過去ログ一覧前回次回


2002年04月30日(火) 地図が読めない

短期契約の派遣の仕事が今日で終了。帰り道の足どりも軽く、鼻歌まじりに駅の階段を駆け上がる。ほどなくやってきた電車に乗り込んでしばらく、窓の外を眺めていて気がついた。
「あれ?家からどんどん離れて行くーー」
私は電車を待つホームを間違えていたらしい。それに気づかぬまま、いつもとは逆の方向に進む電車に乗り込んでしまったのだ。ひと月ものあいだ、毎朝毎夕この駅を利用していたにもかかわらず。
他人がなんなくこなすことが、どうしても自分にはできない------これを認めるのは悔しいものだが、私にはひとつ、すでにあきらめの境地に達していることがある。
己の「方向感覚のなさ」についてである。そう不器用な人間でもないと思うのだが、これだけは「誰にも勝てない」自信がある。
とにかく地図が苦手だ。車の助手席に乗っていると、「ちょっと地図見て」と言われることがあるけれど、役に立てたためしがない。私は自分の進んでいる方向と地図の方角を一致させなければ、まず読むことができない。ゆえに、車が右折すると地図も右に九十度回転させ、南に向かえば上下をひっくり返す。
が、そうすると今度は文字が読みづらくなるのでいったん元に戻す。通りの名を確認してから、またひっくり返す。すると、あら不思議。さっきまで見ていた場所がもうわからなくなっているではないか。
おまけに、乗り物に弱い私は膝の上で地図をくるくる回しているうちに気分が悪くなり、えづきだす。びっくりした相手に「この役立たず!」とののしられ、地図をふんだくられるのが常なのだ。
先日、近くにオープンした『ヨドバシカメラ』に行ったときのこと。夫と「三十分後にここで」と約束し、地下一階の入口でわかれたはいいが、時間を過ぎても彼は一向に戻ってこない。
業を煮やした私が「いったい何分待たせる気?」と携帯に電話をかけたところ、「そっちこそどこにいるんだよ!」と私の倍ぐらいの怒り口調で返ってきた。私はワンフロア間違えて、ひとつ上の階で待っていたのである。
私が極度の方向音痴だと知り、「ああ、それで」と膝を打った友人がいる。
彼女が言うには、会話の中で私が「ほら、そこの角のコンビニの」とか「隣のビルの一階にね」と言いながら指差す方向にその建物があったことは一度もないのだそう。最初こそ「方角を勘違いしているのかな」と思ったらしいが、毎回毎回、私の指はあらぬ方向を向いているので、いつしか「身振り手振りが派手なだけで、この指にとくに意味はないのだろう」と解釈するようになったのだという。
ただでさえ働きの悪い方向感覚は、建物の中や地下では完全に機能停止してしまうらしい。
一時流行った『話を聞かない男、地図を読めない女』によると、地図を読んだり方角を捉えたりするには空間能力が必要なのだそうだ。対象物の形や大きさ、空間に占める割合、動きや配置などを思い浮かべ、それを回転させたり、立体的に見たり。つまり三次元的にものを見る能力のことであるが、これをつかさどる脳の部分は女よりも男のほうが圧倒的に発達しているという。
太古の昔から、男は獲物を追いながら距離を目算したりどんなに遠くにいても家のある方角を察知し、帰り着く必要があった。その狩人としての進化の名残だという。
空間能力の欠如。つまり、私は典型的な女脳の持ち主ということらしい。なるほど、それならすべてに説明がつく。
が、そうはいってもなあ。私だって駐車場に停めてある車までひとりで戻れるようになりたいし、カラオケの最中にトイレに立ったら部屋がわからなくなったなんてことにもおさらばしたい。街中でちょっと道に迷ったとき、一度でいいから「えーと、こっちが北だから……」なんて言ってみたい。
どうせなら、外から見えない脳みその中身なんかじゃなく立ち居振舞いにじみでる雰囲気が“オンナ”してるほうがよかったなあ。

【あとがき】
車で走っているとどの道も同じに見えて、つい「ここ、前に通ったよね」と口にしてけげんな顔をされることがあります。「他の男とドライブしたときのことを言っているんじゃないか」と勘違いされたのでは、と焦り、「ほら、こないだ○○行ったときの道に似てるよねー」なんてあわてて説明しますが、言葉を重ねれば重ねるほど白けた空気が……。方向音痴はとりあえず不便です。


