暴かれた真光日本語版
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2003年11月30日(日) 033 pseudoscience

最終更新日:2002.10.01 HOME

真光の教義に関係する疑似科学、偽史

真光の教義の中には、ムー大陸説、竹内文献など、いわゆる疑似科学や偽史といわれるものがたくさん含まれています。インターネットの普及により、それらについての情報が容易に手に入るようになってきました。「4.真光、ムー大陸、そして天皇崇拝」において説明された、真光の非科学的な側面に関する情報を主にまとめています。

目次

・原田実CyberSpace
・ムー大陸…もう一つの伝説 −琉球大学木村教授の唱える「琉球古陸」説−
・ムー大陸に関する教え
・数万年前に核戦争はあったのか?
・いろいろな疑問−神代文字についての対話−
・神代文字否定の論拠
・トンデモ科学者の研究を絶賛した教え主様御教示

・日猶同租論と古史古伝

・危険な歴史書「古史古伝」 別冊歴史読本 54号新人物往来社
・別冊歴史読本 特別増刊14《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ2 『「古史古伝」論争』新人物往来社 1993.8.12発行




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原田実CyberSpace: http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/

このHPは、真光の教義が基礎としている竹内文献などの古史古伝、神代文字、大本教などについて批判的な見地から検討を行い、いかに怪しい話が多いかを指摘している。例えば以下のような題目がある。

書評:「神々の指紋」の超真相: 
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/review/review1.htm
(一万年前に文明があったとするベストセラー『神々の指紋』はトンデモ本だったらしい。)

コラム:「竹内文献」が語るSF的創世神話: 
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text3.htm
(これは、4.真光、ムー大陸、そして天皇崇拝で紹介済み。真光が教義の基礎とする竹内文献は、偽書の可能性が極めて高い。)

コラム:日本の予言書 −『野馬台詩』『聖徳太子未来紀』『竹内文献』−
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/column/text9.htm
(最後の方で、竹内文献と真光の関係が、簡単にだが指摘されている。)

未発表原稿:日本古代文字学の夜明け?
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/yoake.htm
(日本における文字の使用が、弥生時代後期までさかのぼる可能性が最近出てきたものの、いわゆるペトログリフとか神代文字と呼ばれるものの研究には、極めて怪しいことが多いことを指摘。)

未発表原稿:知られざる名著『学理的厳正批判大本教の解剖』 オウム事件は第四次大本事件か?
http://www.mars.dti.ne.jp/~techno/text/text2.htm
(ここで紹介されている本は、真光や救世教など、多くの宗派の起源である大本教にも、今日のオウム真理教のような怪しい面があったことを指摘している。稀代の霊能者としてとかく神聖視されがちな出口王仁三郎氏にも、おかしな言動や、予言の自作自演等が多々あったらしい。また、鎮魂帰神現象(霊動現象)を精神医学の立場から分析し、「単なる催眠ではない、自己暗示による人格変換」であるとし、神聖視するようなものではなくむしろ危険なものとしている。それが原因で殺人事件まで起こったらしい。)
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ムー大陸…もう一つの伝説 −琉球大学木村教授の唱える「琉球古陸」説−
http://isweb9.infoseek.co.jp/novel/ventvert/study/mystery/0001_choukodai_body.html#MAGYOU_LABEL3

<抜粋>

...どうやらチャーチワードの力説したムー大陸が、太平洋の中央あたりには、科学的には存在出来ないらしいことが前章でわかった。...

...アメリカの海洋地質学者メナルドは、ツアモツからマーシャル群島に至る太平洋の真ん中に、高さ二キロ、長さ千キロ、幅四千キロにおよぶ巨大な海底の隆起地形(ダーウィンライズ)を考えた。この説は1964年に発表され、日本のマスコミに騒がれたことがあったが、ボーリング調査などその後の海底調査により、ダーウィン・ライズは大陸の沈んだものではないことが明らかにされてしまった...
<解説>

近年、沖縄付近の海底で遺跡のようなものが発見されています。沖縄周辺は1万年ほど前に水没した可能性もあり、同時に水没した文化、文明があった可能性が指摘されています。上のHPではこれを指して、「ムー大陸」、「ムー文明」と言っています。ただし、この海底遺跡らしきものは、未だに人工物なのか自然物なのか結論がついていないようです。つまり、はっきりしたことは何も判っていません。また、上の抜粋にもあるように、一般的に言われているムー大陸が太平洋の中央あたりには存在し得ないことも述べています。

しかしながら,一部の真光信者はこの「海底遺跡らしきもの」を指して、「岡田光玉氏の言ったムー大陸が実際に存在した...」と言い,光玉氏の教えが正しいと主張したいようです。

これは本当にムー大陸、ムー文明と呼べるものなのでしょうか?光玉氏が正しいことを言ったということになるのでしょうか?

私が思うには,上のHPや木村教授は、人々の興味を引くためにこの海底遺跡のようなものを「ムー大陸、ムー文明」と呼んでいるだけであり、実際には「琉球古陸」説ともいうべき別物だと考えられます。○○真光の上級研修のテキストには、ムー大陸は太平洋を覆い尽くすように描かれている上に沖縄付近は含まれておらず、上記の琉球古陸説とはかけ離れたものであることがわかります。(4.真光、ムー大陸、そして天皇崇拝、参照)

雑誌「ニュートン」編集長の竹内均氏は、「ムー大陸は無かったがムー文明はあった」と言っているそうです。しかし、竹内氏は高名な地球物理学者でありながら、古代史に関しては妄想を持っていることが指摘されています。


『ニュートン』編集長、竹内均氏の妄想
http://bosei.cc.u-tokai.ac.jp/~haruta/kyokou/zangai.html
光玉氏は、不確かなチャーチワード説をそのまま教義の中に取り入れただけでなく、ムー大陸とアトランティス大陸間に核戦争があったという話まで付け加えています。この話は1950年代にアメリカで人気のあった「シェーバーミステリー」が元ネタのようです。

もともとムー大陸説というのは、チャーチワード氏が最初に唱えたものですが、チャーチワード氏自身の経歴詐称問題や証拠の不確かさから、捏造であると言われています。光玉氏はチャーチワード説に尾ひれをつけて真光の教義に取り入れただけのようです。

ムー大陸説は、偽書である竹内文献にも取り入れられ、戦中戦後を通じて軍人の間で人気のある説でした。光玉氏もそれに騙されたか、あるいは利用した人間の1人でしかないのでしょう。

ですから、仮に沖縄近海で発見されたものが今まで発見されていなかった遺跡だったとしても、「光玉氏が正しいことを言っていた...」ということにはなりません。

「一万年前の遺跡があった、だから光玉氏の言ったことが正しかった...」という認識は、短絡思考というものです。


擬似歴史学辞典 http://village.infoweb.ne.jp/~fwjf1899/tondemo/dic/

<ムー大陸に関する参考文献>

ジェームズ・チャーチワード/小泉源太郎:訳『失われたムー大陸』(大陸文庫 1991)
志水一夫「疑惑の人ジェームズ・チャーチワードとムー大陸伝説・伝」
藤野七穂「偽史と野望の陥没大陸“ムー大陸”の伝播と日本的受容」
『歴史を変えた偽書』(ジャパン・ミックス 1996)
C・J・カズー+S・D・スコット Jr./志水一夫:訳『超古代史の真相』(東京書籍 1987)
R・ウォーカップ/服部研二:訳『幻想の古代文明』(中公文庫 1988)
M・ガードナー/市場泰男:訳『奇妙な論理II』(現代教養文庫 1992)
ダニエル・コーエン/岡達子:訳『世界謎物語』(現代教養文庫 1990)

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ムー大陸に関する教え

昭和四十二年五月度月始祭教示

 地球の中はプヨンプヨンであって、地表の弱い所から吹き上げると、所々に海底火山が最初にできる。一番最初に溶けた岩が吹き上がって止まると、その次に下のほうにあるもっとプヨプヨの岩が、さらに吹き上げられてくる。
そうして一つの山ができる。山の上のほうに非常に硬い岩ができる。これが海底でパアーツと吹き上げられると、昭和の明神礁のようになるのです。筑波山も、最初は海上に頭を出さず、海底で頭を出していた。
そして、ムー大陸が陥没するのと入れ替わりに、今のドロドロの所が圧迫されて海底が持ち上がって海上に頭を出す。それが今の関東です。(崇教S42年み教え集P94)

昭和四十九年六月度月始祭教示

 アテスカ文明というのは、約一万二千年前に太平洋に陥没したムー大陸に住んでいたマヤ族、つまり太陽族が陥没寸前にエビロス(今のアメリカ)へ移住して築いた文明です。
崇教「大聖主」P234

(解説)
二つの教示を総合すると、1万2000年前にムー大陸が沈み、筑波山をはじめとする関東平野ができたことになる。考古学上は、縄文式土器を使い始めたのがちょうど1万2000年前で、それ以前は旧石器時代である。
光玉氏の説が正しいとするなら、筑波山をはじめとする関東地方では、旧石器時代の遺跡は存在しないことになる。ところが茨城県内で、数多くの旧石器時代の遺跡が発見されている。
www.linkclub.or.jp/~takepon/preceramic.html


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2003年11月29日(土) 034 pseudoscience

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数万年前に核戦争はあったのか?

 岡田光玉氏の教えによれば、1万年ほど前に海底に沈んだアトランティス大陸とムー大陸の間には、原水爆を用いた核戦争があったという。

(崇教)「真光」誌 昭和60年7月号 六月度月始祭救い主様み教え
 (部分抜粋)

 ...結局、原因は恐るべき「集団霊障」である、アトランティス大陸文明とムー大陸文明は、嘗て、原水爆を使ってさえやったほどのものすごい大戦争をしたのですが、さらには、金星や他の遊星にいた霊と現界に肉体を持った人間界との闘争もあったのです。...

 核戦争があったのなら、その痕跡が地球上のどこかに残っているのではないだろうか? 

 もし仮に、核戦争が過去(数万年前)にあったならば、現代科学はとっくに発見しているはずである。

 原爆でできる特徴的な核種は自然界に存在する元素よりもやたら中性子が多い核種である。それらは放射性崩壊を起こして長い間には安定元素になるが、これが存在すると同位体比率は自然のものと全く異なってくる。したがって、過去に核兵器が使われたならば、地層の同位体比率を調べる研究ですぐに分かるはずである。こういう研究は地層年代測定でよく使われてるが、過去に核戦争があったなどということを示唆する結果は全く出ていない。

 さらに、昔から岩石に超重元素が残っていないか調べてる研究者がいるが、かつて核戦争があればこういう学者が真っ先に気づいてるだろう。原子核理論によれば、超ウラン元素よりさらに重いところに陽子数・中性子数・核子数のマジックナンバがあることから、その付近にかなり安定した元素があるのではないかとして、探索が進められている。それらのことを超重元素というのである。加速器で超重元素を作る研究もなされているが、地球生成のころから宇宙で作られた超重元素が残っているかもしれないと、岩石も調べられてる。

 水爆なら反応時の猛烈な中性子放射で、普通では考えられない重い超ウラン元素がたくさんできる。アインスタニウムぐらいまで。原子炉ではせいぜいキュリウムぐらいまでしか出来ない。こういう超ウランは半減期が短いので証拠は残らないかといえば、答えはノー。化石に痕跡が残る。

 どういう痕跡かというと、このぐらいの超ウランは崩壊に「自発核分裂」をするものが多い。中性子がぶつかることなく勝手に核分裂する。この超ウランが堆積岩や溶岩に混ざって取り込まれて岩石の中で核分裂をすると、これが周囲の岩石組織を破壊した痕跡が残る。

 これの研究も、超重元素の研究と重なる。超重元素も自発核分裂で崩壊すると考えられているから、岩石に超重元素の自発核分裂痕跡が無いか調べられている。

 もし岩石に超重元素の自発核分裂痕跡が発見されたら、世界的なニュースになる。しかし、現実には発見されていないので、数万年前に核戦争があったなどとは、現代科学からは到底認めることはできない。

 自然に存在する元素で最も重いものはウランだと言われるが、実際には超微量でウラン鉱石にプルトニウムも検出される。これはおそらく宇宙線の中性子でウラン鉱石中のウラン235が核分裂し、そばにあったウラン238が中性子吸収してプルトニウムになったりしたものだと考えられる。 よって、プルトニウムだけでは過去の核戦争の証拠とはならない。

 また、10億年以上前には天然の原子炉があったかもしれない。ウラン238と235の比率は、ウラン235の半減期が短いために地球誕生当時は現在よりも235が多かったと考えられる。

