暴かれた真光日本語版
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2004年01月31日(土) 056 publicationsinJapan

最終更新日:2002.10.01 HOME


国内出版物における情報

国内出版物における情報を集めました。

目次

・「新興宗教の正体」 早川和廣著 あっぷる出版社
・「新興宗教教祖のウラの裏がわかる本」 早川和廣 ぴいぷる社
・防衛庁戦史資料閲覧室、第三十四期生会々員名簿: 岡田光玉氏の家族
・「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−
・「特集、八王子に四十五万坪を買った○○真光」 週刊新潮1995、04・27号
・「日本ばちかん巡り」山口文憲/著
・「生命の實相」第8巻: 生長の家の「神想観」と真光の「神向き妙法見実相観」の酷似
・「S界真光文明教団に対する奉納金返還請求を却下−地裁沼津支部」 静岡新聞
・「元幹部らに賠償命令 奉納金めぐる真光文明教訴訟で教団側主張通る−地裁沼津支部判決」 静岡新聞

・フランスにおける○○真光: 「カルト宗教のトラブル対策」、「現代宗教2002」、「自由と正義」52(2)88〜101 (通号623)[2001.2]
・『日本ばちかん巡り』への言論弾圧
・『教祖誕生』
・「護られた街−カルトは防げる撃退できる」
・「神道事典」 國學院大學日本文化研究所編集 弘文堂H6年初版
・「信者を嵌める欲望の神々:新興宗教を告発する」  田中一京著 青年書館1989.11
・「新興宗教被害と悩み解決法」 田中一京著 青年書館 87.11             
・いまどきの神サマ―退屈な世紀末,人びとは何を祈る?(別冊宝島 114)JICC出版局1990
・○○真光と八代英太
・○○真光と教育基本法
・千乃正法と○○真光の類似
・今後、内容を公開したい文献一覧
・その他





2004年01月30日(金) 057 publicationsinJapan

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「新興宗教の正体」 早川和廣著 あっぷる出版社 (絶版) 

真光立教前の裏話が載っているという。

<抜粋>
岡田良一氏は戦時中に山梨県大月市に疎開したが、そこで井上甲子さん(S4.12.16生)と出会った。世話になったのが彼女の実家の2階である。彼女は当時大月市民病院の看護婦をしていた。良一氏はそこで世界救世教を知り、戦後に救世教を頼って上京した。」
 他にも同書には、教団分裂時のことが公平な観点が描かれているという。10年近くにわたる裁判と中傷合戦に嫌気が差して去っていった信者も多いとあるらしい。

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「新興宗教教祖のウラの裏がわかる本」 早川和廣 ぴいぷる社 1988.11.25 P165

<以下抜粋>

晩年の岡田光玉は宗教者には似つかわしくない贅沢に溺れ、金銀財宝を身につけていたという批判の声もある。だからこそ、せっかくの真光の業がありながら、天寿をまっとうすることなく、73歳で病没してしまったというのである。

初代教え主亡き後、分裂した両派にゴタゴタ騒ぎが絶えないことは、結局のところ、教団幹部連中に教団を率いる資格などないという事実を物語るものといって差し支えあるまい。

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防衛庁防衛研究所内、戦史資料閲覧室 昭和三十六年十月、第三十四期生会々員名簿

岡田光玉氏には妻と実の娘がいると言われていたが、以下の資料から、それが確からしいことがわかる。

岡田光玉氏の家族については、○○真光信者は一切知らされていない。ただし、長女は昭和62年(1987年)に発足した陽光子友乃会で研修を受け、平成3年(1991年)前後の陽光子友乃会のみ祭りに来賓として招かれ、信者に紹介されたと言われている。岡田光玉氏によく似ていたという。

また、この昭和36年(1961年)の資料では、「妻亡」とあり、妻の死亡を意味すると思われる。しかし、「3.崩壊しつつある真光の基礎」によると、光玉氏は昭和28年(1953年)から昭和32年(1957年)ぐらいまでの時期に妻と離婚したと言われており、離婚したことを隠すために「妻亡」としたのか、あるいは妻は本当に死亡していたのか、定かではない。

    防衛庁防衛研究所内、戦史資料閲覧室
    昭和三十六年十月、第三十四期生会々員名簿
 P.12
         氏名   岡田竜道(良一)、
         初隊号  2−2Gi (近衛士官)
         勤務先  L・H陽光子友の会々長、多田建設KK顧問
         家族   妻亡、二女(長嫁 次女幸子)

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「無私の愛よ永遠に」平成二年刊 −たま出版、瓜谷社長の証言−

たま出版に瓜谷社長は初期の真光組み手であり、光玉のとの経緯を「無私の愛よ永遠に」平成二年刊に於いて書き残している。

(瓜谷氏の超宗教・超宗派への道の提言に対して)
以下引用

〔前略〕

顕著な真光の業の実績などにより信者が増えるに従い、やはり通常の宗教セクトと同じような団体を形成し、数ある新興宗教団の一つとしてひたすら信者数を増やすという量的拡大の道を歩み始めた。

間もなくS界真光文明教団という麗々しい名称の下に宗教法人の認可が降りた。 そしてしばらくは世田谷区にある自宅兼事務所で布教活動を行なったが、本部になる殿堂の建立の計画がされ、東横線沿線の格好な土地が求められ、その建設が始まった。 その着工に先立つ地鎮祭の時、私も妻もその式に列席した。 式の途中、何故か物凄い突風吹き、周囲に張られた式幕が風で吹き飛ばされそうになった。 妻はこの余りにも強烈で、突然の風が、何かの予兆だと言い、本教団の前途が波乱に満ちたものであることを示すものと私に語った。

そしてこの予言は的中した。 本殿ができたのが昭和四十三年三月、その後教団自体は大いに伸びたが、初代教主O師(光玉の事)はその六年後、昭和四十九年六月、この本殿で、突然の急死をしてしまった。 その直後から後継者をめぐって二人の人物がそれぞれの正当性を主張し譲らず、遂に裁判まで持ち込まれ、その決着に五、六年を要した。 その結果一方が名称を変え、同じ教義の下に、同じ初代教主をいただいて、宗派活動をするようになり今日に至っている。 間もなく正式名称継承した方の教団から、第三代を名乗る人物が現われ、別派をつくり三つの教派に分裂してしまっている。

思うにこれはあらゆる宗教セクトが陥る宿命的な運命である。 宗教の時代はとっくに終わっているのに、現世的な名誉や財産に捉われ、神の経綸を説きながら、自らはそれを実践できないでいるこの悲喜劇が多く繰り返されている。 ああ何と悲しむべき現象であろうか。

この立派に殿堂が建つ前後よく妻と語りあったものである。

「これからの人を教化する宗教あるいは精神運動の場はすべからく幕舎でなければならぬ」そのように神(妻の)から授かったと彼女は何度も私に語ったことがあるが、私もその通りだと思った。 こういう点では不思議なことに、二人は必ず意見が一致し、何の葛藤もなくお互いの心中を語りあうことができた。

この本殿の建立が始まった頃、本来なら幕舎であるべき所なのにという思いと、万時に宗教セクトをますます強化し信者の拡大に走るその姿と、主神の代行者よろしく自らを特別神聖化して行くO師(光玉氏の事)の行方に、これではついていけないとの思いがつのった。 そしてある日二人で世田谷の本部に伺いO師(光玉氏の事)に面会した。 その時二人は信仰を離れることを決意はしていたが、いきなりそこまで言うのは、多年導きいただいた教主たる師に礼を失すると思い、その時は取りあえず、道場長、その他幹部的な役をいただいていることを辞したい旨お願いした。

師は顔色を変え、いつもの温顔がきびしくなった。 師は静かに信仰をやめかねない二人の態度に、もしこの信仰を去れば、それなりの罰や祟りがないとは言えない。 またこれから何かにつけ神の庇護を受けられなくなると、翻意を促すように告げた。 厳しい一瞬であった。 入信間もなく訪れた二階にある神殿のあるご本部の日本間である。 師の言葉は、決意の決まったわれわれ二人には空しかった。 しかし温情ある師から受けた現世的恩義は忘れることはできない。 それは感謝せねばならないし、その気持ちは十分あった。

そして師は、その豊かな霊感を見抜いて、妻に、もし将来あなたが、霊的な指導者として独立するなら援助は惜しまない。 だからもうしばらくここで修行を続けなさいとも語った。 しかしそれは妻が最もなりたくないことで、心中はとんでもないことと思ったが、その場ではその過分なお言葉に、最大級の謙遜な気持ちをこめて、師にその好意を感謝しつつも、はっきりご辞退申し上げた。 このような妻には人一倍強い霊感、霊能を持っていながら、これで信者を集めたり、これを仕事にするようなことは全然念願になかった。 やはり本質はあくまで精神世界的な、一求道者であった。 その意味では二人は文字通り、同じ道を歩む互いにかけがえのない同志であった。

このような一幕があって、折角本部殿堂ができたというのに、二人は次第に足が遠のいていった。 どんな立派なものであろうと、いや立派で堂々たる殿堂である程、二人には何の魅力もない空しいものしか思えなかった。

〔後略〕

<注> 

教団を去れば神の守護が受けられなくなる、罰や祟りがないとはいえない...と、教祖の岡田光玉氏自身が言っている。それ故、現在の真光系教団もこの体質を受け継いでいると言えよう。


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「特集、八王子に四十五万坪を買った○○真光」 週刊新潮1995、04・27号 (G氏、N氏からの情報 参照

1995年3月30日、オウムサリン事件後、國松警視庁長官が銃撃された。そのわずか2日前、3月28日、八王子市議会において、崇教真光教団による山林買占め問題が質問され、怪しい買占めを市会議員によって追求された。この件は、週刊新潮1995、4、27日号にも掲載されている。なお、議事録は市役所で請求すれば誰でも見られる。


市議会での質問から: 

...買占めの実態についてですが、この3年間での買収費用は総額130億円を超えていると推測をされています。盆暮れには3万円程度のつけ届けが土地所有者に届き、大変熱心に買っているようです...

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「日本ばちかん巡り」山口文憲/著 新潮社 出版年月 2002/02  1800円

 天理・金光・救世・真如苑等の各本山を取材し、教団の表向きの広報だけでなく、裏話
ものせている。崇教に関しては、以下のとうりだ。

1) 立教者の死亡後教団が分裂したため、2代目教祖の経歴を秘密にした。
2) 本山のある高山にわざと自前の宿泊施設や給食施設をつくらず、地元業者を利用するよ
うにした。

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2004年01月29日(木) 058 publicationsinJapan

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真光の祈言集にある「神向き妙法見実相観」と、生長の家の「神想観」の酷似

生長の家で出している本「生命の實相」第8巻に、「神想観」と言う実修に関してのっています。
瞑目合掌して念ずるらしいのですが、20ページ後ろから4行目


・・・「われ、今五官の世界を去って実相の世界に坐す。
   自分の今坐っているのはこれ実相の世界
   神の無限の知恵の海
     無限の愛の海
     無限の生命の海
     無限の供給の海
   一切大調和の実相の世界である。この大調和の実相の世界にいて
   自分は神の子として神より無限の生かす力の供給をうけつつある
   のである。」
と黙念しますと・・・・・


また22ページ5行目

・・・「神の無限の生かす力自分のうちに流れ入る、流れ入る・・・・」・・
   いく回も繰り返し・・・・.。


真光の「祈言集」より「神向き妙法見実相観」

   吾今五官の界を断って肉界を去り
   極微実相の世界に入る
   ・・・・・・・  
   ・・・・・・・・
   宇宙大霊の界は
   神大愛の
    生命と
    法則と
    産土の力動の波
   ・・・・・・
   ・・・・・・・・
    無限の力流れ入る流入る
    とめどなく流れ入る
   ・・・・・・   
   ・・・・・・・


以上一部似ているところだけ抜粋しましたが、これ以外のところは全部光玉氏自身の言葉です。念のため。しかしこれから解ることは光玉氏は間違いなく生長の家にもかかわりそこで「神想観」なるものをやっていたと言う事。そして真光の「神向き妙法見実相観」は神から神示として与えられたものでなく、光玉氏が生長の家の「神想観」の教えに従って考えた言葉であろうと思われます。そして不思議なことにその本によると、「神想観」によってでも霊動がでるのだそうです。また、手の平療治もでき神がかりにもなるのだそうです。

<注>
生長の家の教祖谷口雅春氏は明治26年生まれであり、昭和5年ごろから宗教活動を開始している。生長の家の信者からの情報によれば、岡田光玉氏は一時生長の家にも所属していたという。

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「S界真光文明教団に対する奉納金返還請求を却下−地裁沼津支部」

静岡新聞 1990.04.19 朝刊 20頁

 教団からの説明通りにご神体をまつる「主座」が山頂に建立されなかった―として、信者がS界真光文明教団(田方郡中伊豆町冷川)を相手取り建立奉納金一億五千二百四十六万円の返還を求めて静岡地裁沼津支部に起こしていた民事訴訟で、十八日、秋元隆男裁判長は「法令の適用による解決は不可能」として原告の訴えを却下した。

 原告は宮城県仙台市の信者ら二百九人。訴えによると、原告らは、中伊豆町の丸野山頂上に主座を建立すると聞いて、昭和五十七年ごろから六十二年三月ごろまで奉納金を納めた。

 しかし、山頂付近は中伊豆町の所有地で、教団は六十一年九月十日に同町から山頂を使用させない旨の通告を受けていたが、その後も原告らにこの事実を隠して奉納金を集め続けた。結局主座は山頂に建立されず、山の中腹に巨大な建物を建築した。このため、奉納金の返還を求めていた。

 秋元裁判長は「(訴えは)法律関係に関する紛争の形式を取っているが、法令の適用による終局的な解決は不可能」と退けた。


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「元幹部らに賠償命令 奉納金めぐる真光文明教訴訟で教団側主張通る−地裁沼津支部判決」

静岡新聞社 1992.07.30 朝刊 22頁

 宗教法人S界真光文明教団(本部・田方郡中伊豆町)の「内部分裂」をめぐり、本来教団に納められるべき信者からの奉納金を、教団の教主と対立する教団の元幹部らが、全国各地の礼拝施設である道場などに指示して教団に送金せず横領したのは不法だとして、教団が元の幹部や道場などの責任者ら四十一人を相手取り、二億七百万円余りの損害賠償を求めていた訴訟の判決が二十九日、静岡地裁沼津支部で言い渡された。

 秋元隆男裁判長(転勤のため新城雅夫裁判長代読)は「道場は教団の下部組織で、信者からの奉納金は教団に対するもの」などとする原告側の主張をほぼ認め、被告のうち元の幹部や道場長ら四十人に総額約二億百二十万円を支払うよう命じた。

 判決によると、教団が昭和六十一年一月に着工した「主座世界総本山御本殿」の建設や布教活動の在り方などをめぐり、信者や道場が原告派と被告派に分裂した。元幹部に同調した被告らの道場主の道場では、六十三年三月分の奉納金を送金しなかった。

 被告側は「奉納金を本部に送金しなかったのは、各道場独自の自発的な判断で行われた」「道場は教団とは独立した団体であり、奉納金は教団に送金するまでは道場に所属しているのだから送金しなかったのは不法ではない」などと主張していた。


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2004年01月28日(水) 059 publicationsinJapan

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フランスにおける○○真光

カルト宗教のトラブル対策 2000.5.20初版
山口広、中村周而、平田広志、紀藤正樹。 教育史料出版会


82-86頁
1995年12月 フランス議会報告の内容

 127頁の冊子は、まずセクトの実情の分析、次にその危険性の分析、最後にとられるべき対策について述べている。以下とくにことわらない限り、報告書の内容をそのまま記述したものである。

<報告書の要旨>

〔序文〕
 序文は1993年4月米テキサスのブランチ・ダビディアン事件の88名の死亡、94年10月カナダ、スイスの太陽寺院事件の53名の死亡、 95年3月東京のオウム真理教毒ガス事件の死者5名(原文ママ)、負傷者5,000名の事件、さらに78年ガイアナ人民寺院事件の923名の死亡にふれ、セクトはなお狡猾な活動を続けていると述べたうえで、次のとうり言う。

 「期待に応えてくれると錯覚し聞き入ってしまうような説教の、見せかけの宗教性に惹きつけられやすい現代人を、このセクトのなかに落としめるものは、我々の社会の動きそのものである」

 調査委員会はさまざまな立場でセクト現象について深い知識をもつ人たち、たとえばセクト教団の運営責任者、医者、法律家、教会(カトリック教会)関係者、セクトの犠牲者を救済する団体の代表者、そして当然セクトの元信者、指導者などから情報、経験談、分析などを得た。

 また、委員会は社会問題担当省、外務省、パリ警察庁、そしてとくに内務省(総合情報局本部)から力添えを得た。しかし、経済・財務省、司法省からは見るべき情報はなかった。

〔第1章 セクトの現状について〕

1. 定義が困難な現象・セクト

 セクトとは何か。これを定義づけるのは困難であり、法律のどこにも手がかりはない。だからといって、信教の自由を侵す危険をおかしてまで強いてセクトの定義をするか、それとも定義づけは不可能だとして作業を放棄するか、いずれもとるべきではない。委員会は事実に基づいてセクトと一般に言われている組織の現象を分析し、その特徴を引き出す努力をした。

 そもそもフランスは政教分離制度(著者注:国は宗教に無関心であるべきというもの)をとっており、宗教の法的定義もしていない。法律上キリスト教とセクトを区別することは不可能である。

 委員会はセクトの語源、社会学的分析、危険性に基づく分析などにコメントしつつ、結局以下の基準(内務省のセクト現象分析でも用いられているもの)を採用することにした。

「1」 精神の不安定化をもたらすか
「2」 法外な金銭的要求をするか
「3」 生まれ育った環境との断絶を教唆するか
「4」 健全な身体の損傷をもたらすか
「5」 自動徴用(子どもをかり集めて、グループ化)するか
「6」 多少を問わず反社会的な説教をするか
「7」 公共秩序の攪乱をもたらすか
「8」 多くの裁判沙汰を起こしているか
「9」 通常の経済流通活動からの逸脱傾向があるか
「10」 行政当局への浸透を企てているか

 委員会は、その団体が新しい、信者数が少ない、奇抜だということをもって、セクトとみなす基準にはできない、と考える。現在大宗教と言われるものでも初期においてはおおむね信者数の限られた団体にすぎなかったし、現在社会的に受容されている宗教儀式が、当初は警戒心や反対を呼び起こしたこともあり得るからである。
 
