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2002年05月28日(火) 「聞く耳」次第

新聞の読者投稿欄を読むのが好きだという話は先日書いたが、昨日と今日の朝刊には驚いた。
たまに「○日付けの△△さんの手記を読みました」という形で、誰かの投稿を読んでの感想が採用されることがあるのだけれど、今回はある投稿に対し、反論とも言えるような意見が二日連続で掲載されたのである。私の知るかぎり、こんなことは初めてだ。
二週間前に掲載された元の投稿「嫁とカーネーション」を書いたのは、六十五才の女性である。

数年前の母の日のこと。夕方、近所に住む長男の嫁がカーネーションを持ってきてくれました。しかし、私は自分は姑への贈り物は必ず昼過ぎまでに渡していたこと、去年もらったのが傷みかけの花束だったことを思い出し、つい「ありがとう。またカーネーション」と言ってしまいました。怒った嫁はそれから一ヶ月あまり口を利いてくれませんでした。
たしかに私が至らなかったのですが、寛容な心、度量の大きさもほしいと思います。こんな私は間違っているでしょうか。


それに対し、昨日今日の朝刊に掲載されたのが、これ。

先日の投稿を読んでびっくりしました。どうして「ありがとう。よかった」と思われないのですか。お嫁さんが怒るのは当然です。「寛容な心、度量の大きさがほしい」とお書きですが、その言葉をそのままご自分におっしゃったらいかがでしょう。あなた様が間違っています。 (65才女性)

寛容な心を相手に要求するよりも、まず自分がおおらかに受け入れること。どちらが間違っているというよりも、相手の落ち度を取り上げて、自分の素直な心を見失っているような印象を持ちました。(47才・女性)

リアルタイムで元の投稿を読んだときの私の感想も、お二方とほぼ同じ。「なんてかわいげのないお姑さん」というものだった。
「友達の中にはカーネーションの代わりに商品券でもらっている人もいるのに」のくだりにはびっくり。「つい言ってしまったって書いているけど、本音だものな」とつぶやいたものだ。だって、「私が間違っているのでしょうか」なんて書き方をする人に、本当にそう思っている人はいない。
とはいえ、ものすごい数の人たちの目に触れる新聞で、しかも前代未聞の二日連続で「あなたが間違っています。気持ちを変えて下さい」と書かれたことについては同情する部分もある。もし先日採用されたときに「私の投稿が新聞に載ったのよ〜」と知り合いに触れ回っていたら、格好がつかないよなあ。

ところで、こんなふうに本人に向かって異論を唱える人を見ると、「おぬし言うな」と思うと同時に、ちょっと不思議な気がしてしまう。そのエネルギーはどこから発生するんだろうか。
私もエッセイやweb日記を読みながらつっこみを入れることはしょっちゅうだが、わざわざそれを本人に伝えようと思ったことは一度もない。人がなにをどんなふうに考えているかに興味はあれど、執着はない。たいていは「ふうん」「へええ」で最後まで読んで、おしまいだ。
まれに激しく抵抗を感じる文章に出会っても、「まあ、人それぞれだもんね」と思えば、本人にもの申そうとペンをとったりキーボードを叩いたりするところまでいかない。「私のだって個人の意見に過ぎないわけで、それを伝えてどうする」という冷めた気持ちもある。
だから、「この人、間違ってる」「こういう考えのままだとこの人は損をする」と思えば、自分にはなんのメリットもないのに他人に耳の痛いことを言ってやれる人はすごいなと思うのだ。私にはそういう親切心がない。
先ほど紹介したふたつの意見。どちらも全文を読めば、相手によかれと思っての「ひとこと言わせていただきます」であることが伝わってくる。
が、これらを余計なお世話ととるか親切ととるかは「聞く耳」次第。元の投稿者がふたつの声に素直に耳を傾けられる人であったらいいのだけれど。

【あとがき】
追記です。さらに驚いたことに、この日記を書いた翌日に掲載された投稿も「嫁とカーネーション」を読んだ人からの感想でした。なんと三連発。しかも、「この投稿には六十通を超える反響があり、そのほとんどが投稿者(姑)こそ寛容な心を、という内容でした」という、編集側からの注釈付き。やっぱりみんな反発してたんだなあ。
それにしても、新聞もここまで引っぱらなくてもいいのでは、と思いますけどね。