 現在のウラン235の含有量では自然に核分裂が臨界になるはずがないけども、昔の235が多い時代なら、ウラン鉱床内に地下水があれば水が減速材として働いて核分裂が臨界だった可能性もある。実際にそういう鉱床が見つかっている。
http://www.ies.or.jp/japanese/mini/mini_hyakka/43/mini43.html

 また、琵琶湖の堆積物、南極の雪氷コア等、さまざまな堆積物からも、過去の地球の状況は調べられている。10億年以上前の核分裂反応の痕跡すら見つかるのに、 たかだか数万年前の核戦争の痕跡が見つけられないはずはないといえる。


参考: 

【超ウラン元素】(ちょうウランげんそ)

原子番号がウラン(元素記号U、原子番号92)より大きい元素のこと。これらの元素は原子炉の燃焼か、加速器、あるいは核兵器によって生み出される。各元素には数個から20個以上の同位体があり、すべて放射性である。崩壊の半減期は1マイクロ秒以下のものから、1000万年を超すものまである。現在知られている超ウラン元素は、ネプツニウム(Np,93)、プルトニウム(Pu,94)、アメリシウム(Am,95)、...アインスタイニウム(Es,99)、..ローレンシウム(Lr、103)、...などがある。

【超重元素】(ちょうじゅうげんそ)

天然に存在する元素に比べてずっと重い安定な人工元素。その原子核を超重核という。原子核理論によれば、陽子数が114または126、中性子数が184の核種を中心にして準安定な核が存在する領域(安定の島と呼ばれている)があることが予言されており、超重核の確認のために実験が進められている。


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いろいろな疑問−神代文字についての対話−
http://www.hoops.ne.jp/~simasiba/hotuma-singi-moji01.htm

神代文字と呼ばれるものは多くの種類があり、それらについては諸説ありますが、神代文字の多くは江戸時代以降に作られた偽物とされています。漢字伝来以前になんらかの記号として存在した可能性はありますが、「文字」と呼べるものだったのかどうかは疑わしいようです。たとえそのような「文字」が存在したとしても、岡田光玉氏の言うように、ムー大陸で作られ、世界中のすべての文字の起源として存在したという可能性はほぼゼロでしょう。
4.真光、ムー大陸、そして天皇崇拝、参照)

<以下抜粋>

(・_・) 当たり前といえば当たり前なんですが、漢字伝来以前、日本に何らかの文字的な記号が存在した可能性は誰にも否定できません。ただ、問題は、そのような記号が存在したとして、
(1)それが「文字」といえるほど高度に発達したものであったか
ということと、
(2)それと、江戸時代以降に頻出する「神代文字」に関連性があるか
ということです。
(もし、仮に(1) が成立したとしても、(2)が成立するとは限らない。)
(・_・) で。(1)ですが、彦島の岩刻文字(ペトログラフ)は、「研究者」の川崎真治氏の言うところ(『日本最古の文字と女神図像』)を信じれば、甲骨文字やインダス文字やシナイ半島のアルファベットやバビロン・シュメールの楔型文字がデタラメに混在している、という訳の判らない代物らしいので、まず簡単に信用できるものではないと思います。
 ぼく自身、この考古学的な問題について詳しく調べているわけではないので、あまり断定的なことは言えませんが、(1)の成立する余地はかなり低そうに思います。
(・_・) (2)について。
 神代文字否定論の最大の根拠は、ほとんどの「神代文字」とされるものは、字数(音数)が47〜50しかなく、上代特殊仮名遣を無視していることです。
(松本善之助氏の本を読んでいるのであれば、上代特殊仮名遣についてはおわかりですよね。氏は上代特殊仮名遣が将来的に否定される可能性についても述べていますが、残念ながらこれは氏の希望的観測にすぎません。)
 しかも、ホツマ文字は、明らかに母音記号と子音記号の組み合わせから構成されており、これは50音表の存在が前提であると考えるのが自然です。少なくとも、仮名文字が創られる以前の文字とは極めて考えにくいものです。
 ……要するに。「学界から排除される」にはそれ相応の理由があるってことです。
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神代文字否定の論拠

1.神代文字の形を分類すると、だいたい甲骨文字とハングルの二つに大別できるほど良く似ている。ハングルは、朝鮮の京城で一四四三年に創案された表音文字である。神代文字の中で最も有力なものとみなされた日文は、明らかにこのハングルに基づいて作られたものである。

2.古代に固有の文字がなかったということについては、平安時代の『古語拾遺』に「上古の世、未だ文字あらず」と記載されている。

3.神代文字で書かれた古い文献のようなものは一つも残っていない。

4.漢字に先立ってすでに固有の文字があったとすれば、わざわざ漢字を輸入して日本語を写したり、それから仮名を発達させたりする必要は考えがたい。

5.仮名は音節文字であるのに、神代文字は一種の単音文字であり、神代文字はその構成において、仮名よりも一層進歩した文字とみなされる。

6.神代文字は四七音ないし五〇音しか書き分けない。奈良時代以前にまでさかのぼると、日本語の音節には「いろは」四七文字では書き分けられない八七種類の音(甲乙二種類の音があり、母音が八つ)があり、それらは五十音図のうちには収められないところの音であった。すなわち、いろは歌や五十音図だけでは示しきれないところの音が上代にはあったのである。これらを「万葉仮名」ではちゃんと書き分けてその区別を守っている以上、もし神代文字が真に仮名以前のものであったとすれば、少なくとも、もっと多くの字体がなければならないのに、いわゆる変体仮名にあたるものさえなく、きわめて整然とした統一をもっているのである。神代文字は多く四七字か五〇字から成っており、それが「いろは歌」や五十音図の影響下に後世偽作されたことを示している。


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トンデモ科学者の研究を絶賛した教え主様御教示

平成7年前後の○○真光教え主様御教示に、次のような内容の一文がありました。○○真光誌にも掲載されているはずです。

『東北大学の早坂○雄博士の研究は、21世紀の新しいエネルギー源を開拓するものである...』

このように早坂博士の研究は、み教えにおいて絶賛されました。しかし早坂博士とは、実は擬似科学者(トンデモ科学者)として有名であり、彼の研究は専門家からは相手にされておりません。しかし○○真光幹部や教え主は、科学的知識が無かったために早坂博士の言うことをそのまま鵜呑みにしてしまい、すばらしい研究だとでも思ってしまったようです。神の地上代行者が、このような間違いを犯すものなのでしょうか?まったく普通の人間が犯すような間違いを犯しています。しかも御教示において...

以下では,その早坂博士の著作を紹介し、いかにおかしなことを言っているかを見てみましょう。

宇宙第五の力 『反重力はやはり存在した』 
早坂○雄、杉山○樹 著
徳間書店 1998年

<以下抜粋>

第一部P.3 
  同時に、これら「反重力の基礎研究をベースにした、宇宙空間における新しい推進技術をいち早く開発する必要性のあることを力説し、さらには「真空エネルギー」から「電力エネルギー」へ転換するための新しい技術さえも開発できる、ということも強調しておきたい。
第二部 P.4
  まず第1章では、なぜ反重力の研究をするのか、その理由を明らかにする。第1の理由は、自然に対する好奇心から、果たして自然界に重力的斥力の存在が考えられるのかどうか、と云う観点から反重力を研究する理由を述べる。
  第2の理由として、宇宙探査のための手段としての反重力を探求することと、ETIとの直接交流を可能にするための手段として推進技術を開発する、と云うことを述べている。 ETI:地球外知的生命体
第二部P.125
  B−2機の推進方式は、電場を用いて重力(引力)を制御する実例である。
  注)B−2機: アメリカ軍のB2ステルス爆撃機のこと。
  http://allabout.co.jp/hobby/airplane/closeup/CU20011022A/
第二部P.130
  8−2を終えるに当たって、著者らは次のことを読者諸氏にコメントしておきたい。ただし自然科学者でUFOを頭から否定したい方々をコメントの対象にはしない。
  UFOの研究者および一般の市民の方々で、UFOに関心を持っている読者に云いたい。アダムスキーと云う人物は金星人には会っていないし、UFOに乗って金星や土星に行っていない、などという人がいる。アダムスキーは、いかがわしい人物であると。
  こんな話をする人は、中途半ぱにUFOを研究している人物で、濁った精神しか持ち合わせていない。真実に共鳴できる人であれば、アダムスキーの存在と、彼の主張の真実性が直ちに判るはずである。
  もし、それでもわからないのであれば、彼の墓地がアメリカ合衆国国立アーリントン墓地にあると云う事実を知ってもらうことだ。アーリントン墓地に直接行き、目で確かめることだ。

第二部P.134
  一方の米国は、相も変わらず重力制御技術を極秘にしている。その上、悪しきETI(いわゆるグレーやオリオン星人など)から、その技術を取得しているとの話も伝わって来ている。
  悪しきETIとは、知的には地球人類より高いが、彼らの生命力の枯渇を補うために、地球人を拉致し、地球人類の遺伝子を用いた遺伝子組み換えさえ行い、彼らの子孫を改良しようとしているETIのことである(ただし、ゼータ・レクチル星人は除く)。

第二部P.135
  精神レベルが高いとはどんなことか。著者らが思うに、宇宙で生起するあらゆる現象の根源である”宇宙の叡智(宇宙意識)”を認めることができる状態に達しているか、あるいはそれに向かって意識的に努力している生命体の精神レベルのことである。
  こうしたETIのことは、近年多くの報告がなされている。たとえば、米国の著名な牧師ストレンジェスは、バリアント・ソーと云う金星人(1957年、アイゼンハワー大統領、ニクソン副大統領達と会見し、地球人救済のための多くの提案をした)と友人になり、金星での生活、地球環境保全のための金星人の努力、地球人の精神レベルの向上、などについて話し合った。

第二部P.137
  著者らは、すでにこの方向づけに沿った重力制御技術のアイディアを持っている。これは直ちに基礎実験が可能なアイディアである。このアイディアは近いうちに公表するつもりである。
  したがって、この方向に沿って研究できる能力を持っている研究者の組織化、財政的支援が得られれば、日本の宇宙開発技術は、飛躍的に増大することは明らかである。政府と民間の協力を得たい。
<解説>

 「真空エネルギー」とか「第五の力」とか、普段の私たちには耳慣れない言葉が現れて理解しにくいのですが、「米国の陰謀」とか、「宇宙人の陰謀」とか、確かな根拠のない被害妄想に囚われている様子がうかがえます。また、「アメリカのB2ステルス爆撃機が重力を制御して飛んでいる」とは、科学者らしからぬ発言です。ですから、科学にあまり縁のない人でも「何かおかしいな...」と感じると思います。ちなみに、物理に詳しく早坂博士のことも知っている人に尋ねたところ、返事はこうでした。「早坂さんの研究は誰も認めていない。彼の研究結果は一度有名な学術雑誌(Physical Review Letters)に載ったことにより、日本の新聞上でも掲載されたが、その同じ学術雑誌に早坂さんの結果を否定する論文がすぐに掲載された。日本の計量研究所でも否定する結果を出した。だから完全に否定されてしまっている。全く話にならない...」

 ○○真光には有識者(学者、医師などからなる)の組織があり、陽光文明国際会議なども開いているはずですが、有識者の方たちはいったいこのことをどう考えているのでしょうか?「教え主様が言ったのだから間違いない...」、もしこのように納得しているのだとしたら、学者、医師として失格でしょう。


参考サイト: 反重力独楽見学レポート http://www.dma.aoba.sendai.jp/%7Eacchan/AntiGra.html 
早坂博士のところを訪問したときのレポート
参考図書: パリティブックス 「続 間違いだらけの物理概念」 平成7年初版 パリティ編集委員会 編  丸善
        P.93−106 『右回りのコマ、軽くならなかった!!」 池田進
日本の計量研究所(現、独立行政法人産業技術総合研究所 計量標準総合センター)で行われた実験について記述されている。早坂博士の研究を否定している。


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2003年11月28日(金) 035 pseudoscience

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日猶同租論と古史古伝

「古史古伝の謎」(別冊歴史読本 64) 新人物往来社1996.8

P120-127
[日猶同租論と古史古伝]
――日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つとする主張は客観的に実証できるものではなく、古史古伝の世界においてのみ展開できる議論ではないか――
宮澤正典(同志社女子大学教授)著