2. セクト活動の現状

 セクトの実情を把握することは極めて困難である。そもそもセクトとは何か。どの範囲をセクトの信者と認めるのか。たんなる講演会の参加者もメンバーと同一視してよいのか。信者とシンパ層を区別できるのか。

 そこで、委員会は、内務省からの情報とセクト問題の専門家からの情報をまとめてそのまま掲載している。

(1) 内務省の情報

 前述したセクトの判断基準に一つでも該当するとして内務省が列挙したセクトは172ある。支部組織を含めると800以上にのぼる。報告書はこれを地域別に分析した。セクトの信者は約16万人、シンパは約10万人と推計している。しかしその多くが500人以下の集団であり、セクト的現象が集中的に見られるのは約40の団体である。

 委員会は50名以下、500名以下、2,000名以下、1万人以下、それ以上の5グループに分けて、内務省情報に基づいて具体的な団体名をあげている。

 50名以下の団体としては、幸福の科学、フランス神慈秀明会のほか、ランドマーク教育インターナショナル・フォーラムやフランスの騎士と三位一体の会など合計47団体の名が列挙されている。

 500名以下の団体としては、霊友会、崇教真光、世界基督教統一神霊協会(統一教会)、クリシェナ意識協会フランス同盟、OSHO情報センター、愛の家族(旧・神の子どもたち)など日本になじみのある団体を含め、マリーの方舟、グノーシス研究センター、ナザレの家族、曼荼羅33、テモテ伝道団など合計80団体の名があげられている。

 2,000名以下の団体としては、23の名があがっている。アントワーヌ派、ヨハネの家、眼が開く、キリスト者生活センターなどであるが、日本になじみのある名はない。

 1万名以下の団体には、パリサイエントロジー教会、フランスラエリアンムーブメント、フランス創価学会インターナショナルのほか、サクレクール兄弟姉妹共同体、フランス新使徒教会など12の名があがっている。

 1万人以上の団体には、エホバの証人があげられ、信者は13万人と推定されるている。

 内務省情報によると、1982年に比べ、1995年にはセクトの信者数は10万人から16万人に、シンパ数も5万人から10万人に増えている。とくにエホバの証人の信者が7万5,000人から13万人に増えたのが目立つ。

(2) 専門家の分析

 フランスではセクト対策の民間ボランティア団体として、UNADFI(家族と個人を守る会、全国連合)とCCMC(マインドコントロール対策資料収集教育活動センター)の二つが活動している。
 UNADFIは1974年に設立され、20の地方団体をまとめている。CCMCは1981年に息子をセクトの犠牲で失ったロジェ・イコールの提唱で設立された。そのほか医者、大学関係者、キリスト教会、ジャーナリストなどさまざまな分野の人がセクト問題に取り組んでいる。

 UNADFIは、委員会に対し、重大性のあるセクトは200ないし300あり、全国で約50万人が直接間接にセクトとかかわりをもっていると述べている。

 たとえば、UNADFIのパリ本部(ADFI)とその関連グループの事務所が受けた電話相談の数が紹介されている。

           1990年 − 1994年
サイトエントロジー       829 414
エホバの証人         215 236
創価学会             50 105
統一協会            102 41
ラエリアンムーブメント     40 110
超越瞑想             34 36

(解説)

 崇教真光は、上記「1」-「10」のどれか一つ以上にあてはまると、フランス政府からお墨付きを得たわけだ。
 また、この書籍は、全国の公立図書館や大学図書館に収蔵されている。
 岐阜県内の公立図書館:岐阜県立、岐阜市立、可児、海津、池田
 www.library.pref.gifu.jp/oudan.htm
 全国の大学図書館:ttp://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA47317820


「大聖主」(崇教1983年初版)
205-225頁 『光は東方より』
 フランスの新聞にのった光玉師の記事の日本語訳が載っている。

 Herald Tribune 1972.12.29 Page.5
 Le Monde 1973.9.15 Page.16
(P213) < Le Monde の翻訳 >

 大きな問題は、二十世紀から二十一聖紀に移り変わるときには、天地がヒックリかえるほどの大異変があるということです。したがって、神様が問題にしておられることは、いかにして次の文明への種人(神の子)をつくっておくかということです。物質の火の洗礼の原水爆弾、人類はこの大峠を乗り越えなければならない。

 物質と罪穢のミソギハラヒ即ち火の洗礼期をのがれる種人をつくっておかなければならないのが、私の使命です。バイブルの「ノアの洪水」を思い出して下さい。「神が選び子の額に印をするまで……」その文明の種になる人、皆さんは、それになってもらいたい。

(解説) フランスの新聞にこういう記事をのせると、カルト扱いされても仕方がないかもしれない。

「現代フランスのスピリチュアリテ――二つの排除性について」 (特集 宗教・スピリチュアリティ・暴力) 樫尾直樹著
「現代宗教2002」(国際宗教研究所編) 東京堂出版163〜184頁

(国立国会図書館雑誌記事索引収載)

(P180) 今フランスで一番の「怪物」こそ、この「セクト」なのである。

 日本でもオウム事件以後特に「カルト」や「破壊的カルト」というアメリカから輸入された言葉が人口に膾炙しているが、フランスやベルギーなどのフランス語圏を中心としてヨーロッパでは「セクト」という言葉が、マイナーな宗教教団等の総称として使用されている。

ヴィヴィアン・レポート以後、一九九六年一月に出版されたフランス国民議会下院による調査報告書、ジェスト・ギュイヤール・レポートは、新宗教を「セクト」としてきわめて軽蔑的に捉えている (これをコンパクトにまとめたものとしては阿部美哉『現代宗教の反近代性』、玉川大学出版局、1996、および中野毅「フランス議会での反セクト報告をめぐる考察」『宗教研究』、311、1997、345-6頁がある)。二〇〇一年五月にできた新しいセクト法でももちろん事情は同じである。

(P182) サイエントロジーやエホバの証人を筆頭に、さまざまな教団が、社会的、文化的攻撃を受けている。元信者との訴訟に関しては、厳正な裁判によって真偽を明らかにすればよいのだが、他者的なものに対する排除的先入観には実に驚かされる。たとえば、フランスに約一万人ほどの信者を擁する崇教真光に関しては一九九七年に、興味深い事件が二つあった。ノルマンディとパリでのことである。

 六月四日、法外な金銭を支払わせた背信罪および「業務上過失」の廉で、ノルマンディお浄め所と所長自宅が司法警察から家宅捜査を受け、「ご神体」(「真光」と書かれた掛け軸)と「ご神像」(「伊都能売大国魂大国主之大神」像)、および所長と夫人の「御み霊」(入信時にもらうペンダント)の四点が押収された。

教団側の説明によれば、ある女性信者が同居人の男性(信者ではない)に別れ話を切り出したところ、話がもつれ、男性がお浄め所および所長を訴えた、ということである。『祈言集』に4000フラン、お浄め所で履く内履きに1000フラン、初級研修と「御み霊」に12,000フラン、および一年間の献金に24,000フラン、計41,000フラン(約八五万円)を不当に支払わされた、とその男性は主張している。

それに対して、所長は、初級研修(「御み霊」代を含む)に関しては800フラン、『祈言集』(購入は任意)に関しては90フランであると主張している。加えて、司法警察は、その男性が同性愛的傾向があると述べ、所長と月並祭の後に同性愛的行為を行わなかったかと質問したということである。

 ジェスト・ギュイヤール・レポートに紹介されている、フランス総合情報局による「セクト」の判断基準の第二項(法外な金銭の要求)からすれば、男性の訴えはそれにあてはまる可能性があるが、所長や信者の事情聴取や信者の「御奉納」金額などを記録したフロッピーディスクの内容から、その男性の訴えが誤りであったと直ちに判断したことからすれば、司法警察の狙いは別件にあったと考えられる。

 その証拠に、依然として押収した先の四点、およびフロッピーディスクを司法警察は所長に返却していなかったし、先の同性愛疑惑も、「セクト」の一典型的イメージがかなり先行している。 司法警察は以前から、崇教真光が、マスコミなどの批判に対してまったく抗議をしてこなかったのは、何か疚(やま)しいことがあるからだと考えており、この事件に乗じて別件で、お浄め所を「セクト」の拠点と見なして調査していたと考えてまず間違いないと思われる。

 パリでは、「社会保護、健康、連帯の雑誌」、『ヴィヴィア』一九九七年四月号に掲載された潜入ルポ、「セクトと健康」は、解散通告とまでは行かなかったけれど、メディアが教団に与える直接的影響を示している。このルポは、セクトが健康を売りにして金銭を奪うので、ひっかからないように読者に情報を与えるという主旨で書かれており、崇教真光は冒頭でその代表的な例として取り上げられている。

 「恐るべき日本のアソシアシオンに潜入した女性」

 ベネディクトが、初級研修で、 「癌は霊障に他ならず、肉体的問題にはすべて霊的起源があり、薬は毒になるだけで、病気は逆に体を清浄にしてくれるのである」という教えを受け、「なんて狂った教えだろう」と感想をもらしている。 この記事によって、崇教真光は月並祭の会場の七月以降の賃貸契約を五月の段階で一方的に解約されることになった。もちろん、その会場の責任者が、この記事を読んだからである。会場のあるパリ郊外の地区は共産党の地盤であり、先の総選挙と何らかの関係があるだろうと予測される。


<著者紹介>
樫尾直樹(かしおなおき):1963年生まれ、慶應義塾大学文学部助教授。専門は、宗教人類学、宗教社会学。
特にフランス語圏の宗教に詳しく、日系宗教(真光・創価学会)の現地での活動についてもレポートしている。
国立国会図書館の雑誌記事索引で樫尾氏を検索してみると、いくつかの論文を知ることができる。

(解説)
 ちゃんとした宗教学者に、このようにレポートされるとは、いかにフランスにおける崇教真光の活動に問題点があるか、如実に物語っている。
初期研修のテキストで高橋晄正・杉靖三郎氏の書籍から引用して医学を批判しているが、今度は樫尾氏の著作でたっぷりと批判されている。
この本は公立図書館(岐阜県立・大垣市民など)や大学図書館に所蔵されている。
所蔵http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA57182659


カルト人類学の視座――日仏比較カルト/セクト論 (特集2 宗教による人権侵害、消費者被害の実態と対策)/樫尾直樹
「自由と正義」52(2)88〜101 (通号623)[2001.2]日本弁護士連合会発行

www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/syuppan/jiyutoseigi/2001/2001_2.html
所蔵図書館 ttp://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN0032737X

<現代フランス社会のセクト現象> P96-97 部分抜粋

(1995年12月の議会報告を受けて)
 1996年1月に本報告書が出版されてから、少なくとも半年の間、テレビや『ヴェエスデー』、『エヴェヌマン・ド・ジュディ』や『ヴィヴィア』などの雑誌等のメディアでセクト批判が激しく展開された。 1980-1990年代にかけてのメディアや反セクトの民間機関のセクト批判の例を挙げてみよう。

 フランスには30ほどの日系新宗教があるが、その中でたとえば創価学会は、原発関係機関の近くに拠点をつくっているなどとしてスパイではないかという疑いをかけられた。ちなみに、創価学会はそのすべての嫌疑に対して名誉毀損で出版社を訴え、すべて勝訴している。その他、政治への進入や法外な献金などの批判を受けている。

 同じく日系宗教の崇教真光は、「病気になったとき薬を飲むのは身体に悪い」というその薬毒論の主張に対して、健康な肉体への危害であるという批判を受けている。その他、マネーロンダリングや法外な献金などの批判を受けている。

 また、エホバの証人に対する輸血拒否批判や統一教会に対する合同結婚式批判は日本と共通しており、世界で広く見られることである。


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(注 ○付き数字を「」付きに変更)


2004年01月27日(火) 060 publicationsinJapan

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『日本ばちかん巡り』への言論弾圧

 作家の山口文憲氏は1990年から95年にかけて14の宗教の本山を取材し、レポートを『日本ばちかん巡り』と題して「芸術新潮」に連載した。それが、2002年になってようやく単行本となって出版された。大幅に遅れた理由は、数多くの宗教が単行本化にあたり修正を要求してきたからである。これに関してのいきさつは、単行本の「あとがき」に詳しく書かれてある。1991年に「フライデー」の記事をめぐって、『幸福の科学』の信者が講談社を取り巻くという事件があったため、出版社も慎重な対応をとったのだろう。

 「崇教真光」に関しても、教団にとって不都合な場所がみごとに削除改変されている。「芸術新潮」にのった問題箇所と、修正された単行本の内容を原文のまま紹介する。

「芸術新潮」1992年4月号126−135ページ 『日本ばちかん巡り』連載第七回
 <崇教真光――種人よ起て 手をかざせ> 山口文憲

(国立国会図書館雑誌記事索引収載)

<129頁>

 あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開に不熱心で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについてはいまだに発表がなく、お年も、お名前も一切が厚い神のベールにつつまれている。巷間伝えられるところによれば、教え主は教祖のご養女のはずだが、教団の刊行物には、そのことすらでてこないのである。

<135頁>

 私は目のまえの教え主の遠い娘時代に思いをはせていた。敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。教外の資料によれば、教え主のお名前は甲子(こうこ)。一説に「さちこ」とも。一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。山梨県で看護婦をなさったというのは、おそらくその後のことだろう。

 一方、救い主は、敗戦当時四十四歳。救い主の戦後の日々は、おぼろげながら輪郭がわかっている。借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。

 しかし、おふたりの最初の出会いには定説がない。やがていつの頃からか、若き教え主は、それが神のお仕組みであるかのように、ひとり道を求めて苦闘する教祖と起居をともにするようになる。あるいは、これが、昭和二十年代の後半のことだったかもしれない。

 このとき、教祖は、しようと思えば、神がめあわせたこの若い異性と、そのまま世俗の幸せを求めることもできたはずである。しかし、すでに過去の栄光も捨て妻子も捨てて、残りの人生を利他に生きる決心をした元陸軍中佐は、それをしなかった。また、教え主も、それを求めはしなかった。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になる。

 これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。しかし、ほんとうのところは、わからない。いずれ教え主が、ご自身で、イザナギ・イザナミの物語を明かされるときがくるだろう。

 真光の祖・岡田光玉の死から今年で十八年、飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖の奥津城が完成する。

〔解説〕
 「芸術新潮」は専門雑誌として評価されており、その記事は、国立国会図書館の雑誌記事索引に収載されている。また、全国522施設の大学・研究所の図書館に収蔵されており、記事の信頼性は評価されている。(私も自分の大学の図書館で閲覧してみて、正直いってショックだった。なお、522施設すべてに92年4月号があるわけではない。)
 
この記事が事実無根であるなら、教団は作者と出版社を告訴すればよい。連載は中止され、著者は作家活動の中断を余儀なくされただろうし、単行本化も実現しなかっただろう。現実には予定どうり連載は完了し、単行本を企画するまでに至ったわけである。やはり「芸術新潮」の記事はきちんとした裏づけ調査に基づいて執筆されたといわざるをえない。

 光記念館には図書閲覧コーナーがあり展示に関する文献を閲覧できるとある。国立国会図書館の雑誌記事索引に収載され、かつ全国の大学・研究所の図書館に収蔵されている教団の沿革に関する文献は、当然閲覧可能な状態でないといけない。

 昭和20年終戦から昭和34年立教までの14年間は、光記念館の教団史展示においても空白となっている。その間を綿密に取材しレポートした著者に、有能なジャーナリストとして敬意を表する次第である。

 なお、昭和20年代は、男性が大勢戦死したため、女性が結婚相手を見つけるのが困難な時代だった。そういう状況下で、井上甲子さん(本名)がこのような生き方を選択したことに対しては、一定の理解を示す必要があるといえるだろう。

国立国会図書館雑誌記事索引 http://opac.ndl.go.jp
大学・研究所の図書館収蔵状況
 http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=AN0007184



『日本ばちかん巡り』山口文憲著 新潮社 2002年2月初版
 180-202ページ <崇教真光 ―― 種人よ起て手をかざせ>

<187頁>

 あるいはこのときの傷手が、まだあとを引いているからだろうか。この教団は情報公開には慎重で、外部のものにはたいへんわかりにくくなっている。とくに現教え主のプロフィールについては細かく発表されていない。

<201頁>
 その様子をかたわらで見ながら、私はふと目のまえの教え主の遠い娘時代のことを思った。真光の先史時代、あるいは神話時代ともいうべき、敗戦から立教までの十四年間のことを考えていた。

 教外の資料によれば、教え主は甲子(こうこ)というお名前だという。これ以外に分かっているのは、生年だけである。ちなみに教え主は一九二九(昭和四)年十二月のお生まれというから、敗戦時はまだ十六歳になっていない。

 一方、救い主は、教え主より二十八歳ほど年長だから、敗戦当時は四十四歳。こちらの戦後の日々は、おぼろげながらわかっている。戦時中にこしらえた借財を返すために奔走し、建設会社の役員を引き受けたのもこの頃だった。手かざしの元祖ともいうべき世界救世(メシヤ)教に所属して、教会長を勤めるまでになったのも、やはりこの時代である。

 しかし、元陸軍中佐と若き日の教え主の最初の出会いについては定説がない。

 いつのころからか、教え主は、残りの人生を利他にいきる決心をした元陸軍中佐の忠実な弟子として、あるいは巫女として、ひたすら仕える道を選ぶのである。こうして、惟神(かんながら)の同行二人は、天意のおもむくままに、いつか父と娘になったのではあるまいか。

 これが、救い主を追慕し、教え主を敬愛する教団内外の関係者たちが長く心にはぐくんでいる、教団の神話時代をめぐるひとつの美しい伝説である。

 真光の祖・岡田光玉の死からことしで十八年。飛騨の山々から雪が消える六月、位山山麓に教祖を記念する光神殿が完成する。

<202頁>

 [注3] 教団からのコメント――194頁の4行目の「抑留敵国民虐待」「BC級戦犯」、また、198頁18行目の「二.二六事件」は、当教団とは一切関わり合いがございません。崇教真光は、愛和の世界の創造、人類恒久平和を目指しております。したがって戦争の問題とは何ら関わりなく、悩み苦しむ一人でも多くの方々が救われ、幸せになってゆくことを願っております。

「あとがき」 <364−366頁>

 本書の「はじめに」で、私は、「あえて取材に応じてくれた各教団の度量はたたえられていい」と書いた。しかしいまでは、正直にいって、取り消そうかという気にもなりつつある。