2002年04月28日(日) 親なんだから。

私は討論番組があまり好きではない。
といっても、『たけしのTVタックル』はたいてい面白く見ているし、『朝まで生テレビ!』もなにが気に食わないということはない。私がどうしても心安らかに見ることができないのは、「素人」ばかりが集められての討論である。
番組出演が決まるまでなんの問題意識もなかったに違いないタレント(RIKACOとか林寛子とか)がしたり顔で正論をぶっているのを見ると、「女の代表みたいな顔しちゃって」とむっとするし、笑顔を浮かべて頷くだけのアイドルには「これも仕事でしょ、意見のひとつくらい準備してきなさいよ」と言いたくなる。
一般人ばかり集まったのも苦手だ。とくに若者が理想論を並べ立てたり他人の意見に聞く耳を持たなかったりするのには閉口する。以前、「フリーターは是か非か」を討論しているのを見たことがあるが、煮詰まると「私がいつあなたに迷惑をかけましたか」「他人にとやかく言われる筋合いはない」などと平気で言い出したので、驚いてしまった。こういう番組に出演しておいてそのセリフはないだろう。
しかしながら、昨夜NHKで放送していた『真剣10代しゃべり場』は興味深く見せてもらった。公募で選ばれた十代の少年少女十一人が持ち回りで用意したテーマについて意見を交換する、司会者、台本、結論なしの番組である。
今回のテーマは高校一年生の女の子の、
「私のママは三回離婚しています。私はママとふたり暮らしで幸せだけど、まわりからは『かわいそう』とか『躾がなってないんじゃないの』とか、偏見の目で見られます。たしかにママは親というより、女として生きていると思う。でもそれっていけないことですか。離婚っていけないことですか」
という投げかけであった。
主張は案の定、離婚反対派と肯定派にわかれた。
「好きで結婚しておいて、身勝手じゃないか。『両親揃った家庭』という子どもにとって一番の場所を取りあげる離婚は、子どもとして認められない」
「でも、うまくいかない親の元で暮らすことこそ、子どもにとって最大のストレスだ」
「夫婦ふたりならともかく、親であるなら子どものことを最優先に考えて、別れずにすむ方法を選ぶべき。結婚、離婚を軽く考えすぎている」
「だけど、どれだけ話し合っても解決できない問題はある」
飛び交うのは、こういうテーマなら出てくるだろうと予想できる意見ばかり。やっぱり十代だなという感じで新鮮さはない。
しかし、四十五分間のやりとりを見ていて、私が感じたことがひとつある。それは、不仲な親を見て育った子どもは年齢以上に大人びるということだ。
両親が不仲、もしくは離婚している家庭に暮らす五人が言う。
「親がけんかしたり虚勢はったりしている姿が子どもっぽく見えてね。僕が守らなきゃこの家庭はもたないなと思った」
「人生一回きりなんだよ?自分のために、親に親として生きることを強制するなんてできない」
「親には我慢をさせたくなかった。だから『離婚してもいいよ』って言った。だけど自分が親になったら、もし相手とうまく行かなくなっても離婚はしたくない」
私なら大丈夫、お母さんの人生だもの、したいようにすればいいよ------もっとも多感な年頃にして、この理解の深さ、ものわかりのよさ。精神的に親と子が逆転してしまっている。
現在とりたてて問題のない家庭に暮らすメンバーが「子どものために生きるのが親でしょう?」と、離婚によって被る「子の損害」に焦点を置いた主張に終始しているのとはまるで対照的であった。
前向きに生きるために離婚という選択肢を必要とする夫婦が存在する以上、それに是も非もない。それぞれの家族がそれぞれの離婚を「是」にする努力をするのみだ。
「親を許し、現実を受け入れることで、強くなれた気がする」
「私がしっかりしなきゃって考えるようになって、自立できた」
「私はぜったい失敗しない。子どもは仲のいい温かい家庭で育てる」
親の離婚という「喪失」から、彼らが得たものはたしかにあったようだ。しかし、それでもやっぱり、これは子どもにとって味わう必要のない苦痛だ。いじめと同様、しないで済むに越したことのない種類の経験である。
少女が言う。
「ママは親っていうより友達。お互いの恋愛について相談したり、朝まで話し込んだりする」
女対女の付き合い方ができるというのもすてきな関係ではある。しかし、友達親子であっても、ふたりの立場は母と子だ。たとえどんなにしっかりしているように見えても守ってやるべき子どもだ。なのに、親が十五や十六の息子、娘に心配かけて守られてどうするよ。
「親なんだから」と私は言いたい。うまくいかないものはしかたがない。あとにつづく言葉は「耐えがたきを耐えろ」ではない。
ただ、親たちの決断を「これも運命」と受け入れるしかない子どものために「しっかり頼むよ、お父さん!お母さん!」という気持ちだ。