<日猶同祖論と古史古伝の接点>
 日本民族とユダヤ民族が祖先を同じくするというような議論は、騎馬民族日本渡来説や海洋民族の渡来説などのように学会に提起されて学問的な論争となるということはこれまでほとんどなかったし、今後もその可能性は乏しい。それにもかかわらず明治時代から幾ダースものバラエティに富む日猶同祖論が巷間に展開されていまも衰えてはいない。
 近年、ユダヤ問題で高名な宇野正美もついに「古代ユダヤは日本に封印された―「聖書」が明かす原日本人のルーツ』(1992年・日本文芸社)を著して同祖論者たちの群れにまた異色の主張を加えた。私はかつて同祖論を立てた人びとが聖書の知識を独特のかたちでもった人たちであったと言ったことがある(「日本・ユダヤ同祖論とは何か」『歴史読本』1991年9月増刊号)が、宇野も大阪聖書キリスト教会牧師でもあり、「『聖書』が解ると世界が見えてくる」(『歴史Eye』1992年6月〜1993年3月)の連載でもわかるように、その道の専門家である。

【『竹内文書』などを重んじる人々に同租論者が多いのはなぜなのか?】
 古史古伝の人びとの日猶同祖論も明治以来の聖書知識の普及をよりどころにして登場したと言ってよい.『古事記』以前の書とされる著名な『竹内文書』(磯原文書)をはじめ、『九鬼文書』『宮下文書』その他が、せっかく古い作成年代とされ、それによって日猶同祖論を説いてくれているのであるが、いずれも聖書知識が普及する以前の時代に公開されてそのように説かれることはなかったからである。それに、なぜ日本・ギリシア同祖論や日本・ラテン同祖論にならなかったのだろうか。日本もヘレニズム世界やシルクロードの東縁に文化的につらなる事実からすれば、より同祖の可能性に説得性をもたせ、あるいは実証性を増したかもしれないのに。
 日猶同祖論はユダヤ人の日本渡来説と日本からの分流説に大別できる。そして後者は、それが日本に再帰したとするものと、分流した「事実」を認識できないでいる現代のユダヤ人を問題にする立場をとるものに二分して集約できる。さらにヘブライの正系は日本とユダヤのいずれにあるかをめぐる論議にも展開した。ユダヤ人渡来説にはキリスト教にかかわる人びとが多く、分流説には「竹内文書』など神代文字による文献を重んじる古史古伝の人びとが多い。それらの文献の本旨は同祖論に置かれているのではないが、その方面に一人歩きして展開するに足る内容を含んでいるようである。
 元来、歴史的に実証不能とは断定しないまでも証明のきわめて困難な日猶同祖論は歴史時代において決着のつくところではなく、そこを避けて超古代の古史古伝の世界においてはじめて自在な展開が可能となる。むしろ、そこでしか論議ができないテーマなのではないだろうか。
 歴史時代と現在に関しては、およそ人間であれば時間空間をこえてよく似た風俗習慣をそれぞれ独自に創るものであるにもかかわらず、類似性をもつ諸文化現象を繋(つな)ぎ合わせ関連づける楽しい作業をしていけば同粗論が形成できる。

 その一典型は小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』(1929年・厚生閣、1982年・炎書房復刻版)であり、同音は「壱百数拾件」を校勘して「我大日本の基礎民族は希伯来(ヘブル)神族の正系にして猶太(ユダヤ)人は其傍系なる所以」を明らかにしたのであった。しかし、文物の伝来ならともかく人間そのものが民族として渡来ないし分流したことを客観的に実証しようとすれば、その必然性を含めてルートを証明しなければならない。じつはそれを確定しがたいからこそ歴史以前にさかのぼっていかざるをえない。古史古伝の世界こそその論議を展開する好個の場となるのである。そしてその一は信仰的確信に充ちて自明のことのように「実証」してみせるものになり、その二は推論憶測を重ねて結論を導く形をとるのであり、結局臆断をまぬがれない。

<日猶の類比および神道立教コードづくり>
 ではなぜ古史古伝が日猶同祖論なのか。小谷部の前掲書や『竹内文書』は、反ユダヤ論が『シオン長老議定書(プロトコール)』を用いるように、多くの同祖論があげる論拠の共通項になっている。
『竹内文書』は宗教法人・皇祖皇大神宮天津教立教と不可分であるように、神代文字から主張される諸文書の「史実」は、いずれも単なる歴史ではない。それぞれ神道系の宗教団体に属し、その信仰の基本を担う内容の文書であることを無視できない。本居宣長(1730-1801)、平田篤胤(1776-1843)という二人の国学者の努力について述べた堀田善衛の解釈は示唆的である。
 堀田は「荒唐無稽でかつ超自然的な奇蹟に満ちた『古事記』のような非論理的なものを、何とか論理の世界で読み解こうとした本居宣長の努力たるや、たいへんなものだったと思います」「推理小説のようにおもしろい」、「つまり非合理的なことを無理やり論理づけようとする、その宣長の知的努力は、やはり特筆に値する」という。また平田篤胤も、じつに奇妙なというか、悲痛なまでの努力を傾けた人だという。その努力の目的は堀田によれば次のようになる。
「篤胤は、日本国家に合うような教学の中身を神道に添えたいとあれこれ苦心するわけです。たとえば、『古事記』の初めのほうに、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)という神様が出てきますが、篤胤は、神道に教学の中身を与えるには、この神を最高神としてこの神が天地をつくったということにしなければならないと思って、この神をキリスト教の天地創造に同定しようとしています。次に国家形態を合理的に整備するにはモラルをつくらなければならない。しかし、神道にはモラル・コードがありませんから、今度は、イエスの山上の垂訓を引っ張ってくる。披が中国語訳の聖書から引用した部分があるのですが、その引用部分の上の段に、『この項外秘』と書いてあります。何しろ、キリスト教からネタを借りたということになれば、神道にとってはたいへんな恥ですから、また国学イデオロギーとしての攘夷原則にも反しますから、いっさい他言無用というわけですね。じつにイデオロギー的に四苦八苦、満身創瘡で悲痛なまでに奮励努力をしているのです(『めぐりあいし人びと』1993年・集英社)。

 さて、神代文字の人びとは、さらに荒唐無稽そのものというべき神と宇宙の創世神話を何とか論理的に説明しなければならない。現代の彼らが江戸時代キリスト教禁圧下と異なるのは、日本の始原をユダヤ・キリスト教の上、つまり想像を絶するような古い時間帯に位置づけることにある。たとえば、奥所一男は「竹内文献」とその研究成果である竹内義宮『神代の万国史』およぴ『神代の神代の話』、それに矢野祐太郎『神霊聖典』などを典拠にして壮大な世界史を再構築してみせる。
 それによると、わずか二千六百年の神武日本は「最近において幾千年振りに世に公開された『竹内文献』」の証明するところによると、「神武天皇は実は皇統第千百六十九代」になっており、日本建国は少なくとも一万年以上遡源させて、「万国に先達つ世界の本家親国(神国)たる」位置におかれる。かくてモーゼは、天皇から「万国の総王」という印綬を授けられて来日し、崇神天皇の三博士派遣、キリストの十字架後の「父祖の故郷、魂の故郷たる神の国日本」への渡来等々が、確認されないまでも論定されるのだろうという(『救世主の出現と地上天国』1972年・霞ヶ関書房)。奥所は在野にあって真言密教および古神道の研究を深め、兵庫県洲本市に在住、地上天国建設を祈念する宗教法人安養寺住職である。
『竹内文書』の人びとは堀田の指摘する宣長や篤胤のような満身創痍で悲痛なまでの知的な努力を傾けたかどうか。その内面はともかく、論理においては「この項外秘」どころか、世界に認知されたユダヤ、キリスト教の教理と歴史に公然と擦り寄って、それどころか、これを超古代にいとも簡単に飛躍させる道具=神代文字に依拠して処理してしまったのではないか。俗流の国学思想の歪んだ変形にとどまり、残念ながら結局、「記紀」のようには日本人の共有する古典にはなっておらず、また宣長、篤胤にも及ばないことは間違いない。
 このような検証不能というべき信仰的世界に遊ぶことなく、日猶同祖論を説こうとすれば、たとえば小谷部全一郎(1867-1941)の彼我の対照による民俗、習俗の類似や川守田英二のユニークな言語学的研究によるヘブライ語・日本語一致の発見などに頼ることになる。しかし、これらもその多くは信仰人によって、かつ古史古伝の世界にさかのぼってなされてきたのが実態である。
 小谷部の場合を見てみよう。彼は「十九歳意を決して外国帆船に便乗し、赤裸紐育(ニューヨーク)に上陸して以来、異郷の学窓に螢雪の苦を嘗めて春秋を迎ふること十有三年、而も其間一銭の邦貨を費やさず、最後の名残に世界五大学の一に列するエールを卒業して帰朝」した。「西教の原理は我神道とその趣を同ふすと信ずる自説を確めんが為」の神学研修でもあったという。いまその経緯は省略するが、結局「従来の神道は旧習に囚はれて世と進歩を伴はざる嫌ひあるが故に、之を革新して世道民心を益する機関たらしめんと欲し」、「内外史家に難問とせられ居る我大日本の起源に就て筆を執り以て本書を成すに至ったのである」
 内外における苦節を経て、日本の基礎民族は「英邁の資、卓越の才を懐く希伯来(ヘブル)選民の正裔なり」と「立証」し確信することができたとき、それは宗教的体験に似た回心であったに違いない。こうして彼の同祖論は神道的な「独自の宗教」を創出したのであった。
 このような自負に支えられた日本人観に立って、「東方に金甌(きんおう)無欠三千年の神国日本の毅然卓立する事を知らず、屋上更に屋を架せんとして神国建設の運動に盲動しつゝある猶太(ユダヤ)の子孫等よ覚醒せよ」といましめ、「卿等須く大悟徹底し」、「我日本と唇歯輔車(しんしほしゃ)の和親を保ち徐(おもむろ)に神の道を天下に弘布し、物質文明に陶酔して前後を弁へざる現代人に覚醒の機を与へ、世界を真の平和に導く仲介者たれよ」と訴えた。
「我等と同じく罪なくして排斥せらるゝ、猶太民族に同情を寄せ、彼等を光明に導き希伯来の理想にしてまた日本の使命たる神国樹立、四海同胞、乾坤一家の天業に共力する所あらしめよ、是即ち皇祖の所謂八紘を掩ふて宇(いえ)となさんとせる聖旨に合し、併せて父祖に孝を神に忠なる所以也」
 かくて「今は正に日本人の一大覚醒を要するの秋にあり」と認識されていた。1929年における時局のなか、日本至上を説く日本主義であり、現実には近代国家としてのルーキーであり、国際的にも困難ななかで、世界を導(きょうどう)すべき使命をもつという民族的指針を構築したのであった。

<現代の稗史としての同祖諭>
 宇野正美が日々の国際政治経済社会にわたる現在的課題を精力的に説きあかそうとしているのは斯界に周知の事実である。とくに全世界のユダヤ人口のうち90パーセントを占める「ヨーロッパ系ユダヤ人はアブラハム、イサク、ヤコプの血統の本当のユダヤ人ではなく、ユダヤ教徒カザール人にすぎない」ことを知り、「親ユダヤを捨て、明確に反シオニスト」となって(『ユダヤと闘って世界が見えた』1993年・光文社)からの論鋒は一層顕著である。
 彼の同祖論もユニークではあるが、共通点さがし、およぴ旧約聖書に投影させた古史古伝的手法で始めている。前掲の『古代ユダヤは日本に封印された』によれば、「今日、イスラエルという国が建国されているが、そのイスラエルで常に下積みにおかれているスファラディ・ユダヤ人と言われる人たちこそセム系にしてアブラハムの子孫であり、本当のユダヤ人である。古代イスラエル人も日本人もその流れから出ている」そうである。そして「私たち日本人と、このスファラディ・ユダヤ人たちとの間には多くの共通点がある」という。
 いまその共通点さがしの紹介に深入りすることは避けるが、この書物に充ちみちているのは、「ならば」、「はずである」あるいは「ないだろうか」という構造の論理である。この「ならば」、「はずである」を反復して積み重ねたあげくに「ほかならない」ともっていく。
 たとえば、川守田のイザナギ、イザナミ=イザヤ・夫婦説を引用して、「もしこの説が正しいならば、日本に契約の箱が来ていることになる。来ていたならばそれはどこにあるのか」。「日本に古代イスラエルの十二部族が来ていたということの証明は、契約の箱をおいてほかはない」。「『旧約聖書』に徹底的に忠実でありたいとする人たちは、バビロンがユダを滅ぼす以前にイザヤとともにその国を脱出した。契約の箱を守るためである。したがって祭司集団も同行したと思われる。彼らははるか東の国、日本を目指して、海流に乗って出発したのではないか」。「『東方』とはどこか。『日出ずるところ』である」。「イザヤ夫婦の信仰を受け継いだ集団が、この当時の日本にいたのではないだろうか」。「『イザヤ書』を繰り返し読んでいたのではないか」。「おそらく今から二千年前、日本と古代イスラエルとの間に交流があったのではないだろうか」。「あるときはシルクロードという陸路、あるときは海流をたどる水道であっただろう」。日本に「古代イスラエル人がいるとするならば、『ヤコプの手紙』は日本人のうちの一部の人に送られるべき手紙そのものではないか。」
 かくて「イスラエル十部族、ユダ二部族の本体が日本にいると思われる」にいたり、「日本に古代イスラエル人の子孫がいるとするならば、世界情勢の激変の中、日本の役割はどのようなものとなるだろうか。「近い将来、古代イスラエル人が日本にいるかぎり、日本の時代がやって来る」。スファラディ・ユダヤ人のレビ前イスラエル外相と丁昔日の弁明も許されず退陣した海部元首相は、ともに古代イスラエル人の血を受け継いだ者であり、地面から芽を出したが、「しかしまだ本格的な活躍のときではなかった。彼らはともにその序曲を奏でたのであった。大みそぎの後、世界は変革し、日本も変革する。その中で古代イスラエル人の子孫たちは、聖書の予言どおり完全回復に向かい、新しい時代の担い手となるだろう」。「不思議な国、日本。この中で不思議な胎動が始まった」というのが、同書の結語である(傍点は宮澤)。
 客観的に実証できないで、仮定法を積み重ね、古史古伝に遊泳して現地の課題に結びつけて断定しても、それは稗史(はいし)的にならざるをえない。それを確信して強弁するとデマゴーグになるが、天津教などのような神秘的信仰の領域に及ぶことになる。