 それにしても、このルポルタージュは、紆余曲折だらけだった。まず企画の段階で一苦労あって、原稿にも毎回四苦八苦した。さて本にしようというところでオウム事件に出鼻をくじかれ、ようやく仕切り直しになったと思ったら、こんどは大きなゴタゴタに直面することになった。

 せっかく本にするのだから、この際データも新しくしたい。直すところは直して、ついでにしっかりした「注」もほどこしたい。と、こう考えたところまではよかった。

 ついてはあらたに情報収集をする必要がある。その場合、たとえば伊勢神宮や出雲大社のようなビッグネームは、公開資料も多く、外部からも比較的自由に情報アクセスができるので、あまり問題はない。しかし、そのほかのケースはどうするか。

こちらは、結局のところ、各教団に直接問い合わせる以外に情報を得る手段がない。そこで、「このたびあれをこういういう本にするので」と、あらためてコンタクトをとったのが運のつきだった。

 むろん、なかには、取材の当時と変わらぬ友好的、協力的な姿勢で応じてくれた教団もないわけではない。用語の理解の誤りを懇切にただしてくれたところもある。また、信者数の減少を正直に教えてくれたうえに、本部の所在地の市の人口の変動まで調べてくれた親切な教団もあった。しかし、これはむしろ少数派。当初はナシのつぶてで、そのうちやぶからぼうに「単行本への収載はお断りする」「許可しない」といってくる教団があいついだ。

 この反応に、私は少なからず驚いた。そして考え込んだ。いったいなぜだろう。実際、自分でいうのもなんだが、新宗教の世界をこのくらい好意的かつ肯定的に描いたルポルタージュも、そう多くはないのではないか。お前の態度は甘いといって新宗教批判派から文句がつくのならわかるが、まさか当の新宗教から苦情がこようとは。いずれにせよ、「お断りする」といわれて、はいそうですかと応じるわけにもいかない。もとよりこちらは出版の許諾など求めてはいないし、そもそもご許可をいただく筋合いなどありはしない。

 こわもての収録拒否が通らないとわかると、つぎなる先方の要求は、それなら部分的削除と書き換えをしてくれという話になった。そこで、こちらはまず、「お気に召さない表現や見解の相違にわたる部分があれば示してくれ。そちらのいい分を『教団注』としてそっくりそのままのせようではないか」という逆提案をした。これに応じてくれた教団もある。しかし、多くは、あくまで隠密裏の削除と書き換えにこだわってゆずらない

 そうなると、こちらとしても、先方の要求をまるごと突っぱねる以外に選択の道はなくなってくる。でも、ここで話が決裂するとどうなるのか。いつだったかの幸福の科学みたいに、何千もの信者が出版社のビルを取り巻いて、いっせいに呪いをかけたりすることになるのだろうか。

 「いいじゃん、面白そう」というまわりの声もあったが、しかし、結局私はこの対決路線をとらなかった。べつに呪いがコワかったわけではない。それよりも、いったい私の文章のどこがどう気に入らないのか、そこにどういう「文化摩擦」が起きているのか――それを知りたい、という誘惑のほうが、私にはずっと大きかったからである。
それに、オリジナルをそのまま単行本化するのならまだしも、私自身、ものによってはずいぶん加筆もし、直しも入れている。そこで私は、先方の要求を値切りに値切ったうえで、顔を立てるべきところは立てようという方針を立て、この思わぬ「言論弾圧」を楽しむことにした。

 その際の一字一句をめぐる攻防をここに再録できないのは、まことに残念というほかない。もしそれが可能なら、この本は、確実にいまの三倍は面白くなっていたろう。

 なかには、「えっ、どうしてここが?」と首をかしげたくなる要求もままあったが、やはり多いのは、‘睚兇砲かわることがら、教主およびその一族にかかわることがらの二つ。そして要求がいれられないと、「信者感情」なるものを持ち出してきて、「私ども(幹部)はこの表現でもいいんですが、信者たちが承知しません」とナキを入れるスタイルも、おおむね共通だった。

 私は本文のなかで、新宗教は日本の文化に深く根をおろしていると書いた。実際にその通りである。聖別されたコミュニティーのなかにも、官僚主義とことなかれ主義の日本があり、もっぱら自分の失点だけを恐れる中間管理職がいて、ひとりではなにも判断のできない日本の「サラリーマン」がいる。しかし、私はそれをとやかくいおうとは思わない。この国の「構造改革」の進展をただ祈るばかりである。

〔解説〕
 著者は各教団より「言論弾圧」を受けたとはっきり述べている。単行本202頁には『注』として、「『抑留敵国民虐待』『BC級戦犯』『二.二六事件』は当教団とは一切関わり合いがございません」との教団の見解が述べられている。これは、海外HPで「南京大虐殺」にかかわっていた可能性を指摘されたことに対する反論といえよう。

 ところが、初代と二代目の出会いに関しては全く注釈されずに書き換えられている。「あとがき」を読めばわかるように、あきらかに崇教真光は正々堂々と反論することなく、『隠密裏の削除と書き換え』を要求したわけである。つまり、「芸術新潮」の記事は真実だったため、教団としては反論できなかったといわざるをえない。当初の雑誌記事を修正することなく原文のまま単行本化したなら、教団は「事実無根」で突っぱねられるが、一部だけ反論文を掲載させ、反論不能な箇所のみ『隠密裏の削除と書き換え』をさせたとあっては、この箇所は真実だったといわざるを得ない。

 もし『信者感情』を崇教が持ち出したとしたら、全く筋違いだ。村上正邦や小山孝雄の指示署名を信者にさせておいて、そんなことが言えるわけがない。これは国立国会図書館の雑誌記事索引に収載され、全国の大学.研究所の図書館に架蔵された専門雑誌への重大な冒涜である。この書き込みを読まれた方は、国会図書館HPより文献コピーを請求し、単行本とじっくり比較精読していただきたい。教団からの「言論弾圧」に対する、著者の最大限の抵抗が理解できるだろう。

 歴史事実を出版しようとする者に対して、「言論弾圧」を行うのは神道考古学や博物館学に反する行為である。発掘石器に疑問を抱くものに対し発言をさせようとしなかった、石器捏造犯人と同一次元である。光記念館に展示された教団史は捏造であり、石器の捏造と想念レベルは同一である。もはやこのような団体は、県登録博物館の開設者として不適当である。

 教団幹部が『隠密裏の削除と書き換え』を要求した時(オウム事件のしばらく後)は、ブロードバンドの利用者が急カーブを描いて増加し、ネットによる教団批判が急進展をとげるとは全く考えていなかったようだ。所詮は、小山孝雄や村上正邦の逮捕すら予測できなかった連中の集まりだ。

〔参考〕
(1) 宗教団体による出版妨害事件として有名なものに、藤原弘達氏が著した「創価学会を斬る」がある。
http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/991028_faq_komei_sg.html

(2) 人はいま、なぜ新宗教に走るか〔5〕――「世界真光文明教団」ヒトとカネの抗争.分裂。(内藤国夫著)
  「現代」(講談社月刊誌) 1987年8月号 338−353頁

<345頁>

 世界真光文明教団が、その前身である「L.H陽光子友乃会」を名乗って立教した昭和三十四年当時からの生えぬき幹部であった田中清英氏は、関口栄.二代教え主よりも古参である。それゆえに関口教え主としても崇教局長というナンバー2で厚遇し続けた。

 ところが初代の高弟でありながら、田中氏は昭和四十七年五月、初代から追放されて教団を離れている。真偽のほどはともかく、初代の養女である恵珠さんに手を出したからとか、いや、養女は実は初代の側室であり、二人の奪いあいになったとかの噂がとびかう。田中氏本人は、「初代が狂ってしまったので、ついていけなくなった」と周囲の人に語ったことがある。
 
いずれにしても、三百万円の退職金が支払われての退会だった。

 (この記事は、田中清英氏のみならず、依田君美、矢井清勝、津田忠利、黒田みのる各氏による分派独立も詳しく解説しており、一読の価値がある。ただし、内容はやや関口氏寄りとの印象を受ける。)


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2004年01月26日(月) 061 publicationsinJapan

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「教祖誕生」 上之郷利昭著 新潮社 1987

7-26頁 陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示

伊豆・修善寺から車で二十分ほど山中に入ると、忽然と大殿堂が聳(そぴ)え立っているのが見えてくる。高さ六十メートル、四周六百メートル。
宗教法人「世界真光文明教団」の大本殿である。
玉砂利を敷き詰めた前庭に立つと、眼下に修善寺の町を配して、雪を頂いた富士山を眺望することが出来る。その敷地約三百三十万平方メートル。辺りの山をほとんどそっくり、この教団は買い取ったのである。

飛騨・高山。
ここにも、昭和五十九年十一月三日、天を突くばかりの大殿堂が姿を現した。高さ五十メートル、四周五百メートル。総工費三百億円。
宗教法人「真光」の世界総本山である。
三階建て吹き抜けの大ホールには世界有数のパイプオルガンが聳え、瀟洒(しようしゃ)な国際会議場は六カ国語の同時通訳装置を備えている。
噴水の湧き出る、総本山の小高い庭に出ると、一面雪に覆われた日本アルプスの連山を背景に、小京都と呼ばれる高山の街並みが静かなたたずまいをとどめているのを眺めることが出来る。

この二つの教団は発祥を同じくする。
教祖は岡田光玉。
光玉が一教を立て、布教に乗り出したのが昭和三十四年。わずか四半世紀の間にこれだけ巨大な殿堂、広大な土地と、国内は勿論、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、南米、オーストラリアなど世界各地に、両教団合わせて五十万人になんなんとする信徒を擁するに至った。
岡田光玉が案出した「真光」教団の特徴は「手かざし」である。
教祖、あるいはその後継者から「御み霊」と呼ばれるペンダント様の信仰の印を与えられた「神組手」と呼ばれる信徒が、病に苦しむ者、心に悩みを持つ者に向かって、主として右手の掌を相手に向け、手をかざす。この、一見まことに単純に見える所作によって、病は去り、心の悩みは癒されるというのである。
にわかには信じ難い、と信徒以外の人びとが思うのは当然である。今日、神組手になっている人びとに尋ねてみても、彼らのほとんどすべてが、最初は、奇蹟としかいいようのない手かざしの効用を信じなかった。だが、その彼らが、自分自身が病を癒されるという体験を通して手かざしの効用を信じるようになり、今度は神組手として、病にさいなまれながらまだ信じようとしない人びとを説得し、手かざしによって救おうとしている。
こうした人たちが日本ばかりでなく、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカへと広がり、その数五十万人に達しょうとしている。そして、強要されることなく感謝に満ちて彼らが奉納したはずの寄金によって巨大な殿堂が建立され、視察の日には、明るい表情の神組手たちが自分でお金を出して、バスを連ね、飛行機に乗って、遠くはパリやニューヨークから馳せ参じて来る。
この事実は、奇蹟を信じない者でも認めないわけにはいかない。
「真光」の技には、岡田光玉が編みだしたそれなりの、論理ともいうべきものが存在する。
森羅万象は神の配剤によって成り立ち、動いている。病や不幸は何らかの理由によってその配剤に反したことによって起こるのであるから、神が出される「真光」を、かざした手から受けることによってあやまちが正され、病や不孝から救出される――。
わかりやすく言えば、これが「真光」の技を支える論理である。
信じる者の側から言えば、これは「岡田光玉が編みだした論理」ではない。神の道を究めた「救い主」岡田光玉が神と出会い、神から授けられた真理なのである。

岡田光玉は明治三十四年二月二十七日、岡田稲三郎、登実の長男として、東京・青山に生まれた。俗名は良一であった。上に三人の姉、下に三人の妹があり、良一はその真ん中にはさまれる形で、ただ一人の男児として生まれた。
岡田の家系は、名家と呼んでもさしつかえはないだろう。
光玉の祖父は、徳川御三家の一つ、紀州家の学問を指導する立場にあったという。父の稲三郎も祖父の跡を継いだが、維新後、陸軍に入った。ドイツに留学を命ぜられ、三年間兵学を学んだというから嘱望された軍人だったということだろう。父は陸軍主計総監にまでなったが、少将を最後に五十四歳で他界した。
このとき、光玉の家には勅使が遣わされているというから、相当高い家柄だったと見ることが出来よう。
光玉は父の勧めに従って大正九年、陸軍士官学校に入り、軍人への道を選んだ。同期生の一人として秩父宮殿下に親しく接したというこの名門の子弟は大正十一年、陸士を卒業と同時に宮中護衛に当たる近衛師団の歩兵第一連隊に配属され、連隊旗手を命ぜられた。当時の連隊長は、後の陸軍大将・真崎甚三郎であったという。
昭和六年、近衛師団歩兵第一連隊第六中隊長に任じられた光玉は、今上陛下およぴ皇太子殿下の行事のお供をする、供奉(ぐぷ)将校を拝命している。
昭和十二年、大本営第一鉄道輸送司令部課長。実戦においては、日支事変で中国へ、第二次大戦では仏領印度支那、今日のベトナムへ派遣され、戦線に加わった。
しかし、第二次大戦では仏印で病を得て内地に送還された。昭和十六年の暮、開戦直後のことである。昭和十三年に催された馬術の御前試合で転倒、脊椎を骨折したのが原因で胸推力リエスにかかり、腎職結石も併発して、重い病を得たのだった。
「退院しても、あと三年の命だと医師から言われた」
と、光玉は回想している。彼はやむなく現役を引退して、予備役に編入された。
宮中護衛に当たる近衛士官として軍人生活の輝かしいスタートを切ったエリートが、四十歳の働き盛り、陸軍中佐という重責にあって、しかも、これからが軍人の活躍の場という開戦の直後に死を予告される重病に罹(かか)り、現役を引退。人生の大きな転機であった。
医学に見放され、死と直面した人びとのほとんどがそうであるように、光玉の心には神、運命、信仰といった概念が色濃く影を落とし始めている。
「人間というこの不可思議な存在を創造することが出来たのは、医学などという人知をはるかに超えた何者かであったはずだ。それが『神』というものではないか、と私は思った。私は一切の薬を捨て、神に祈った」
教祖になってからの言葉という前提は考えなくてはならないかも知れないが、光玉は後年、当時を握り返ってこう述懐している。
彼は死ななかった。のみならず、健康になった。天皇の武官として一級の治療を受けながら「三年の命」という宣告を医師から受けていたということを考えると、「私は神のみ心によって救われた」という方向に彼の心が動いていったとしても、それほど不自然とは言えないのかも知れない。

報国の心を抱きながら、途半ばにして病に倒れ、死を宣告された光玉は「余命を国のために」と、父から受け継いだ財産を注ぎ込んで、航空機製造会社を名古屋に興したのをはじめ、製塩、炭鉱、木材など軍需関連企業の経営に挺身した。各分野を網羅した会社の名称は何故か「平和産業」であった。
だが、敗戦直前の昭和二十年、彼の企業は空襲を受け、灰燼(かいじん)に帰した。そして、敗戦と戦争協カ者としての追放。戦後は零(ゼロ)からの出発であった。彼は自殺を思ったこともあったという。
敗戦直後の混乱期、光玉がどういう生活をしていたかはつまびらかではない。彼の家族さえも夫であり父である彼の行動を充分把捉していたとは言えないような状態であったらしい。
事業としては、神奈川県の二宮あたりで、戦前手がけたものの一つである製塩を細々と営んでいたようである。一人光玉に限らず、この時期はほとんどの人が、食べられるならば色んな事に手をだして失敗をしたり、運のいい人は成金になったり、混沌とした生活をしていた。家族が、夫や父が何をしているか充分に把握出来ていない状態だったとしても、この時期なら、そう特異な例ではなかったような気がする。
しかし、光玉はこの頃から既に、宗教のほうには相当、身を入れていたようである。
「神道、仏教あらゆるところを模索して歩いた」と、彼は後年、親しい人たちに漏らしている。
その全てが詳細に判っているわけではない。しかし、彼の家族の一人はこう語っている。
「ある宗教の教祖が書いたという掛け軸を、当時のお金で何万円も出して買ってきて、『お前たちもこれを拝め』と、こう言うんですねえ。食べる物も満足に無いのに、わずかに残っていた家財は次々宗教に注ぎ込んでしまう。恨めしい思いをしました」
はっきりとわかっているものでは、最初が生長の家、その次がメシア教。大本教のことも話していたことがあるという。メシア教では相当のところまで進んだらしい。埼玉県の朝霞市に住んで、自宅を道場にし、かなりの信者たちが彼の家に集まって来ていた。
メシア教の活動を何故やめたのかは、はっきりしない。
しかし、光玉は昭和二十年代の終わりに、今度は俗世界の営みである建設会社の幹部として姿を現す。
会社の名前は「多田建設」。
本社を東京都江東区大島に持ち、現在は大阪、仙台、札幌、広島、四国、福岡など各地に十二の支店、営業所と、七百四名の従業員を擁し、資本金十億円、総売上高五百六十億円を上回る中堅企業である。
「真光」教団の資料によると、岡田光玉は昭和二十八年、多田建設の重役となり、同時に「光開発」という会社を設立した、となっている。
とりたてて言うほどのことではないのかも知れないのだが、多田建設で光玉と親しく接した人びとの記憶では、入社はそれより一年遅く二十九年で、役職は「顧問」だったような気がする、と言っている。三十年以上も前のことについてなら、この程度の誤差はあっても不思議はないのかも知れない。
しかし、いずれにしても、多田建設の発展にとって岡田光玉が極めて重要な役割を果たしたことは間違いがない。
経緯は不明であるが、下請のペンキ屋のおやじの紹介で光玉が顧問として入った当時、多田建設は従業員五十人ていどの、下町の土建会社にすぎなかった。
「なにしろ、龍道先生が取ってきてくれた仕事が、我が社始まって以来はじめて鉄筋コンクリートを扱う工事だというので、その仕事に取り掛かる時には全員が集まって、”出陣式”のようなのを盛大にやったのを憶えていますよ」
現在、総務部長を務めている池田修の記憶である。
岡田光玉は多田建設で自らを「岡田龍道」と名乗っていたと、池田らは回想する。五十人そこそこの社員たちは新しく入ってきた軍人上がりの顧問のことを親しみと尊敬を込めて、「龍道さん」とか、「先生」と呼んでいたそうである。

