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2022年03月28日(月) 服装は語る

先日、小学校の卒業式に出席した。一丁前にスーツを着、緊張した面持ちで体育館に入場してくる子どもたちを拍手で迎えながら、もう胸に込み上げてくるものがある。
「みんな、大きくなったなあ」
そのとき、ある男の子に目が留まった。ジーンズにトレーナーという服装だったからだ。

そういえばと思い出した。三月の初めに卒業写真の前撮りがあり、その日は卒業式で着る服を持参するよう言われていた。
「ほんとにこんなお父さんみたいな服を着るの?」
と気後れしていた息子は学校から帰るなり、「みんな、いつもとぜんぜん違う服だった!」と安心したように言った。
が、ひとりだけジャージ姿のクラスメイトがいたという。私はそれを聞いて、「あちゃー。その子のお母さん、前撮りのこと忘れてたんだなあ」と思っていた。
でも、“うっかり”じゃなかったんだ。
後方の席に目をやると、揃ってパーカーを着た夫婦がひと組座っていた。



どんな服装で卒業式に出席するかには、その家庭がそれをどの程度重要なイベントと捉えているかが表れる。
大切な節目、晴れの門出を祝う装いを子どもにさせてやりたい、と誰もが思うとはかぎらない。「一度しか着ない服のために何千円もかけるのはもったいない」という気持ちが勝てば、あるものを着て行かせようとなるだろう。
そういう考えの人でも、結婚式やお葬式に平服で出席することはたぶんない。祝福やお悔やみの気持ちを伝えるのに、その格好では失礼にあたると思うからだ。
卒業式もお世話になった先生、PTAや地域の人たちに感謝を伝える場であるが、それに重きを置かない親は子どもや自分が普段着で出席することに抵抗を感じないのかもしれない。

しかしながら、卒業式にジーンズやパーカーはふさわしくないと考える人は少なくない。
式の後、運動場でクラス写真を撮っているとき、「よりによってなんで隣なの」という声が聞こえてきた。近くにいた女性の子どもの隣にジーンズの男の子が並んだらしい。
「卒業式の写真はアルバムに一生残るものなんだから、一緒に写る人のことも考えてほしい」
「なんのポリシーがあって普段着を着させてるのか知らないけど、場にそぐわない服装はほかの出席者に対して失礼だと思う」
と何人かのママ友と憤慨していた。
人の格好なんてどうでもいいじゃないかと言う人もいるだろう。でも、こうしてお祝い事に水を差されたように感じる人もいる。
自分の思いや都合だけでなく周囲にも配慮して着るものを選ぶというのは、人と関わりながら生活する上で必要なことだ。

そして、服装にTPOがあることを子どもに教え、公共心や社会性を育てるのは親の役目である。

小学校四年生と六年生の子どもが制服で寝るようになりました。旦那がやめさせるよう言ってきたのですが、私はむしろ朝が楽になる効率的でいい行動だなと思っていたので、別にいいじゃんと言ったらケンカになりました。
私も起きてそのまま行けるように仕事着のジャージで寝ています。
旦那がやたらオンオフのことを言っていましたが、そんなの関係あるのかな。何がだめなんでしょうか。

(ママスタ 「制服で寝る子供」 を要約)


「寝ている間に制服がシワになる」「寝汗が制服に染みこんで臭いそう」というコメントがたくさんあったが、問題はそんなことじゃない。
「別にいいじゃん」がこの人を雄弁に語っている。

近年、「服育」が学校現場に広がっているという。息子が持って帰ってきた保健だよりにも、「最近、穴あきジーンズを履いている子どもを見かけますが、遊具などに引っかかって危険ですので避けましょう」という注意書きにつづいて、
「場所や活動内容によって衣服を変えること、気候・天候によって衣服を調節することが、事故を防いだり体調を管理したりすることにつながります。衣服が果たしている役割をみんなで考え、場面に応じた服装を選択できる力を養っていきます」
とあった。
とてもいい取り組みだと思う。でも、それが必要なのは子どもたちだけではないかもしれない。

卒業式でただひとり、平服だった男の子。
ネクタイを締め、コサージュをつけた保護者が居並ぶ中、自分の両親だけがいつもの格好。ステージからそれをどういう気持ちで見つめていたのだろう。
TPOというものがあることを彼は誰かから教わらなくてはならない。でも、この式の間はこの子が肩身の狭い思いをしないでいられますように……と思わずにいられなかった。

