綿霧岩
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2016年05月30日(月) |
私が何を感じているのかは私に聞くしかない |
他の誰でもなく、「私は」どう感じるのか。 自分の感覚を誤魔化さないこと。
そして私と同じように全ての人にその人その人の感じ方があること。 誰もが誰とも違う感覚を持つ権利がある。 そのことを尊重すること。
このごろの夜空はきれいだなあ 月なんか今日はぷるっとまるみを帯びていて 黄色味も増してて 昨日はもう少しだけ細丸くて色も白っぽかった どちらも光がくっきり射していた わあきれいだなあと見とれていたらそのあと月の周りがほんのり虹色に輝いている 月とのやりとり
誕生日に有り難く頂いた緑茶があった。 それは緑茶をくれたその方が、私をイメージしたときに、カタギリさんは緑茶を飲む人(であろう)という予測があり、私のもとにやってきたのだということはわかっていた。
しかし、私は緑茶を飲む人ではなかった。
いや、緑茶がそこにあれば飲みはするけれど、日常的に、家で好んで飲むことはこれまでなかった。
味が嫌いなわけではない。 むしろ好きだ。 ではなぜ、家で緑茶を飲まないのか?
私にはある思い込みがあった。 「私は自分の家で、緑茶をおいしく淹れられない。」
きっかけはよくわからないけれど、なぜだかそう思い込んでいた。 実際、昔家で淹れてみて、おいしくなかったのかもしれない。
とにかくそんなわけで、有り難く頂いた緑茶は手つかずのまま、台所のテーブルの上に何か月か置かれていた。
私はその何か月かの間、緑茶の箱を何度か手にとってみた。 そして箱を開け、「おいしい淹れ方」と書かれた箱の裏の説明書きを眺めた。 そして箱を元通りにして、またテーブルの上に置く。
何度かそんなことをしていた。
本日、寝転がって休憩しているときに、何か飲んでブレイクしたいなと思った。 冷蔵庫の中には、アイスココアと牛乳がある。 ここ数日はそんな甘くて冷たいブレイクタイムを過ごしている。 なんとなく、今日は、もう少し違う、甘すぎず冷たすぎない何かを欲していると感じた。
ふと、あのテーブルの上に置かれた緑茶の、賞味期限が近付いていることが頭に浮かんだ。
よし。
私は決心した。
今がそのときだ。
箱の裏の説明書きを再び読んだ。
「沸騰したお湯を湯呑に入れ、75℃になったら茶葉を入れた急須に移し、一分半。」
75℃の温度をはかる手段は無かった。 一分半をはかるストップウォッチも今は別のことに使用中で使えない。 (布ナプキン制作の水通しのやり直し中だった)
頼れる器具は、ない。
それでもやろう。
もともと茶の達人でもなんでもないわけだし、 仮においしく淹れられなくてもいいじゃないか。
アイスココアも牛乳も嫌なんだから、結果はどうあれやってみようじゃないか。
よくわからないテンションだったが、表面上は淡々と進行していた。
75℃というのがどの程度の熱さなのか、風呂を思い浮かべて想像した。 もしも風呂の湯が75℃なら相当熱いだろう。 しかし、沸騰時の100℃との差はどのくらいなのだろうか。 わからなかったが、心を鎮めて、こうなったら温度がどうこうではなくお湯が教えてくれるかもしれない!と閃き、お湯が「今よ!」と言ってくれないかな、とお湯に集中してみた。 お湯の声は聞こえなかったが、なんとなく、このくらいかな、と思ったところで急須に湯を移す。
一分半を心の中で数えてみた。
外をざあざあ降る雨音が、数を数える頭の声と一緒になって聞こえてきた。
それはなんだか力の抜けた、まさにブレイクした気持ちの良い不思議な時間だった。
そしてお茶が入った。
そのお茶は、大変おいしかった。
お茶をくださった方、本当に有難うございます。
純正律というものを知っていますか。 私は先月までまったく知りませんでした。
今でも人に説明できるほど知らないんですが、今あるピアノのほぼ全ては平均律で調律されていて、平均律というのはドからドまでの間の音階を均等に割ったものであり、純正律はそうではないものだそうです。
先月、私は純正律と平均律の音の違いを実際耳で聴く機会があり、そのときは、おお、全然違う!と驚きました。
最近のBGMはもっぱら純正律の曲。 ユーチューブで検索して聴いています。 なんかね、怠かったり眠いときでも単純作業しながら流してたら、何時間も作業してたのに、時間が経つほどどんどん頭がスッキリしたりして、お気に入りです。 純正律のカノンとか、好きです。
生理用の布ナプキンを手作りしてみようと思い、布を買いに行きました。 お店でいろんな布を見るのがこんなにも萌えるとは。 かわいい布、魅力的な布がいっぱいあって、あんた一体布ナプキン何個作る気なのというくらいいろんな布を買ってしまいました。 でもいい。 どれも気に入って捨てられなかったので。
家に帰って、水通しというのをして部屋に干してある布たちを見てるだけでキュンとします。膣が。 なんてかわいいのだろう。 ああ。 早く作りたい! そして早く使いたい!
2016年05月02日(月) |
人を誘える私になること |
先週、私は二つのワークショップに参加していました。 一つは世野尾麻紗子さんの体感起業セミナー、 もう一つはウィリアム・レーネンさん、リザべスさんのオーラ、スペースの浄化と客観性を確立し、スピリット、植物、天使、宇宙人、天然石とコミュニケーションを可能にするワークショップ
どちらも大変刺激的でした。 そして私が私に対して今、とても思うことは、 今度何かやるときは、積極的に人を誘おう。 何もしていないときでも、見知らぬ人とも関わっていこう。 ということです。 そうすることで、自分のいるこの世界をより居心地の良いものにしていけるのではないかなと。
いっぱいいっぱい自分に向かったので、その分を外に広げて伸ばしたくなってきているのかもしれません。
近年、まずは自分を満たすことの大切さを実感し、実践してきて、その楽しさを感じている。 そしてこの先、さらに面白い展開にするためには、「怖がらずに、遠慮せずに、他人を巻き込む」ことな気がしている今です。
拒否されること、自分を否定されることは怖い。 逆に賛同してくれて好きだと言ってくれる人と一緒にいても、過剰によりかかられてしんどいと思うこともあった。 もちろんそうではなく、お互い楽しいケースもあるけれど、 全オープンにしたらどうしても自分がしんどい思いをするはめになりそうで、恐ろしくて、結局人をうまく誘えない私がいた。
それはそれで良かった。
そしてこの先は、今、かなり自分で自分を満たすことができている、この先は、なんというか、他人がどうあれ、私は私を生きることしかできないとわかり始めているので、もう過剰に他人から自分を守らなくても大丈夫なのではないか、いや、わざわざ守ろうとしなくても、もう私は私を守ってしかいない私であるので、
なんか、結局大丈夫なんではないかなと思うわけです。
えーと、だから要するに、他人をどう感じるかも自分の状態次第なのだなということです。
人の反応にいちいち大変なダメージを受けない、他人に期待しない、そういう自分を確立させるにはやっぱりご自愛が基本というのも改めて思います。
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