岡田が加わってから、多田建設には自衛隊関係や住宅公団などの大口受注が目立って増え始めた。軍隊時代の人脈が生きているのだろうかと、多田建設の人たちは考えもしたが、それにしては昔の軍人仲間が会社を訪ねて来ることもなかったし、岡田からその種のはなしを聞いたこともなかった。仕事に行く時には、岡田は一人で出かけて行き、自衛隊や、住宅公団の大規模な工事をさり気なく取って来ては、下町の土建会社の従業員たちを驚かせ、喜ばせていた。
伊豆・本山の崇教局長だった田中清英は、新年に多田建設の社長が岡田光玉の自宅へ年賀の挨拶に訪れたのを見て、
「社長さんのほうから挨拶にみえるのだから、会社でも大変偉い方なんだ」
と感じたことがあるという。
「先生が入られてから、会社の雰囲気が明るくなりました」と、前出の池田修は語っている。
それは勿論、岡田によって実質的に社業が発展を始めたからであるが、岡田の人柄もまた、そうした雰囲気を醸しだす上で少なからぬ影響を持っていた。
今は、親和寮という多田建設の社員寮の寮監をしている佐々木朝則は、当時、お付きの運転手として岡田光玉に身近に接していたが、懐かしそうにこう語っている。
「自衛隊の北海道方面総監をしているという軍隊時代の親友の方が東京に来られるというので、先生のお供をして羽田までお迎えに行ったときのことでした。総監とお茶を飲まれる時、先生は『佐々木君も一緒に来いよ』と言ってくださったんです。先生はいつもそうやって、私たち下の者のことでも、気にかけていて下さいました」
おおらかで、人なつっこくて、思いやりのある、渇かい人、偉ぶらない人、面倒見のよい人、という印象を多田建設の人たちは抱いている。
佐々木はこうも話している。
「千葉県・幕張の海岸でよしず張りの店をだしている漁師が突然、『戦時中はお世話になりました』と懐かしそうに飛び出して来て、びっくりしたことがあります。意外な所でそういう場面に出会うことがよくありました」
多田建設では、岡田は宗教に強い関心を抱いているという気配を全く感じさせなかったようである。
「多田建設をお辞めになってから教団を興されたと聞いて、みんな『エッ』と驚いたぐらいでした」
と、池田は語っている。しかし、運転手として日常を共にしていた佐々木には、光玉のもう一つの顔が見え隠れしていた。
「江ノ島へ行った帰りのことでした。朝から胃の痛みを感じていたので、そのことを先生に申し上げると、『よし、私が治してあげるよ』と言われて、帰路ずっと、後ろの座席で私のほうへ掌を向けて手をかざしておられた。後から考えれば、あれが“真光”の技だったわけですが、あまり長く手を上げておられるので、『先生、お疲れになるから、もういいですよ』と申し上げたことがあるんです」
佐々木はこう言ってから、
「ただし、胃のほうに効果があったとは、あまり思えませんでしたがネ」と付け加えた。
彼は「いまでも、先生が亡くなったとは信じられない」というほど岡田光玉の人柄を尊敬してはいたが、しかし、岡田から何度か誘われながら信徒には遂にならなかったという。
岡田光玉は多田建設に在籍していたころ、世田谷区の下馬に住んでいた。佐々木は岡田をその自宅までよく送って行ったし、自宅に招かれたこともよくあった。佐々木は岡田の自宅について、普通の人の家とは異なった異様な雰囲気を感じていた。
「建物は普通の仕舞屋(しもたや)で、外観には変わったところはありませんでした。しかし、中に入ると、廊下といわず階段といわず、家中に赤い級毯(じゅうたん)が敷き詰めてあり、何か神様のようなものがお祀りしてあった。今にして思えば、ああいうことをやる人はやっぱりどこか違っていたなあ、ということですねえ」

「天の時到れるなり。
起て、光玉と名のれ。
手をかざせ。
厳しき世となるべし」

多くの教祖がそうであるように、岡田光玉は忽然と神の啓示を受けたのだという。
昭和三十四年二月二十七日午前五時。
光玉、五十八歳のときであった。
光玉自身が語っているところによれば、彼はそれから遡ること五日前から原因不明の高熱を発し、人事不省に陥ったままこんこんと眠り続けた。そして、五日日の未明五時、一天にわかにかき曇って雷鳴轟き、閃光走る中で、姿を現した神は、彼に向かって救いの道に起ち上がるべく神命を与えたのだという。
こうして、若き日の近衛師団連隊旗手、元陸軍中佐、岡田良一は教祖への道を歩み始めるのである。
岡田光玉が神を求めて摸索を続けてきたことは既に述べた。手かざしをするとそこから神の「真光」が出るというのは、神道に古くから伝えられる教えである。古神道を深く研究していたらしい光玉はその頃既に、手かざしによって人びとを救うという体験を何度もしていたようである。
「自分は六つ乳房のあるご婦人を手かざしによって正常にして差し上げたことがある。このとき私は、自分が人を救うことの出来る人間であるという確信をもった。神の啓示が下ったのはその直後である」
光玉は後年、親しい者にそう語っている。それまでの長い間、神を求めて模索を続けてきた岡田光玉に、神はこの日突然、教祖として起つことを許したということになる。
実は、「三十四年二月二十七日」という数字には大変な意味が込められている。それは、昭和と明治を入れ替えれば、岡田光玉の誕生日に当たるからである。
明治三十四年二月二十七日にこの世に生を享けた「神のみ使い」岡田光玉は、奇しくも昭和三十四年二月二十七日に、世界の真の救世主として起つべく神から啓示を与えられた、というのである。
事実とすれば、この偶然だけでもすでに、「神がかり」である。さらに、光玉の誕生に関しても、教団の教えはこう伝えている。
「明治三十四年二月二十七日、未明。母堂は左足の親指を白金色の鼠に噛まれる夢を見た。指の痛さに目が覚めると、間もなく、師がお生まれになった。
白金色の鼠は出雲大社のお遣いとされているが、師の母堂はかねてから出雲大社への信仰篤く、男児誕生を熱心に祈念されていたのである。
母堂の左足の親指は、七十四歳で亡くなられるまで痛みがやまなかった」
神の存在や配剤を信じる人びとからこのような話を開かされると、信じていない人びとは抵抗を感じる。あるいは、頭から信用しょうとはしないのが通例である。
しかし、これに似た話は、岡田光玉の娘の一人が祖母、つまり光玉の母から、光玉が教祖となるはるか以前に直接、聞かされている。しかも、この娘は教祖を父に持ちながら、神がかったことが嫌いで、初老を迎えた今日まで信仰とは無縁の生活を送ってきているのだ。
彼女は、「他人様に笑われるようなお許なんですが」と斬りながら、こう語る。
「そういえば、祖母から奇妙な話を聞かされたことがあります。
祖母がいいますには、ですね、金のタライで産湯をつかっている夢を見た時に、父が生まれたそうでして、『この子は神の子だから、大切に育てなくてはいけない』ということで、父は小さい頃は随分と大事に育てられたように聞いております」




2004年01月25日(日) 062 publicationsinJapan

「真光」の立教の地は東京・神田の須田町である。
神田・須田町は「神の巣立つ所」であるとして、岡田光玉はここを立教の地に選んだ。彼が最初に、布教の為に開いた道場は神田須田町二丁目七番地にあった「多楽福(たらふく)」という中華そば屋の二階だったという。
「多楽福」という屋号が、時代を物語っている。恐らくは、食糧不足のひどかった戦後の名残りをとどめた屋号であろう。
中華そば屋の二階が最初の道場となったことについて、初期の頃からの信徒である大森ひでは、「何でも、その中華そば屋の入っていた建物の家主さんが救い主様に病気を治してもらったんだそうですよ」と語っている。
かつて、この建物のあった所は東北新幹線を東京に乗り入れる橋桁を立てるために立ち退きになり、現在工事が行われているが、当時の建物は神田須田町から岩本町にいたる靖国通りの、国電の山手線・京浜東北線のガードをくぐったすぐ脇に建っていた。
道場のある二階には中華そば屋の店の中を通って上がらなければならなかった。そばをすすっている客のあいだを、いささか肩身の狭い思いをしながら階段を登っていくと、三十人は入れるくらいの、ガランとした畳敷きの都塵があった。
その頃、教祖様はまだ建設会社に勤めていて、会社が終わると、カッターシャツにだぷだぶのズボンという恰好で、夕方から「多楽福」の二階にやってきては「手かざし」の技を披露したり、「真光」の論理を講義して、集まった人びとに聞かせていた。
多田建設の運転手だった佐々木朝則は岡田光玉に誘われて、何度かこの「道場」を訪れたが、その時、こんな光景を目撃したことがある。
二十人を超える人びとが座って、光玉の手かざしを受けていた。その時、一人の老人が小水を垂れ流した。ただでさえ、中華料理のニンニクやニラの臭いのたちこめている部屋に、小水の臭いが加わって、異様な雰囲気をかもし出した。顔をしかめる人たち。だが、教祖様は意に介する様子もなく、老人に向かって、こう言った。
「いま、あなたの身体の中にたまっていた毒が体内から流れ出しているのです。そのまま、放っておきなさい」
この時、手かざしを受けていた者の中に、立川市の大森新治郎がいた。その老人のすぐそばに座っていた大森は、最初、そのことに気づかなかった。靴下とズボンのおしりの辺りが生温かくなってくる。自分が小水を漏らしたのかと、調べてみたが、そうではなさそうだ。岡田光玉の声でやっと、その意味が飲み込めたというのである。
「真光」の教勢が伸び始めたのは立川市に道場が出来てからだと、教団の資料はその歴史を語っている。
立川に初めて「真光」を伝えたのは大森新治郎であった。大森は立川基地の運転手だった。昭和三十四、五年といえば、日本中を巻き込んだかに見えた六〇年安保で揺れていた頃。米軍基地がまだ、幅をきかせていた時代である。
大森が何故、「真光」に関心を抱くようになったのか、故人となった今では心中を尋ねることは出来ない。妻のひでによると、とりたてて何処を患っていると言うわけでもなかったのに、知人から聞いて、岡田光玉の話を聞きに神田まで出かけて行ったというのである。
浅草で生まれ育ったという妻のひでは、伝法な口調でこう語っている。
「あたしゃ、連れ合いに言ったんですよ。まあ、悪いことをしに行くわけじゃあないから、反対はしませんが、あまり変なことを言い歩くと、近所の人に頭がおかしくなったんじゃないかって言われるから、ほどほどにしといてね、って。そしたら、あなた、行ってすぐ“御み霊”もらって帰って来ちゃった」
つまり、信徒になったということである。
新治郎はひでに、「お前も入れ」と言ったという。
新治郎が「入れ」と言った気持ちは、「真光」によって病を癒された今になってみればよく判る、とひでは言う。

ひではひどい喘息持ちで、発作が始まると息が止まりそうになる苦しみを何年もの長い間続けていた。その上、心臓肥大。よくあるケースだが、医者を転々としても治らず、見放された状態にあったのである。
夫の粘り強い説得に負け、ひでは「騙されたつもりで」、手かざしと研修を受けに、夫と共に、岡田光玉を訪れた。須田町の道場である。
「あなたは随分、身体に貯金しましたねえ」
ひでの顔を一目見るなり、光玉はそう言ったという。随分と医者や薬にお金をかけたようですねえ、と言ったのである。後で思えば、図星を指したこの一言が利いていた。
三日間の研修を終えて、ひでは「御み霊」を受けた。信徒になった印であるが、それでも頑固なひでは全く信じていなかった。夫の執拗な説得に従ったまでだと、思っていた。ちょうどその日、病持ちのひでは歯が痛く、右頬が大きくはれあがるくらい具合が悪かった。立川への帰り道、どうせ嘘に決まっているとは思いつつ、「試してやるか」という気持ちで、そっと右手の掌をかざすように頬に当てていた。すると、立川駅に電車が到着する頃になると、歯の痛みが止まり、全くなかった食欲が出てきた。駅前のそば屋のところまで来ると、むしょうにうどんが食べたくなり、けろりと平らげた。ひではそれまで、嫌いで、うどんというものを食べたことがなかったのだそうである。
頑固なひではそれでも、ただの偶然にすぎないと思おうとした。しかし、偶然にしても、長い間病気に苦しんでいた者が、一つの苦しみから逃れられたという魅力には抗(さから)い難い。彼女は、本当の偶然だったのかどうか試してみることにし、また、手かざしを受けに行った。こうして、回を重ねるうち、医者からも見放されていた重い喘息や心臓肥大が嘘のよう無くなり、七十五歳になった今日も矍鑠(かくしゃく)として「真光」の手伝いに励んでいる。
「本当に頑固でしたから、神様には随分と失礼をしました」
ひでは苦笑しながら、語っている。
こうなると、頑固だっただけに彼女は強力な説得者に変貌する。
「ねえ、ねえ、あなた、あたしが治してあげるわよ」
ひでは誰かれとなく、病気や悩みを持った人たちを捜し出しては、手かざしをやって回った。
「これがまた、面白いように治るんです」
信徒はまたたく間に増えていった。
大森夫婦の家には自然、そういう人たちが集まるようになり、初代の立川道場となった。「真光」が神田須田町以外で持った初めての道場である。
大森夫婦の後を継いで立川道場長となった岡本洋明の場合はさらに徹底していた。
岡本は立川で不動産、金融、ボーリング場などを手広く営んで、個人経営ながら相当の事業と資産を有していた。
彼が「真光」の強力な信徒となったのも、知人の勧めで行ってみた結果、奇蹟が起こったからである。「病気のデパートみたいだった」という彼が信じられないような健康体になり、子供に恵まれないと悩んでいた妻の富美子も八人の子沢山になったからだという。
奇蹟の起こる詳しい経緯は割愛する。
しかし、その結果、岡本一家は岡田光玉に心酔し、ほとんど全財産を投じるほど、「真光」に没入するのである。
夫の他界した岡本の家には、神田須田町の中華そば展の二階に飾られていた、光玉の筆になる「真光」の由緒ある掛け軸や、光玉の書いた書の額、光玉の写真、かつて光玉がそれを着て説教をして回っていたシャツや洋服に至るまで、家宝として大切に飾られ、仕舞われている。「あなたたちのお蔭で、真光は広がることが出来た」
光玉はそういって、記念すぺき品の数々を岡本一家に与えたのだという。
妻の富美子は遠慮がちに笑って答えなかったが、人々の話では、まだ経済的に苦しかった教祖・岡田光玉を初期の時代に支えたのは岡本だったという。
大学出のサラリーマンの初任給がまだ一万円あるかなしという昭和三十四、五年頃、岡本は月々数十万円を奉納していたようだし、教団の幹部たちも岡本の会社の社員ということにして、給料を払っていたそうである。教団が総本山を建立するときの奉納金などをあわせると、岡本家が教団に奉納した金額の総計は二億円を下るまいといわれている。
岡本は初期の頃、教団の経営基盤を確立する必要があるから、といって、自分の経営していたボーリング場を教団に寄付してしまった。いまでも「真光」という宗教団体がボーリング場を経営するという珍妙な状態が続いているのは、そのためである。
「だって、沢山のいい子供たちに恵まれて、健康に、こうやってどうにか過ごさせていただいているのも、救い主様のお蔭ですもの」
妻の冨美子はおだやかに微笑むだけである。光玉に命名してもらった長男がストレートで東大に合格できたのも、救い主棟の庇護があったからではないか、とさえ言いたげであった。

岡本や大森たち、膝を交えて教えを受けた初期の信徒たちにとっても、岡田光玉はおおらかで人なつっこく、きさくで温かみのある教祖であったという。
「私たちの手には負えなくて困っています」
SOSの電話を掛けると、光玉は、
「私が行ってあげるから、待っていなさい」
と言って、下馬の自宅から、すぐ、馳せ参じてくれた。立川市内を、教祖様は時には自転車に乗って、困っている人たちの所へ駆けつけることも一再ではなかったという。
そうした光玉の懸命な姿が信徒たちの心を捉えた。岡本もそうした教祖様の姿を見て、当時はまだ数が少なかった自家用の外車を、教祖様の専用車として提供したのである。
「神の火は神田須田町で巣立ち、立川で立ち上がり、八王子で四方八方に広がった」
と、光玉は後に語っているが、「真光」は立川の道場を起点として三十五年頃から急速に拡大を始めたのである。
「真光」が急速に拡大する秘密の一つはその方法論にあるといっていいだろう。
三日間の研修を受けてペンダント様の「御み霊」を拝受すると、その人は神組手となり、病気で苦しんでいる人たちにたいして手かざしをしてあげることが出来る。そこで、病が癒され、この方法を信じた者は三日間の研修を受けて、神組手となる・・・・・・こうして、信徒はネズミ算式に増えていくことになる。問題は手かざしで病気が本当に治るか否かにあるのはいうまでもないことなのだが、信徒たちが増え、広大な敷地の本山と巨大な殿堂が建立されているという現実は何を物語っているのだろう。
この教団の特徴のもう一つは、教義とか戒律といったものに全くといっていいほど、うるさくないことであろう。
「とにかく、来てみなさい。治ったら、信じればいい。何故、治ったかの理屈を教えて差し上げましょう」といった感じなのである。
だから、戒律や教義の厳しい教団の信徒たちに比べると、信仰者にありがちな気負いや押しつけといったものがかなり少ないように思われる。
こうして、「真光」の教勢は拡大していった。信徒は増え、組織は拡大し、社会的地位のある人々にも広まっていった。
神組手の中には歌舞伎役者の片岡仁左衛門、歌手の渡辺はま子、詩人の加藤郁乎(いくや)、旧帝国大学系大学の医学部教授、オーストラリアの大学教授、フランスの軍幹部などの有名人、著名人、知識人たちが加わった。大祭などの行事には福田赳夫元総理や藤波孝生現自民党国会対策委員長や海外からの外交団が列席するようになった。へラルド・トリビユーンやル・モンドが岡田光玉とその教団について詳しい特集を組んだこともある。
片岡仁左衛門は岡田光玉について、
「四十三年に神組手にさせていただいて以来、公私共に親しくお付き合いさせていただき、我当、秀太郎、孝夫の息子たちも神組手にさせていただいております。四十九年に神幽(かみさ)られた(他界した)時にも、駆けつけたのは私が一番乗りでした」
と語り、仁左衛門の長女・高木与喜子も、
「父は目が不自由になっているのに、舞台に上がると小さな煙草盆に灰を落とす場合でも、花道で舞台ぎりぎりに足を踏みだす場合でも、決して誤ることがないのは、神のご加護のお蔭と感謝致しております」と語っている。
与喜子はこの教団の幹部で、東京・上用賀小道場長である。
光玉については多くの人たちが「大きな人だった」という印象を抱いている。包容力があったという意味もあるが、同時に、大変身体が大きく感じられたというのである。
「凄い熱気を感じさせる人だった」という人たちも多い。詩人の加藤郁乎はこう語っている。
「湯川秀樹先生が『あの人の傍にいると暑くなる』と言っておられた。福田赳夫元総理も同じことを言っておられました。私もその経験をしています」
岡田光玉の額には大きな瘤様のものがあった。写真を見てもはっきりと映っている。
「白豪(びゃくごう)」といって釈迦の額にあるのと同じようなものであった。不思議なことに、立教以前の写真にはどれを見ても白豪がない。そして死の直前にそれは消えている。神の許へみまかる準備が出来たからだ、と言う人もいれば、いや、晩年の光玉は金や宝石を身に付けて奢りだかぷっていたから神のお叱りを受けたのだと言う人もいるが、真相は判らない。