【あとがき】
幸せの形は人それぞれ。だけど、子どもはやっぱり年相応でいられたほうがいい。大人になったら自分の行動に責任を持ちましょうと言われたけれど、人の親になったならなおさらだ。夫婦円満が子どもにとって一番の幸せだと思えば、日々の生活の中で軽々しい行動、無責任な行動はお互いに取れなくなるんじゃないでしょうか(夫婦の会話をなおざりにするとか、育児を妻にまかせっぱなしにするとか、浮気とかね)。


2002年04月25日(木) テキストの採点

先日、ある方からいただいたメールの中にこんな一文があった。口はばったいけれど、書いてしまおう。
「小町さんの文章は熱いけども、決して説教じみてはいないので好きです」
なんだこいつ、自慢してんのか、と言われてしまいそうだが、そうじゃなくて。私が言いたいのは、「文章が熱い」の部分に新鮮な驚きを感じたということである。
日記を書くようになって一年半。メールや公共の掲示板で、いろいろなコメントをちょうだいしてきた。日記の内容に対する感想であったり、「もっとおっかない感じの人かと思ってました」的な、私の印象に触れたものであったり。しかしこういう一文、つまり私の書く文章全般に対してどういう印象を持っているかについて述べられたものをいただくことはあまりなかった。
私は一話一話の内容についてどう、というのではなく、私の書くもの全般に対して人がどういう印象を持っているのかについて、とても興味がある。私は自分の文章の傾向を「堅い」「生真面目」「過保護」と自己分析しているのだけれど、「熱い」という言葉は思い浮かべたことがなかった。それゆえ、この表現をとても新鮮でおもしろいと思ったのだ。

話が変わるようだが、「たかが趣味」と言いつつ、web日記を実はけっこう気合を入れて書いていたり自分のテキストを作品として捉えている人は案外大勢いるんじゃないだろうか。そんなあなた、第三者に自分の「文章を紡ぐ力」がどれだけのものかを評価してもらいたいと思ったことはないだろうか。
私はある。書く能力や書いたものの巧拙のほどを然るべき人に採点してもらえないものかなと思う。が、これがむずかしいのは、誰にでもお願いできることではないからだ。
テキストを「料理」にたとえてみる。私たち素人が料理の出来を判断するとき、基準にするのは「自分好みか、否か」という点である。好きな味であれば「これ、イケる」、そうでなければ「おいしくない」に分類される。
しかし、その道のプロ、たとえば料理評論家と呼ばれる人たちはそういう観点で料理の完成度やシェフの腕前を判断することはない。素材の持ち味は生きているか、火の通り加減は、食感は、味のバランスは、彩りは、料理と器の相性は、一皿食べてのボリュームは適当か。彼らはさまざまな切り口からシェフのセンスを、技量を、才能を見抜く。
それは、その人自身が食や調理に関する知識と経験、違いのわかる舌を持っているからこそできることである。
テキストも同じだ。人の書いたものを評価するには、読み書きのセンスはもちろんのこと、広い視野や知識も持ち合わせている必要がある。ふつうの人間がトライしても、感想の域を出ることはないだろう。
ここを始めて間もない頃、テキストサイトのレビューを売りにしたあるサイトに取りあげられたことがある。
「2000年秋に結婚された女性の方のページです。末永く続けてください。しかしこの日記の量では、なんか製作者がすぐに飽きてしまいそうな気がします」
誰でも彼でもがやると、せいぜいこんなものである。
少女漫画雑誌には、漫画家志望の人たちが投稿した作品をプロの先生方が審査するコーナーがある。
「絵的なレベルは高いが、エピソードが希薄。主人公の性格がわかりづらく、感情移入できない。人物を絡めたストーリー展開を」
「人物の表情が描けていない。顔の傾き加減、目や口の動きをよく観察して。セリフに頼らず、絵によって感情表現するように」
といった、技術的な欠点の指摘とアドバイスが掲載されている。
いいなあ、こういうの。思えば、正しい文章の書き方や作法なんてなにひとつ知らない。起承転結の組み立て方はおろか、句読点の打ち方さえも。
基本的な読み書きができれば、とりあえず不自由はない。が、昨日より今日、今日より明日、少しでもいいものを書きたいと思うなら、自己流ではある程度のところまでは達しても、それ以上の成長は望めない。
まずは現実を知るところから。「少女漫画グランプリ」のテキスト版、どこかにないかしら。

【あとがき】
という日記を書いた後、家にあった雑誌の中に「あなたの原稿を審査いたします」の文字を発見。「本を出版する------それは限られた人たちだけに与えられたチャンスではありません。まずはあなたの原稿をお送りください。私たちがていねいに拝見し、3週間以内に審査結果を正直にお知らせします」という出版社の広告であった。ふうん、正直に、ねえ。ためしに送ってみようかしら。もし送ったら、どんな結果が返ってきてもミエをはらずそのまんま紹介しましょう。


