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2004年11月28日(日) ジュリエット   律

「・・・大丈夫です・・・」
うっとりと蚊のなくような声で返事をしながら、わたしは彼の顔を見た。
間近に見える瞳の憂いが星のよう。長い睫毛ね、マッチ棒、何本乗せられるの?

「また、くるねー」
ジェニー姉さんに、思いっきりクシャクシャな笑顔をくれてやり、言外と表情で『捕り物お見事』とサインを送る。
足元がよたつく。みっともないなぁ(笑)。
ジェニーは目だけで微笑み、わたしを見送った。

店の外に出ると、まだ宵の口な新宿の街が口を開けて笑っている。
雨が降ったあとみたい。路が濡れ、ネオンもしっとりといやらしい。
もう一軒寄ってこうかしら。
クサッた気分に、毒を食らわば皿までなステキな『投げやり』が降ってくる。

どうしよう・・・
巣に帰ろうか・・・
帰りたくないな・・・

「ねえ」

突然背後から肩を軽く触れられ、ビクッとして振り向く。
わたしのナルキッソスが、少し前の時間に見せたのと同じ心配そうな表情で覗き込んでいた。
「ほんとに大丈夫なの?」
「びっ!びっくりした!なに?なんでここにいるわけ?」

声が裏返り腰がひけるほど驚いているわたしに、彼は照れくさそうにしながら
「ごめんなさい・・・。なんとなく・・・大丈夫かなって・・・」
そして、高めな声を低く厳かに抑えて
「ほら、街は物騒だからね」と付け加えてニイッと笑った。

突然クラクションが耳元で金切り声をあげ、大量の光を浴びたわたしは目を瞑り、躰全体がよろめいて車道の真中へかしいだ。
それと同時に腕を力強く引っ張られ、そのまま彼の腕のなかにすごい勢いで落ちていった。
車道脇で抱き合ってしまった。ドラマだわ、な展開をいま実体験しているわたし(密かに萌え♪)。
と、おちゃらけてみたけれど、ヒトの温もりをこんなに突然与えられるとドキドキして眩暈がする。わたしの唇のそばに、彼の冷えた鼻がすぐにあった。

「びっくりした・・・やめて? ボク体力ないんだから・・・」
わたしよりも、よほど動悸した鼓動を直に聞かせながら、彼は困ったように優しく笑った。

一緒に二軒目にいった。
彼は陽気によく笑う。
どんなに飲んでも品の良さを崩さない。
紳士のような優雅さと、少年のようなあどけない笑顔で話題も豊富。
こんなに飽きない魅力的な男、素人じゃないよね。
と、思っていたら名刺を渡された。

『レイヴン ロミオ』

「ロミオ?」
「そう、遊びにきてよ」
「はは・・・」

ホストだ。
ロミオは、赤い液体の入ったグラスを長い大きな指でなぞりながら、こともなけに言葉を続けた。
「でね、本名は山村常男っていうの。」

言葉も出なかった。

色んな思惑が怒涛のようにアタマの天辺からつま先までドドーーッと流れ落ち、一瞬・・・有り得ないけど『どっきりカメラ』かしらとか『ロンブー』かしらとか、後ろを振り返りカメラを探してしまった。
爆 爆 爆  は は は・・・・・
ウソでしょう??????

「あんた、山村常男なの???」
「そうだよ、へん?」
「それ、ほんとの名前?」
「は???」

ロミオもしくは常男はわたしの顔をいぶかしげに見ながら、タバコを取り出しテーブルに打ち付け(癖なのね)、火をつけふかし、そしてまたわたしを見た。

「本名言わないほうがよかった?これでもボクにとっては特別のことだったんだけど」
わたしはそれには答えず(既に相当、酔っぱらっていた)今アタマのなかに閃いた質問を彼に問い掛けてみた。