 稗史風といえば、昭和戦時下に同祖論をテコに反ユダヤ反天皇制を結合させた興味ぶかい資料がある。「大阪朝日新開」への「不敬投書」として記録されている(『特高月報』昭和十八年六月)。
「前略この度例によって妃殿下が各地へ慰問に来られるさうだが、それは真平御免罷ると御社より言上されたい、何となれば彼等の来訪は百害あって一利なし、多勢の供をつれて美衣をまとひゾロゾロ来られるのを見て非常時下慨嘆さぜるものなし」、「大戦中彼等一族は何をなしたるか社会の外に美衣美食なすところなく、稀に戦場に有る者を見るに血を流して占領した後をフラフラうろついて視察するのみの芸なり」。
 「我等の志、そは一日も早く三千年日本を我物として君臨せし彼等一族特権階級を亡して新日本を建設するにあり、平民日本を建設するにあり、平民日本を建設するにあり」、「三千年五千年の昔人類地球上に棲息を始めしより日本にも土着の民あり、そこへ大陸より神の選民と称する天孫族渡来し次々と土着民を征したり」、「土民の中には出雲族あり、土蜘蛛あり、熊襲あり蝦夷あり皆併合或は征服さる、そして極めていやしめらる、彼等天孫族は何れから来たるや、元より知るべくもあらざるが太鼓猶太の首長モーゼは部下をひきゐて東に西に放浪、遂にエジプトに至りそこをも脱出してイスラエルに帰るその中最も精猛なる部族は同族と別れて東漸又東漸支那に至りて消息不明となる。日本に来りし天孫族は彼等なりと信ぜらるる点多し、我等は日本を愛す、この国土を愛す、故に大東亜戦にはあくまで戦ひ勝つ、勝たねばならぬ、さりながら猶太人の子孫たる天孫族、猶太の子孫にはあらざるも三千年尊大を極めし彼等をして尚安眠さす余地は持たざるなり」。
「天孫降臨の事実を証されよ、科学的に、百千の団体明徴運動も尊いが故に尊べでは合点せられず、高天原の天下りは三つ児しか信ぜざるなり、言論機関よ、よろしく我等に協力せよ」。
 以上、論理の混乱はあるが、稗史風の日本民族論を展開していて、言わんとする論旨は一応理解できる。古史古伝的“研究”の成果が端的にあらわれ出た例といえる。
 これとは対照的に、宇野正美は、日本への渡米ユダヤ人は「あるところでひっそりと二千数百年、やがてのために生き続けなければならなかった」そうである。
「日本に古代イスラエルの十二部族が来ていたということの証明は、契約の箱をおいてほかにはない。ただこれがあれば全世界の人々の口を封じることになるだろう。特に欧米人たちは驚き呆れて、口をつぐむ。中東の人々においてもしかりである。しかしそれまでは仮に日本に契約の箱があったとしても、一条の光も漏れることもなきベールがそれを包むことだろう」と、隠されており、「日本にかくまわれていた古代イスラエルの血を受け継いだ子孫たちが約束の地に戻るという」、その顕現への胎動を、宇野は読みとっているようである。

 かつて国学者が和歌や漢詩に託して、その心情を表現したように、諸宗教人から不敬投書者、現代国際政治経済に通暁するらしい研究者にいたるまで、古史古伝に託した同祖論によってその心情を語るという、いずれもユニークな「古典学者」たちに違いない。その意味で国学者の俗流一変種といえる。しかし、自らの特異性は、かえってユダヤの宗教や歴史によりかからせることによってのみ自在に展開しうるのである。実証しがたい事柄であればあるほど親ユダヤ反ユダヤ、皇室尊崇反天皇制など、いかようにも自己の主張を組み立てる手段とすることができることを物語っている。
 さまざまなバリエーションで「日猶同祖と言わざるをえない」と結論されても、それが客観的に証明されたわけではない。むしろ始めに同祖というゴールが設けられており、それを論証するためにそれぞれどんな材料をどのように用いて組み立てるかのコンテストの様相を呈する。いわばその知的ゲームの競争を読者は余裕をもって鑑賞し、どのように採点するかである。古史古伝に由来する日猶同祖論者たちによる歴史の書きかえの必要も、現代日本への論策がこの日本を導いて潮流をつくる兆候も見出せそうもないからである。

【Web注】S教M光では、現在次の書籍を道場で販売している。
「猶太難民と八紘一宇」上杉千年著 展転社



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2003年11月27日(木) 036 pseudoscience

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危険な歴史書「古史古伝」 別冊歴史読本 54号新人物往来社 2000.10
――“偽書”と“超古代史”の妖しい魔力に迫る!

P102-117 「古史古伝」は新興宗教にどのように取り込まれたか―オウム事件まで―
日高恒太郎(作家)

(前略)
 私は見聞きしたなかで、「日本最古の史書」といわれる古史古伝という一群の史料が宗教の側にどのように取り込まれていたかについて記憶のままに綴つてみることにしよう。

 換骨奪胎は宗教の得音技である。古今東西の歴史、哲学、文学書などからエッセンスや逸話を引き抜き、それをかき混ぜ厚化粧した新しい物語や逸話が堂々とまかり通っているし、既成宗教の教典が矮小化されそのまま使われることも多い。

 古史古伝はいわゆる教派神道系の教団との関わりが深い。紙幅の都合もあり、私も大ざっぱに換骨奪胎してみる。「手かざし」で知られる真光を、最初に取材したのは、伊豆天城山中に総工費三百億という大神殿が完成した頃で、この伊豆の世界真光文明教団と飛騨高山の崇教真光が分裂後の正統争いを裁判で争っていた時期である。

 末端組織である道場に出向くと、二世帯分のマンションの壁をぶち抜き三十畳ほどの和室にしつらえた道場のあちらこちらで、二人一組の信者たちが対座していた。一方は両手を合わせて目をつむり、片方はその額に向かって手をかざす手かざしが繰り広げられていた。道場に案内してくれた男性に薦められるままお浄め料三千円を納めると、掛け軸を拝まされ、道士と呼ばれる二十代の美女がやってきた。

 お浄めの施術が始まった。

 顔に似合わぬ野太い声でお祈りを唱え始めた美女は、やがて手かざしをはじめた。手かざしは、通常「霊能」のある者が手のひらから出る霊波によって病気を治すことをいうようだ。しかしこの秘儀はなにもこの教団独自のものでなく、大本教の「み手代」や世界救世教の「御浄霊」にもある。

 十分、二十分と経過し正座の足がしびれ、合わせた両手がだるくなった頃、突如として「オシズマリー、オシズマリー」の声が響き渡った。それが終わりの合図らしかった。

 午後六時を過ぎ中学生、高校生、そして会社帰りのサラリーマンたちが次々に来場してきた。彼らは初級から上級までの研修を受け超能力者になる競争をしているのだと案内者が教えてくれた。研修ではこの中級者以上のものに『竹内文書』関連のハンドブックをテキストにしていた時期があった。

 起源の不確かな古代文書の中でもっとも有名な『竹内文書』を、私が最初に知った日であった。

 その後、真光の二代目教主関口栄と岡田光玉の養女岡田甲子改め岡田恵珠の二代目争いは、崇教真光という別教団を設立した岡田甲子側が敗訴したが、教勢は逆転した。崇教真光は飛騨高山に世界総本山を建立。その奥宮は高山の近くの山中、位山の山頂近くにある。

 位山は『竹内文書』では天神七代天照日大神が降臨した聖地とされている。飛騨を日玉と称し、日の神の元地という意味である。位山には天の岩戸や祭壇石などの巨石遺構が多く、近くには神々が天空浮舟で降臨したと伝えられる舟山もある。また位山の一位の木は、天皇即位の時の笏の材料として知られ、神武天皇時代から天皇に「位」を与えるという伝承があった。

 位山の天の岩戸前には、生長の家の影響を受けた五井昌久が立教した白光真宏会の平和観音もあった(現在は撤去。また本部は千葉市市川からオウム富士サティアンがあった富士市人穴に移転)。真光は岡田光玉が始めた神道系教団だが、崇教真光、世界真光文明教団、そしてス光光波世界神団などに分派した。

 岡田光玉は、岡田茂告が創始した「世界救世教」の幹部であったが、昭和三十四年に分派して真光を設立した。世界救世教からは、真光系教団のほかにも神慈秀明会、救世真数など十以上の分派が発生している。

 その岡田茂吉は元々は大本にいた。つまり救世教も真光も、みな大本の「艮の金神」の系統である。

 戦後「類似宗教」と呼ばれた宗教群のなかで突出して教勢を伸ばした世界救世教の躍進には先の超能力まがいの霊波があるのだが、それは人のみならず農作物や漁業にも効果があるとしたところが受けた。つまり、手をかざせば肥料なしで収穫は増大し、魚は獲り放題というわけだ。

 ちなみに満洲国立国当時のフィクサーであった軍人石原莞爾は、戦後、戦犯を免れ山形県酒田市に隠棲したが、『酵素普及会』を組織、無肥料多収穫を謳った宗教性を帯びた団体のなかで「こうそ(皇祖)さま」と呼ばれた。《石原元将軍より、岡田教祖のほうがずっと上手である》と当時のジャーナリスト大宅壮一に椰輸されている。

 岡田の世界救世教をはじめ、「生長の家」「三五教」「神道天行屠」「真の道」など大本の影響を受けた教派神道系の教団は無数にある。これをもって大本の艮の金神がいかに独創性にあふれたものであったかと、古神道研究者のなかに力説するものが多い。

 しかし、大本の教理が明治中期に生まれた元大工の未亡人のお筆先だけで生まれた完全無欠な独創の所産というわけにはいかない。

《三千世界一度に開く梅の花 艮の金神の世になりたぞよ・・・・(略)》(大本神諭)

 出口ナオが神がかりになり、「初発の神勅」で世の立て替え立て直しを訴えたというが、彼女を召命した「艮の金神」は、すでに『九鬼神道』の文書のなかに「宇志採羅根真(ウシトラノコンシン)」として現れている。

 つまり出雲王朝の正当性を主張しているといわれる『九鬼文書』の引き写しなのだが、研究者の中にはほかにも、天照大神の前に二十九代の天皇がいたと主張し神代の万国史とも呼ばれる『竹内文書』の影響、さらには富士高原王朝と高千穂高原王朝の対立と抗争を伝えるといわれる『宮下文書』(富士文献ともいう)の影響も見られるらしい。これらの古文書を教理の中に引き込んだのは、出口なおの長女すみの入り婿となった“一代の怪物”出口王仁三郎である。