【あとがき】
Tシャツ姿で米連邦議会でリモート演説したゼレンスキー大統領を「ウクライナ大統領はスーツを持っていないのか」と批判したアメリカの経済評論家がいましたが、まさにこれが“服装のTPO”というもの。
パリッとしたスーツ姿の自分を見たら、戦場の兵士や砲撃に怯える日々を送っている国民はどう感じるか。大統領は服装が持つメッセージ性をわかっているから、あの格好なのだと思います。


2022年03月22日(火) 愛子さまの成年会見に寄せて

先日テレビで、天皇皇后両陛下の長女、愛子さまの成年会見を見た。
新聞やネットニュースで愛子さまの写真を目にすることはあっても映像はひさしぶりだったため、とても驚いた。えっ、いつのまにこんな立派なお嬢さんになっていたの、という感じ。
ユーモアを交えつつ、穏やかにていねいに話す姿は天皇陛下にそっくりだったが、聡明さがにじみ出ていて雅子さまの面影もしっかりある。初々しくやわらかい雰囲気でありながらあの落ちつき。二十歳とはとても思えない。
翌日の新聞によると、会見は三十分に及んだが、その間ほとんど原稿を見なかったそうだ。



あれから二十年経つんだなあ……。
そのニュースを知ったのは梅田の百貨店で買物中のことだった。ウィンドウに「慶祝 新宮さまのご誕生を心からお慶び申し上げます」の垂れ幕が張られるのを見て、店内がざわめいた。
外に出ると号外を配るおじさんがもみくちゃにされており、私もなんとか一部入手。目に飛び込んできたのは「雅子さま 女児ご出産」の特大見出しだった。

その瞬間、胸に広がったのは二種類の感情だ。
当時、三十七歳で初産というと、いまよりずっと“高齢出産感”が強かった。しかも、雅子さまは流産を経験されていたため、「母子ともにおすこやか」と聞いてよかったなあと心から思った。
そしてその安堵と祝福のあと、「そうか、女の子だったんだ」と複雑な気持ちになった。

二十年前だって、「赤ちゃんはまだ?」がデリカシーに欠ける質問であるという認識は誰もが持っていた。
しかし、雅子さまに対してだけは、国民は「一日も早くお子さまを」という要望を無邪気に、露骨に表してきた。「皇位継承者を生むことが皇太子妃の最大の公務だ」と言ってはばからない人さえいた。
それゆえ、妊娠がわかったとき、雅子さまにとってもっとも気がかりだったのは高齢出産ということより、「男の子かどうか」だったのではないだろうか。母としては元気な子であればどちらでもという気持ちでも、皇太子妃としては皇子であることを願わずにいられなかったのではないか。
「皇室の存続は皇太子妃の肩にかかっている」とまで言われ、雅子さまがどれほどの重圧を感じていたかは想像に難くない。
だから、生まれてくる赤ちゃんが男の子であったなら、雅子さまは“お世継ぎ問題”の苦悩からようやく解放されるだろう------私はそんなことを思っていたのだ。

若い人はよく知らないと思うが、雅子さまは並みはずれた経歴を持つ女性である。
父親の仕事の関係で幼少期から海外で過ごすことが多く、ハイスクールでは全米の優秀な学生を評価する「ナショナル・オナー・ソサエティ(全米優等生協会)」に選ばれた。ハーバード大学の卒業論文は優等賞を受賞、帰国後は東京大学法学部に編入し、在学中に倍率四十倍の外交官試験に一発合格。五か国語を話し、外交官時代には首相の通訳を務めることもあった。
お妃候補の筆頭として騒がれていたとき、マスコミの前で、
「私はお妃問題には一切関係ございません。外務省の省員としてずっと仕事をしていくつもりでおりますので」
と毅然とした態度で皇室入りを否定した小和田雅子さんは、誰の目にもバリバリのキャリアウーマン。はっきりとものを言い、颯爽と歩く姿は自信に満ち溢れ、本当にすてきだった。