「ね、どうしてわたしを追いかけてきてくれたの。」
「どうしてって、あなたは特別なひとに見えたから」

彼の言葉に火を噴きそうなくらい心臓が裏返る。
しかし直後の言葉は、絶対零度の冷えと強度と瞬発力で、とことんわたしを叩きのめした。

「ジェニーさんが、あなたをとても気にかけているように見えたからだよ」


2004年11月24日(水) 淵   嵬

それにしても、見れば見るほど美しい。
“経験”という名の垢にまみれ、今夜一晩だけを取っても、いろんな感情が渦巻いて悶々としている人間の眼には
眩しいくらいだ。
ヒゲもニキビも知らないような白くて滑らかな肌。
通った鼻筋。長い睫毛。カタチのいい唇。
何より、やや憂いを湛えたような瞳―――もう完璧。
スレンダーな躰に纏ったスーツは上等そうで、中に合わせたシャツとネクタイが互いの色を引き立て合っている。
センスがいいのね。
きっといい会社(トコ)に勤めておいでなのだろう。もうオーラからして、こんな店に出入りする客とは明らかに違う。
そんな仔猫が、一体全体なにを間違って、こんな場所に迷い込んで来たのだろう?
そしてなぜ対極に位置するかのような駄猫に恋をしてしまったのか?
不思議だ。不思議すぎて眩暈がする。今頃安い酒が回ってきたのかしら・・・。

他にわたししかいないカウンターに、ふたつほど席を空けて、わたしの右側についた彼の声が頭に響いた。
残念。その声じゃダメよ。
ベタベタした喋り方もイマイチ。
煙草を咥える仕種も、まだまだ青い。
香水だって、あのアイドルがつけてるのと同じ。
そうよ。まだコドモだわ。
だけど・・・・・・
その憂いの瞳にジェニー姉さんだけを映し、嬉々としてお喋りを繰り出す彼の表情が、なんだか悔しいのよ。
今、出会ったばかりの、一言おざなりな挨拶を交わしただけの青年に、わたしの五感すべてが向かって行ってる
この状態が悔しいの。
失恋して間もないのに。
その傷も完全に癒えてはいなかったはずなのに。
恋の始まりはいつも突然・・・なんてね。
こんな手垢のついた文章を頭に思い浮かべてるウチは、わたしもまだまだ三流だわ。

それにしても彼はジェニー姉さんの、一体どんなところを好きになったのだろう?
聞きたい。どうしても。
でも聞けない。
きっとジェニー姉さんは、わたしの秋波を敏感に察知し、わたしが瞬時にして彼に惹かれたことに気づいてる。
ううん。きっとずっと以前から判ってた。
だからさっき、あんなに時間を気にしたのよね。
さっさと追っ払おうとしたのよね。
幸いにして一度も取り合い沙汰になったことはないけど、わたしとジェニー姉さんのタイプは、
笑っちゃうほどリンクしてるもの。
だけど違うのは、わたしがそのテの類に全くモテないのに対し、彼女は結構な打率でモノにしてるってこと。
なんでわたしじゃなくアレな訳?と思うと、腹立たしいこともあったけど、別に深刻じゃなかったし、
笑って流せるようなことだった。
これまでは。
でも今回は違う。
それくらい彼は、わたしのストライクゾーンど真ん中だった。

出逢った順番とか、どんな馴れ初めか、とか、そんなことは吹っ飛んでいた。
なぜいつもジェニー姉さんなの?
わたしだって同じタイプが好きなのに。
好いてもらえるよう努力したこともあるのに。
なんでわたしじゃダメなのよ?!
ああ。ジェニー姉さんの勝ち誇った笑い顔が見えるようだわ。
もしわたしが何でもないフリを装って、あんなことやこんなことを根掘り葉掘り聞いたりしたら、
ジェニー姉さんは全て見通してしまうだろう。そこにどんな感情が込められているか。
そんな不様なマネ、したくない。
だから聞かない。
聞いてなんてやるものか、絶対。
ジェニー姉さんの“お手つき”なんて、こっちから願い下げなのよ。

ああ。今夜はいつにも増してサイテー。
くだらない自尊心に侵食されて吐き気がしてきた。
正気を保ったまま家に帰れるかしら?
と、突っ伏してしまいそうになったわたしを、ふわりと柔らかい空気が包んだ。
「あの・・・大丈夫ですか?」
朦朧としながら顔を上げると、今夜見つけたわたしのナルキッソスが、心配そうに覗き込んでいた。