 戦前に大本は「淫嗣邪教」として二度に渡る弾圧を受けている。オウム事件で教団は宗教弾圧と言い立てたが、大本の戦前のそれはなまぬるいものではなかった。

 最大規模の第二次大本事件(昭和十年十二月)では、京都府警だけで出動した武装警官四百三十人、教主出口王仁三郎以下九人七名の幹部信徒が検挙され、取調べを受けた者は三千人以上に達した。教団が亀岡に建設した月宮殿という神殿は二千本近いダイナマイトで爆破され、開祖出口ナオの墓はあばかれて共同墓地に移された。

 なぜこのような暴挙に近い弾圧があったのか。

 ひとつは大本にシンパシーを抱くファンのなかに高級軍人や大物右翼が多かったからだといわれる。つまり「大本が集金した資金が、右翼、軍人に流出するのを防ぐため」という目的がひとつ。

 さらに「大本の教義は大逆思想」ときめつけていることがいまひとつの理由と見る史家が多い。大本教義に取り込まれた『九鬼文曹』『竹内文書』はいずれも南朝系の伝承で、特に『九鬼文書』に見られる大国主命が登場する出雲系神話は、天孫降臨に始まる外来民族が先任者の出雲族を征服した故実を伝承したものと解釈されていた。

 「記紀」に代表される古代神話が天皇家の正統性を補完、合理化するものとみなせば、記紀以外の伝承を持ちだした大本は、国家神道の立場から「反体制勢力」と見られたのである。王仁三郎は国家権力の虎の尾を踏んだ。

 大正十一年の第一次大本教弾圧を皮切りに、国家神道の意を受けた権力が異端とされる新興宗教を次々に弾圧した。

 戦前に迫害を受けた教団としては、大本、ひとのみち(現PL教団)、創価教育学会(現創価学会)が知られているが、とくに当局は国家神道の教義と異質のものを持つ教派神道系の台頭に敏感だった。そうしたなかに昭和十一年に有罪判決を受け、係争中に終戦を迎えた教団があった。日本神話に登場する武内宿彌六十六代子孫と称した竹内巨磨を教祖とする「天津教」だ。

 いわゆる『竹内文書』は、竹内巨磨が教義形成の過程のなかでキーワードとして神代文字を持ち出し、記紀以前のこの国の姿を措いた妄想の産とする見方が定着したように見えるが、一方に『宮下文書』『九鬼文書』『上記』なども神代文字による作品とされていることや天津教裁判に出廷した東大教授によって『竹内文書』は後世の偽作と断定されたものの「漢字が入る以前に日本固有の文字があったかどうかは不明」と証言したせいか、神代文字を信奉する人は絶えない。

 またこれらの伝承を基づける史料として、上古代天皇の神骨像、八搾の鏡、「刀にすれば以て玉を切るべし」といわれる謎の鉄鉱石ヒヒロイガネで鋳造された大剣などがあったとされたが、証拠品として裁判所に没収された、東京空襲のさいにそのほとんどを消失している。

 天津数は戦後息を吹き返すが、昭和二十五年、今度は当時の施政者GHQによって邪教として迫害された。

 進駐軍は軍国主義の温床とみなした国家神道を禁絶したが、その他の教団には比較的穏やかに対応し、昭和二十年代は現在大教団となっている宗教団体が百花繚乱、その基礎を築いた時期でもあった。

 霊友会、生長の家、ひとのみち教団改めPL教団、創価学会、立正佼正会、踊る宗教と呼ばれた天照皇太神宮教・・・・。そのなかで、進駐軍によって迫害を受けた教団が、この天津教と、女教祖璽光尊、名横綱双葉山の組合せで敗戦直後のマスコミを賑わせた「璽宇」である。

 璽宇は美しい女教祖が「そなた・・・・」と呼びかけ予言予知をすることで人気を得た。昭和天皇が「人間宣言」をした二十一年に、本名大沢ナカの璽光尊が神がかり状態となって、「天皇が神様の地位を放棄したのなら、今度は私が神聖天皇である」と”天皇宣言”をしたのである。

 この突飛な発言の背景には、社会の価値観が根こそぎひっくり返ったこと、「不敬罪」が無くなったことなどが考えられるが、璽宇はやがて信者三十万、当時全国一の教団といわれるまでに拡大した。引退直後の横綱双葉山、碁の名人呉清源などのスーパースターが璽光尊のもとに参集、大衆の好奇心を引き付けたこともその要因である。

 昭和二十二年一月二十一日。「皇位の正統後継者」を広言するようになった璽光尊以下双葉山らの幹部が、GHQ司令部の命を受けた警察当局によって一斉に検挙された。

 このとき大男の双葉山が「ジコーソーン」と叫びながら、群がる警官隊を相手に太鼓のバチを振り回して大立ち回り。逮捕された双葉山はその後信仰を捨てたが、妻が璽光尊直属の幹部であった呉清瀬はしばらく教団を離れなかった。また戦後の混乱期の中とはいえ、「天変地異が起こり、天皇が三種の神器を奉じて参内。璽光尊に大政を奉還する」などとメチヤクチャなことをいう女神様を、文化人たちが持て囃した。下中弥三郎、金子光晴、川端康成、亀井勝一郎などの知識人が、璽光尊に面会している。

双葉山が信仰を捨てた後、璽字の女教祖璽光尊は、昭和五十九年七月独身のまま八十一歳で死去している。

(中略)

 「オウム神仙の会」として発足した当時のオウム真理教が『竹内文書』の影響を受け、麻原彰晃こと松本智津夫が大本の王仁三郎を意識していたと指摘する偽書研究家は多い。
 もっとも顕著な例として挙げられるのが、オウムの瞑想用の道具に『竹内文書』に登場するヒヒロイカネと証する石を利用していたということである。

(中略)

 これは史家・原田実氏が、いまは廃刊となった『宝島30』(一九九五年十一月号)に掲載した『オウムを準備した男』という記事の抜粋であるが、原田氏に限らず当時の『ムーに関わっていたライター、編集者のなかに、「山本白鳥→武田崇元→麻原彰晃」の相関関係を指摘する人は多い。

 それは「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した」という麻原が書いたとされる記事にまつわる話がほとんどなのだが、その記事を要約すると次のようになる。

 記事はまず、『竹内文書』に基いて、太古の地球上に日本を中心として高度な文化があったことを説明している。その文化は超能力によって支えられたものだとし、その超能力の源泉こそ、かつて『竹内文書』の研究家・酒井勝軍が発見したという謎の金属ヒヒイロカネであったというのである。




2003年11月26日(水) 037 pseudoscience

 こうして麻原は酒井勝軍の足跡をたどり、ついに岩手県釜石市の五葉山の一角でヒヒイロカネの現物を見出すという筋立てになっている。また麻原はそこで、酒井勝軍が残した隠された予言を知る。その内容は――

《●第二次世界大戦が勃発し、日本は負ける。しかし、戦後の経済回復は早く、高度成長期がくる。日本は、世界一の工業国となる。
 ●ユダヤは絶えない民族で、いつかは自分たちの国を持つだろう。
 ●今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族(修行の結果、超能力を得た人)だ。指導者は日本から出現するが、今の天皇と違う》

 ということになる。

 事件後現れた怪文書などを彷彿とさせる内容だ。

 「麻原の初期の霊的指導者(グル)が山本白鳥で、『幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した』の企画は、武田崇元、山本白鳥コンビから出て、それを麻原にやらせたか、あるいは麻原がパクったのでは?」とまでいう元編集者もいる。

 真偽はともあれ、『オウム神仙の会』に改名したオウムが、『竹内文書』にあるヒヒロイカネを霊的パワーを昂進する小道具として、信者獲得のツールにしていたのは事実である。その後の『ムー』『トワイライトゾーン』誌上にはヒヒイロカネのプレゼント応募方法が記され、別のページにはオウムの女性信者たちが住所氏名を記した『ペンフレンド募集』欄まである。

 宗教オタクの青年達があらぬ妄想を膨らませ、教団に電話をかけていく姿が目に浮かぶような紙面づくりである。そのころのオウムのPR本を見るとレオタード姿の二人の美人幹部(石井久子、飯田ユリコ)が、大股開きでヨーガのポーズを取っている。さぞや、ニキビ面のオタッキーどもを勧誘する強力な武器になったにちがいないと推察するのである。

 「オウム神仙の会」が始まった頃、麻原は、「麻原彰晃の登場は、大衆から政治家までとりこにした“政治結社”のリーダーであり不敬罪・治安維持法違反で逮捕された出口王仁三郎によって予言されていた」と語っている。また一連のオウム騒動のさなかにも教団のミニコミ紙は「大本教の弾圧に類似するものだ」と言い続けていた。

 その予言されていたとする根拠を出口王仁三郎が口述筆記させたと言われる『霊界物語』を引き、「松の世を顕現するために、ここにしんちゆうをたて・・・・」という一句を以て、自分の本名松本を持ち出し「松本を姓とする救世主によって新たな理想社会が建設される」と解釈、強弁するのだが、次には「仏教、ヨガの修行に取り込むこと約八年、ヒマラヤにて最終解脱を果たす」として、名称をオウム真理教に変更する。これはチベット密教の指導者ダライ・ラマに面識を得たことによる。

このダライ・ラマ十四世との結びつきが教祖としての麻原彰晃のカリスマの源となった。

一九八九年、宗教法人「オウム真理教」認証。当時はあちこちで宗教を巡るトラブルが頻発し、法人の認証が容易でない時代であったが、オウムは法律を楯にとった。一九九〇年二月、オウム真理教は候補者二十五人の信者を立て、衆院選挙に打って出るが全員落選。これが「被害者意識の裏にある攻撃性をより加速したターニングポイント」と指摘する人は多い。

 一九九五年の年明け早々。私は飛騨高山から公安当局に召喚された一人の老人とあった。

 以下はその面談を元に、私がスポーツ新聞紙上に書いた記事である。

             *
 強制捜査に揺れるオウム真理教が岐阜県山中にある百二十万坪(約四千万平方メートル)の土地を購入しようとしていた事実が発覚した。場所は飛騨高山の山中。岐阜の小京都といわれる高山市街地から車で約四十分、古代の巨石文化や“ビラミッド”の存在がいわれるミステリアスな深山でもある。

 昨年九月、同教団に「熊本県波野村に残存している“隠れオウム”の移転先を捜している」と持ちかけられた関係者等の証言によって明らかになった。

 売買話は買い手の教団側が買い付け証明書を発行した後も、手付金を含む一切の金銭を支払わないことなどからこじれ、最近まで続いていた。しかし、同教団を巡るサリン事件などの報道で「オウムの反社会的な行動に不安感を募らせた」地権者等の総意によって破談となった。

 関係者によると、同教団は、真言宗系の宗教法人を名乗って接近。ある時期から「オウムの遷都計画」のための土地購入であることを明らかにした。当初は十万坪からスタート、四十万坪、百二十万坪とエスカレートしていった。

「山を案内していると、丹念な水質検査をくり返していた。近くに鉱山のある場所で川の水にウランが含有されていると言い出したころから、目の色を変え、ぜひここが必要だと言い出して面積が拡大していった」と地元関係者は証言する。

 同地区付近には養老年間から銀、銅、亜鉛などを産出している鉱山がある。これまでウラン鉱を産出した記録はないが、オウム側は「ウラン鉱脈を発見した」と言い、交渉に当たった同教団の一人が「我々はあらゆる兵器で攻撃を受けている。(防御するために)我々もさまざまな波状攻撃を研究し、XYZ計画というものがある。Xがサリンによる攻撃、Yが細菌攻撃、Zが世界を全て焼き尽くす核による攻撃である」などと不気味な発言をしたことから不安になった地元関係者が、知り合いの警察関係者などに照会。「麻原尊師の親衛隊」を自称するその男が、広域暴力団に所属していたことがわかったという。

 土地購入の交渉に当たった教団側の人物は二名。件の男の上司と見られる口数の少ないもう一人の人物は、行方がわからない同教団の早川紀代秀総務部長であった。

 現在教団の組織も次第に明らかになってきたが、“シークレットワーク”に当たっているという「裏部隊」と呼ばれる謎のグループの全容は把握されていない。

 土地購入に来たオウム例の一人は最近になって「ロシア製の銃器を輸入する」などとも語っている。
          *

 この話は今年死刑判決を受けた早川紀代秀といままた飛騨の地を拠点に活動を始めている中田清秀が、地下鉄サリン事件発生の一年前に飛騨高山を訪ねオウムの拠点を移そうとしていた計画を記事にしたものである。