前出の佐々木朝則はこんな思い出を語る。
「昭和四十九年六月のことでした。多田建設の社長が石の塔を寄贈することになって、私は、当時先生が住んでおられた熱海へそれを据え付けにお邪魔をした。どうもお身体がすぐれないように見えたので、『先生、大丈夫ですか』と申し上げた。先生は『大丈夫だよ』と言っておられたんですが・・・・・・」
神の啓示が突然襲ったように、死もまた光玉に突然訪れた。
「北海道へ行かれることになっていたんですがねえ。気持ちが悪いといって休まれて、そのままでした」
伊豆・本山の第二代教え主・関口栄が語る教祖・岡田光玉の最期である。佐々木朝則が会った直後のことであった。
岡田光玉の死後、これもよくあるように、教団は二つに分かれた。伊豆に本拠を持つ「世界真光文明教団」は幹部だった関口栄が第二代教え主として継承し、高山の「真光」教団は光玉の養女・岡田恵珠が継承して、ともに急速な勢いで発展を続けている。

【解説】
「教祖誕生」は、新潮45に連載されたドキュメンタリー小説で、加筆修正のうえ、1987年に新潮社から単行本が、1994年に講談社から文庫本が出版されたが、現在はいずれも絶版となっている。単行本と文庫本はネット古書店で購入できるし、公立図書館で閲覧も可能である。新潮45と単行本の間には、大幅な書き変えはないが、一部削除された箇所をお見せする。
新潮45 1985年5月号(4巻5号) 112-121頁
「教祖誕生」―陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示― 上之郷利昭著
(P116) しかし家庭での光玉は大変激しかったと娘の一人はこう語っている。
「口をきくにも襖(ふすま)の外からおうかがいを立て許しが出たら、襖の開閉(あけたて)をきちんとした上で、用件を申し上げるという形式を踏まなくてはなりませんでした」







2004年01月24日(土) 063 publicationsinJapan

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「護られた街−カルトは防げる撃退できる」 (2002.6.25初版発行 ISBN4-9980905-1-8)


(日記による紹介文)


http://www2.diary.ne.jp/user/140664/
2003/07/04 (金) 備忘録−「護られた街−カルトは防げる撃退できる」

>護られた街-カルトは防げる撃退できる
>仏教カルト研究所発行 1500円
>著者 護られた街編集委員会
>山根二郎、浅見定雄、奥田穣児

カルト問題につき、大変に参考になる本です。
神慈秀明会の進出に対し、長野県松本市の住民らがした闘いの記録
−−−この団体はトラブル多く、何とか来させないようにしたいというのは良く分かるが、周囲に公害のような具体的な被害を与えていると証明することは困難なので、法的になかなかできないとされてきた−−−
うーん、何度もの住民大会、申立人を多数にした調停での様子、その上で断念をさせた戦い。

「信じない自由」「布教されない自由」、その自由は勿論あって、より強く強調させるべきだが、権利として相手の何を制約するまでできるか、判決などとなれば難しいところあり。 だからと言って、諦めてはなんらないことを示す、と思う。

参考にしましょう。類似の事件のときに紹介できるほとんど唯一の本。
−−−−−−−−−−−−−−−−−

(読後の感想)


山根二郎弁護士の論文(「非宗教的人格権」の確立に向かって)の迫力に圧倒されたり、浅見定雄氏の文(許せない神慈秀明会の教え)にうなづいてみたりだ。

神慈秀明会は世界救世教から分かれたので、当然教義に真光との類似部分が多い。浅見氏によって学問の面から見てひどいと指摘される部分、恐ろしい教えと言われる部分は真光の教義とも重なるところがある。

巻末資料 「カルトの被害から身を守るために」もコンパクト(2ページ)にまとまっている。お馴染みのフランス議会セクト調査委員会報告書 の一部も出ている。 (海外のHPはこちらhttp://www.cftf.com/french/Les_Sectes_en_France/cults.html#ici


松本市の住民は、違法でない限り神慈秀明会が嫌がる事はなんでもやったそうで、そのひとつにステッカー作戦があったそうだ。そこを抜き出す。108ページより。
<抜粋>

ステッカー作戦については、夜の個別訪問のところで述べたが、もう少し詳しく述べておく必要がある。最初に作られたのは「神慈秀明会個別訪問お断り」というものだった。だが、学習によって自分たちの理解がすすむと次々に新バージョンを誕生させていった。さらに、隣接する横田二丁目に同じ手かざし系の崇教真光がくるという計画が持ち上がる と即座にそれも取り入れたステッカーを配布した。これは、住民運動などはじめてで、正面切っては物を言いにくいというおとなしい人でも意思表示できることがいいのだ。

地域全体が同じ意思を示すことによって更なる効果が発揮される。神慈秀明会が、一部の人間に踊らされた住民運動と誹謗しながら、その後は、住民との接触を自ら避けるようになり、現場に派遣していた信者による草刈り清掃も、いつか中止されていったのも、このステッカーや取り巻く看板のカルト糾弾のアピールが、信者に動揺を与えることを恐れたのではないかと見られている。

Top


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「神道事典」 國學院大學日本文化研究所編集 弘文堂H6年初版


編集委員
井上順孝 (國學院大學日本文化研究所教授)
岡田荘司 (國學院大學文学部教授)
阪本是丸 (國學院大學文学部教授)
椙山林継 (國學院大學日本文化研究所教授)
高塩 博 (國學院大學日本文化研究所教授)

岐阜県内公立図書館:県立、岐阜市立、武儀町立、白鳥町立、池田町立
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN10920215
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA41363654


P475<世界真光文明教団>
 大本および世界救世教系の新宗教。創始者は岡田光玉(一九〇一〜七四、本名は良一)で、初代教え主あるいは救い主と称される。
世界救世教の支部長をしていた光玉は、昭和三十四年(一九五九)、五日間の人事不省から覚めると
「天の時到れるなり。起て、光玉と名のれ。手をかざせ。厳しき世となるべし」との神示を受け、L・H陽光子友乃会を設立して活動を開始、翌年宗教法人となった。
昭和三十七年には「本年は火の洗礼の第一年なり」との神示を受け、会を世界真光文明教団と改称。

神示はたびたび与えられたが、神示集『御聖言』は次のようにまとめられる。人類は今、物質文明から霊主文明への転換という神の経綸の大転換期に遭遇している。
しかし我欲の虜になった人類はそれに気づかないため、神はこの世を浄化しようとして、それが天変地異となって現れている。しかし神は最後に最大の救いの道を人類に示した。
それが真光の業である。岡田光玉の使命は、手かざしにょる真光の業によって、人類の魂を浄め、霊魂の実在、神の実在を人々に知らせ、
来たるべき「火の洗礼の大峠」を乗り越えて真文明の世まで生き延びる「タネビト」を準備することである。
このような終末論的な教えと真光の業の実践が活動の中心となっている。
昭和四十九年に岡田光玉が死去すると、後継をめぐって関口栄(一九〇九〜)と岡田恵珠(一九二九〜)との間に訴訟が起こる。
裁判所は関口栄に継承権を認め、同人が第二代の教え主となった(一方の岡田恵珠はあらたに崇教真光を起こして分派独立)。
昭和六十二年、伊豆半島中央の高原に主神の座である主座世界総本山主晃一大神宮が建立された。
【本部】静岡県田方郡中伊豆町大字冷川大幡野1524-4
【公称信者数】約九万八千人〔文〕 (津城寛文)

<注> ”新宗教事典(弘文堂)475頁”と誤った書込がみられますが、”神道事典(弘文堂)475頁”が正しいです。文献調査時のミスと思われる。



2004年01月23日(金) 064 publicationsinJapan

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「信者を嵌める欲望の神々:新興宗教を告発する」  田中一京著 青年書館1989.11

『S教M光』(92-98頁):身体に取り憑いてる霊を手かざしによって取り除き病気も治ると言われたが、まったく効果がなかった

 S教M光を信仰する若い信者の中には、手かざしによる病気治しに疑問を抱き、更には霊魂や動物の憑依霊などを恐れながら信心を続け、悩みぬいた末に自分では結論が出せずに相談に訪れる人が意外に多い。まず埼玉県大宮市の元スナック経営者S.Aさん(34歳)の話を聞こう。

『私は3年前交通事故に遭い、それからずっと頭痛に悩まされ苦しんでいたとき、S教M光の信者であるKさん(29歳・女性)に病気を治してあげますと言われ、数回私の家へ来ていただいて手かざしを受けました。それから二、三度同じことを繰り返した後、Kさんの家へ遊びに行ったとき説明会(M光説明会)を聞きに行きましょうと熱心に誘われ、Kさんが通っているという東京・六本木にある道場へ連れて行かれ、そのまま一万五千円払って入信しました。
 私は入信するまでかかりつけの医者に薬をもらいその薬を飲んでいたのですが、M光では「薬は身体によくない。害になるだけだからすぐやめなさい。熱心に信心すれば薬など使わなくても病気は必ずよくなります」と言われ、私は教えられたとおり、医者からもらってくる薬をまったく飲まずに、M光でいただいた“おみ霊”をいつも大事に胸にかけてお祈りしていたのですが、頭痛は一向に治りません。
 最近では頭痛がさらにひどくなり、痛みがあるときは目までかすみ、頭が割れそうになって我慢できなくなることがあります。このままではすごく不安ですし心配でたまりません。
 今ではM光の教えに背くのですが、頭が痛くてたまらなくなった時には内緒で医者からもらった薬をときどき飲んでいます。そうすると頭痛も和らぎ楽になりますが、私の気持ちとしてはM光を信心していながらその教えを破っていますので、そのことが気になって仕方がありません。手かざしをするだけで本当に病気が治ると言われたことに疑問を持っておりますし、その疑問がだんだん強くなっています。
 もちろん、信者の人に相談すれば、薬は絶対使ってはいけない、信心すれば治ると言われることはわかっています。でも、自分でどうすればいいのか今、迷っています』


 また、元信者であった東京都板橋区の菊池さん(32歳・男性)は次のように語っている。

『私が五年ほど信じていたS教M光をやめたのは、ある日突然原因不明の足痛に襲われ、40度近い熱が三日も四日も続きました。他の信者の方は「それは霊障に違いない。だから病院で治療を受けても治らない。身体の中に悪い毒が蓄積されているから、その毒を浄霊して治さなければ命取りになる」と言って、それは熱心に手かざしをしてくれました。
 私もそうした仲間の信者さんの期待に応えようと、原因不明で動かなくなった足の痛みを我慢し病院にも行かず、ただひたすら信心に没頭する毎日でした。ところが痛みが治るどころが、身を切り裂かれるような激痛と高熱が続き、とうとうまったく動けない状態になり担架でやっと病院へ運び込まれました。
 病院で検査を受けた結果、白血球が異常に増え、どこかに炎症を起こしている」といわれ、脊椎に痛み止めの注射を打ったり熱さましの注射を打つやら、私の気がつかない間に医者と家族が心配して大騒ぎしたようです。
 医者の懸命な治療によって、動かなくなった足も次第に動くようになり、やっと退院することができました。そのときほど医者の治療を心からありがたいと思ったことはありません。あとで女房が私に言うには「もう少し治療するのが遅れていたら熱による脳障害が起きていたかもしれなかったし、神経をやられ動けなくなったかもしれない」と言われたそうです。
 私はそれを機会にM光をやめました。その後は足も順調で、今ではまったく痛みもありませんし、妻共々よかったと喜んでいます。私の経験から、やはり病気のときは早目に医者に見せるべきだと思いますし、ただ手かざしをするだけで絶対に病気は治らないと思います。今考えると医者や医療行為を拒否していた自分が浅はかだったと思います』
 次は東京都町田市のMさん(22歳・女性)の話である。

『私はS教M光に入信したばかりなのですが、古い信者の人から、「M光の業を受ける者は絶対に霊魂に興味を持ってはいけない。素人が霊に興味を持てば命取りになるほど危険なことだ」と教えられましたが、本当にそんなに危険なことが起きるのでしょうか。それに霊魂が私達人間の心や体をすべて支配しているといわれますが、それは本当でしょうか。
 私は、入信するずっと以前から霊魂の存在を信じていましたし、そのことで何か悪いことでも起きるのではないかと思うと心配でなりません。それにいろんな本でS教M光のことが取り上げられていますが、手かざしをしてお祈りするだけで霊魂を鎮めることができるのでしょうか』
と、霊の祟りを恐れている。

 そこで、実際にS教M光の道場で霊視を受け除霊を体験した千葉県船橋市の菅井さん(27歳・女性)の体験談を紹介してみよう。

 『私がS教M光を知ったのは、知人である信者のAさん(30歳・女性)から、私が体調を崩していたとき「あなたには先祖の霊やいろんな動物の霊が憑いているんじゃないかと思いますよ。多分間違いないし一度動物の霊に取り憑かれた人がどんな状態になるのか見せてあげましょうか」と誘われ、私は気持が悪くなり、そのAさんと一緒に東京・世田谷にある道場といわれるところへ行きました。
 そこはごく普通の二階建ての住宅で、私はその家の二階に通されました。部屋は20畳敷くらいの広さがある和室で、部屋の中央には祭壇が祀られていて、これはあとで教えられたのですが天地創造の神「御親元主M光大御神」という神様が祀られているのだと言っていましたが、部屋の中の雰囲気はいかにも厳粛な感じでした。
 私が部屋に入ったときすでに30歳前後の女の人が二人来ていて、私と一緒に来たAさんが「M光の業がどんなものかあなたの目でよく確かめて下さい。すごく不思議な現象が起こりますから」と耳打ちしてくれました。その女の人達は入信したばかりの人だとのことでした。
 そして、しばらく待っていると40歳前後の道場長という男の人が入ってきて、正面の祭壇の前に座りました。すると待っていた女性の一人がその道場長さんの前に向かい合って座り、二人は顎の前あたりでお互いに手を合わせ目をつぶると、道場長さんがお祈りを始めました。
 そして、そのお祈りが終わると女の人はそのままの姿勢でしたが、道場長さんは女の人から30cmくらい離れたところで右手を額の前へ突き出し手かざしを始めました。それから約2,3分経過したときでしょうか、突然その女性が両手を頭上に高々と上げ、目は閉じたままの状態で体を前後左右に激しく揺すりはじめたのです。
 そのときAさんが「あの女性には猫の動物霊と先祖の霊が憑いているの。あの上げた手は猫が手招きしているようでしょう。今、それをお浄めしてあげているんです」と教えてくれたのです。なるほどそう言われてみると猫が手招きしているように見えました。
 私が、そっともう一人の女の人に目を移すと、その現象を見てなるほどというように、何度も何度もうなずきながらじっと目を凝らして見ていました。それからすぐその女の人が突然同じように体を動かしはじめました。そして5分か10分たったころと思います。道場長さんが手をかざしたまま「オシズマリ、オシズマリ」と女の人に声をかけました。するとあれだけ激しく体を動かしていたのに、その動きが止まったのです。
 それが終わって今度は私の番になり、道場長さんの前に座って私も先ほどの女の人と同じように手を合わせました。すると道場長さんが「極微実相玄幻子界、高天原に……」と祈り始めました。このお祈りは「天津祈言」というようですが、そのお祈りが終わると今度は立ち上がって、私の背部に回りじっと手をかざしはじめました。
 それから10分たっても20分たっても私には何も変化が現れてきません。そして30分が過ぎたころ「オシズマリ」の声が聞こえ手かざしを終えましたが、その道場長さんは私にこう言いました。
 「あなたに憑依している霊は二体の人間の霊です。一体は先祖の霊で、もう一体はまったく別人の霊です。軍服のような物を着ているのがぼんやり見えますが、それが今のところ誰の霊なのか、あなたに何を訴えたいのかはっきりしません。ただ強い霊であることは確かなので、もう一度日を変えて、あなたに憑いている二体の霊を呼び出してみようと思いますが、それには7日間必要です。来られますか?」
 というのです。私はこの際、徹底して除霊を受けてみようと思い、その日は3000円だけお礼を包み帰りましたが、翌日から7日間ぶっ続けで除霊をしてもらいました。でも、結果は同じでした。一週間の除霊が終わって道場長さんは私にこう言うのです。
 「あなたに憑いている霊は邪霊ではありません。ただ、あなたの場合、生霊が強すぎて、憑いている霊が表に出てこない。あなたには巨大な狼の霊が憑いており、その霊が守ってくれていますから心配ありません」
 結局、私の場合、霊動現象も起きず除霊もあやふやな状態で終わったのです。
 S教M光では、あらゆる現象の源は霊にある。霊魂の世界があってその霊魂が人間の心や肉体に対して大きな影響を与えるといって“おみ霊”を受ければ手の平から霊光が出て人を救うことができると教えられているようですが、私の体験からはっきり言わせてもらえば、先祖の霊や憑依霊などは、生霊といわれる人間の生命力を左右するものではないと思うし、それを恐れる必要はないと思います』

