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こちらでは、龍先生から届く便りを掲載致しております。

2009年04月26日(日) 仏の顔も三度

「仏の顔も三度」という言葉を耳にした事はないでしょうか。
その意味として、「仏様のようにどんなに優しい人でも、失礼な事をして許してくれるのは3度まで」という認識で使用される事から、「仏の顔も三度“まで”」といった言葉で覚えている方も多いかと思います。

しかし、その真意は全く違ったものとなり、この言葉の語源となった次のようなお話がございます。

お釈迦様(仏様)は釈迦国の生まれですが、隣にコーサラ国という強大な国があり、その国の王は妃を釈迦国から迎えたいと考え使者を送られました。
しかし釈迦国の王や家臣は、もし断れば武力にものいわせて攻めてくるであろう国に王女を嫁がせる事を快く思わず、ある富豪が身分の低い女性に生ませた娘を、身分を偽ってコーサラ国に嫁がせました。

やがてコーサラ国王と娘の間に王子が生まれ、その王子が8歳の時、弓術を学ぶ為に釈迦国へと留学に送られました。しかし、身分制度の激しいインドにおいて、「卑しい身分の娘が生んだ子供」という事で王子は差別され、そこではじめて、自分が生まれた経緯を知ることになります。
そんな侮辱を受けた王子は、いつか自分が国王になった時釈迦国を滅ぼす事を誓い、父でもある国王が亡くなって王位を継いだ後、軍を率いて兵を出兵させました。

これを聞いたお釈迦様は、釈迦国へと続く一本道にある枯れ木の下に座禅し、兵が来るのを待ちました。
そして、その前を通りかかった王は「お釈迦様、他に繁った木があるのに、なぜ枯れた木の下にお座りですか?」と尋ね、暗にその場から去られる事をお伝えします。しかしお釈迦様は、「王よ、枯れ木でも親族の木陰は涼しいものである」と答えられました。

それを聞いた王は、お釈迦様がその国の生まれである事を察し、そして「遠征の時に僧に会ったなら兵を撤退させよ」という昔からの言い伝えを守って、その場から兵を引き上げられました。

しかし、国に戻って怒りを抑えられなくなった王は、再び兵を出しますが、再度お釈迦様が木陰に座っており、三度目にも同じ出来事がありましたが、ついに四度目は、お釈迦様も釈迦国にある因縁を悟り兵を阻止する事をしなかった為、国は滅びてしまいました。

さらにこのお話には続きがあり、怨みをはらしたはずの王も、戦の7日後、川で遊行をしていた際に暴風雨がおこり、兵達とともに命を落とし宮殿も雷の為に焼かれてしまいました。

改めて振り返るなら、武力(暴力)にものを言わせて妃を・・・と考えた国。
それ故にウソをつかれたものの、ウソをつき人を差別したからこそ、釈迦国には滅ぼされる縁が生まれた。
しかし、怨みを怨みによって返した事で、王は自分の命を落としてしまう縁に繋がった・・・。

全ては縁によって起こった、縁起の法に繋がるものがあります。

私達の日常に置き換えてみても、お酒を飲み過ぎれば次の日は二日酔いになり、沢山食べ過ぎれば太ってしまう事はとても分かりやすい縁起なのではないでしょうか。
その他にも、誰かのものを奪えば自分のものを奪われ、人を怨めば自分も怨み返される・・・。という事は往々にしてあるものです。

タイトルの部分に戻すと、ごくごく一般に認識されている「仏の顔も三度」とは大きく異なり、また日々の生活の中では、“縁起”という事を意識したり考える事はないかもしれませんが、誰もがその法則の中で生きている理を知る事で、皆様におきましても毎日の生活をより幸せで、スムーズに進まれる歩みに繋がれば幸いに思います。


2009年04月19日(日) ご縁を感じて

江戸時代。ある目の不自由な方が、友人の家を訪れた時の事です。

夜も時間が遅くなり、その方が帰ろうとされた際、友人の方が「夜道ですから提灯をお持ちなさい」と言われました。
目の不自由な彼は、「私は目が見えないのだから、提灯なんてあってもなくても変わりませんよ。私の事をからかっているのですか?」と、ちょっとムッとした返事を返されました。

すると友人は、「あなたには提灯が必要ないかもしれないが、あなたが提灯を持ってないと、目が見える人が分からずにぶつかってしまうかもしれない。だから提灯を持ってお帰り下さい」と言いました。


話が変わりますが、私自身も自転車に乗る事があります。
暗い夜道で相手の自転車が無灯火だと、すれ違う直前までその存在に気づきにくく、危険に感じる事などがあります。
そして、普段自分が必要に思ってなくても、自分がそれを気を付けていなかったり、備えていない事によって、相手や他人が困るといった事は多々あるものです。

例えば、団体などの大人数で旅行をした時に雨に降られた際、ある一人の男性だけが傘を持っておらず、また彼自身も、「ちょっとぐらいなら濡れても構わないかな・・・」と考えていました。
しかし、それを見ていた旅行者の方が心配され、自分はまた別の方と相合傘をして、余った傘を彼に差し出して下さいました。