 このとき早川と一緒にいた元暴力団組長の男は中田清秀。サリン事件のさなか、テレビ出演直後逮捕にされた禿頭人といえば思い出す人もいるだろう。

 土地の売買話はやがて早川、中田コンビが「真言宗系のお寺」といっていた宗教法人が、オウムではないかと疑いだした頃から、ギクシヤクし始めた。合計四カ所、総面積一千万坪以上に及ぶその購入計画を聞いて、仰天したのだ。

「地権者との交渉接待費はもとより、手付金一切支払わず、話だけが大きいのはなぜだ?」

 詰問する土地ブローカーの老人に中田は居直って真言宗系の寺はダミーであること、三年がかりの”オウム王国”の遷都計画であることを明かした。老人は頭を抱えた。すでに当初の購入予定地となっていた一二〇万坪の地権者たちには話をしてそのうちの四十万坪について快諾してもらっていたからだ。

「その頃はオウムという団体が、これほどの無法者とはわからなかったし、若い者が故郷を捨て、雪に閉ざされた山の中で白河郷の合掌造のためのススキを作って暮らしているだけのジイさんバアさんが、ヘンな宗教団体から金をもらってもバチは当たるまいと思った。オレも金は欲しかったしな」

 老人は買い手がオウムであることは自分一人の胸に納め売買話を進めようと決めた。中田はすっかり老人を頼り、あちこちと山林を案内させながら、オウムの壮大な計画について語ったという。

 留意してほしいのは、中田がこうした荒唐無稽とも思える教団内部の話をしたのが、サリン事件の前年のことであるということだ。

 そして、記事中では「古代の巨石文化や”ビラミッド“の存在がいわれるミステリアスな深山」とぼかしているが、購入予定の土地のうち「尊師が居住する奥の宮」は、再三登場する「竹内文書」の「位山」付近に置くといっていることである。

 つまり彼らはサリン事件前年から、教団の本拠地を上九一色付から、『竹内文書』に登場する飛騨高山の奥山に移転しょうとしていたのである。そして鉱物を集積し水質検査をしていたことなどから連想されるのは「ヒヒロロイカネ」の探索であり、かつそれがウラン鉱に結びついていった道筋・・・・

 現在中田清秀は彼の元に集合した元オウム信者たちと「教団の一部の人がやったことは悪いが、尊師の教えは正しい」とする立場のいわゆるオウム真理教「修整型」と呼ばれる団体を構成し、飛騨高山地方のあちこちに住居や目的の定かでない山林を次々購入、地元住民たちの警戒感を強めさせている。

 昨年中、私は中田に面談した。印象深く覚えているのは、離婚した彼の妻(現在は同居)が次々に口走る古史古伝であり、はたまたビラミッド、UFOまでもちだす和洋折衷オカルト雑学の”博識”ぶりであった。

《神話ともおとぎ話ともなんともつかない文字通りに荒唐無稽な物語である。こんな有力な証拠があるのに博士たちに精神鑑定を頼むなんて裁判所も警察もどうかしている》

 これはオウム事件についての文章ではない。

 昭和十年に起きた「第二次大本教事件」について、ジャーナリストの先達大宅壮一が「日本評論」という雑誌に書いた「大本教弾圧是非」という論文だが、これを今回のオウム事件批判として発表しても、誰も怪しむものはいないだろう。

 日本人は半世紀を過ぎても同じことを続けている子供のような国民とも言えるし、宗教はいつも「荒麿無稽な物語」によって支え続けられているといえるのかもしれない。しかし、私も含め、通常の社会生活から拒まれていると感じる者、あるいは世に受け入れられていないと嘆くもの、孤独の極みにある者――すなわち宗教を必要とする者にとって、ある種の物語は必要不可欠であると言い換えることもできる。

(後略)



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2003年11月25日(火) 038 pseudoscience

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別冊歴史読本 特別増刊14《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ2 『「古史古伝」論争』新人物往来社 1993.8.12発行

資料発掘 『天津教古文書の批判』(狩野亨吉著)
かのう・こうきち(1865-1942)哲学・思想家。安藤昌益を発見、紹介。京都帝大文科大学学長。

〔解説〕「天津教古文書の批判」をめぐって (P362-364)
鈴木 正:名古屋経済大学副学長・日本思想史

 大本救や天理教への宗教弾庄につづいて竹内巨麿らが昭和十一年二月十三日に検挙されたのは、いわゆる第二次天津教事件である。ここに再録された狩野亨吉の「天津教古文書の批判」は、この年の『思想』六月号に掲載されたものである。
 まず、論文執筆の背景からのべよう。緒言にみられるように狩野が天津教の存在を知ったのは、某海軍大将の紹介で来訪した二人の信者から宝物の写真を贈られ、茨城県磯原にある「皇祖皇太神宮」への参詣を勧められた昭和三年五月末のことである。これは狩野が「安藤昌益」を発表した直後の時期にあたる。このときすでに狩野は写真を一見して、その原物の欺瞞性を感知している。多くの名士を誘って百万円の寄付金を集め、神奈川県柏見に宝物の奉安殿を建設しようとする動きを探索中であった官憲は、別の詐欺事件で検挙された岸一大の『古事記真釈』のなかに天津教の宝物(古文書をふくむ)の一部が収録されていたことから神代文字の研究家・前田惇を喚問したことに端を発したのが昭和五年の第一次天津教事件である。このとき竹内は十二月八日に所管の松原署にひっぱられ、翌朝釈放されている。当時、このことを特にスキャンダラスに扱った『東京日々新聞』の多量の関係記事が現代霊学研究会編『神代秘史資料集成』(一九八四年)に収められている。
 このあとも彼らの宣伝活動はつづけられ、古文書に記されている日本史の途方もないデタラメな書きかえが企画されていた。そうした宣伝拡大のなかで、この論文は執筆された。つぎにその前後の状況にふれておこう。
 昭和十年八月に『日本医事新報』から天津教古文書の歴史的価値の調査依頼があった。その解答の一部は、神代古文書に関する諸文献の出版と所在を闘う「北海道エイチ生」への答の形で、島田筑波の署名がある「天津教の古文書は所謂インチキもの」が同紙九月二十一日号に掲(の)っている。
 最初に書いたように第二次天津教事件で検挙された竹内ら五名は昭和十一年二月十八日に水戸地方裁判所検事局に送られ、主謀者の竹内は「不敬、文書偽造行使、詐欺罪」で公判にかけられた。のちに東京控訴院第五法廷にもちこまれ、その第四回公判(昭和十七年十二月十四日)では、狩野は橋本進吉東大教授とともに証言に立ち、本論文の要旨六項目について意見をのべ、鑑定意見を『思想』に発表したのは「その蒙を啓くため」だとのべている。その点がとくに重要だと私はおもっている。
 最後に論文の価値についてのべよう。官憲は、この事件を主として不敬罪で訴追しているので宗教弾庄の一環として回顧されることに一面の真理はある。佐治芳彦の『謎の神代文字』(一九七九年)は、これを極端化して狩野論文を弾圧への協力面に力点をおいて否定的に評価しているが、それは官憲と一体化させた独断による読みそこねというほかない。
 狩野は天津教をほかの類似宗教にくらべてあくどさが少ないとしながらも、「古文書を証拠として神代百億万年の歴史を展開し以て皇室の規模を壮厳するに勤める」点では批判を許さないかたくなな態度を妄想と断じ、そこに批判を集中している。それぞれの文書の文体、書体、内容(時間、地理、人物、事件)について厳正に吟味したうえで、近年の偽作と断定している。その論証・実証の過程については、直接、本文を読んでほしい。ヘタな要約で読者の興をそぐようなことはしたくない。
 それにしても二、三の見事な例はあげておきたい。まず平群真鳥(ヘグリノマトリ)真筆を神代文字の記録の翻訳であると称する天津教の主張をくつがえし、実は神代文字之巻は平群真鳥の記録の翻訳であることを見破った箇所、それに神代文字解読の目がさめるような鮮やかなプロセスである。私は第五と第六で扱われた二つの文書批判を一番おもしろく読んだ。

 古史古伝を研究するなら『上記』(ウエツフミ)ぐらい読むのが当然の手続だと評するむきもあるが、狩野は渡辺大濤から神代文字の字引がある、と聞き、「自分の寡聞を恥じる」と素直に認めている。この卒直な態度こそ真の学者の初心ではないか。七十を越えた老学者が奇怪な神代文字と格闘し、拾いだした異なる形をした四十四の記号を五十音ではないかと解いてゆく白熱が伝わってくる。この推理の過程を再現した文章が後世にのこったことを、私はむしろよろこんでいる。
 また人類の棟梁である天皇という天津教の思想に用いられた「五色人」の由来の種あかしや「宝骨像神体」(天皇の遺体を風葬にし骨を粉にして練ってつくった人形)に思想の変態性と頽廃性をみる観察など、狩野の見解は、そのように判断するのが一番自然だという相対的で常識的の思想に立脚している。彼の批判はすべて証拠の真贋にかかわるのみで、鑑定は一種の知的ゲーム(見破れなかったら本物として通用するのを防ぐための競技)である。狩野にとって不敬は主要な関心でなく、それは官憲の次元のことである。知のゲーム感覚にこそ、この論文の真価をおくべきであろう。

【解説】
 「天津教古文書の批判」は岩波書店の『思想』昭和11年6月号に掲載され、戦後に単行本として岩波書店より刊行された『狩野亨吉遺文集』に掲載されている。現在は、Web公開されている。
http://redshift.hp.infoseek.co.jp/scilib.html
 「S教M光」誌平成15年8月号73-75頁に、京都大学文学部で日本史を専攻する学生が、「『歴史迷信』を打破するために日本史学会で影響力の大きい京都大学受験を決意したのです」などと豪語していた。橋本進吉氏の『国語学概論』や、狩野氏の『天津教古文書の批判』といった、岩波書店発行の学術書を打破できるものならしてみたまえ。岩波の書籍は全国各地の図書館に収蔵されており、最近ではハンセン氏病患者に対する差別的表現があったとして、問題書籍を回収するという良識ある態度をとった。古史古伝専門の八幡書店や日本文芸社とは、およそ次元が異なる。「御神意成就に役立ち得る歴史研究に邁進し、また、研究者のお導きに精進させていただきたい」とこの学生は述べているが、馬鹿にされるだけである。



「S教M光」誌平成十五年五月号 10-33頁
平成十五年四月度月始祭ご教示

(P21-22)
 更に、絵文字とは違って類似の古代の紋様的な文字形体、或は明らかに文字であろうとされる岩刻文字、いわゆるペトログリフは一九七〇年代に入って日本をはじめ欧米諸国において発見されるようになりました。ペトログリフの研究は緒についたばかりでありまして、今後の学際的な調査が待たれております。
 この絵画文字とは次元の異なるものに「神代文字」があります。
日本では、漢字伝来以前に既に存在していた文字であります。「その古さは想像を絶するものである」と示されております。
『釈日本紀』には、「和字の起源は神代にあり」と記されております。ヒフミ文字やアヒル文字、更には『上記』序文の五十猛命の五十音図(字)、象形文字などがあります。神代文字は大変種類が多いのです。今日のカタカナの本になっておるものであります。
図2 アヒル文字

(P26)
 中国で最も古い文字は、亀甲や獣骨などに刻まれました。それを「甲骨文字」と言います。今より三千五百年前のものが中国で発見されております。

P184-191 「ハングルが呼び起こした神代文字の記憶」――十五世紀のシステム文字・ハングルが、はるか昔に埋もれた聖なる文字をよみがえらせた……
  中島 渉 (作家)




<大いなる文字>
 日本では世阿弥元清が81歳の生涯を閉じ、アルバニアではスカンデルベクの指導下でトルコに対する反乱が勃発して独立政府が樹立された1443年、朝鮮半島でひとつの文字が“創案”され、その言語システムが“編纂”された。
 すなわち李氏朝鮮第四代の王・世宗(セヂヨン)による国字――<訓民正音>(フンミンジョングム)として1446年に公布―-がそれである。世宗という言う強大な権力によって制定され朝鮮国字は、子音字母が17(現在は14)、母音字母が11(現在は10)からなる音素文字だ。
 当時までに朝鮮半島は大陸の豊かなさまざまな文化を享受していた。そのなかには同じく音素文字であるパスパ文字やモンゴル文字もあった。訓民正音はパスパ文字やモンゴル文字の原理にならって考案されたと考えられる。
 進化した――いわば文字の極北にするとの声もある朝鮮国字だが、もっとも、制定された李氏朝鮮時代は正字である漢字に対する民間文字――<諺文 (オンムン) >であり、あくまでも従の文字であった。
 それが主の文字となるのは、1894年の甲午改革によって公用文にも採用されるようになってからのことだ。この改革は、じつは日本という他国からの外圧による、甲午農民戦争を契機に出兵した日本は、日清開戦の口実として朝鮮近代化に者手、さまざまな改革法令を発令した。
 日本資本主義進出の道を広げた甲午改革によって訓民正音が主の文字となったのは、なんとも皮肉な現実だ。この頃になると訓民正音は<国文>と呼ばれるようになり、さらに日本の完全統治下に入ってからは<ハングル>という名称が与えられた。
 ハングルとは、<大>を意味する古語<ハン>+<文字>を意味する<クル>――であり、すなわち<大いなる文字>という
 この大いなる文字ハングルが、日本にじつに不思議な形でもって伝えられている。<阿比留(アヒル)文字>――神代文字の代表的なものとして知られる異端の文字がそれだ。東京の日枝(ひえ)神社にも、阿比留文字で書かれた神号額が掲げられていた。
 ハングルと神代文字……その奇妙な関係はいったい何を意味し、その背後には何が隠れているのだろうか。