学校でも仕事でも、周囲の期待をはるかに超える結果を出してきた。それまでの人生、その優秀さで人を驚嘆させることはあっても失望させたことなどあるはずがない。
雅子さま自身、「これほどの能力とキャリアを持つ女性が皇室に入るなんてもったいない」とさえ言われた自分が十年後、「皇太子妃としての務めを果たしていない」と国民からバッシングを受けるようになるとは想像もしなかっただろう。
それだけに、出産まで八年半かかったこと、皇位継承者を生めなかったこと、皇室という環境になじめなかったこと、適応障害を発症し公務ができなくなったこと------どれも努力ではどうしようもないことだ------で自信とプライドはこっぱみじんになり、挫折感は大変なものだったにちがいない。

しかし、私は愛子さまの会見を見て、感心を通り越して感動を覚えた。
「国民と苦楽を共にしながら、務めを果たしていきたい」
「少しでも両陛下や他の皇族方のお力になれますよう、私のできる限り精一杯務めさせていただきたい」
がまったく白々しく聞こえない。意志を感じる。いったいどうしたらこんなふうに育つんだろう。
かつて、小和田雅子さんは「外交官の職を捨てることに悔いはないか」という記者の質問に、
「いま私の果たすべき役割というのは殿下のお申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることなのではないかと考えましたので、悔いというものはございません」
と答えた。その言葉通り、雅子さまは大役を果たされたのだ。

親子三人でたくさんの困難を乗り越えてきたのだろう。
立派に成長した愛子さまの姿と「生んでくれてありがとう」の言葉が雅子さまの自信と希望になり、回復につながることを願っている。

【あとがき】
愛子さまの会見、「あれは丸暗記で臨んだだけ」と言う人もいるけれど、三十分の内容を暗記できるのがまずすごいじゃないですか。しっかり前を向いて、自分の言葉で話していて、すばらしい会見でした。
ふだん、皇室の方々への歯の浮くような誉め言葉には気持ち悪さを感じる私ですが、あの眼差し、表情、話し方、物腰には愛子さまの人柄と皇族としての資質が感じられ、安心しました。


2022年03月16日(水) 「マーガリンは毒なので食べません」に思う。

先日、小学校教員のあるツイートがネットニュースで取り上げられていた。
(Yahoo!ニュース「『マーガリンは毒なので食べません』 給食での生徒の一言 先生の投稿をきっかけにSNSで食の安全性が議論に」参照)

「今日の給食に出てくるマーガリンは毒なので食べません」と申し出た子どもがいた。嫌いな食べ物を無理矢理に食べさせる指導は元々していないので、その子は食べなかったのだが、周りの子はその言葉に動揺していた。
僕は学校給食の高い安全性を信用している。そして食に関する指導の主戦場は家庭だ。

(めがね旦那@小学校の先生(@megane654321) 2022年2月28日 より)


「マーガリンは体に悪い」というのはちょくちょく聞く話である。
マーガリンの製造過程で生成されるトランス脂肪酸は摂りすぎると心臓疾患のリスクを高めるとされ、WHOは二〇〇三年からその摂取量を総エネルギー比1%未満に抑えるよう勧告している。
私の周囲にも「マーガリンは買わない」という人が何人かいる。

ところで、記事の中の、
「いまのマーガリンはなぜ大丈夫なの?それが納得できないかぎり食べない」
「マーガリンは毒って私も聞いた。だから子どもにはバターにしてる」
といったマーガリン食べない派のコメントを読みながら、この感じ、なにかに似ている……としばらく考え、あっと気づいた。そうだ、牛乳論争だ。

十五、六年前の話である。外科医の新谷弘実氏が著書の中で、
「牛乳を飲みすぎると骨粗しょう症になる。世界四大酪農国であるアメリカ、スウェーデン、デンマーク、フィンランドで股関節骨折と骨粗しょう症が多いのは牛乳をたくさん飲んでいるからだ」
「ここ三十年でアトピーや花粉症の患者が急増した第一の原因は、学校給食の牛乳にある」
などと述べた。
その『病気にならない生き方』という本はベストセラーになり、Amazonのカスタマーレビューには「これを読んで、牛乳や乳製品を摂るのをやめました」というコメントが並んでいたっけ。
そして、巷では「牛乳は善か悪か」という議論が起こったのだ。

当時私もこの論争に興味を持ち、それを取り上げた日経新聞と毎日新聞の記事、いくつものサイトに目を通した。
結論から言うと、「もう牛乳を飲むのはよそう」とはまったく思わなかった。なぜなら、「飲むべきでない」とする人たちの言い分の中には首を傾げる点がいくつもあったからだ。