『S界M光B明教団』(132-136頁): 宗教に没頭すればするほど金を注ぎ込み、生活は悲惨になっていくのに教団は知らんぷり

 私の本が書店に出て間もない頃、便箋三枚に小さな字でびっしり書かれた匿名の手記が寄せられたので、原文のままその内容を紹介してみよう。


 前略、突然名前も書かず、このような文面を差し上げる失礼をお許し下さい。

 私は、先生の書かれた『新興宗教・金儲けと権力争いの実態』という本を読み、新興宗教の姿というものがやっとわかったような気がしました。それで以前私が入信しておりました『S界M光B明教団』の熱心な信者でもあり、私の友人でもありますYさんの生活の様子をありのままにお知らせして、機会があれば多くの人に教団の実態を知っていただき、宗教の本質を考えるための参考にしていただければと思いペンをとりました。
 私は現在三十三になる一男一女の子供を持つ家庭の主婦でございます。私は約一年前長男が遊んでいて怪我をしたとき、友人の勧めでS界M光B明教団へ入信しました。現在はやめておりますが、たった一年足らずで信心をやめたのにはそれなりの理由があったからです。
 その理由といいますのは、実は、私に入信を勧めてくれた友人の女性Yさんの生活状態を見たからですが、Yさんのことをお話する前に、私が教団に入ったときのことを簡単に記します。
 教団に入信するには、まず最初に三日間の初級研修というのを教団の地方道場で受けなければなりませんが、この時教団へ“おみたま料”というお礼金の一万円を必ず払わなければなりません。そして毎月道場の運営費として五百円払うことが決められております。しかし、それは最低必要なお金で、そのほかお参りする都度五千円、一万円とお金がいりますし、研修も中級・上級に進めば進むほど万のつくお金がかかります。
 聞くところによりますと、最低必要な定められたお金以外は各々信者の皆さんの自由な意思といいますか、自分の気持ちから教団に寄付するという形で納められているようですから、道場によって多少の違いはあるようです。しかし、いずれにしましても、教団が最初説明する数倍のお金を取られることは間違いありません。いかに教団が信者からお金を吸い上げているかということがわかるかと思います。

 さて、私の友人で信者のYさんは、都内の小さな会社に勤めている30歳の女性なんですが、もともと関西の方から上京してきて、現在独りでアパート住まいをしています。Yさんは、教団の信者でなければ絶対に結婚しないというほど熱心な信者で、教団のため現在も一生懸命活動をしています。彼女の性格は素直で真面目な、どいらかといいますと無口な方で仕事も熱心にすることはしていたのですが、宗教に凝りはじめてからというもの頑固になったといいますか、素直さがなくなり、まるで人が変わってしまったのです。
 彼女の給料は月額の手取りで約13万円ほどですが、それにもかかわらず、彼女はどうも三度の食事を満足にとっていないようで、最近特に頭痛がする、めまいがする、体の調子が悪いといっては仕事を休み、道場へ行っては手かざしを受け浄霊をしてもらっているのです。私の経験から言わせてもらえば、あんなことで絶対に治るはずはないのですが、彼女は熱心な信者ですから言わせてもらえば、あんなことで絶対に治るはずはないのですが、彼女は熱心な信者ですから自分の信仰が足りないからだと思い込んでいるのです。
 私は、このままだと彼女が栄養失調で倒れるのではないかと思い、見るに見かねて何度か意見をしたのですが、一向に私の言葉を聞こうとせず、逆に信心をやめた私に敵意さえ示すほどです。
 彼女の手は荒れて夏でも霜ぶくれのように赤く腫れています。
 そこで彼女の実生活を聞いていただきたいのですが、それは質素で、現在住んでいるアパートは六畳一間で家賃が1万5千円。共同便所に共同炊事場といった環境のところに住んでいます。
 部屋の中にはファンシーケースと鏡台があるだけで、他に家具らしいものはほとんどありません。
 彼女の一ヶ月の生活費を簡単に計算してみると、一日の食事代が600円、朝食抜きで昼食は月のうち半分は抜いていますし、食事をする場合でも最高250円まで。夜の食事もインスタント物かよく使っても350円までです。ですから一ヶ月の食事代は最高で1万8千円程度です。
 それに風呂代や光熱費が1万円そこそこ、その他諸々の雑費を入れても一ヶ月5万円くらいの生活をしており、他にほとんどお金を使うことはないようです。もちろん衣類や化粧品などは一切買いませんし、いつも他人からもらった服を着ているといった具合です。
 月々もらう給料から必需品を除いても、毎月8万円くらい残るはずなのですが、それを貯金するのならともかく、それとなく本人に聞いてみると、自分の食べる物や着る物まで切り詰めて残したお金を、ほとんど教団へ注ぎ込んでいるらしいのです。
 こうして書きますと、本人がいいと思って納得づくでしていることだから、他人がそこまで首を突っ込む必要はないとお叱りを受けるかもしれませんが、一人の友人として見て見ぬふりはできないのです。宗教団体というのは、こんなに信者の生活を苦しめていても平気なのでしょうか。もちろん、本人はそれが一番いいことだと思い込んでいるのですから、所詮私一人の力でどうこうすることはできません。しかし、彼女のような例はいくらでもあると思うのです。
 神を信じ宗教に没頭すればするほど苦しい生活を強いられます。こんな矛盾したことが許されていいのでしょうか。教団では信心すれば幸福になると教えます。でも実際にはそれと反対のことが行われている。これが教団の実態なのです。
 私が言いたいのは、宗教に凝りすぎると本人の気持ちがだんだん閉鎖的になって、自分と同じ宗教を信じている者しか信用しなくなり、一人二人と友達を失い、しまいには彼女のように自分のすべてを犠牲にして、それが当然のことのように思い込んでしまうのです。
 彼女の場合を見ますと、いつもにこにこしていたのに、最近では変に理屈っぽくなって楽しく話したり、接することがほとんどなくなりました。こんな状態を目の当たりに見ますと、宗教というものが怖く思えてなりません。
 教団としても多くの信者の私生活を把握することは不可能だと思いますが、信者の実生活を知らずして、単に口先だけで幸福を説いてもそれはまやかしの教えだと思うのです。綺麗事を並べ立て、弱い立場の信者から容赦なくお金を吸い上げ、信者の生活を平気で犠牲にする信仰が本物の信仰なのかどうか皆さんに考えていただきたくペンを取った次第です。

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2004年01月22日(木) 065 publicationsinJapan

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「新興宗教被害と悩み解決法」 田中一京著 青年書館 87.11

105-110頁
<神や霊の存在を絶対視すぎて自我や理性を失っている>

 信者心理の特徴として、神や神の意思を伝える教祖、あるいは教団の教えには絶対に逆らえない面がある。しかし、だからといって自己の意思をすべてねじ曲げてまで従順になる必要はないのだが、現実を見てみると宗教に洗脳され盲信している信者は理性を失い、自己の信奉する宗教教団の意のままに操られ、動かされているといっても過言ではない。
 信者が信仰に没頭し、宗教精神を享受しようとする姿勢そのものは決して間違った行為でも、他からとやかくいわれる筋合いのものでもないが、ただ、神や教祖教主の教えを絶対視するあまり、正常な考え方ができなくなってくると、少々事情は違ってくる。 そこで、理性を失っている信者のどこに危険性が内在しているのか、病気を治したいばかりに教団の言葉を信用し、宗教に洗脳されている信者の宗教意識を見てみることにしよう。

 『私はS界M光B明教団の信者です。私が入信したきっかけは、ある日突然、おなかが千切れるのではないかと思うほどの激痛に襲われ、救急車で病院へ運ばれました。そのとき医者の診断は「上部尿路結石」ということでした。
 私はすぐ入院させられ、病院で出してくれる薬を飲み治療を続けていました。そんなとき「病気というのは、薬を使うと一時的に症状を押えることはできるかもしれないけれど、それは治ったと錯覚しているだけでほんとうには治っていない。病気はもともと霊魂と肉体のバランスが崩れたときに起きるのだから、浄霊しなければ完全に治ることはない」と他の信者から教えてもらったのです。
 私は手術をしなければ治らないと思っていました。そんなとき手術をしなくても“M光の業”で痛みを止め、病気が治せると聞かされすぐそのM光の業を受けたのです。
 病院のベッドの上で信者の人達から“手かざし“を毎日受けました。そして私も「主の大神様」に、痛みを和らげてください、手術せずに病気を治して下さいと真剣に頼みました。
 そうするうちにだんだん痛みもとれてきたような気がしてきたので薬を飲むのをやめ、親の反対を押し切って退院し、通院するかわりに毎日教会へ通いました。
 今もときどき痛みはありますが、主の大神様が御浄霊して下さり、必ず病気は治るといってくれていますからその言葉を信じています……』

 と、千葉県松戸市に住む元店員のSさん(22歳)は語る。

 特定の神に仕え、宗教の教えを受け、それを絶対と思い込んでいる信者に対しては、なるほど神の啓示や教祖の言葉は絶対であり侵すことのできない神聖なものであるといえよう。
 だが、洗脳された信者以外のものから見ると神や教祖の言葉は決して絶対ではあり得ないし、当然のことながら、それほど神の絶対性というものは信用していない。なぜなら、この世の中に唯一つ絶対神といわれる神々がどれほど多く存在しているか、また、唯一つ絶対神と崇める神々の力というものがどれほどあやふやなものであるか、信者自身が少し冷静になって宗教の現実を見ればわかることである。
 ではもう一例「S教M光」に洗脳されている信者の話を紹介して、どこに問題があるのかを考えてみたい。


『御み霊をいただき神組手(信奉者)になってM光の業を覚えれば、誰でも病気を治すことができる。ただ、そのためには初級M光研修を毎月1回、3日間だけ受けなければならない。その講習を受けて神組手(信奉者)となり、陽光子(信者)となれば、手の平からM光を発することができる。
 私達が“施真”(手かざし)すれば、不思議な現象が起きてくる。たとえば急に下痢をしたり熱を出したりするが、これはクリーニング現象(肉体の浄化作用)といって、人間の体の中に蓄積された毒素が“M光の業”によって、外へ排出されるために起きる現象だからまったく心配ない。
 それより、施真によって精神的にも肉体的にも健康になるんだから、こんなありがたいことはない。教え主さまの力というのはそれほどすごい。どんな病気でも治すのだから……。
 病気で苦しみながら病院通いをして、なおかつ薬づけにされている未組手(非信者)の人達のことを思うと、ほんとうに可哀想だ。
 だから私達は教え主さまの御教示を生活の糧、信仰の糧として、できるだけ多くの未組手の人達に“真ぼえ”(声をかけ勧誘すること)したいと思っている。
 S教M光の不思議を知らない人達は、こうした話をしても信じようとしないばかりか「施真だけで病気が治るはずはない」と疑ってかかる。しかし、誰が何といっても実際に治るから不思議なんだ。
 病院で医者に診てもらうより“M光の業”の方がよほど信用できる。こんなありがたい教えを否定したり、知らなかったりする人達はほんとうに不幸だと思うね。
 実際に、私自身がM光の業で胃にできた悪性の腫瘍を治してもらい、その奇跡を体験しているんだから、これほど確かな証拠はないだろう……』

 と、東京都世田谷区に住む自由業の後藤さん(41歳)は説明する。

 この事例は、現信者の宗教姿勢、および洗脳された状態や考え方を如実に示しているものであるが、もちろんこれとは反対に、病気が治るからと入信を勧められ、M光の業を受けたが病気は治らなかったと不満を漏らし、騙されたと訴えてくる信者が多いことも見逃してはならない。
 ここで例示した二人の信者の考え方は、猛進した信者の特徴を端的に現しているものであるが、神や霊というものをあまりにも絶対視しすぎて、自我意識を失っているところに大きな問題を抱えており、近代的医療行為を否定するといった危険な考え方を持っていることがはっきりわかるであろうし、その部分がもっとも危惧されるところである。
 われわれ人間社会の中における宗教の存在価値というものは、諸々の悩みを持つ者に対し精神的に導き、その苦労を和らげ取り除きながら立ち直らせるところに宗教の価値観、あるいは本来の使命が存在するはずだ。
 つまり、病気治しに限定して考えると、近代医療の実績を認めたうえで、その医療行為と並行しながら、精神面から患者の意気を高揚し貢献していくというのが宗教行為の本筋である。
 言い換えるならば、その宗教行為を信者自身が良識と節操をもって世のため人のために役立たせるのであれば、信仰を治療の一分野として利用することは何ら問題はないし、逆に治療効果も十分期待できると思う。
 だが、頭から近代医療を否定する姿勢、そこに問題があるのだ。つまり、宗教上の教えを絶対視するあまり、盲信的になった信者が医療は害悪といった考え方を他に押し付けたり、医療の社会における貢献度を認めようとせず、ただやみくもに否定するという態度を取り続けるならば、それは完全に宗教の使命や役割を履き違えていると考えなければならない。そこのところを宗教に洗脳された信者はわからないから、いろいろな社会問題を引き起こすのである。
 こうみてくると、神を絶対と信じる理性を失った信者の考え方や行動が、いかに危険で偏った考えに陥っているか、あるいは洗脳された信者の偏向した考え方が社会的に受け入れられないものであるか、つまり、自己の信奉する神の教えだけが正しいと思い込んでいる信者は、自我意識を失うことによって、同じ宗教の教えを受ける者以外の意見には耳を傾けなくなり、ますます気持を閉鎖させてしまう。
 そこに反社会的、反人道的な行為を平然と行う元凶が生まれてくる要因があるように思えてならない。


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2004年01月21日(水) 066 publicationsinJapan

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いまどきの神サマ―退屈な世紀末,人びとは何を祈る?(別冊宝島 114)JICC出版局1990


(P186)新宗教は終末をどう考えているのか?! [宗教団体からの回答]
アンケート用紙の質問内容:
「1」ノストラダムスが予言した終末の1999年も近づいておりますが、近いうちに人類が破滅するような危機は訪れるでしょうか?
「2」破滅の危機が訪れるとすれば、それはどんな危機ですか?
「3」その危機はどのようにすれば避けることができますか?
 この別冊宝島の企画にあたり、本誌編集部では右上のようなアンケートを新興宗教96団体に送付し、11通の具体的回答を得た。ここに掲載した文に関して編集部は一切手を加えていない。

〔崇K真H〕(P190-192)

「1」破滅の危機は近いのか?
 危機は訪れます。その危機の訪れの時期を、私どもの教団を御立教されました救い主様岡○光○師は、立教(昭和三十四年二月二十七日)三十周年を目処として到来すると述ペており、かつ一九九〇年から二千年に至る十年間の“人間の生き方“によって、人類の運命が決定して行くことを警鐘乱打されております。現代人類は生存か破滅かの分岐点に立たされていると言えましょう。

「2」どんな危機か?
 次のような危機の問題があります。
A 地球環項の悪化の問題
・熱帯雨林の減少
・砂漠化の進行
・酸性雨による環境破壊
・酸素の欠乏
・温暖化する地球
・南極北極の氷解による海面の上昇
・フロンガスによるオゾン層の破壊
・広かる海洋汚染
・異常気象の頻発
など、地球環境が急速に、そして確実に破壊されつつあります。
 私どもの師は、「神様が何億万年おかけになられまして、人類のためにお創り下さいました地上の山川草木、禽獣虫魚に至る万物万生を人類は大切に使わせて項くという想念かなかったら、海怒り、山怒り、森は怒って無言の反撃を開始し、遂に自然界に依って人類は、裁かれてしまう訳であります」と、繰り返し御教示下さっております。更に、地球温暖化の問題については、「世界は日本を中心として熱くなります。冬も嘆かくなって冬と夏との差が無くなり、日本は亜熱帯になっていくでしょう」
 「神様は、急激な冷しに依りつつ次第に世界異常高塩化へ持っていかれます」と、述べております。今日の世の中は、燃料文明であり、亜硫酸ガスや炭酸ガスが沢山大気中に排出されるため、空気界の温度も上昇しますし、地球の温度も太楊熟も年々上昇することになります。

B 人類の毒化問題
 現代人は、身体の外側は風呂に入ってお湯で洗い流しますが、健康に最も大切な身体の中の浄化に関しては怠っております。毒素を充満させ、発病化せしめています。人体に蓄積された毒素は、自然には汗や洟や痰などになって対外に排泄しますが、現代人は、それを”悪いこと”として止めてしまいがちです.
 更に問題として、
・医薬品の乱用
・食品添加物や農薬を使った食物による食生活
・精神的に悩んだり、悲しんだり、怒ったり、怒鳴ったり、恨んだり、憎しんだり、嫉んだりなどの悪い想いが、体内では濁微粒子という形で物質化してしまいす。
 これらにより、人体を汚し遂には染色体・遺伝子の異常を発生させてしまいます。
 我々の師は、「やがて皮膚病が増えるぞ」「ショック死が非常に増える時代が来るぞ」と、警鐘を与えておりましたが、今やそれか現実になってきております。

C 対立、村争の問題
 戦いの火というのは必ずしも大戦ではなく、局地における戦火でも、これが重大な人類亡滅の危機に火がつく危険があります。小さくは、人類の想いの中にある「自分さえよければ」という自己愛がぶつかりあいますと争いが生じます。宗教と科学、共産主義と自由
主義、親子、夫婦、自分と他人などか、対立闘争し、国家、職場、家庭、学枚など至るところで争いが生じ、弱肉強食の世界が展開されてまいっております。
D 七度目の天地かえらく
 次の大きな問題として、地球規模での大変動期の到来を覚倍せねばならないでしょう。
 地球の数十キロメートル下は、今でもブヨブヨであり、中はドロドロの火の海です.地殻はこの上に乗っている状態です。このバランスか崩れたとき、想像を絶する大変動が起こる訳です。

「3」どうすれば回避できるのか?
 以上挙げましたいろいろな危機は、人間の汚れた魂、心、身体を洗い浄めるためと共に、英知を結集しても解決がつかないことを、人間に知らしめるために、神様が用意されているものであり、これらの危機の本当の原因は、人間の心の奥にある想念の中にある訳です。
 神様は、この地上に天国の世界を創造なさるために人類を出された訳ですが、神の実在を忘れ、物欲の行き過ぎにより物や金ばかりを追いかけるようになり、人間の心と想念が穢れ朽ちてしまいました。その穢れを浄め吹き払っていこうと神様はされます。その結果、人類も地球もミソギハラヒ(病・貧・争・災)をうけることになります。そこで人類は、
・一切のものが与えられている感謝
・愛和、協力、団結して神様の法則に従う
・人としてお互いに尊び合う
に目覚めれば、あらゆる問題は解決して行きます。
 いよいよ、人類の未来を神様の法則に従って創造する時代が来ております。あらゆる学問、思想、宗教、人種、国境の垣根を乗り超えて、相反するものが協調し、和解し、愛和して行く時代です。
 人類の親神様は、これから愛和の時代を築こうとされておられます。それに伴って戦争の危機は平和共存へと移りつつあります。
 新たな生き方、新たな文明を求める動きが、世界各地に出はじめているのです。これらの新たな生き方、新たな文明は、唯物の世界だけでは創造出来ません。目に見えない霊の世界、神の世界に目覚めてこそ、開けてまいります。魂と心と肉体の曇りを浄め、かつ目に見えない霊の世界、神の世界を知る業こそ、”真Hの業(手かざしの業)“なのです。どうか皆様も是非真Hの業を体験され、新しく輝く二十一聖紀への文明原理を探求されますことをご祈念申し上げます.

