読書記録

2012年05月22日(火) 生涯七句であなたは達人     辻 桃子



私の 575に籠めた駄作は 俳句とか川柳というにはあまりにも拙くて、自分で勝手に『つぶや句』と表して楽しんでいる。

だから俳句本も歳時記もほとんど読んだことがない。
ただ石田波郷という俳人の物語だけは読んだ。
偶然 図書館で目にした石田波郷の物語から私は『つぶや句』を始めたのだった。

そして 今回も偶然 辻 桃子という俳人のこの本を目にして読んでみた。
その中で「多作多捨」 という言葉を知った。

 一句一句をああでもないとこねくり回すよりも、潔くてすてて 次の句を書く方に気持ちを込めるべきだ という 波多野爽波の言葉だ。

一生こつこつ作り続けて、一万句もできたら、そのうちの三句か五句がよければそれでよいのだ。十句で名人というなら、七句もあれば達人だろうが、名人や達人などという夢のようなことは考えなくていい。
日々の自分の人生をいとおしんで、その中からすくい上げたことばで、俳句を作りつづけてゆくことが大切だ。その句のなかには、あなたの人生がつまっているのだから。
と、いうのだ。
その言葉は私の胸のつかえを取り去ってくれたようだ。
私のその時、その時の思いを素直に言葉にすればいいんだ。
日々の気散じはたくさんあるけれど、娘のことで寂しくてあがきながら日を送っている私を慰めてくれる言葉のように思えた。















2012年05月11日(金) 海も暮れきる            吉村 昭





放浪の俳人 尾崎放哉が死を迎えるまでを過した、小豆島の8ヶ月が綴られている。

いよいよ身を置く場所が無くなって、師の荻原井泉水に終の棲みかを捜してもらい、島の素封家で師の俳句の弟子でもある井上一二のもとに行く。
一二の返事も聞かぬうちから小豆島へ旅立つ、そんな場面からこの物語は始まっていた。

運よく『南郷庵』に落ち着くことができたものの、それは死に場所が見つかっただけのことだった。
最高学府を出て一流会社の要職にもついていたのに、酒に飲まれて職を追われ妻にも去られて落魄の身となって流れていったひとりの男の行き着いたところだったのだ。

『南郷庵』のある西光寺の住職や、庵の側で住まいする石屋や、そして何の見返りも求めずに最期まで放哉の身の回りの世話をしてくれた漁師の老妻シゲの存在。

作者自身が若い頃に放哉と同じ病気で寝たきり生活を経験しているから、病気の描写や死を意識していく心情など、読んでいるものにも胸迫るものがあった。

島に来た頃、放哉は病状が最悪の状態になった折には酒を思う存分飲んだ上で海に身を投じ自ら命を絶てばよい、などと考えていたが、それが甘い考えだったことを知った。
咽喉も消化器も酒を受け入れることはなくなっていたし、むろん海際まで行く体力もない。死は、想像していたよりもはるかに執拗で、肉体を苛めつくした上で訪れてくるものらしい。


そしてこの本のタイトルは ”障子あけて置く海も暮れ来る”  という
放哉の句よりとったものだそうだ。













2012年05月04日(金) 尾崎放哉  ひとりを生きる         石 寒太



 種田山頭火と共に『漂泊の俳人』 と呼ばれた尾崎放哉は一高・東大とエリートコースをたどり、保険会社の要職にもつくが、世に入れられず酒に溺れ退職に追い込まれる。以後漂泊の旅を続け、大正十二年京都の一燈園で托鉢生活に入る。その後京都、須磨、小浜の寺々の寺男となり転々とするも、終の棲みかを求めて小豆島に渡った。
 小豆島へは大正十四年八月に来島、西光寺奥の院南郷庵「みなんごあん」の庵主となるも在庵わずか八カ月の間病苦に苛まれながらも三千句に近い俳句を作り翌年四月孤独のまま生涯を終えた。
 亨年四十一歳 戒名は大空放哉居士


山頭火も放哉も季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム 感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。

そして山頭火も放哉も、ともに酒によって人生を持ち崩していくのだが、山頭火の酒は暢気でほがらかだったが、放哉の酒ぐせはかなり悪るかった。
「俺は、一高・東大出身、世が世ならば、こんなところにいる人間ではない。それがこうして落ちぶれてしまったのは、世の中が悪い。俺が悪いのではない」 と、人に金銭の無心をしていても最後までプライドの捨てられない性格だった。


 昼寝起きればつかれた物のかげばかり

 心をまとめる鉛筆とがらす

 ただ風ばかり吹く日の雑念

 吸取紙が字を吸いとらぬようになった

 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

 咳をしても一人











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