牛乳有害説は主に次の三つの観点から提唱され、ある人たちに支持されていた。

主張 : 「牛乳が完全栄養食品であるという“常識”は嘘である」
現代の牛乳信仰は、戦後アメリカが自国の市場開拓のために日本にパン食を普及させるべく「牛乳を飲めば大きくなる、健康になる」と宣伝した結果であるが、実のところはビタミンC、D、鉄分、食物繊維が少なく、コレステロールと脂肪は多い。
飲みつづけると肥満や動脈硬化、糖尿病や大腸ガンなどを招くこともある不健康促進飲料なのである。


ふむ、「完全栄養食品なんかじゃないじゃないか」ということか。
しかし、人は決まった種類の草や肉しか食べられない動物とは違う。「一日三十品目を目標に」と言われるように、私たちは多様な食品を摂ることができる。ひとつの食品が人に必要な栄養素のすべてをパーフェクトなバランスで含んでいなければ「健康」「体によい」と謳えないということはないはずだ。
牛乳と並んで栄養価が高いとされている卵だって、コレステロールが高いから一日二個以内と言われている。どんな食品も適量摂取が大前提である。
それだけ食べていれば一生健康に生きていける食品はなにか、という話をしているのではないのだ。

主張 : 「牛乳を飲んでも骨は強くならない」
牛乳と聞けば多くの人が「カルシウム」を連想するが、実際は牛乳を飲んでも骨密度は高まらない。それどころか、飲用によって血中のカルシウム濃度が一時的に上がるとホメオスタシス(体温や塩分濃度、水分など体内の環境を一定に保とうとする機能)が働き、カルシウムの排出が起こる。よって、飲めば飲むほど体内のカルシウムは失われていく。
「骨粗しょう症の予防には牛乳を」というのは、実は大間違いなのだ。


これが事実であれば大変なことである。子どもたちは今日も学校で牛乳を飲んでいるのだ。
しかし、私がこの説に懐疑的なのは「牛乳を飲むと、むしろ骨がもろくなる」の根拠として、牛乳を多く飲んでいる北欧諸国の人の骨折率の高さが挙げられていたからである。

日本人が一年間に飲む牛乳は一人平均約35リットル。デンマークやオランダなどは優に100リットルを超える。チーズなど乳製品を含めると、その差は4倍前後にもなる。しかし、高齢者の大腿骨頚部(太ももの付け根)の骨折率は北欧諸国の方が日本より高い。このため「牛乳は骨粗しょう症の防止策にならない」との指摘がある。

(二〇〇六年八月十八日付 毎日新聞)

これで「牛乳は骨粗しょう症の予防には役に立たない」と言うのは、ちょっと無茶な話ではないだろうか。北欧の人たちと日本人とでは牛乳の摂取量以外にもいろいろな差があるからだ。
毎日新聞の記事では上の記述の後、大腿骨の形状の違いを理由に「牛乳と骨折率のあいだに因果関係はない」としていたが、ほかにもいくつか思い浮かぶ。
たとえば、カルシウムの吸収に必要なビタミンDは日光に当たることで生成されるが、日本と比べて北欧の国々の日照量は少ない。そのことが無関係とは思えない。

もうひとつは、体格差。
コペンハーゲンを旅行したとき、街の至るところに停められている無料のレンタル自転車で散策しようと考えた。市内のどこででも乗り捨てできる“市民の足”であるが、またがってみてびっくり。地面に足が届かないのだ。私は身長百六十七センチあるというのに。
これでは日本人女性のほとんどは乗ることができない。そう、それだけデンマークの人たちとは体格が違うということだ。
その後、オランダに行った私はアムステルダムを歩きながら「やっぱり大きいなあ!」と驚嘆した。『地球の歩き方』に「オランダ人は世界一長身で、平均身長は百九十センチ近く」とあったからだ。
百九十センチはさすがに言いすぎであるが、ネットで検索すると男性は百八十数センチ、女性は百七十数センチというデータが多かった。
背が高ければ大腿骨は長くなり、転倒するときも高い位置からということになる。そこにあの体重がかかれば、どんな骨だってポキリといくんじゃないか。

主張 : 「子牛のためのものである牛の乳を人が飲むこと自体、おかしい」
どんな哺乳類も乳を飲むのは赤ちゃんのうちだけ。人間が大人になってまで、それも異種動物である牛の乳を飲むのは異常である。