〔S長の家〕(P192-193)

「1」破滅の危橡は近いのか?
 結論から言いますと、人類が破滅する危機が近いうちに訪れるようなことはありません。何故ならば、予言というものはその時点において霊能者が”霊の世界”又は“心の世界”の中で造られつつある想念の形を霊感して、それを未来の出来事として発表したものであるからです。
 これを説明しますと、世の中の出来事は先ず、”心の世界”の中で形が出来上ります。そして、それが、やがて具体化して現実の出来事になるのです。その過程の中で、“心の世界”の中でつくられつつある想念の出来事は、例えば、世界の平和を祈る別の想念によって修正されるのです。だから、或る時点において一人の霊能者が人類の運命を悲観的に予言したからと言っても、それはその時点における人類の心の世界の中でつくられつつあった想念の形を霊感したものに過ぎません。だから、それが具体化して何年か後に実現する前に、多くの人々の善念や宗教界の日々の祈り等によって、その時の心の中の悪想念は修正され得るのです。

「2」どんな危機か?
 質問の「1」の答えの中で言いましたような理由で、近いうちに人類が破滅するような危機は訪れませんが、物の豊かさばかり求めますと、人類の心の中から大自然の恩恵に対する感謝の心がますます失われて行きます。
 このような我欲の追求ばかりに人類が奔走しますと、その心が現実化して地球の自然破壊はますます進行します。だから、このままでは人類は利己心をのさばらせて、自らの環境を破壊することによって滅びる可能性はあります。

「3」どうすれば回避できるのか?
 質問の「1」に対するお答えの中で言いましたように、人生の出来事や人間の運命は先ず、心の世界で形づくられて、それがやがて具体化して現実の環境となってあらわれます。だから、人間は自分の境遇や運命が気に入らなかったら、自分の心の想いを変えればよいわけです。私たちは心の中に善い想念を抱き続ければ、やがてそれは良い運命となって自分の環境にあらわれます。
 これが私たちが人生において危機的な出来事にあわないようにするための原理でもあります。即ち、自分の心の中にないものは自分の人生には起こりません。自分の心の中が常に幸福の想いで満たされていれば、不幸な出来事や悪い事件から自然に遠ざかります。
 だから、たとえ、人類の心の中の世界が浄化されず、それが善念や祈りによって修正し切れない時、やがてその悪い想念が具体化して、地球的な規模での悪い大きな事件が起こるようなことがあるかも知れません。しかし、それでも善い想念を抱きつづける人々は、その不幸な事件から反発して遠ざかることになります。これがたとえ、地球的規模で起こる危機でさえも、それを避け得る原理もあるのです。
 なお、S長の家においては全ての信徒が日々世界の平和を祈って、人類の運命の改善のために心の世界を光明の善念によって浄めさせてもらっています。これはその危機を避ける大いなる力になることを私たちは信じて、日々こうした“光明の思念”を行なっております。


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(注 丸付き数字を「」付きに変更)


2004年01月20日(火) 067 publicationsinJapan

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○○真光と八代英太

週刊ポスト2003.11.28 P36-41
「小泉=池田大作」弾圧政権を監視せよ!
P38
 自民党議員の一人が、選挙協力の実態を語った。
「公明党の推薦を受けるためには、まず公明党の各都道府県本部に推薦願いを提出させられる。公明党は、学会側と相談して判断するが、推薦決定にあたって、比例代表は公明党に入れるように訴えることと、後援会名簿の提出が条件になる。名簿は学会の選対に渡り、学会側は独自にわれわれの後援者に『比例は公明党に』と電話作戦を展開した。」
P39
 一方で、公明党は将来の代表候補といわれる太田明宏氏を東京12区から出馬させるために、選挙区が重なる自民党の八代英太氏を比例代表に回すなど、いくつかの選挙区を取引した。
 その東京12区には、全国から腕ききの学会オルグが集められ、八代氏の後援会名簿をもとに徹底したローラー作戦を実施し、接戦の末、太田氏は当選を果たし、学会の底力を見せつけた。

【解説】八代英太議員は、89年8月に崇教真光の初期研修を受講し、9月度月始祭の来賓として祝辞を述べた(真光誌89年10月号参照)。完全なる裏切り行為であるぞ!


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崇教真光と教育基本法

 平成15年8月の大幹部会で、岡田晃弥氏は教育基本法改正を推進するための署名活動を行うよう指示した。崇教の各拠点では、組み手に署名集めの指示が出された。目的の一つに、多数の署名を集めることにより、教団をあなどれない存在であると関係者に認識させる必要が法あるからだそうだ。
 平成12年12月に小山孝雄参院議員の支持署名集めをした時は、後日自民党本部から確認のための電話がかかってくる可能性があるため、署名者は”小山孝雄”の氏名をよく覚えておかねばならなかった。ある組み手は信者でない人に署名してもらい、「小山孝雄の名前をよく覚えておいてください。」といった。その一ヶ月後に小山が逮捕されたため、大恥をかいてしまった。今回はそのようなことがないので、皆は気楽であった。
 教育基本法改正推進の署名は、『新しい教育基本法を求める会』(会長 西澤潤一 岩手県立大学学長)の『新しい教育基本法へ六つの提言』に基づいている(西澤潤一編著『新教育基本法6つの提言』小学館文庫参照)。
http://www.nipponkaigi.org/1.26.htm
http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/0_conb07.htm#shukyou
 一方、日教組は猛反対している。
http://www.jtu-net.or.jp/kyoukihou/revo/call/
上杉論文「つくる会の動向」
http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/0_conb07.htm#shukyou
教科書問題
http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/1106kousin/new-0228.htm
 この(1)『新しい教育基本法を求める会』は、(2)『新しい歴史教科書をつくる会』や(3)『日本会議』と構成員が共通している。ただ、(3)には宗教関係者が多く入っているが、(1)には宗教家はわざと入っていない。「つくる会の動向」HPにあるように、崇教真光・岡田恵珠氏は日本会議の役員である。
 ただこの教育基本法、公明党は批判的な姿勢をとっており、自民が選挙で公明の協力を得たため、すんなり実現できそうにない。

共同通信[11月11日12時26分配信]
「公明のウエート増す」 教育基本法改正で文科相
 河村建夫文部科学相は11日午前の記者会見で、保守新党の自民党合流が教育基本法改正問題に及ぼす影響について「政策調整は(改正に慎重な)公明党とやるのだから、それなりに(公明党の)ウエートは増すだろう。しかし問題点はつめてあるし、積み上がっている。2党になったからといって、これまでと違う意見が出るということはありえない」と述べ、影響はないとの見方を示した。
 同時に「2党の協議がまとまれば、法案を(国会に)提出したい。協議促進に努力したい」と述べ、来年の通常国会提出を目指す考えに変わりがないことを強調した。

産経新聞2003.11.12
 教育基本法改正問題でも、自民、保守新両党は「国を誇りに思う心」や道徳、規律、宗教心などが身につく教育の実現を盛り込みたい考えだが、公明党は、同法改正には一貫して慎重。解散前の通常国会で改正法案提出が見送られたのも、公明党が「愛国心」「宗教教育」などの盛り込みに強硬に反対したためだ。


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崇教真光と「日本を守る会」

「真光」誌(崇教) 400号 (平成8年1月) 41-43頁
お祝辞 「二十一世紀を迎えるにあたって」
日本を守る会初代事務総長 副島廣之

 昭和四十二年七月、戦後三十年も間近い当時の日本が、池田内閣の所得倍増政策によって経済的発展をみたが、精神的には占領政策の桎梏(しっこく)から脱却できず、国民の国家意識や民族としての連帯感を失い、物・カネと物質主義と利己主義に走り、学校教育も日教組の左翼偏向によって、次代を担う子弟の育成が危ぶまれる状態となった。
 かような日本の状況を憂慮する宗教界、社会教育会、学界、言論界などの長老たちが「このままでは日本危うし」という危機感から、東京の日本工業倶楽部で会談をおこなった。鎌倉円覚寺の朝比奈宗源、神社本庁前総長富岡盛彦、明治神宮宮司伊達巽、全国師友協会会長安岡正篤、真光教団開祖岡田光玉、生長の家総裁谷口雅春、作家の山岡荘八の諸先生など、錚々(そうそう)たる人物が十数名、筆者が世話役をつとめて談論風発の一夕を過ごしたが、この集いを二回、三回とつづけるうち、おのずから日本を守る会の結成が申しあわされ、昭和四十九年四月二日、日本を守る会の結成総会が明治記念館で開催され、「わが国の伝統精神に則り、愛国心を高揚し、倫理国家の大成を期す」以下五か条の基本運動方針や役員を決定し、筆者が事務総長を仰せつかって運動を開始した。
 運動の始めは百人委員会の結成と随時開催によって同志的結合を深め、続発する諸問題に対処して時の総理に会見し、叱咤激励するなど果敢な発足であった。この中で真光の岡田光玉師も積極的に協力されたが、残念ながら程なく他界された。しかし幸いに岡田恵珠師が教団を「崇教真光」と改め、光玉師の志をついで日本を守る会の代表委員に就任され、今日に至るまで教団をあげて協力をいただいてることは、誠にありがたく、また今回機関誌『真光』が四百号を迎えられることに対し、心からお慶び申し上げる次第である。
 平成七年は二十一世紀を数年後に控え、また大東亜戦争終戦五十年の年であった。終戦後の六年間、日本は占領軍の支配下に置かれ、致命的な変革を余儀なくされた。神道指令を発し、大日本帝国憲法をアメリカ製の日本国憲法に変え、教育勅語を排除失効させるなど日本古来の信条や政治、教育の根幹を破壊したほか、極東軍事裁判(東京裁判)という勝者が敗者を一方的に裁く無法な裁判によって、多数の要人を戦犯として処刑し A日本悪玉論によってわが国を侵略国と断定し、マスコミや学校教育によって日本人を洗脳した。こうしてマインドコントロールされた日本人は、日本の伝統的良風美俗を失い、物欲的人間と化し去った。二十一世紀を目前に控え、”日本人よ目覚めよ“と叫ばざるを得ない。(以下省略)

注:
1) 明治神宮宮司の外山勝志氏が「真光」誌400号40−41頁に祝辞をのせているが、内容は省略する。
2) 崇教と悪徳国会議員の関係は、”真光関係者集合!!(10)”No.51-70に書かれてある。
http://life.2ch.net/psy/kako/1037/10376/1037673567.html
3) 陽光子の三大徳目『心の下座』に岡田恵珠師が、「日本を守る会」代表委員として昭和64年の「年頭のことば」を掲載している。

崇教真光二十六周年秋季大祭(宇尾好委員長)
「真光」誌(崇教) 279号(昭和60年12月) 41-42頁
お祝辞 十月十三日 「救い主様、教え主様のみ意顕現」
参議院議員 防衛政務次官 村上正邦

 私は今日この荘厳なる秋季大祭二十六周年を記念いたしましての式典に参列させていただきましたことを心より御礼申し上げます。真に有難うございます。
 私がこの真光様とのご縁をいただきましたのは、今日私がお供して参りました、明治神宮の権宮司と申しますよりも、日本を守る会の事務総長であられます副島先生の導きでございました。
 ある会合の席で、「村上さん岐阜の高山にぜひ一度行ってらっしゃいよ。あそこには天地創造の神様をお祀り申し上げる大変な御神殿が建立されたんだよ。そしてまた教え主様がとっても魅力的なすばらしいお方だから、参拝をお願いし、そしてお目通りをお願いしたらよろしいよ」と、そうしたご案内を副島先生にいただきました。
 ぜひ早い機会に参拝をしたいなあ、と思っておりました。その念願がかないまして、六月十日わざわざ、副島先生が明治神宮の総務部長をなさっておられます外山さんに、私の案内役をしていただきまして参ったわけでございます。
 そして、私は忘れることもできません、教え主様の本当に終始にこやかでご慈愛深いご尊顔で、心温まるご接待を賜りましたこと、本当に有り難うございました。心うたれる思いでございました。心洗われる思いでございました。本当に高いところでございますけれども、心から御礼を申し上げます。有り難うございます。
 思いますれば、救い主様が「今の日本はダメになってしまう。物質万能、日本人の心はいったいどこにいったのか。いまこそ神仏を信ずる宗教者が団結しなければならない」と申されて、日本を守る会を創立なさいました代表発起人でいらっしゃいました。この創立には本当に心を尽くしてくださいました。
 私は当時国会議員ではございませんでしたが、この日本を守る会の国事対策局長を命じられまして、私も救い主様のお心の万分の一でもと思いまして、一生懸命お手伝いをさせていただきました。
 そうしたご縁もございまして、救い主様、教え主様の下で活き活きと、伸び伸びと、幸せをかみしめてその日その日、毎日毎日を送っていらっしゃる世界の国々から沢山ご列席なされておられる皆様とお目にかかれたのだなあと、そのご縁に今沁々と感謝を申し上げさせていただいておるところでございます。
 お話をうけたまわれば、今年は陛下ご在位六十年の大祭を十一月の十三日武道館で日本を守る会が主催をいたしまして、開くことになっておりますが、そのご在位六十年のみ祭りにも沢山今日ご列席の皆様方が来てくださるということをお聞き申し上げております。
 今も皆さんと一緒に神の国、天意顕現のというお祈りの言葉がございました。あのどう猛な狼とあの優しい仔羊が共に草をはむ、地上天国、神の国を顕現するために、私も皆さんと一緒に力を合わせて今後、働かせていただきたいと決意を述べさせていただきます。
 教え主様、真に有り難うございました。

注: 村上正邦は平成2年の秋季大祭に来賓として出席し、海部自民党総裁の祝辞を代読した。内容は「真光」誌H2年12月号45-46頁に掲載されている。翌平成3年秋季大祭にも来賓として、宮沢自民党総裁の祝辞を代読した。その他、平成5年と9年の秋季大祭でも来賓祝辞を述べている(各年の12月号参照)。

【解説】 村上正邦は、昭和49年当時はたしか「生長の家」の職員だったと思われる。神道政治連盟議員懇談会の幹事長(村上正邦)・事務局長(小山孝雄)は、明治神宮権宮司であり日本を守る会の事務総長だった副島氏を通じて、崇教真光とつながっていたことは容易に想像できる。なお、「日本を守る会」は「日本を守る国民会議」と統合し、平成9年5月30日に「日本会議」となった。( www.nipponkaigi.org )

「崇教真光」誌平成15年4月号 三月度月始祭教示(3月3日)
P11-12
 とかく私どもは、政治・経済に無関心をよそおうのでありますが、そうした無関心こそが愈々国の乱れ世界の混乱を助長していることを知らなくてはなりません。
 私ども陽光子乃友は、主神神殿にお参りになられる心ある為政者を支援していく必要があります。
 何故ならば、「神理正法」は、政治・経済・化学・教育の根本を説いているが故に、心ある為政者に”神のみ光とみ教え”をお与えすることが必要なのであります。

【解説】リクルート事件江副被告判決の前日の教示である。逮捕された国会議員(藤波孝生など)が崇教の大祭で来賓祝辞を述べていることが、昨年よりネット上で追及されているが、それに対する苦しまぎれの反論である。村上正邦は、過去に何度も大祭で来賓祝辞を述べているが、結局何の“ご利益”もなかった。

<読売新聞>[2003年5月20日16時17分更新]
「参院のドン」村上元議員、実刑判決に表情厳しく

 「自己の社会的責任に余りに無自覚、かつ無反省」――。東京地裁で20日、開かれたケーエスデー中小企業経営者福祉事業団(KSD)事件の判決公判。中谷雄二郎裁判長は、自らを支えたマンモス財団から、ためらうことなくわいろを手にした元参院議員・村上正邦被告(70)を厳しく指弾した。苦学しながら「参院のドン」にまで上り詰めた村上被告は、神妙な面もちで実刑判決に聞き入った。
 午前10時前、東京地裁104号法廷。紺のスーツにネクタイ姿の村上被告は、いつものように合掌して入廷し、中谷裁判長と向き合った。
 裁判長から「被告を懲役2年2月に処する」と告げられると、裁判長に少しだけ頭を下げ、弁護側の前の被告席に静かに座った。判決理由が読み上げられる間は固く目をつぶり、険しい表情を変えない。
 「幼少のころより炭鉱で働いた被告が職人大学(現ものつくり大学)の設置を推進したのは、苦学した経歴に裏打ちされた政治信念を背景にしていた」。朗読が情状部分に進むと、目を見開いて裁判長に視線を戻した。
 判決言い渡し後、再び、裁判長と傍聴席に向かって合掌した村上被告。弁護人は閉廷後、「元理事長の供述のみを根拠にした不当な判決。客観的な証拠をもっと分析して欲しかった」と不満を口にした。一方、東京地検の笠間治雄・次席検事は「国会議員による汚職を厳しく断罪し、同種事案の再発防止のための警鐘を強く鳴らしたものとして、意義深い」とのコメントを出した。