2004年11月20日(土) 千の夜   律

嘉藤千夜(かとう ちや)は、わたしの脚本(ほん)書き用のペンネームだ。
しかし両親一族郎党以外、友人知人には『千夜』で通し『千夜』で通されている。

そう、はしくれセレブ、本物の『貴族』が聞いたら、腹で茶
を沸かせるほどのネームバリューだろう。

それでも、これまで付き合ってきた男たちは、わたしのなけなしの「名声」に対して良い意味でもそうでなくとも歯牙にかけない野郎どもだった。
つまり、わたしがナニモノで、どこから来てどこへ行くとしても気にはしなかっただろう。
誰も「見返り」など期待するヒトはいなかった。
その点では、恋人として「偽者」ではなかったと思う。
たとえ結果的には「本物ではなかった」としても。
いっぱしの失恋だ。
なんちゃって。
こんなことを思う程度は、わたしも自惚れる元気があるということかな。

今夜は、もう酔えそうにないみたい。
ブルドック三杯目でも、心が勝手に飛んでいってくれない。
天職と自認している架空世界をホンに現す作業を、苦痛と感じながら楽しんでもいた。それでも時々自分自身の渇きに息苦しさを覚えて頭が真っ白になることがある。
書けない。
書けない。
書きたくない。
書きたい。
モノ書きなら、一生蝕まれながらも折り合いをつけていくことだろう。

ジェニー姉さんに100万回も一喝され、自分自身100万回も立て直してきた感情線だ。わかっていながら、低迷する気分をもてあまして店に顔を出した。
酔えないから弱音をはけない(笑)。吐きたかったのに。
ジエニー姉さんは新しい杯を作りながら、妙に時間を気にするそぶり。
気になるのは、その隠そうとするところ。

なぜかな。


「あんた、今日は格別疲れた目をしているわね。これ飲んだら、シャワーなんか浴びずにぐっすり寝るのね。
休ませないと、働くもんも働けないわよ」
猫撫で声が、妙に癇に障る。
わたしの癖も気性もこのひとに知られていると同時に、わたしもこのひとのそれを知っているつもりだった。

心もとない一言は、すぐに伝わる。
彼女はわたしを心配しているのではなく、明らかに巣に帰したがっている。
少なくとも今夜は。

ちりりん

レトロな音を響かせて、入り口からサアッと風が吹いて、誰かが背後に着席する音がした。
それはあっというまの出来事で、ジェニー姉さんの顔が一瞬、色紙をかぶせたように暗く曇ったように見えたが、それはまったく気のせいかもしれない。
彼女は笑顔を絶やさなかった。

「こんばんわ」

低く抑えたような優しげな声で、彼は逢ったばかりのわたしに軽く微笑んだ。
「こんばんわ」
礼には礼を返した。

彼を振り返ったとき。
なんて言えばいいだろう。

そのヒトは一言で言えば、とても綺麗な「青年」に見えた。
ハッとするほどの。
思わず顔を赤らめるほどの。
ここで逢えたが百年目と思ってしまうほどの。
容姿端麗・眉目秀麗・満員御礼(笑)な美青年が、まさにそこにいたのだ。

彼は駆けつけ一杯目の品をどれにしようか悩んでいるふうに見えたが、二本の長い指で挟んだタバコをカウンターのテーブルに軽く連打して、どこから声が出ているのと思うようなスッ飛んだ高い声色で
「ジェニーーーさぁぁん!!}」
と叫んだ。

そのとき。
わたしの胸の奥に何十本もの針が刺さり、それがひきつって醜い嫉妬の形を作った。歪んだ居心地の悪さを痛烈に感じた。

彼は、ジェニーに恋しているのだと判った。

今のわたしは、超常現象も裸足で逃げ出すほどの優秀なエスパーかもしれない。
自分のことのように他人の恋心の深さを瞬時に知ってしまったのだから。
というより、彼があまりにも無防備で明け透けだったからなのだろうけど。

