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2022年07月24日(日) 大人がなりたい職業

ショッピングモールのイベント広場に幼稚園児が書いた七夕の短冊がたくさん飾られていた。
「アイスクリームになりたい」(「屋さん」が抜けているのかな?)
「すみっコぐらしのとんかつになりたい」
「いもうとになれますように」
幼い子どもの願い事は本当にかわいい。小さな頭の中でこんなことを考えているんだ、と頬が緩んだ。

当然のことだが、もう十年もしたら“なりたいもの”はがらりと変わる。
ソニー生命が昨年実施した「中高生が思い描く将来についての意識調査」によると、男子中高生のなりたい職業ランキング一位は「ユーチューバー」だ。
「好きなことで生きていきたい」「仕事が楽しそう」「当たれば人並み以上の収入が得られる」といったところだろうか。
ふうむ、私にはそんな“おいしい”仕事には見えないけれど。

厖大な数の動画が毎日投稿されては消えていく。その流れの激しい場所に留まるには、“見る価値がある”と思ってもらえる動画を生みだしつづけなければならない。どんなにプレッシャーだろう。
ネットニュースでは炎上した動画がしばしば記事になるが、「大人が何人も関わっていて、よくこんなのが世に出たな」と毎回あ然とする。編集作業をしながら繰り返しそれを見ただろうに、「やっぱこれ、まずくない?」という声が誰からもあがらなかったのが信じられない。
視聴者に飽きられるのが怖くて、目新しいこと、誰もやっていないことを血まなこになって探しているから、「見る人を不快にさせないか。子どもが真似をしたら危険ではないか」なんて考える余裕もないのだろう。いや、そういうことに配慮していたらできることが限られてしまうからか。
手っ取り早く再生回数を稼ごうとすると、内容が過激になっていったり、こんなことまで動画にあげるのかと思うようなプライベートの切り売りをしたりするようになる。

ブログでもフォロワーを減らすまいと毎日更新を掲げる人がたくさんいて、ネタ切れの苦悩はしょっちゅう話題になる。趣味ですらこうなのだから、生活がかかっていたら次の企画のことでいつも頭がいっぱいにちがいない。
私の中では、ものすごく稼いでいると言われている有名どころのユーチューバーも水面下では足を必死にバタバタさせているイメージだ。



ところで、なりたい職業ランキングには大人版もあるらしい。
webメディア「エラベル」が全国の十代から七十代の男女千二百人あまりにアンケートをしたところ、一位は「ライター」だったそうだ。
文章の読み書きが好きな人が集まるこういう場所にライター志望の人がたくさんいても不思議じゃないが、一般の人の間でも人気の職業であるとは驚いた。

この趣味を長くつづけているくらいだから私も書くことは好きなほうだが、言葉を扱う仕事をしたいとは思ったことがない。
数分の動画がその何十倍もの時間をかけて制作されるように、一本の記事も情報収集、原稿の執筆、推敲といくつもの工程を経てようやく完成するのだろう。その労力を考えたら、「ふつうに働いたほうがずっとラクだな……」と思ってしまう。
それに、「書くことが好き=書く仕事に向いている」ではないだろう。
新着リストやおすすめにあがってきた誰かの文章を読み、その視点や発想に圧倒されてプロフィールを見るとライターや編集者として実績のある人だった、ということがある。さらっと書かれた(ように見える)日常雑記でも、すごさがわかる。
教わったり経験を積んだりすることで身に着くスキルもあるが、センスは持ち前のもの。それがあるとないとでは仕事のクオリティに大きな差が出るんじゃないだろうか。

ちなみに、私が大人になってから「なりたい」と思った職業は小児科の看護師。
ひとり目を出産したときに一生の仕事にしようと決め、ふたり目を生んだあと看護学校に入学。資格を取って、いまに至る。
自分で言うのもナンだけれど、けっこう向いていると思っている。

【あとがき】
「働くのは生活費を稼ぐため」と割り切っている人もいるけれど、これほど多くの時間とエネルギーを費やすのに、得られるのがお金だけというのはもったいない気がします。私にとっては仕事も私の人生を構成する重要な要素。