<謎の阿比留文字>
 阿比留文字は阿比留草文字とともに、対馬のト部・阿比留(あびる)家において発見された。江戸後期の国学者である平田篤胤(あつたね)は阿比留文字を神代文字の楷書体、阿比留草文字をその草書体としている。また篤胤によれば楷書体である阿比留文字は肥人之字(肥人音)であり、日本固有の文字である。
 篤胤は文政二年(1819)に著わした『古史徽開題記』の春之巻のなかに、「神代文字の論」なる一節を設けて、幻の文字をめぐる特異な論理を展開する。
 篤胤は述べる――『古語拾遺』に「上古之世未有文字」とあるが、『日本紀私記』や『釈日本紀』に散見される異体文字をどう理解したらよいのか、それらこそ神代文字ではないのか。空海の製(つく)った以呂波(いろは)文字にしても神代文字の書法を用いたのではないか……。
 本居宣長と並ぶ国学者であった篤胤は、同時に鬼神学・暦学・易学・医学・数学にも通暁する博学者であった。広範膨大な知識を駆使して、彼は歴史の闇の彼方――神代文字の深層へと迫っていく。
  『古史徽開題記』において日本に“漢字以前の文字”が存在する可能性を示唆した篤胤は、その後およそ五年を費やして古文字と伝えられる文字群をフィールドワークしてゆく。彼のフィールドワークはそして、文政七年(1824)に著わされた『神字日文伝(かむなひふみのつたえ)』に結実する。
  『神字日文伝』に「日文四十七音(ひふみよそちまりななこえ)」として紹介されたのか阿比留文字であった。この阿比留文字はハングルに、阿比留草文字は梵字に似ている。かつて吾郷渚彦氏はこの二種類の異体文字について、篤胤の指摘について、次のように解説された。
「篤胤は、アヒルモジを肥人之字(または肥人書)、アヒルクサモジを薩人書と記している。彼は生存中、豊国文字を知ることがなかったので、『神字日文伝』において、この両種神字こそ、わが国固有の文字として、大いに強調し、その存在を力説した。
 けれども篤胤が、アヒルクサモジをアヒルモジの草書体と見なしたことは、彼の瑕瑾として訂(ただ)されなければならぬ。
 アヒルモジは諺文(ハングル)系にして、明らかに北方大陸的陰影をもち、アヒルクサモジはヒリピン古字に近く、南方諸島的色彩に富んでおり、まったく別個な成りたちの古字なのである」(『地球ロマン』誌復刊5号/「神字と言霊――コトタマの影を追って」より)
 阿比留草文字がフィリピン古字とどう似ているのか確認するほどの知識は持ち合わせていないが、篤胤か楷書体とした阿此留文字かハングルに酷似していることは解る。ハングルと阿比留文字とのあいだには、どうやら深い闇が横たわっているようだ。
 また吾郷氏が指摘された豊国文字は山の民サンカか伝承した文字で、『上記(ウエツフミ)』に登場することで知られる。豊国文字――これまたスリリングな歴史の解読作業をもたらしてくれる文字なのだが、それに関してはいずれの機会に委ねたい。

<神代文字否定輪>
 地図を広げてみると、阿比留文字を伝える対馬は、九州と韓国を結ぶちょうど中間地点に位置していることが判る。そのような場所にハングルに似た文字があるということは、単純に考えても、少なくとも対馬と韓国とのあいだに交流の歴史が存在したことを物語っているといえよう。
 事実、対馬は古代から、大陸およぴ朝鮮半島と日本との交通の要衝であり、江戸時代には朝鮮との交流が許可された唯一の地域だった。対馬に伝わる風俗・風習は、日本文化の基層を考えるうえで重要な鍵となるものが多い。
 ところで1940年、韓国・安東の旧家で一綴りの木版本が発見された。そしてそれこそが『訓民正音』の唯一の伝本であった。『訓民正音』木版本の発見によって、それまで伝説に包まれていたハングル成立過程の一端が明らかになっていく。
 ――母音は天地人を象(かたど)り、子音は口腔内の舌の形態を象っている……ハングルはきわめて合理的な文字体系であることが証明されていった。
 それまでも上代特殊仮名遣いを解明した国語学者・橋本進吉らによって、上代音韻論の立場から、阿比留文字=漢字以前の和古学とする神代文字論は否定されてきた。さらに木版本発見によって否定論は拡大・加速する。つまり「阿比留文字はハングルの偽作である」というわけだ。しかし、ほんとうに阿比留文字はハングルの偽作なのだろうか。
 木版本発見は神代文字否定論者を色めき立たせた。だが、阿比留文字をもって「漢字以前に日本固有の文字が存在した」とする篤胤の主張が崩れたとはいえ、阿比留文字そのものの存在までが根底から否定されたわけではない。阿比留文字――それははたして何なのか。
 たとえば、こうは考えられないだろうか。
 ――北部九州は速く古代より朝鮮半島と交流を密に展開した地域だった。その中継地点である対馬も、当然のことながら半島からの風を正面から受けた。というよりもむしろ、北部九州―対馬―朝鮮半島は共通の文化圏内にあったのだ。
 だとするならば、ハングルに似た文字が対馬に伝えられているのは、きわめて自然ななりゆきというべきであろう。問題はハングルに酷似した阿比留文字の解読方法にあるのではないか。
 否定論者は否定の根拠を「阿比留文字が五十音で構成されている」ことに求める。そしてそれは、篤胤や他の神代文字論者も主張するところだ。ほんとうに阿比留文字は五十音でもって構成されているのだろうか。もしも五十音でなく、もっと多様な音をも含む文字だとすると、「五十音だから上代の文字ではありえない」との主張は意味をなさなくなってしまう。
 また、こんなふうに考えを進めることはできないだろうか。 ――言霊(コトタマ)への信仰とともにわが祖(おや)たちは、文字に対しても神秘的な呪力を感じていた。聖なる空間・場所にまつわる護符が必ずや奇怪な文字によっていることからも、それは了解されよう。
 文字に対する信仰。ハングルのごとくシステマティックな文字が出現したとすれば、彼らのあいだにやはり素朴な信仰心が発生しても不自然なことではあるまい。
 しかし……かりにそうだったとしても、ハングルの成立時期と阿比留文字の成立時期をめぐる問題は解決しない。超古代なのか、それとも十五世紀以降のことなのか。

(中略)
 すなわちシャーマニズムが権力=政治システムと化したとき、はたして何が現われるのか。
 言語の寡占化が図られるのである。
 凄まじい言語戦争、文字戦争が繰り広げられるのである。権力者たちはきまって、そのときに最も呪カの強い言葉や文字を集めて、それを法文に組織化することを企図する。古代においてはとりわけ、言語がそのまま政治であり経済でもあるような状況が現出していた。
 歴史はつねに勝利者の記録であり、敗北者の記録は残ることがない。ならば『古事記』や『日本書紀』という勝利者の記録ではなくて、彼らと激しく言語戦争を展開し敗れた者たちの記録は残らなかったのだろうか。いや、神代文字を伝える古史古伝と呼ばれる一群の古文書こそ、敗北看たちによって必死に書き残された記録だったのではあるまいか。
『上記(ウエツフミ)』『富士宮下文書(フジミヤシタモンジョ)』『九鬼文書』『秀真実伝(ホツマツタエ)』『先代旧事大成経(センダイクジタイセイキョウ)」『但馬故事記(タジマコジキ)』『東日流外三郡誌(ツガルソトサングンシ)』……などはみな敗北者の側の歴史記録であるがゆえに、そこに“もうひとつの言語系”がひそかに綴られたのではあるまいか。
 言葉や文字はみな呪力を秘めている。いつの日かふたたぴ闘いを挑むとき、その呪力が招来されることだろう。
 さて、話をハングルと阿比留文字に戻そう。伊勢神宮の神官だった落合直澄の著した『日本古代文字考』は一種の神代文字事典で、それによれば諺文は日本の神代文字=阿比留文字が朝鮮半島に渡って成立したものだと主張する。否定論者の根拠を逆転してみせたわけだ。
 しかし……やはり、それはありえないだろう。いくらハングルと阿比留文字が共通のプロト・ハングル文化園から派生した文字だとしても。
 おそらく阿比留文字はハングルを元にした“創作”なのだろう。ハングルがかつてない呪カを秘めた文字だからこそ、阿比留文字という神代文字が誕生したのだ。ハングルの神秘的力に直面したとき、かつての遠いプロト・ハングルの記憶が蘇り、そして阿比留文字が誕生したのだ。
 では、東京の日枝神社に掲げられた阿比留文字による神号額については、どう理解したらよいのだろうか。この神号額は平田派の学者・丸山作楽の書である。その点をふまえるならば、次のような推理ができよう。
 ――明治維新は神仏分離を推し進め、国家神道を強力なものとした。だか、分離によってそれまで神社においても使われていた梵字の駆逐を意味した。梵字という呪力を秘めた文字を使用できなくなったために、その代用としてかつて篤胤が発見した阿比留文字が使用されたのだ。
 だとしても、なぜ日枝神社だったのか。
 またしてもハングルと阿比留文字をめぐって、プロト・ハングル文化圏をめぐって、大きな謎が立ちはだかる。




2003年11月24日(月) 039 pseudoscience

『日本国語大辞典』小学館

ひ−ふみ【日文】〔名〕
 漢字の渡来前、日本で使用したと称せられる一種の音節文字。「いろは」に当たる四十七字で、古代の遺物ではなく、近世、ハングルを模してつくられたとされる。
* 神字日文伝(1819)上「右の日文四十七字は、行文と有れど真字と見ゆ。此を伝へたる阿比留氏は対馬国のト部と有れば」
〔諸言説〕ヒフミヨイムで始まる文字であるところから〔大言海〕。

あひる−もじ【阿比留文字】〔名〕
 古代、漢字の渡来前にすでに存在していたという神代文字の一つ。日文(ひふみ)と呼ばれる文字の異称。対馬国ト部阿比留氏に伝わったとされるところからいう。諺文(おんもん)に類似する。平田篤胤によって積極的に主張された。

じんだい−もじ【神代文字】〔名〕
 わが国で、漢字渡来以前に用いられたと称される文字。日文(ひふみ)、天名地鎮(あないち)、阿比留(あひる)文字などの種類がある。これらは古代の確実な遺例がなく、かつ、いろはがなの体系を出ないものであって、現今ではすべて後代の仮託のものとする。
 その存在を認める平田篤胤の「神字日文伝(しんじひふみでん)」、それを駁する伴信友の「仮字本末」その他の論がある。神字。神代字。
*国語のため(1895)<上田万年>言語学者としての新井白石「初めに支那文字の沿革を説き、次に日本に神代文字のあったことを説き、仮名といふものは右の二つより発達してきたといふことを示し」
*普請中(1910)<森鴎外>「室の入口を挟んで、聯のやうな物の掛けてあるのを見れば、某大教上の書いた神代文字といふものである」

『広辞苑』 第五版
ひ‐ふみ【日文】
神代文字と称せられるものの一。平田篤胤が「神字日文伝(かんなひふみのつたえ)」に挙げているもので、対馬国の卜部阿比留氏の秘伝というヒフミヨイムナヤコトモチロなどの47音をあらわす表音文字。実は朝鮮のハングルに模して偽作したもの。

じんだい‐もじ【神代文字】
わが国固有の、神代から伝えられたという文字。実は、亀卜の灼兆(しやくちよう)や朝鮮のハングルに擬した偽作。日文(ひふみ)・天名地鎮(あないち)・阿比留文字などの種類がある。江戸時代、その存否について平田篤胤の「神字日文伝(かむなひふみのつたえ)」(存在説)や伴信友の「仮字本末(かなのもとすえ)」(否定説)などの論争があった。神字。