わたしは、恋に落ちてしまっていたみたい・・・。
しかも一目惚れという、如何し様もないはじまりで・・・。

二十幾年生きてきて、初めてだ。
好きになってしまった驚異的な速さ、それを知るのと同時にその相手が焦がれているであろう相手を知るのは。

ジェニー姉さん
あなたは偉大だ。

あなたの予防線を、役にたてることは出来なかったけれどね。

ひとめ見る、頭の先から足のつま先までをインプットする早業で恋に落ちてしまったよ。
ばかばかしいわね。

千の夜という名にふさわしい刹那的な激しさで、例え砕かれる想いだとしても。


2004年11月15日(月) 午前2時   嵬

 「で?」
 ジェニー姉さんは右手に持ったわたしの、まだ途中までしか書いていない原稿(脚本)に視線を落としたまま、
左手の人差指と中指に挟んだ煙草の煙に眼を細めると、溜め息をつくように口を開いた。
 「今度はファンタジーって訳?」
 口と鼻穴からもわぁ〜と煙を吐き出すと、カウンターに置いてあるクリスタル製の重厚な灰皿に、苛立たしげとも
取れるような仕種で、それをぎゅうと押し付けた。
わたしは嫌煙家なので、流れてくるメンソールの臭いに息を詰めて耐える。
 「相変わらず暗いわねー」
 ジェニー姉さんは、わたしが馴染みにしているショットバーのママ(♂)だ。
“ママ”と呼ぶと怒るので、客はみんな“姉さん”と呼んでいる。
 ママのくせに、なぜだかバーテンのような格好をしていて、これまた不可解でしょうがないのだが、髪型は角刈りが
ちょっと伸びた感じのオールバックだ。そう・・・「ソイヤ!」な感じ?
 どうやらかなり毛深いらしく、四枚刃のシェーバーで念入りに剃っても、わずか数時間で青カビのように
生えてくるヒゲ――目下これが彼女の最大にして唯一の悩みだ。もっと悩んでも良さそうなことが他にもあると
思うのだが――を隠すためのファンデーションが厚く厚く塗り込められている。
 けど、そこまでしても分かっちゃうもんだから、うっかり「青くなってるよ」なんて指摘しようものなら、
エライ勢いで先の灰皿が飛んでくる。
今までに何人の人間が、それで病院送りになったことか(たいしたことはなかったけどね)。
これは絶対に踏んではならぬ地雷なのだ。
 「これ、あの男のことね? まったくアンタったら懲りないわね」
 真っ赤な口紅を塗った分厚い唇がぷちゅっと突き出され、ヌラヌラと下品に輝いた。
はっきり言ってかなりキツイヴィジュアルなのだが、それでも男が切れたことがないってんだから世の中は不思議に満ちている。


 わたしはTVドラマの脚本書きを生業としている。これでも結構ヒットしたドラマをいくつか持っているのだ。
『男は三たび嘘をつく』とか『女の膝頭』が代表作と言えば心当たりのある方もいらっしゃるだろう。
あ、あと『コドモの秘密』とかね。
 大抵わたしの身の上に起こった身の下な出来事を脚色して(いないという声もあるが)書いているので、
そんなわたしを、みんなは「芸人脚本家」と呼ぶ。
体験を切り売りするような仕事の仕方を暗に嘲笑している訳だが失礼な話だ。
 それはさておき、わたしが脚本(ホン)をジェニー姉さんにお目通し願うのは、なんだかんだ言って
彼女の審議眼を頼っているからだ。
彼女ナシにわたしの作品のヒットはあり得なかったと言っても過言ではない。
 女性のタレントを売り出そうという時、プロダクション関係者は、その娘(コ)を連れ立って二丁目に
やって来ると聞いたことがある。
殊のほか女性に厳しいオネーサンたちに、ギョーカイでがっつり稼げるタマかどうか見極めてもらうためらしい。
そこでお眼鏡に適えば、その娘の将来もプロダクションの安泰も約束されるという訳だ。
真偽のほどは知らないが、あながち嘘でもないかな、と思う。
 ま、それと同じような理由で、わたしはジェニー姉さんの店に通っている。
もちろん脚本を読んでもらう時ばかりじゃない。
何かあれば、お世辞にもセンスがいいとは言えないこの席でクダを巻いてきた。
 だから姉さんは、わたしのことなら何でもよく知っている・・・。


