草原に茂るシダ。眉ケ平の枯れ朽ちた巨木と泉。奥入源の密林と巨石、大石上山にあるコカの実。どれをとってみてもこの地方が太古の昔、教え主様が言われるように「東北は亜熱帯であり、高山地は世界の軽井沢といえよう、五色人が集まってきたのが現在の熱海のような常春の気候であった」事は、想像に難くない。


483 キリストの墓の真実(4)――お代理紀行(d) 2004/12/23 14:35

 やがて遂に私達はドコノ森を見つけた。ドコノ森を捜すのに骨が折れた。しかし捜さねばならなかったのだ。そこには一万個以上に及ぶ神代文字の刻まれている骨片が、山の土中に埋もれているからだ。もちろん山に登り、土中から神代石を発掘する事は時間もなく、無理な相談だった。けれども、三角形のドコノ森の雄姿を遂に見つけたのだった。
 さて、このようにして、私達の戸来に於ける超古代遺跡の探査は一応の成果を収め、無事今回の目標の一部はなし終えた。その目的とは、イエス・キリストの歩まれた道をくまなく尋ねみる事に他ならなかった。そして、イエスやユダヤ人(日の本の分家筋)が、この地に住みついたと思われる事実を説明するに足る裏付けは、他に述べれば枚挙にいとまがない。
 例えば、この地方独特の方言がそれである。日本語離れした村人の会語を私はほとんど理解できなかった。しかも大石上山の盆踊り等に唄うナニヤドヤラ盆唄は、ユダヤ語研究学者に言わせれば「お前の聖名をほめ讃えん」と言う意味のヘブライ語だそうで、村人はわけも分からずに唄っている。
 現在はもうやってはいないが、戦前は子供が生まれると、額に十字の赤い墨を塗り、一ヵ月間外に出さない風習も実際にあったそうだ。
 これらはほんの一例にすぎないが、時間をかけ、厳密に調査をすればするほどに、さまざまな問題を提起するに違いない。
●【写真】十和利山を望む 古文献では,イエスの遺骸はこの山上で風葬されたという。
 しかし、又一方、そういった風俗、習慣も年を追うごとに忘れさられ、太古の自然美を誇る眉ケ岱(平)も戸来村も観光地として俗化して行く事も否めない。悲しい事だが、イエスの歩んだ道を尋ねみようと思うなら今だ! この山奥にも物質文明の波は滔々として訪れ、山はダムに置き換えられようとし、村の家々には電化の花形であるカラーテレビがどこにでもある。若者たちは風俗、伝統といったものを守るどころか、知ろうともしないようである。私は一年ぶりに戸来を訪れてみて、この地域全体が物凄い速度で開けようとしている様をまの当たりに見て、大変喜ばしい事だと思う反面、世界の文明の古い源を尋ねるものも少なくなり、しだいに消えて行く一抹の寂しさ、憂いを感じない訳には行かなかった。
 私達にとって、イエスの遺跡を見、手にして触れる事が出来たが、同時に見逃してはならない一つの大きな問題がある。
 それは当時、この聖なる地でイエスが何を考え、何を想いつつ暮らしておられたかと言う疑問である。イエスは弱冠十八歳で日本に上陸し、多くの神業を体得して、母国イスラエルに帰り、神の国と義について宣布され「向こうで死んではならぬ」の勅命通り、涙をのんで弟イスキリを身変わりとして処刑を逃れ、再び青森県八戸港へ到達したと言う。その後、全国を幾度となく巡教され、言語、風俗を研究され、又残し、人々を救って歩かれたのはみ教え通り推定できるのである。そして又、イエスの呼名も十来ではお偉い御方、あるいはイシガミ様として、八戸では八太郎天空として、そう言えば八戸では八太郎某(なにがし)という店屋をよく見かけた。あるいは猿田彦神として、これなども顔が赤い所からこう呼ばれ、尊敬されたのだろう。
 久方に都会のビル雑踏から遠く離れ、山々と太古史の香(かおり)のふところに抱かれ、青き草の薫をかぎ、澄み切った空を眺め、目にしみこむような樹木や花々を見つめていると、なんだかイエス様の御意がうすぼんやりと頭に浮かび、体に伝って来るような気がしていた。それはこよなく自然を愛し、神と共に生きたやさしい、喜ばしい感謝に満ちたお姿だった。教え主様が良く言われる「神は自然なり、至善なり、天に飛ぶ鳥の如く、地に咲く花の如く、らしくあれ!」そうだ、自然を知らずして神を知る事は難し、イエス様も至善を知(智)り尽くした方に違いない。この大至善即大自然の雄大で誠に繊細な仕組みと妙なる旋律を知ることなのだ。私はそう想った。全く理屈などではなかった。
 しかし、イエス様を想う時、この自然の山や風が、一方憂慮に満ちているように思えてならない。その御顔はどことなく悲哀感があり、葉が風にゆれている様は声なき声に変わった。声なき叫びが山々にこ霊(だま)しているようだ。時として嘆きの声にさえ聞こえてくる。


484 キリストの墓の真実(5)――お代理紀行(e) 2004/12/23 14:39

 私は強く思う。幾星霜を経た今日、イエス様の眠るこの自然の中に歓(神)喜と深い悲しみとが同居しているように思えてならなかった。確かに教え主様の言われるように、イエスは日本に渡来している。現代の歴史は二千年前後の唯物史でしかない。一切は仮面(マスク)と真如に満ち溢れ、聖者聖雄はこのような偽りの歴史に包まれた「現代」を嘆き、悲しんでおられるに相違ない。
 われわれはこう言った真実を知れば知(智)る程に、その恐るべき誤ちにただ安閑としている訳には行かない。
 純粋に、純粋に神向きして行こうとするならば、われわれは雄々しく立ち上がらざるを得ないだろう。人生観を百八十度転換してしまった、尊き、吾等のこのみ教えを知った時のあの感動を、今こそ自分自身の魂に甦らせねばならない。
 主の大神様は、われわれが歴史の改修に幾許(いくばく)でも手を染める日が一日も早く来る事を、今、一番望んでおられると私は確信している。

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【感想】 著者はさぞかし文学青年だったろうと思う。流麗な文章は今と少しも変わらない。古史古伝への妄信ぶりも、全く変わっていないね。


(日記作者 文末一行削除 住所のため)
(20081226 伏せ字一字追加および誤字修正)




日記作者