「飲むべきでない」とする人たちが提示する根拠の中で、私がもっとも理解に苦しんだのがこれ。
それを言うなら、肉や魚介を食べるのだって不自然ということになってしまう。牛や鶏や魚は人間の食糧となるために地球上に誕生したわけではない。
「牛乳とはそもそも子牛の成長を促す分泌液であるから、それに含まれる性ホルモンが人体になんらかの影響を与えるのではないか」
を懸念しての話であれば、まだわかるのだけれど。
もっとも、これについては日経新聞の記事の中で「生産工程で加熱処理されているため、性ホルモンは活力を失っていると思われる」と説明されていた。



マーガリンの話に戻る。
WHOが提示する「トランス脂肪酸の摂取量を総エネルギー比1%未満に」を日本人の食生活に当てはめると、一日当たり2g未満という目標になる。
近年、企業努力によってトランス脂肪酸の含有量が低減している。うちの冷蔵庫にある雪印メグミルク「ネオソフト」の一食分10g当たりのトランス脂肪酸は約0.05gだ。
ほかの食品から摂取する分も含め、日本人のそれの平均摂取量は総エネルギー比の0.3%だそう(内閣府食品安全委員会「食品に含まれるトランス脂肪酸の食品健康影響評価の状況について」参照)。
「ということは、ふつうの食生活を送っていたら問題ないってことね」
だから、私はマーガリンを塗ったパンを毎朝おいしく食べている。

しかし、この情報も「そもそも、この『1%』という基準は適切なのか?」と考える人にはなんの安心材料にもならないだろう。
科学的根拠とされるデータが示されていても、素人がそれの信憑性を判断するのはむずかしい。結局、数ある説の中で自分はどれを信用に足るものとして採用するか、なのだ。

だから、誰がどんな考えを持っていたっていい。違って当然。
……ただ。
「マーガリンは毒なので食べません」を聞いたクラスメイトは驚いただろう。ずっと食べてきたのにとショックを受けたり、給食に不安を持ったりした子どももいるかもしれない。
親はマーガリンの危険性だけでなく、「毒」や「害」という言葉の持つ危険性も教えてあげてほしかったなと思う。

【あとがき】
私としてはトランス脂肪酸より塩分のほうがよっぽど気になります。一日6.5g未満(成人女性の基準)なんてぜったい超えてるもん。


2022年03月12日(土) 学歴フィルター

読売新聞には就活中の大学生を応援する紙面がある。
私はバブル崩壊後の就職氷河期世代。いまの就活生はまずリクナビやマイナビといった就職情報サイトに登録、SNSを駆使して企業研究したりエントリーしたりするから、パソコンやスマホがなかった頃の就活風景とはもう別物という感じだ。
私たちの就活は三回生の終わりに自宅に送られてくる就職情報誌から関心のある企業のハガキを切り取るところから始まった。資料請求やセミナー参加を希望する旨を一枚一枚記入していくのだ。
この作業にどれほどの時間と労力を費やしたことか……。書き損じて修正液を使ってしまったときは「印象悪くないかなあ」と不安になったっけ。



就職情報誌といえば、思い出すことがある。
当時は応募を受け付ける学部を限定したり、「来年度の採用は男性のみ」と表明したりといったことをどこの企業もわりと堂々としていた。
そのため、大手企業のハガキがたくさんついた就職情報誌はつぶしのきかない文系学部の女子のところには送られてこない。よって、欲しい企業のハガキが手に入らないことも多かった。
そんなある日、地元で採用試験を受けるためしばらく帰省するという友人から「時々、たまった郵便物を玄関に放り込んでほしい」と頼まれた。
彼のマンションは私の行きつけのスーパーの隣。買い物のついでに寄ってあげると鍵を預かったら、驚いた。三日と空けずに行くのに、その郵便物の量ときたら……。
封書だけではない、電話帳ほどの厚さの(若い人は電話帳を知らないか)就職情報誌がこれでもかというほど届き、ロビーの床に積まれているのである。
「そりゃあこれを放置してたら、他の住人に大迷惑だわ」
私はせっせと部屋に運んだ。