2002年04月19日(金) 人にお願いするならば

最近、私のメールボックスで不思議な現象が起きている。
一年ほど前、「友人からカスピ海ヨーグルトのタネをもらって育てている」と書いたことがあるのだが、いまになって「タネを譲ってください」というメールが相次いで届いているのだ。
先月の終わりから七、八通になるだろうか。中には某テレビ番組の制作スタッフを名乗る人からの「話を聞かせてほしい」というものもあった。
巷で流行しているんだろうか。それとも、『発掘!あるある大事典』や『おもいッきりテレビ』ででも取り上げられたのだろうか。いままでそんな問い合わせは一件もなかったのに、ここにきて大量発生しているので、同じ人物がメールアドレスを変えて出しまくっているのでは、と勘ぐってしまうほどだ。
いやいや、メールが届くこと自体はどうということはない。「暮れに帰省する際、世話ができなくなると思って、タネもろとも食べ尽くしてしまいました」と断りのメールを送ればいいだけの話だ(これ、本当)。
では、なぜあえて書いているのかというと。それらのメールをもらっても、私は「まあ!日記を読んでくれたのね」と素直に喜ぶ気持ちにはなれなかったからだ。
以前、海外在住のある日記書きさんがこんなことを書いておられた。彼の元には見知らぬ人から、「今度旅行に行くので、ちょうどいい服装を教えてください」「観光スポットはどこがありますか」といった内容のメールがしばしば届くのだそうだ。そして、そのテのメールの送り主は初めてやりとりするにもかかわらず、ろくに自己紹介もせぬまま、すぐさま用件を切り出してくるという。ガイドブックを見ればすぐにわかることを調べようともせず、人の手を煩わせることをなんとも思っていないらしいメールの送り手に対し、その日記書きさんは不快感をあらわにしていた。
それを読みながら、「たしかに感じ悪いよなあ」とつぶやいた私だったが、実はいま、似たような気分の中にある。
特徴的だったのは、「タネください」メールの中に、私の名を正しく書いてあるものが一通もなかったことだ。ちょっと探せば、私が「小町」だということはすぐにわかるのに、それらのほとんどに私の名は登場しない。
宛名があっても、メールのアカウントから「komachi20さんへ」としてあるもの、ひどいのになると、コピペで同じ文面をばらまいているのだろう、見知らぬ人のハンドルネームが記されているものまであった。
「こんにちは。突然ですが、お願いがあります。カスピ海ヨーグルトをわけてもらえませんか。お返事ください」
どれもこれも判で押したみたいに、この文面。名乗ってもいなければ、日記を読んだとも書かれていない。親しみのようなものをどこにも見いだすことのできないメールに、誰がなんとかしてやろうと思えるだろう。

こんなふうに思うのは、私がハンドルネームやサイト名といった固有名詞の扱いには思い入れを持っているからだろう。
誰かにメールを送るとき、私がもっとも神経を使うのは内容ではなく、ハンドルネームとサイト名を間違えずに書くことである。ひらがなか、カタカナか、漢字か。アルファベットの綴りは合っているか。宛名や住所を書き損じると新しいハガキに取り替えるように、メールを書くときもこの部分でだけは失礼はすまいと思う。
また、私はくだけた調子で書きたいとき以外は、冒頭のあいさつに相手の名を入れるようにしている。私の「○○さん、こんにちは」は、親愛の情と「あなたに書いています」のささやかな表明だ。
これはこちらの勝手なこだわりだから相手に伝わっている必要はないのだけれど、こんな私だから、用件しか書かれていないメールにはうんざりしてしまうのだろう。
人に何かをお願いするときには、それなりの気遣いやマナーというものがある。単刀直入も結構だけど、初めての相手にコンタクトを取るときくらいはそのあたり、ちょっと考えてみるといい。成果をあげたいのならね。

【あとがき】
日記を読んでくださった方から寄せられた情報では、先日『ズームイン!!SUPER』でカスピ海ヨーグルトが取り上げられて、「タネは市販していないので、手に入れたければネットをあたってみましょう」と案内していたのだとか。そういえば本文の中に書いた「某テレビ番組制作スタッフ」って、「ズームインを担当している〇〇」と名乗っておられたな。メールに「電話ください」とあったけど、連絡せず。フリーダイヤルならまだしも、どうして東京までかけなきゃいけないの。なにはともあれ、「なんで今さらカスピ海ヨーグルト?」と不思議に思っていたので納得しました。