2002年05月22日(水) 義理読み無用

サイトをやっていると、モニターの前で小躍りしたくなるような言葉をいただけることがある。
「共感しました」
「お気に入りに登録しました」
「リンクしてもいいですか」
どれもうれしい、ありがたい。
そんな私をさらに有頂天にさせる言葉がある。それは「読みたいから読んでます」というものだ。
そのままズバリ、言われたことはない。しかし、「この人は私になんの見返りを求めるわけでなく、ただ純粋に読みたくて来てくれているんだな」というのは、行間から伝わってくるものだ。私はこれがなによりもうれしい。
サイトをお持ちの方は考えたことがないだろうか。カウンタなり解析なりを見ながら、「この中で、本当に自分の日記が読みたくてアクセスしてくれている人はどれだけいるんだろうか」と。
私は知りたい。
「あなたの読むから、私のも読んでね」
「私のを読んでくれてるみたいだから、あなたのところにも行くね」
そんな義理や付き合いではなく、また「アクセスはしたけど、実は五秒でバックボタン」なんていうのも除いたら、正味どのくらいのものなのかを。
先日、めずらしいカウンタを見かけた。あらかじめ設定しておいた何十秒間かが経過したときに初めてカウントする仕組みになっている。テキストを最後まで読んでくれた人がどれくらいいるのかを知りたいからだと思うが、その気持ちわかるなあ。
「リンクページから外したいサイトがあるんだけど、気がひけて」
「掲示板に書き込んでもらったから、私もなにか書きに行かなきゃ」
うちにはどちらもないから気楽なものだが、そういうことに気を遣うのはかなり面倒くさそうだ。こういう話を聞くと、「一時やりとりしてた」とか「自分のサイトを見てくれている」という理由で、読みたいわけでもないサイトを巡回ルートから外せずにいる人もけっこういるんだろうなと想像する。
私はある時期から義理で読みに行くのをやめた。日記才人の投票ボタンを外したとき、それまで毎日あった空メールのいくつかがぱったりと来なくなったのは、ただの偶然かもしれない。しかし、私はすがすがしい気分になり、そして思ったのだ。
「惰性や義理で読みに行ったところで、私が回したそのカウンタには何の価値もない。相手にそれはわからないけど、中身のないアクセスは書き手の目をくらませるだけ。そんなの、かえって不親切じゃないか」
うちのサイトに義理立ては無用だ。それはあなたの時間を無駄にするし、私をぬか喜びさせる。どちらにとってもためにならない。「書きたいものが書けている」という自負があれば、読み手の入れ替わりが悲観材料にはならないはずだ。

先日ある人から届いたメールは特別うれしいものだった。十ヶ月ぶりである。
「ああ、ずっと読みつづけてくれてたんだなあ」
胸に温かいものが広がっていく。この「私が、私が」な日記に、よく嫌気がさすことも愛想を尽かすこともなく、いてくれたものだ。もっと読みやすいテキストは他にいくらでもあるというのに。
その忍耐強さというか大らかさに、思わずモニターに向かって頭を下げた。
というわけで、今日で開設一・五周年。
「もうおなかいっぱい」になるまでお付き合いいただけるなら、書き手としてこんなうれしいことはありません。