◆「靖国参拝」が日課◆
 村上被告が、古関忠男・元KSD理事長(82)と知り合ったのは1990年11月ころ。中小企業振興を掲げる古関元理事長に協力を約束した村上被告に対し、KSDは92年の参院選から、選挙運動を全面支援することで応えた。
 参院選の比例名簿順位を上げるための自民党費肩代わり、パーティー券の大量購入、そして、私設秘書給与の負担。検察当局が確認したKSDの利益供与額は、わいろも含めて3億円を超えた。
 しかし、全面無罪を主張した村上被告は、贈賄を認めた古関元理事長について、公判で「思い込みの激しい方。昵懇(じっこん)とか懇意ということはない」と表現。KSDからの様々な支援についても、「秘書から何の報告もなかった。事件があって初めて知った」と、自らの直接的な関与を最後まで否定し続けた。
 関係者によると、村上被告は最近、新たに都内に事務所を借り、靖国神社への参拝を日課にしているという。事件については多くを語らないが、ものつくり大学の話題になると、「学生にはかわいそうなことをした」と漏らすことも。政界復帰は考えていないものの、「この国難の折、お役に立てずに申し訳ない」と議員辞職に悔しさをにじませることがあるという。
 事件の舞台となったKSDは今月1日から、中小企業災害補償共済福祉財団(あんしん財団)に改称し、新しいスタートを切った。
 最盛期で107万人いた会員は事件をきっかけに次々と脱会し、現在は51万人に半減した。改称を機に、会員の資格を従来の中小企業経営者だけでなく、その従業員にまで広げたが、不況の影響で会員数が増加に転ずる気配はない。財団企画広報室は「今はまだ、事件を振り返る余裕はない。とにかく会員第一主義だけを考えたい」と話す。
◆事務所家賃をわいろ認定…政界に警鐘◆
【解説】票とカネを丸抱えする巨大財団と、その目指す施策を実現しようと奔走する政治家。KSD事件は、「良識の府」であるはずの参院と、中小企業の支援をうたった「公益法人」との癒着を浮き彫りにした事件だった。
 検察は、KSDから村上被告への様々な利益供与の中から、現金提供と事務所家賃の負担に絞って立件した。事件の全体像から見ればごく一部とも見えるが、この日の東京地裁判決で、事務所家賃が「わいろ」と明確に認定された意義は大きい。昨年9月の元参院議員・小山孝雄被告(59)に対する判決でも、同地裁はKSDが負担した秘書給与をわいろと認定している。事務所家賃や秘書給与の肩代わりがわいろと認められたケースは、「ともに、国会議員ではこれまでなかった」(検察幹部)だけに、政界への強い警告とも言えるだろう。
 事件では、参院選に出馬する村上、小山両被告の自民党の比例名簿の順位を上げるため、KSDが勝手に会員を同党員にして、党費を肩代わりしていた実態も明るみに出た。東京地検特捜部は「党費の肩代わりを政治家への寄付と認定するのは法的に難しい」などとして、政治資金規正法違反などの適用は見送ったが、この丸抱えが2人の政治家を支えたのは間違いない。
 このため、自民党は一昨年の参院選前に、比例代表候補の名簿登載基準を「党員・党友2万人以上の確保」から、「党員・党友の確保を図る」に改めた。非拘束名簿式の導入により、参院比例選で特定業界の丸抱えだけを頼りに当選することは難しくなったが、それでもなお、業界の利益代表者として、参院に送り込まれた政治家は少なくない。
 KSD事件以後も、加藤紘一・元衆院議員による政治資金の私的流用、鈴木宗男・衆院議員の口利きによる汚職、坂井隆憲・衆院議員の多額のヤミ献金など、「政治とカネ」を巡る事件は後を絶たない。今回の判決を機に、政治家は自ら襟を正す姿勢が問われている。
(竹原 興)
参考文献『悪党と政治屋 緊急ドキュメントKSD疑惑を追い詰めた400日』(朝日新聞社)



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2004年01月19日(月) 068 publicationsinJapan

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千乃正法と○○真光の類似


週刊文春2003.5月1,8号 32-37頁
”「タマちゃんのことを想う会」の正体はカルト宗教団体「千乃正法」!”
(P35-36)
 その後、取材班はエルアール出版の森谷栄太郎社長(66)に電話で話を聞いた。森谷社長は、「長野の蓼科にいる」と話し、その理由をこう語った。
「現在、第十惑星が地球に接近しています。第十惑星は冥王星の近くにあって、三千六百七十五年周期で地球の近くに来る。この前来たのはモーゼの頃、その前がノアの箱舟の頃です。それが現在は木星の近くにいて、(四月)二十八日には火星の近くに来ます。これから地球には大変なことが起きますよ。私はそれを世間に警告するために、標高の高いところで写真を撮ろうとして、蓼科、野辺山、山梨を回っている。近々、その成果を発表できるでしょう。私にとって大切なのは、第十惑星の接近と、有害電磁波から身を守ることです。……

週刊文春2003.5.15 26-31頁
“小誌だけが知っている「白装束教団」10の謎”
(P29-30)
 電磁波被害と共に彼らが主張しているのは、第十惑星ニビルが三千六百七十五年ぷりに地球に再接近し、大津波が起こって日本は飲み込まれてしまうという非常事態。八ヶ岳に設けたドーム型の施設は、マグニチュード十五の地震にも耐えうる避難用シェルターなのだという。
 視察した地元・大泉村役場関係者によれば、内部には犬や猫約四十匹のほか、豚、カラス、イグアナが収容されているという。前回のニビル接近がノアの方舟のときだったというから、この施設は現代版ノアの方舟のつもりなのか。
 当初、惑星ニビルが最も地球に近づくのは五月十五のはずだった。だが、五日早朝に千乃が口述筆記したというメッセージによれば、
〔ニビル星の接近は、五日から一週間近く延びる。日本列島を覆うS波攻勢とアンドロメダ星他の星雲との引力圏の微妙な重力バランスによるものだろう。(略)〕
 と急遽延期された。

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週刊文春2003.5.15 (P30-31)
 小誌は内部文書を複数手に入れた。そのうち二通は献金を呼びかける内容だ。
 平成十三年六月には、《最後の御聖護に!! 起死回生の特別プロジェクト基金急募の訴え》と題する文書が出た。
発行者は「起死回生特別プロジェクト委員会一同」。
〔いよいよもって聖戦継続を不能となる深刻なる戦費窮状の厳しい事態の現状をご報告しなければなりません。
 しかしながら、ミカエル大王妃様は日本発地球壊滅が目前に迫った現実の中、地球と総ての生の犠牲を御一身に背負われ、末期癌の御病状の御身を押し給い、日本を舞台とした善と悪の最終決戦への最前線にて大使命の御敢行を貫き続けておられます。(略)〕
 昨年四月吉日付け文書は、螢┘襯◆璽觸佝納卍后々駄星聞鼻平甲栄太郎氏の別名)と、千乃正法会・各機関代表者一同の連名で出されている。
〔天の御警鐘に従わぬ世に、日本発の天変地異は今夏にも。/(次いでニビル星近接時、地は壌滅的大災に。)〕と書かれて、〔水没する財を天に積み、大王妃様の御為に。と呼びかける。水没は惑星ニビルの接近による災害を指し、大王妃とはミカエル大王妃、すなわち千乃のことだ。
〔『千乃様の死をもたらすような事になれば――全人類を一挙に滅しましょう。地上に一人として生存者が居なくなるまで。――』の御言にも繋がる究極事態に。〕
 と恐ろしい文章が見える。
 聖戦維持資金献金の呼びかけには二種類あり、Aが自分で額を決める一時金。Bが月々の払いで、十万円以上を選ぶ欄もある。
 これらの文書から読み取れるのは、彼らの相当切羽詰まった現状、そして「自分たちは戦っている」という強い意識に漂う危うさだ。
 今年の四月十八日付け文書では、イラク戦争に触れた後、〔今、地球での善悪の最終戦の最中、先生・現天上界と共に最後まで戦い抜く決意と共に、先生へのご支援をお願い申し上げます。〕とある。
〔1.お札増産依頼の件
 16日受信、追放者であっても、天と共に戦う気持ちのある人は救われるとのこと。また、日本民族は今年までで滅亡するとのことでした。
 現在、隊員の数が増え、毎週大量の個人用○防お札が不足しております。個人○防が充分になされていないと、隊員がアンテナになり、先生へ最大の攻撃を行ってしまいます。(略)〕
 〇防お札とはキャラバンの車に貼ってある問題の渦巻きシールのことで、在宅の各信者に制作を依頼しているのだ。
 次は〔2.惑星ニビルの所在〕で、四月十三日北カロライナにて双眼鏡で撮影されたと題する写真が載っている。
 五月五日の文書など、このところの内部文書には、「最後の聖戦」「最後のメモ」といった、殉教ムードの色濃い言い回しが増えてきている点が気にかかる。
 「第十惑星再接近を口実に、教祖の殉教など、なんらかの転換を行なうのではないか」との見方も浮上しており、キャラバン隊の行き先を含め、事態は風雲急を告げている。


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昭和四十二年四月度月始祭ご教示要旨(岡田光玉氏)
S42年み教え集P74-77
<ヨハネの黙示録>
 釈尊は末法の終わりにくると、風水火の三災が起きると予告しておられますが、聖者のヨハネの黙示録のほうは、もっとハッキりと細かに出ています。その黙示録の第八章には、火の洗礼期の地上の変動現象は次のようになると述べています。
 「数多(あまた)の雷(いかづち)と声と稲妻(いなづま)とまた地震起これり」もうすでに霊界ではそういう現象が起きているから、起これりと過去の形になっているのです。それがやがてそっくりそのまま、地上にも現象化していくぞということを示されているわけです。
 「ここに七つのラッパを持てる七人のみ使い、これを吹く備えをなせり。第一のみ使いラッパを吹きしに」四十人(ヨトヤ)の神様のうちの第一の方がラッパで合図をするわけです。
 「血の混りたる雹(ひょう)と火とありて、地に降り下り、地の三分の一焼け失せ、樹の三分の一焼け失せ、もろもろの青草焼け失せたり。第二のみ使いラッパを吹きしに、火にて燃ゆる大いなる山の如きもの海に投げ入れられ、海の三分の一血に変じ、海の中の造られたる生命あるものの三分の一死に、船の三分の一滅びたり」、これを釈尊のほうでいうと「人間が魚や亀に食われる時代がくるゾ」というのと合致していると思います。
 「第三のみ使いラッパを吹きしに、燈火のごとく燃ゆる大いなる星、天より落ちきたり」、この間のアメリカと日本の天文学者の発表によれば、イカルスの星が地球に近づいているそうで、この次の十九年目に地球に接近するときは、日本の学者もどうなるか保証ができないと言っています。
 あれが大西洋に垂直に落ちるとすれば、六千メートルの波が起きます。これはまさに富士山の高きのほとんど倍になり、ヨーロッパ大陸は水中に没してしまいます。もしこれが関東平野に落ちるとすれば、関東は蒸発してしまうということです。
 もし、これが斜にかすって落ちると、その線に沿った大都市は全部こっぱみじんに吹き飛んでしまう。ここにも「燃ゆる大いなる星、天より落ちきたり、川の三分の一と水の源泉との上に落ちたり。この星の名は、苦よもぎという」とあります。
 イカルスではなくて「苦よもぎ」になっています。「水の三分の一は苦よもぎとなり、水の苦くなりしに因りて、多くの人死にたり。第四のみ使いラッパを吹きしに、日の三分の一と月の三分の一と星の三分の一と撃たれて、その三分の一は暗くなり、昼も三分の一は光なく、夜もまた同じ。また、見しに、一羽の鷲の中空を飛び、大いなる声していうをきけり。
 日く、『地に住める者どもは禍害(わざわい)なるかな、禍害なるかな、禍害なるかな。なおほかに三人のみ使いの吹かんとするラッパの声あるに因りてなり』」と


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(崇教)真光誌 平成5年2月号 43頁

<トピックス> 巨大隕石が地球を直撃する!?
 『現在は神様のご警告の時代であります。チェルノブイリ原発事故でさえ、近み来る大峠の前兆現象にすぎません。
 このまま人類界の想念の大転換を果たすことができないといたしますならば、神ご予告のとおり天からほんとうの星が、巨大隕石が、地球に落ちてくることさえありうるのであります』<教え主様御教示(S63.2)より抜粋>
 『今年は惑星直列の年と世間で騒がれておりますが、実に恐るべきことは、惑星直列ではなく、人間の魂の曇りの深さと想念の低下にあります』<教え主様御教示(S57.1)より抜粋>
(平成四年九月二十六日ニュースより)
 フランスの科学月刊誌「科学と未来」十月号は、最近発見された小惑星の起動計算から、今から8年後の西暦2000年9月26日に、直径1000メートルもある巨大隕石が地球に最接近すると報じた。
 現在の段階では、地球を直撃するかどうか判断できないが、万一、地球に衝突した場合、地球の生態系は悲劇的な災害に見舞われることになる。かつて隆盛を極めた恐竜が絶滅したのも、このような巨大隕石の衝突によるものと思われる。
 地球直撃の恐れを明らかにしたのは、パリ第六大学で小惑星の衝突問題を研究しているルバスールルグール教授。
 教授によると、この小惑星は1989年1月にフランスの天文学者らが発見、古代フランス神話の神の名をとって「トータチス」と名付けられた。
 トータチスは太陽の周りを3.98年の長円軌道で公転しており、このまま進めば西暦2000年9月26日ごろに、地球と月の間を通過する計算になり、地球重力の影響などで起動がわずかでもずれれば、地球に激突する恐れがあると指摘している。
  直径1-5キロの小惑星が地球に衝突する確率は30万年に一度という計算もあるが、仮に衝突すると地球上は未曾有の巨大災害に見舞われることになる。正しく人類存亡の危機である――。

 神様は、人類の改魂の度合いを、バロメーターである「陽光子」の想念を通して計られておいでである。
 一人の陽光子が、勇気を持って正法を行じ、自捨新生を果たしてゆくことは、人類全般に亘って非常に大きな霊的影響を及ぼしてゆくことになる。
 二十一世紀まであと八年――。人類は果たして物主の想念を捨て切って、無事来世紀を迎えることが出来るのか?
 人類に果せられた大きな神試しである。陽光子の責任は限りなく重い――。

(解説) この昭和六十三年二月立春大祭のご教示は、「陽光子の三大徳目・ス直」と「栄光の光神殿」にも掲載されている。


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2004年01月18日(日) 069 publicationsinJapan

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今後、内容を公開したい文献一覧


 外国の告発HPで紹介された外国の新聞記事のうち、国立国会図書館に所蔵されているものを紹介する。同館に所蔵されているということは、官公庁や裁判所に資料として提出するとき、信頼性ありと受け止められる。

Cult with terror link sets up London base
 The Sunday Times (London)/December 27, 1998
 By David Leppard, Jessica Berry and Chris Hastings
 http://members.ozemail.com.au/~skyaxe/suntimes.htm
 http://www.rickross.com/reference/mahikari/mahikari1.html

Cult branches spread worldwide
 South China Morning Post/January 3, 1999
 By Charmaine Chan
 http://www.rickross.com/reference/mahikari/mahikari11.html

 なお、擁護派の推奨する新聞記事も、所蔵されている。(訳文は「大聖主」に掲載されている。)
" The Church of the World " " True-Light Civilization "
 Herald Tribune 1972.12.29 Page.5

“ UN MESSIE A PARIS “(パリのメシア)
 Le Monde 1973.9.15 Page.16

新興宗教教祖様にすがる有名人50人の『ご利益』!
「6」崇教真光:ブラジル時代からの信者・アントニオ猪木、参院選当選”神仏の加護”――勝野洋、石橋正次他
アサヒ芸能 1989.8.10 P28-39

有名人は教祖さまがお好き! 教祖の手の光は”奇跡の力”アントニオ猪木が心から信奉する「崇教真光」
女性自身 1991.6.4 P87

若者と現代宗教(特集“うごめく神々”の時代)〔「宗教回帰」現象;新新宗教御三家;教勢拡大教団の秘密;超常現象と現世利益;若者をとらえるもの〕――世界真光文明教団
沼田健哉著(桃山学院大学教授) 正論 1988.10 P156-167

ベールに包まれた新宗教 知られざる教団の"素顔"(世界真光文明教団) 小田 勉
政界往来 2000.3 (66巻3号) 46-51頁

「現代宗教への視角」(宗教社会学研究会編):雄山閣出版、1978
P98-111 非都市的社会の新宗教――世界真光文明教団・地方道場の場合――
後藤洋文著

「憑依の精神病理」(大宮司信著):星和書店、1993
P159-167 “ 1 S教団の場合“
(精神科医師の著者が自験10例について解説)

現代に生きる憑依と憑抜の論理―世界真光文明教団の場合(II 救いの体験と論理)〈宗教の意味世界〉 宮永国子
誌名:宗教の意味世界(雄山閣出版) 宗教社会学研究会論集2 1980.4

「教祖誕生」は、新潮45に掲載されたドキュメンタリー小説で、加筆修正のうえ、1987年に新潮社から単行本が、1994年に講談社から文庫本が出版されたが、現在はいずれも絶版となっている。単行本と文庫本はネット古書店で購入できるし、公立図書館で閲覧も可能である。新潮45と単行本の間には、「日本ばちかん巡り」のような大幅な書き変えはない。

新潮45 1985年5月号(4巻5号) 112-121頁
「教祖誕生」―陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示― 上之郷利昭著

「教祖誕生」 上之郷利昭著 新潮社 1987年初版 7-26頁
 ―陸軍中佐岡田良一を襲った「真光」の啓示―


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(注 丸付き数字を「」付きに変更)





2004年01月17日(土) 070 publicationsinJapan

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その他

検証異色集団を斬る(10)宗教法人「崇教真光」宗門、人種を問わず「真光の業」で人類救済 / 黒羽 文明
「政界」(政界出版社)19(12) [1997.12]
(国立国会図書館雑誌記事索引Database収載)

P117
 終戦直後の岡田の生活については明らかでないが、宗教活動に身を入れ始めるのは、この頃からのようだ。「神道、仏教などあらゆる宗教を模索して歩いた」と後年語っているが、生長の家、メシア教などに関心を持ち、メシア教では支部幹部としても活動した。
 二代教え主の岡田恵珠の本名は甲子、昭和4年12月生まれである。山梨県で看護婦をしていたこともあり、教祖と出会ったのは戦後のことで、後に岡田の養女となって恵珠を名乗ることになる。
 岡田から最初に「導き」を受けたのが恵珠で、以来教祖の補佐として神事、修行に携わってきた。教団内ではただ1人、特級研修を受講しているという。教祖とは起居をともにして教団の発展に努めてきた。


検証 異色集団を斬る(19) 宗教法人「世界真光文明教団」古傷を癒し沈静を保つ本家本元「手かざし」教団 / 黒羽 文明
「政界」(政界出版社)20(9)
[1998.09](国立国会図書館雑誌記事索引Database収載)

P102 (田中清英氏の造反について)
 しかし、造反の真の理由はこれだけではなかった。2代教え主の関口榮が長男、二男を教団の要職につけるなど、運営ぶりへの反発が底流にあった。関口家による教団の“私物化”に対するはんぱつだったのである。教義をめぐる対立でないところが、いかにも新宗教らしい。



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