さて。
使えそうなものがあれば持って行っていいと言われていたので何冊かもらって帰ったところ、さらにショックを受けた。私のところに送られてくる就職情報誌には掲載されていない、有名企業の資料請求ハガキがどっさりついているではないか。
友人は工学部。募集職種が理系の知識を必要とするようなものなら納得なのだが、「来年度の採用予定」欄には総務、経理、広報、営業とある。それって理系の学生を選ばなきゃならない仕事……?
そういえば、彼の元に届いていたダイレクトメールの大半がセミナーの案内だった。申し込んでもいないのにあちらから「ぜひお越しを」なんて、先輩から聞いたバブル期の就活みたい。こんなの、うちには一通も来ないよ。
同じ大学でも男子と女子、学部によって市場価値はこんなに違うのだ、と思い知ったのだった。

企業にコンタクトするすべを手に入れられる人と入れられない人。就活のスタートが就職情報誌から就職情報サイトに替わったことで、この格差はかなり解消されたにちがいない。web上では誰もが同じ情報にアクセスし、エントリーすることができるだろう。
ただし、「応募できる=選考対象」ではないけれど。
昨年末、マイナビが首都圏の就活生に送信した、ある企業のインターンシップ希望者を募るメールの件名が「大東亜以下」となっていたため、「学歴フィルターではないか」と騒動になった。マイナビは誤送信だったと謝罪した上で、管理の都合で登録者を「大東亜(大東文化大、東海大、亜細亜大)以下」と「その他」の二グループに分けたが、大学による対応の違いはないと釈明した。

うーん。「以下」がついているだけに、苦しい言い訳に聞こえてしまう。
しかし、選考の入口で大学や学部を問われるのはいまに始まったことではない。いや、むかしよりシビアになっているかも。
私たちの頃は、企業は就職情報誌の送付先を限定することで対象外の学生をシャットアウトした。が、いまは各社のサイトから誰もがエントリーできるため、採用予定を大幅に超える応募がある企業もたくさんあるだろう。
採用担当者がその膨大な数のエントリーシートに目を通し、自社にふさわしい人材かどうかを判断するのは不可能だ。応募者の数だけコストもかかる。
となると、早い段階でふるいにかけ、バッサリ落とさなくてはならない。

では、なにで絞り込むか。
二十二やそこいらの年で、抜きん出たなにかを持っている人などめったにいない。エントリーシートを並べたら、きっとみんな似たり寄ったりの経歴だ。
パッと見でわかる凹凸があるとしたら、「学歴」の部分くらいではないだろうか。たしかにそれは、その人が努力して獲得したもののひとつである。
大学の偏差値だけで社会人としての資質を計れないことは採用するほうもわかっている。しかし、応募者全員を面接して人物をみるということができない以上、「学生の本分をしっかりやってきて、一定の学力を有している」という点を評価して、その実績で足切りを行うほかない、という現実もあるのだろう。



「大手企業の説明会にエントリーしようとしたら『満席』で申し込めなかったが、別の大学名を入力したら『空席あり』の表示になった」
という話がときどきネットでニュースになる。
そんなあからさまな学歴フィルターをかけたらすぐに発覚し、炎上してイメージに影響するリスクがあるのに、大胆な企業だなあと驚く。
でも私が就活生なら、応募しても事実上選考の土俵に上がれないのであればこうして門前払いしてくれたほうがありがたい。
友人からもらったハガキで申し込んだ企業からはなしのつぶてだった。おかげで、誰の目にも留まらない履歴書に貴重な時間を費やさずに済んだ。

結局、自分が持っているもので勝負するしかないのだ。
これから本格的に就活をスタートさせる人もいるだろう。健闘を祈ります。

【あとがき】
就活を終えたとき、安堵すると同時に「ああ、学生生活が終わるんだな」と胸がぎゅっとなりました。もう二度とこんな日々は来ないとわかっていたから。
青春の終わりが近づいていることを感じて、泣きたくなったのでした。