【あとがき】
「義理読みはしません」なんてことはネット上での付き合いが少なくて、これといって失うものがない私だから言えるのかもしれないけどね。


2002年05月16日(木) ある日の新聞投稿に思う

毎朝、新聞の読者投稿欄を楽しみにしている。朝刊は真っ先にそこから読む。
たくさんの応募作の中から選ばれただけあって、「中身がなくて読んで損した」なんてことはまずないし、日々書き手が変わるので飽きることもない。これほど幅広い年代、立場、境遇の人の経験や考えに触れられるというのはweb日記にはない魅力である。
さて、今日は先日読んだある投稿について。
「土曜日運動会で切り捨てられた」というなんだかものものしいタイトルのそれは、小学生の子どもを持つ三十代の女性が書いた文章だ。
「うちは共働きで休みは日曜日だけ。なのに今年の運動会は土曜日と決まってしまった。こういう行事は多くの人が休める日曜日にするものではないのか」
という内容であった。
「私たちは学校から切り捨てられてしまったのか」には、そこまで被害者意識を持つ必要はないでしょうと思ったが、たしかに土曜日より日曜日のほうが都合がつきやすいという親は多いかもしれない。「学校側の配慮が足りない」という言い分には理解できる部分も多少ある。
しかし最後の一文を読み、私ははあ?と大きな声をあげてしまった。
「運動会が土曜日だと家族の誰も見に行けないわが家。大変残念なことだが、当日子どもを欠席させようかと思案中である」
小学生の女の子のママである友人から、「最近は家族で旅行に行くからって学校を欠席させる親がいるんだよ」と聞いたときと同じくらい驚いた。そんな理由で休ませるのか、運動会を?小学校ってそういうところなのか?
家族の誰にも来てもらえないのは、子どもにとったらそりゃあ寂しいことだろう。当日給食がなかったら、お昼はどうなる?「うちの子も一緒にお願い」と頼める親しいお母さん友だちがいなければ、わが子は先生とお弁当を食べることになる。それを不憫に思う気持ちはわかる。しかし、だからといって休ませるのか。
子どもにはなんと言うつもりなのだろう。「パパもママも見に行ってあげられないから、運動会は休もうね。しょうがないもんね」と?先生には「風邪を引いてしまいまして」なんて言い、子どもにも口裏を合わせさせるのだろうか。
そんな親を見て、子どもはどう思うのだろう。「ふうん、学校ってべつに行かなくてもいいんだ」と勘違いすることはないだろうか。その日、子どもは家でひとり何をして過ごすのか。次の日、クラスのみんなが運動会の話で盛り上がっているのをどういう気持ちで眺めるのだろう。
私はそちらのほうが気がかりだ。
心配なのはわかる。寂しい思いをさせてごめんね、もわかる。しかし、それを味わわせぬために休ませようとするのはまったく理解できない。
それは子どもを守ることでもなんでもない。そういうのを「過保護」というのではないのか。

というのが、二〇〇二年五月十六日時点での私の考え。
何年か後に私がこの女性の立場になることがあっても子どもを休ませることはない、といまは思っている。
しかし、子を生み育てるという経験は人の価値観や時には生き方まで変えてしまうことがあるという。いまの延長線上で、母の立場にある自分についてリアリティのある想像をすることはむずかしい。
この投稿の切り抜きはとっておこう。そしていつか読み返し、感想を今日の日記と比べてみよう。そのとき私はこの女性の意見に頷くのか、それともやっぱり首をひねるのか。
楽しみにしておこう。

【あとがき】
新聞の投稿欄は読み飽きないからいい。web日記は書き手が同じだから文章にクセがあるうえ、話題がどうしても限られてしまうので、だんだん新鮮味がなくなってくる。その点投稿では、下はティーンエイジャーから上は八十代まで、毎日いろいろな人の書いたものが読めて、まるで食堂の日替わりメニュー。これを読むと、「私も書くぞ」と意欲が湧いてくるのです。


2002年05月13日(月) ふたつの後味

週末は夫と北海道へ。レンタカーで観光地めぐりをしたあと、苫小牧からフェリーに乗船。朝目を覚ませばそこは仙台、そこからは飛行機で帰ってきた。
さて、仙台空港内をお土産を探しながらうろうろしていたら、めずらしいものを見つけた。
手続きを済ませた人たちが搭乗を待つ出発エリアと誰でも立ち入ることのできる一般エリアはぶ厚いガラス張りの壁で仕切られているのだが、そのガラスをはさんだあちら側とこちら側とに電話機のようなものが設置されている。そう、旅立つ人と見送る人が出発の間際までガラス越しに話ができるように、という配慮である。
ラウンジでお茶を飲んだあと、搭乗口へ向かって歩いていくと、さきほどのガラスの前で若いカップルが別れを惜しんでいるのを発見。
見送るのは女の子。受話器を握りしめて人目もはばからずに泣いている。男の子のほうは周囲から丸見えなのが恥ずかしいのか、受話器は取らず、口パクで彼女をなだめている。ガラス越しに手と手を合わせたりしているのを見ると、こちらまで切ない気分になってくる。あまり見ないようにして通り過ぎる。
しかし、あんなふうにぐしゃぐしゃに泣ける彼女たちをちょっぴりうらやましく思ったり。私にはできなかったもんなあ。他人の目が気になるというのもある。でもそれ以上に、心配をかけるとわかっていながらあんなふうには泣けなかった。
でも、人生には分別や羞恥心といったものをかなぐり捨ててもいい瞬間がきっと何度かあるんだろうな。彼女を見ていたら、そう思った。