 「ほら、ここ。“初体験”じゃなくて“未体験”でしょ。学習しないコね、まったく」
 こういった適言かどうかはもちろん、最低でも誤字脱字をきっちりチェックしてくる。
とても信じられないのだが、某・有名国立大学を卒業したインテリなのだ。
まだ男だった(?)頃の学生証を見せてみらったことがある(かなり笑えた)ので間違いない。
有り難いは有り難いのだが、少々ウザくもある。
絶対に言えないけどね、そんなこと。
 「それに女をたぶらかすようなイケメン男が今時“常男”なんて名前じゃ、視聴者が納得しないわよ?」
 「ワザとよ、ワザと。ギャップが面白いと思ってね」
 「・・・アンタ、まだ立ち直ってないんじゃないの?」
 今回の脚本は、わたしが半年前こっぴどくフラれた体験がベースになっている。
相手は優男のフリして四股もかけてた悪党。
その股がけしてたうちの一人、いちばん若い娘が妊娠した――どこからともなく流れてきた後日談で、それは想像妊娠だったことが判明したらしく、彼女もまた捨てられたとか――おかげで、わたしは負け組にエントリーされたって次第。
 このわたしが。
そこそこ売れっ子で、まぁまぁイケてるはずのセレブなわたしが。


2004年11月12日(金) あなたなしで   律

海原みち子は、嗚咽がとまらない唇を白い無機質な便器に向けた。
汚物が溢れ出す。
何度も何度も躰がバウンドし、酸っぱい味が喉から舌の先へと吐き出されていく。

飲みすぎた。
わかっている。
でも飲まないではいられない事情が、みち子にはあった。

八年付き合った上司の山村常男が、同じ職場の五歳年下の後輩、天堂ヤス江と二股をかけていたのだ。その事実は今夜、知った。
つい、さっき。

十五分前、みち子は新観コンパで居酒屋にて、飲み慣れない酒を連勺されながら、いつもの穏やかな笑みを絶やさないでいられた。
三段腹の部長。
貧相なキツネ目の係長。
はしゃぎ加減が「学生ぽさ」をぬけないウザい同年の課長、粒谷。

酌み交わされる杯。
繰り返される「乾杯」
意味不明な笑顔と低レベルな駄洒落。

煙と喧騒の向こうに見慣れた爽やかな笑顔は健在した。

少し、疲れた感じで気をつかって笑顔をふりまくあのひと。
少し、はずれた冗談で場をリラックスさせて、そっと陰で息をつくあのひと。
笑いシワが年の割に誰よりもあって、老練たちを懐柔していく・・・それが、私の恋人・常男。

恋人だった男。さっきまでは。

化粧直しに入ったトイレで、ヤス江が告げた。
常男によって妊娠したことを。

ずっとずっと付き合っていたことを。
視界が回る。
お酒のせいかしら。

違う。
正気が保てない。
信じていたことが、足元から崩れるってどんな感じ?
こんな感じ?
認識できない・躰いっぱいで現状を拒否して、こんなときに限って、彼の姿は見えない。
「行方不明」だ。
こんなときに限って、行方不明なのだ。
いつも・・・そうだ。彼は。
空気と流れを読むのがうまい。
気配を感じて、身を隠したり現したり。
魔術師のように、神出鬼没で抱きしめられて、噛んだガムのように放っておかれた。
そのアップダウンな愛し方から離れられず、八年を費やした。

そして、今、本当の正念場がきたのかもしれなかった。

下唇から滴り落ちるゲロ液をぬぐいもせず、みち子は無様だと過去を振り返っていた。

ふと、裾を引っ張る感じがして、その力強さに違和感を覚えながらも現実感が伴なわず、反射的にみち子はその力が発する方・・・袖口に顔を向けた。

小さな子供がいた。

とんがり帽子にダブダブのツナギのような服を着た、直径十センチ程のレトロな格好をした男の子だった。

彼はキラキラした輝く瞳で、みち子に話し掛けた。

「吐くって、どんな気分?ボク、まだ初体験なんだ」


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