その出来事があった際、彼は「自分の事が自分一人だけの事ではない」という事に気付き、自分が傘を用意していなかった為に、他の方に迷惑をかけてしまった事を感じられました。

よく、「自分の事だから、自分がどうしようと自分の勝手じゃないか」と仰られる人がいます。しかし、団体や共同生活をしているとよく分かりますが、仲間の誰かが怪我をしたり、病気をしたりして何かあったりすると、他の方も気が滅入ったり心配になるものです。
それは職場や学校、家庭でも同じであり、一人の健康や不健康、幸福や不幸が他の人にも大きな影響を及ぼす事があります。

私達は日々を過ごす中で、とても多くの人と関わりを持ち、支えを受けて生きているものです。
仏様の教えで言うとそれはご縁によって支えられている事をさし、あなた自身の言動も、縁によって誰かの支えになったり何かしらの繋がりを持っているものとなります。

今までのお便りにおいても、因縁や縁起といった、縁に関するお話をさせて頂きましたが、皆様の身近にある縁を感じて頂く事によって、日々の生活や幸せな歩みへと繋げて頂けたなら嬉しく思います。


2009年04月12日(日) 光と影

「ホワイトアウト」という現象をご存知でしょうか。

冬の雪山や南極・北極といった場所では、雪が降っている際、その雪に対して太陽光が白色に乱反射する事で、周りが光りそのものになってしまう。
雪が降っておらず視界は良好な時でも、積もった雪表面や雲に対して太陽の光が乱反射する事で、あたり一面が真っ白に見えてしまう現象がございます。

そのような状態になると、雪と雲が一続きに見える錯覚が起こり、太陽がどこにあるのか分からなくなって、空と地の識別が困難になる。
また、光が乱反射する事で物や周りの”影”が無くなる為に、距離感や方向がつかめなくなり、自分がどこにいるのか、どの方角に向かっているのかが分からなくなってしまうそうです。


さて、人間が生活していく上では光がないと生きていけません。日の光に照らされ、夜は電気がなければ物が見えません。
しかし光ばかりになっても物は見えず、一緒に影がある事によって物を見たり、距離や方向・方角を知る事ができます。

私達の人生においても、光は幸せや良い事を表し、影は不幸や悪い事といった認識がございます。そして幸せや良い出来事を求め、不幸や悪い事を嫌い、遠ざける傾向もございます。
しかし幸せの中だけにいる・・・。例えば、恋人とラブラブであったり、仕事が順調でお金もたくさん稼いで・・・といった状態がずっと続くと、人というのは周りが見えなくなったり、自分を見失いがちになってしまう事も言えます。

今までの便りの中でも、「福の神と貧乏神」、「塞翁が馬」などをご紹介したように、幸も不幸も表裏一体、良い事もあれば悪い事もございます。
そして人生においても、悪い出来事・影の部分があるからこそ、人というのは自分を見つめ直し、次に繋げて行けるキッカケになる面もあります。

当サイトにご相談を頂くという事は、今、何かしらの悩みを抱えられている方がほとんどかと思いますが、上記のように考えると人生における影の出来事も、光を見る為にとても大切な要素である事に気づいて頂けるのではないでしょうか。


2009年04月05日(日) 上品、下品

「上品、下品」という言葉は、非常に良く使われるのではないでしょうか。

「あの人はいつもスマートで、立ち振る舞いや話し方まで上品である」
「食事をすれば食べ散らかすし、話をすれば汚い言葉遣いだし、あんな下品な人とは一緒にいたくない!」
といったやり取りは、ごくごく普通の会話でも出てくるものです。

ただ、日常的によく使われる「じょうひん、げひん」といった読み方以外にも、「じょうぼん、げぼん」と読む事をご存知でしょうか。
その語源として、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」という経典に、「上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)」と出てくる言葉がございます。

これは極楽浄土に住む者に対して、その生き方に応じて与えられた位のようなものになるのですが、いくら容姿や立ち振る舞いが良かったとしても、人を傷つけたり騙したり、嘘をついたりといった事をして、仏様の教えに遠い言動があるならば、それは「下品(げぼん)」である。
逆に教えや戒律を守って正しい道を歩んでいれば、「上品(じょうぼん)」というように、道徳や倫理に反する心がないかどうかによって、大まかに3つに分けた教えがあります。

また上記の3つを、それぞれさらに「上生(じょうしょう)・中生(ちゅうしょう)・下生(げしょう)」と分ける事で、一番上の「上品上生」から一番下の「下品下生」まで全部で9通りに分けられております。
よく品物や食品などにランク付けをする際、「上の上、中の下、下の上」などといった表現をしますが、この言葉が由来と言われております。

さて、私たちが毎日を過ごす中で、誰しも下品に生きるより上品に生きていきたいものでございます。
その中で今回の言葉が示すように、ただ身なりなどの外面だけを整えて振る舞われるのではなく、心も正しく清らかにする事で、少しでも上品(じょうぼん)に近づいて過ごせるように。

お送りする便りを通して、改めて外面だけにとらわれてしまう事無く、心や内面が上品である事の大切さが皆様に伝わり、日々の精進や後押しに繋がれば嬉しく思います。



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