十代の少年少女がひとつのテーマについて意見交換をする、NHKの『真剣10代しゃべり場』という番組。
今回のテーマは十八才の男の子が提案した、「最近、ゴミの投げ捨てとか車内の携帯電話とか、他人に迷惑をかけて平気な人が増えていると思う。みんな自分のことばっかり考えていて、道徳心が薄れているんじゃないかな」であった。
その中で、
「俺は他人に『あいつはマナーが悪い』とか思われても、気にしない」
「目の前でゴミを捨てられたって、自分が被害を被るわけじゃなければ、べつになんとも思わない」
という意見が出てきたのには驚いた。あまりにも「本音」だったからだ。
売り言葉に買い言葉で口が過ぎた、という感じではない。本人もそれが賞賛されるものではないとわかっていながら、「けど、俺はそうだし」という気持ちで発言したのだろう。
この言い分を聞いて、私はある話を思い出した。ある雑誌で、「今のままの推移で出生率が下がり続ければ、日本人は七百年後に地球上からいなくなる」という記事を読んだ。朝のラジオでも「百年後に日本の人口はいまの半分、四百年後には二十七人になる」と似たようなことを言っていた。もちろんこれは計算上の話に過ぎないが、これを聞いたときに私の頭をかすめたのは、人口が減ることそのものに対する危惧ではない。
「子を持たない人間がどんどん増えていっても、少なくともいま程度の(暮らしやすさのある)社会というものは保ちつづけられるのだろうか」
という不安。日本に限った話でないならば、それは地球の寿命まで縮めることになりかねないのではとさえ思う。
具体的に「この子のために」と思いを馳せる対象がいる人と、自分と同じ時代を生きる人間との関わりしか持たない人とでは、未来の日本や地球の「無事」を祈る気持ちにおいてその切実さはやっぱり違うと思うからだ。
「ま、その頃、私は生きてないしな」になりはしないか。自分たちが生きている「いまこの時代」に焦点を合わせて物事を考えるようにはならないか。漠然とした人類愛というもので、人はどれだけ真剣に後世の人のことを思いやることができるだろう。
「親でない」すべての人がそうだとは言わない。が、アベレージを出したら、やっぱり「親たち」には敵わないだろうと思うのだ。
誰も千年先を想像することはできないけれど、親であれば、せめて孫子の代までは日本の平和と豊かさがつづいてほしいと祈るだろう。水と空気のきれいな、緑の残る地球であってほしいと願うだろう。
そういう「百年、二百年先のことなら考えられる人たち」が途切れることなく脈々と生き継いでいくことによって、結果としてさまざまな守るべきものが存続していくのではないか。私は人類が種を残そうとする本能を与えられたのは地球を生き長らえさせるためなのでは、とさえ思うのだ。
「自分に害が及ばなければ、他人が何をしようとどうとも思わない」を聞いてこの話を思い出したのは、「その頃、私は生きてないし」と本質が同じだから。どちらも、「自分」のところで思考が停止している。
空港の女の子の「人目をはばからない」と、番組中の男の子の「他人の目を気にしない」。一見似ているようだが、そのふたつが私に残した後味はまったく異なるものだった。

【あとがき】
あのガラスや電話機は、ある意味では残酷でもあるなと思ったり。見送りに来たほう、つまり置いて行かれるほうは恋人の姿が機内に完全に消えてしまう最後の最後まで、あのガラスにへばりついて泣きつづけなくてはならないから。まあ、それでも、一分一秒でも長く一緒にいたいんだけどね、たとえガラス越しではあっても。それが恋ってものなのよね。