2022年03月05日(土) 天職

夜勤の日は始業の一時間半前には病棟入りする。
勤務開始までに患者の情報収集や点滴準備をしておくためだが、それが済んだら私はその日受け持つ部屋をひと回りする。ひとりひとりに「今夜は私が担当です」を伝えるのだ。
その日もいつものようにあいさつに行ったところ、ある患者が開口一番言った。
「夜、トイレに行きたくなったら連れて行ってもらえる?」
午前中に別の病棟から移ってきた人で、私とは初対面である。いきなりのトイレの予約に驚きつつも、もちろんと答えると、
「でも、何度もお願いするかもしれないんだけど……」
とさらに言う。
「大丈夫ですよ。遠慮なくコールしてください」
すると、女性の表情がみるみる明るくなった。「夜間は看護師が少ないから、頻繁にトイレに呼ばれると困ります。患者はあなた一人じゃないんです」と言われたことがあり、以来消灯前におむつをつけてもらうようにしていたそうだ。
「でも、お昼の看護師さんが『今日の夜の看護師はこの病棟で一番優しい人』って言ってたから、思いきって訊いてみたの。よかった……」

日勤のとき、「今日の夜勤は誰?」と訊かれることがある。
患者の夜は長い。のどが渇いた、眠れない、おむつが不快、背中がかゆい、腰が痛い------そういうときに頼みごとをしやすい看護師かどうか気になるのだろう。
「トイレをお願いすると嫌な顔をされるから、夕方から水分を控える」
「迷惑をかけたくないからできるだけコールはせず、見回りなどで部屋に来てくれるのを待つ」
という話も聞くくらい、患者はこちらに遠慮しているのだ。

うちの文章を読んでくれている人にどういう印象を持たれているかわからないけれど、私は職場で「優しい」と言われることがある。
特別性格が穏やかとか思いやりがあるとか、そんなことはない。でも、イライラの沸点は人より高いような気はしている。
夜中に同じ人から何度もトイレコールがあると、「○○さん、トイレ二時間おきだよ」「行ったってちょっとしか出ないのに」と愚痴る同僚がいるが、輸液中だったり高齢だったりしたらトイレが近くなるのはしかたがないじゃない。
学生時代、課題のレポートを書くためにおむつをつけて排泄してみたことがある。あのとき感じたことを覚えているうちは、「夜は人手が少ないから、おむつでしてください」とは私には言えない。
おむつを使用中の患者からおむつ替えてコールがあると、「このパッドは三回分のおしっこを吸収できるから、毎回交換しなくても大丈夫です」と“説得”する人がいるけれど、布団が濡れなければいいって話じゃない、気持ちが悪いから早く取り除いてほしいんだ。
「また点滴抜かれた!」とカリカリしているのもよく見かける。私も「あちゃー。ルート取り直しか……」とがっかりはするが、「触らないでくださいって言ったじゃないですか」とブツブツ言われているのを見ると、気の毒になる。点滴ラインが目に入るところ、手の届く位置にあったら、そりゃあ「どれ、引っぱってみようか」となるわなあ。
やはり学生のとき、ベッドに横になりまったく動かずどのくらいいられるか試したことがある。自力で動けないというのがどういうことか知りたかったのだ。
ちょっとどこかがかゆくなっても掻けない、首や腰がだるくなっても寝返りを打てない。あまりに苦痛で三十分でギブアップしたことを思うと、
「△△さん、『水飲ませて』『体の向きを変えて』『湿布貼って』『背中がかゆい』って二十分おきにコールだよ。一回で言ってくれればいいのに」
に頷くことはできない。

患者の訴えに対して“イラッ”とすることがあまりないから、温厚でいられるのは当然といえば当然なのだ。
いままでいくつかの会社で異なる仕事をしてきたが、一番楽しかったのは接客業だった。のちに看護師になり、やっぱり自分は人と関わる仕事が性に合っていたんだとつくづく思った。
好きでやっているから、少々のことは苦にならないのだろう。



明日退院という患者がいると、仕事のあと部屋を訪ねる。
「転ばないように気をつけてね」
「ちゃんと外来を受診してくださいね」
「もうここに戻ってきちゃだめですよ」
かける言葉はそれぞれだが、良くなって自宅に帰る人にもリハビリや看取りのために転院する人にも、みんなに伝えるのは「ありがとうございました」。
それは、コンビニで袋を受け取りながら言う「ありがとう」とはまったく違う。
「いろいろなことを教えていただきました」
毎回、心からそう思う。

患者からの感謝の言葉がやりがいになっているという人もいるだろう。でも、私は自分が「ありがとう」をたくさん言える仕事であることがうれしいの。

【あとがき】
悲しいことも多く、帰り道で涙がこぼれることもあります。でも、自分に合った職業に就けるというのは一生のパートナーに出会えるのと同じくらい幸運なことだと思っています。