あないち【天名地鎮】
いわゆる神代文字(じんだいもじ)の一。鶴峯戊申(しげのぶ)がその存在を主張したもので、ヒフミヨイムの順に排列した47の表音文字と1、2、3…などの数字とから成る。

じょうだい‐とくしゅかなづかい【上代特殊仮名遣】じやう・・づかひ
奈良時代に、エキケコソトノヒヘミメヨロおよびその濁音、合計20の音節(古事記にはモの仮名も)を2類に書き分けた仮名遣。エはア行・ヤ行の別、他は母音に2種の別があった。エ以外について、甲類・乙類と名づける。江戸後期、本居宣長の指摘を受けて石塚竜麿が実態を明らかにし、明治末期に橋本進吉が別個に研究、竜麿の研究を世に紹介し、上代語研究に一期を画した。

【解説】 平田篤胤は対馬の阿比留家において発見された神代文字を報告した。イロハと同じ四十七文字からなり、配列は「ヒフミヨイム・・・・・・」であった。最初の三文字をとって日文(ヒフミ)と称した。楷書体と草書体の二種があったため、楷書体を阿比留(アヒル)文字、草書体を阿比留草(アヒルクサ)文字とした。
 岡D晃Y氏は「ヒフミ文字やアヒル文字・・・・」とあたかも別の文字のように語っているが、アヒル文字は日文(ヒフミ)に含まれているはず。そしてその日文(ヒフミ)も『広辞苑』において”偽作“と決めつけられている。晃Y氏は『広辞苑』を読んだことがあるのだろうか。

「國語学概論」橋本進吉著 岩波書店1946年初版
原文http://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/hasi/hasi8.htm#kigen
所蔵http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN00647153

【文字の種類】P104-105 (要旨)
 意字(表意文字)と音字(表音文字)とがある。音字は、さらに二つにわかれる。一つの文字が音節を表すのを『音節文字』とし、一つの文字が単音を表すのを『単音文字』とする。日本語の仮名や梵字は音節文字であり、ローマ字は単音文字である。ハングルは単音文字であるが、これを組み立てて音節文字のようにして用いている。
【文字の起源發達】P105-106(原文のママ)
 文字は、事物そのものを示す爲の記號又は圖畫から發生したものである。まだ文字の無い時にも、或物の形を寫してそのものを示し、又或符號を書いて或事を示した。その形その符號は、その事物自身を直接に示すのであって、その事物を表はす言語とは關係が無かったのであるが、その形その符號がその事物を示す處から、同じ事物をさし示す言語との間に關係が生じて、その形や符號が、その事物のみならず、これを表はす言語をも示すやうになって、はじめて文字となったのである(例へば、目そのものを表はした形が、「メ」といふ語を表はすやうになって、はじめて「目」といふ文字になった)。それ故、最初に出來た文字は、事物の觀念を表はす文字即ち意字である。意字は無論音をも表はすが、意字がその意義にかゝはらず、唯言語の音を表はす爲にのみ用ゐられるやうになって、はじめて音字が出來るのであるが、意字は意義を有する言語の單位を表はすもので、普通の場合單語を代表するものであり、單語の音の形は音節から成立ってゐるのが常であるから、意字から變じてまづ出來た音字は音節文字であり、その音節文字が更に變じて單音文字が出來るのが、文字發達の一般原則である。
【日本に於ける文字の種類】P106-108(原文のママ)
 我國には古く文字が無かった。漢字が傳はつて、はじめて文字を學び、遂にこれで日本語をも寫したが、後には漢字から假名が出來て、以後漢字と假名とが永く用ゐられた。又印度で用ゐられた梵字が僧侶の手で支那から傳はつたが、これは梵語を書く爲に用ゐられ、日本語としては、間々人名を之で記すものがあつた位である。又ローマ字が西洋から傳はり、之で日本語を書く事もあるが、特殊の場合に限られてゐる。かやうに、我國に用ゐられた文字は、すべて外國の文字か、又はそれから發生したものである。
 しかるに、これ等の外に日本固有の文字があつたといふ説がある。所謂誕緤源がこれである。これは江戸時代の一部の國學者弾参箸隆屬望Г悗蕕譴燭發里如日文(ヒフミ)、秀眞(ホツマ)、天名地鎭(アナイチ)其他種々のものがあるが、これらは誕紊らあつたものとは到底信ずることの出來ないものである。平田篤胤は短日文傳を著して、日文だけを信ずべきものとし、他は疑はしいとした。然るに、日文は對馬の阿比留家に傳はつたといふもので、文字の構成を見ると、單音文字を組み立てて音節をあらはすもので、その形は朝鮮の諺文に酷似してゐる。二三の例を示せば、
(図は省略)
これは明かに諺文に基づいて作つたもので、諺文は朝鮮の世宗の時はじめて作られたものであるから、日文はそれ以後のものである事疑無い。篤胤は、諺文との類似を認めながら、却つて、日文が古く朝鮮に傳はつて殘つてゐたのに基づいて諺文を作つたものとしてゐるが、さうで無い事は、諺文創定の歴史や、それまでの朝鮮の文字の歴史を見れば明かである。猶、日文は伊呂波と同じく四十七字であつて、濁音を除いて六十種の音節を區別した奈良朝の言語は勿論の事、四十八種の音節を區別した平安朝初期の言語を寫すにも不十分である事、もし日文が實際世に行はれたものとすれば、これで國語を書いたものが殘存すべき筈であるのに、さやうなものはなく、あらゆる違つた文字だけを集めた字母表といふべきもののみが存する事、その字母表の順序も「ヒフミヨイムナヤコトモチロラネシキルユヰツワヌソヲタハクメカウオエニサリヘテノマスアセヱホレケ」となつて、かやうな順序は古書にも所見なく、全く意味をなさぬ事、又、一般文字史上單音文字は最發達した段階に屬するものであるから、日文の如き單音文字は我國にはじめて出來た原始的の文字とは考へ難い事などの諸點から觀れば、日文は決して古く我國に出來て行はれたものではなく、ずつと後世に誰かが作つたものと考へられる。日文以外の諸種の誕緤源は、更に一層疑はしいものである。さすれば、我國には、固有の文字は無かつたのであつて、漢字が早く渡來した爲、之を用ゐて日本語をも寫したものとおもはれる。

【解説】 橋本進吉氏の「國語学概論」は、当初1932年「岩波講座日本文學」として出版され、1946年に「橋本進吉博士著作集」として再刊された。国語国文学における歴史的名著であり、現在、数多くの図書館に収蔵されている。岡D晃Y氏は國學院大學で神道考古学を専攻したのなら、この名著の存在を当然知っているはずである。
<橋本氏の主張>
1) 文字発達の一般原則は、表意文字が最初にでき、次に音節文字ができ、最後に単音文字ができる。日文(ヒフミ)はハングルに似て、単音文字を組み立てて音節を表現しており、わが国に最初にできた原始的文字とは考え難い。
2) 篤胤は日文が古く朝鮮に伝わってハングルができたと称しているが、歴史上は考えられない。
3) 日文はイロハと同じ47字である。奈良朝期は60種、平安朝初期は48種の音節を区別していたはず。
4) 日文を用いて書いた文献がなく、字母表のみが残っている。
5) 結論として、日文はずっと後世に誰かが作ったものであろう。漢字が伝来するまで、我国に固有の文字は無かった。

 漢字が伝来するまでに我国に固有の文字が存在したなら、遺跡・古墳から出土した土器・副葬品・瓦・石碑などに文字が書かれたものが出てくるはずだ。岡D晃Y氏は、中国で亀甲や獣骨などに刻まれたのが発見されていると、はっきり述べている。『神代文字』なるものは考古学上証明されていない。また正倉院に数多くの古文書が保存されているが、神代文字で書かれたものは一つもない。もし神代文字の正当性を主張するなら、その学問的根拠を博物館に展示すべきであろう。
 国語・日本史の教科書や、広辞苑にも、「漢字渡来以前には我国に固有の文字は存在せず」と書かれている。S教M光推奨校の立S大学S南高校では、国語や日本史の授業でどう教えているのだろう。
 橋本氏は『上代特殊仮名遣い』の研究を大成し、奈良朝期には八母音であることをつきとめた。神代文字は五母音のため、合致しない。もっとも最近、金沢大・松本克己教授と奈良女子大・大森重敏教授により「母音の交代現象」という新しい説が出た。「古代の日本で使われていた日本語はあくまでも五母音であったが渡来人の影響で八母音になった。」という説である。「漢字」を国語化する際の一時的な虚像であるというのだが、この議論はまだ決着は付いておらず、橋本氏による定説を覆すにはいたっていない。もしこれが認められれば、神代文字を否定する根拠の一つが崩れるわけだ。

『國語學書目解題』 亀田次郎
原文http://www.ne.jp/asahi/nihongo/okajima/Kameda2.htm#motosue
所蔵http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BN11062672

神字日文傳 本文二巻二冊附録一冊
 文政二年平田篤胤著。平田篤胤全集所収。本書は伴信友の「假字本末」の所説を反駁する爲に著したもので、漢字渡來以前に日本に文字のあつた事を證明し、又その文字(日文)を考證し解説したものであって、或は日文に於ける真體草體の別、或は朝鮮の諺文は日文から轉生したものである事等を述べて居る。附録には神代文字と言はれてゐるもので疑はしいもの三十餘種を掲げてゐる。この篤胤の神代文字存在説も「假字本末」出現以來學界はその非存在説に傾き、今日では非存在説を以て定説と見做すに至ったので、全く顧られなくなった。

假字本末 上下二巻附録一巻四冊
 伴信友著。嘉永三年刊行。伴信友全集所収。上巻二冊は草假名の研究で下巻は片假名。附録は神代文字の研究である。草假名の起原・沿革について漢字渡來以後我國では漢文で用を辨じてゐたが祝詞宣命等次第に漢文のみでは不都合を生じその音を借り或は訓を以て言葉を表はす様になり、扨その文字も楷書でのみ書くは煩雜なる故遂に草假名の發達を見たものと思はれる。而して弘法大師に至って初めて字體も一定して伊呂波四十七文字に整理されたのである由を述べてゐる。附録に伊呂波歌は弘法大師の作なる事、和讃・今様・巡禮歌の沿革を記して居る。下巻の片徴名の研究に於いては片假名は悉曇の音圖に準じて天平勝寶年中に吉備眞備が作ったものであらうと云って「倭片假名反切義解」の説を認めてゐる。次の附録一卷は「神字日文傳」を反駁して神代文字を否定したものである。本書は當時に於ける考證學の第一人者信友の代表的著作であり全體的に今日も猶十分尊敬に値するものである。殊に當時の熱狂的な自國尊重思想に災されずその考證的立場に於いて穏健確實な説を以って神代文字非存在説を主張した事は彼の卓見であって、この否定論に對して松浦道輔は「假名本末辨妄」を以って、篤胤は「古史本辭經」に於いて駁論を掲げてゐるが明治以後の學界は信友の否定説を定説としてゐるのを以て見ても彼の所説の如何は窺はれる。

日本古代文字考 二巻二冊
 落合直澄著。明治二十一年出版。神代文字存在論は平田篤胤以來頗る多く、殊に國學著神道家はその思想的立場から多くこれに賛成してゐた。本書も亦その類で、神字日文傳を根據とし、これにその後の諸家の研究を參酌し、自家の説を加へて篤胤の説を増訂したものであって、神代文字存在説を集大成したものである。然るにその研究は學界を首肯せしめるに足らざるのみならす、爾後學界は新研究法によって五十音或は伊呂波の研究を進めて神代文字非存在説に逹した爲この存在論を継承する學者が後を斷った。

【參考】
「日本神字文考」「假名赴起源考」その他數部落合眞澄の著にして神代文字に關する研究がある。

 私はとくに大学で国文学や国史を学んだわけではない。それでも、ネットで下調べをし、公立図書館で文献を閲覧し、このようなレポートが書けたほどである。国文科の学生のレポートぐらいのレベルには到達していると自負している。私からの問題提起に対し、大学で神道考古学を専攻した岡D晃Y氏から責任ある回答をいただきたい。自らの主張に対して裏付けのある学問的資料を、博物館に展示していただきたいものである。
 なお、国立国会図書館では明治時代の出版物を順次Web閲覧できるようにしており、『日本古代文字考』(落合直澄著)も近く閲覧可能になると思われる。



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