綿霧岩
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何も共有していないように見えても、その場にただ共にいる、それだけのことがなんて大きなことなんだろうとつくづく思う。 春の夜風はまだすこし冷たい。 でもその冷たさはわたしの酔いを醒まさない。 その程度に今日は気が大きくなっている。
アジカンの歌を聞くと、芸大にいた頃の空気を思い出す。 その当時はアジカンなど流れていなかったのに。 あの頃、24時間すべてが自分と友人達のためにあって。 其故に、そこには自堕落や不潔が常にあって。 それと同じだけの過敏と、ゲップが出るほど濃厚で幸福な時間があった。
こうして市井に流れる歌を聞いて思い出すことで、今はあのころからどんどん遠ざかっているのだとわかる。
「今」から眺めた「あのころ」は、実際のところ、少しばかり美化されているかもしれない。 けれど遠く離れたところから、物や事を眺めたとき、美しく見えないものってあるだろうか? その場にいたら地獄の業火であったとしても、遠い場所からは美しい炎に見えるだろう。
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というようなことを去年のいつだったかに思ったりしていて、今日またふと、ASIAN KUNG-FU GENERATION を聞きたくなった。 聞きながら、学生時代に限らずフラッシュバックする。 これまでに失ってきた、たくさんの、たくさんのものたちのこと。 失う事、忘れる事、と引き換えるようにして、無防備だったり過剰防衛だったりしながら生きてきたのだということ。 ひとを傷付けたこと。 そしてこの先も続いていく時間のこと。
嗚呼。 センチメンタルを肴に夜が更けるわい。
久しぶりの友人達と会う。 みんな何かと大変そうでひいひい言っていたが、それぞれ逞しくきらきら生きているように見えた。 そのことを相手に伝えたくなり、やってみる。 兎角そうしたいと思えたことがうれしかった。
角度を、距離を変えて見てみれば、ひとは、いくらでも輝いているんだろう。 できることなら、いつも、ひとが輝いて見えるところにいたい。 その場所を探し続けることをあきらめずにいたいと思った。
最近気に入っている野菜はかぶ。 是迄あまり馴染みがなく、昔食べた記憶では酢漬け等のなんとなくすっぱいイメージだったのだけれど、煮物にしたら驚くほど甘くてやわらかい。 大根に似ているけど、また違う。 もっともっと口の中で抵抗なく、やさしくとろける。 大根が、自分に対する厳しさを内に秘めた女性だとすれば、かぶは甘えたちゃん。 美味。
長い間歩いていなくて、ひさびさに歩いたとき、そのときはじめてその感覚をやっと思い出す。 それは幸せな体験だ。 はじめて「歩く」をしたような気持ちになる。
同じように「話す」ことも「会う」ことも、 他のすべてのことも。
きっとそうだ。
そもそも、 そもそも行動には喜びが伴うものだったんだ、とようやく思い出したような気になる。
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