2022年07月08日(金) 定年退職したら、したいこと

四、五十代となると、定年退職後の生活を想像することがあるという人は少なくない。昼の休憩室で、同年代の同僚と「定年になったら、なにがしたいか」というテーマで盛り上がった。
「老後は好きなだけゲームをする。認知症予防にもなるし」と誰かが言ったら、「その頃にはいまみたいに指の自由は利かないけどね」「動体視力が衰えて、画面を目で追えないんじゃない」とすかさずツッコミが入る。
老年看護学の授業で高齢者体験スーツを着たことがある。両親学級でパパがやる妊婦体験の高齢者版だ。厚手のグローブをはめた指先は思うように動かず、レジで小銭を出すのに難儀しているお年寄りを思い浮かべたっけ。ゴーグルをつけた視界は白くかすんでいて、これでは新聞を読むことも億劫になりそうだと思った。
まあ、六十や六十五ではまだ大丈夫か。

ほかには「旅行」「ピラティス」「なにか楽器を習う」「山登り」「ひたすらのんびりする」などが挙がったが、あるスタッフの「卒婚」にはおおーっとどよめきが起きた。
「私の定年が三年後で、ちょうどその年に末の子が大学を卒業するのね。その時点で“妻”業から引退させてもらう。去年しゅうとめを見送って、嫁としての務めも果たした。もういいでしょう」
そうしたら、
「同じこと考えてた。私とだんなはほぼ同時に定年になるけど、だからって家事を分担しようっていう人じゃない。でも、大の大人がいつまでも食事からなにから妻の世話になりつづけるのっておかしいよ」
「毎日三食作らなきゃならないって思ったらうんざりだけど、いまさら離婚も面倒。卒婚は理想の老後かも」
「だんなの中で、家事は“手伝う”ものって認識だからね。卒婚って女の側からしたらメリットしか感じない」
と賛同が相次いだ。

卒婚とは、戸籍上は夫婦のまま干渉し合わずに生活すること。別居型と同居型があるが、後者の場合も炊事や洗濯などは各自で行い、プライベートを確保して暮らす。シェアハウスの同居人のようなものだ。
三十年の間に三人の子を育て、義父母を看取った。この上、まだ夫の世話が残っているというのか。じゃあ、私はいつになったら自分ファーストの生活を送れるの------という同僚の言い分はもっともである。
「これからは自分のために時間を使いたい。幸い私もあなたも元気だから、お互い自立して暮らしましょう。私ももちろん自分の生活費は自分で工面します」
と言われたら、彼女の夫もなにも言えないんじゃないだろうか。

そりゃあ第二の人生をふたりで仲良く送れたら一番いいけれど、長い年月のうちにそれが無理になってしまったのであればしかたがない。
子育て終了のタイミングで夫婦を卒業して、どちらもが納得のいく人生を求めるのもひとつの手だ。余生はたっぷりあるのだから。
顔を見るのも苦痛だとか新たな恋愛や再婚を希望しているとかなら話は別だが、「妻の役割から解放されて自由になりたい」「夫のことはきらいではないけど、一緒にいる積極的理由がない」が理由なら、いまから離婚のために多くのエネルギーを費やすことはないと思う。その時間や労力はやりたいことの実現に充てたほうがいい。
そうして自分の時間を持てるようになって毎日が楽しくなったり、ふたりが距離を保つことで心穏やかに過ごせたりするなら、結構じゃないか。「結婚とは」にとらわれて、理想を追い求めることはない。最善が得られないなら、次善を考えよ。
それは今後増えてくるであろう、新しい夫婦の形だ。



ところで、私にも定年後に描いている夢がある。保護猫の預かりボランティアだ。
初めて猫を飼うことになったとき、家まで届けてくれた保護主さんがその足で現場に捕獲器をセットしに行くという。もう日が暮れているのに……と驚いていたら、その人が言った。
「蓮見さんがこの子たちの里親になってくれたことで席が二つ空いたから、いま外で凍えている子を二匹保護してあげられます。蓮見さんは四匹の猫を救ってくれたんですよ」

猫の保護活動をしている団体のサイトをよく見ているが、保護猫のシェルターはどこもいっぱい。子猫や健常な成猫は里親が見つかりやすいが、老猫や病気、障害のある猫は何年もそこで暮らしている。
退職して家にいるようになったら、医療的ケアや介護が必要な猫の世話もできる。そういう猫を預かることでいくつかでもシェルターに空きができれば、新たな命が救われるだろう。

働いているうちは自分と家族のことで精一杯だろうが、そのあとは自分の持てるものを誰かやなにかのために役立てたいと思っている。

【あとがき】
定年後の夢があると、仕事もがんばれます。そういう生活ができるように、六十五歳までバリバリ働くつもり。