書泉シランデの日記

書泉シランデ【MAIL

My追加

『奇想の系譜 又兵衛−国芳』
2004年11月30日(火)

『奇想の系譜 又兵衛−国芳』 辻惟雄

先日、又兵衛展を見に行った折に買ったちくま学芸文庫の1冊。原著は34年前に書かれたんだそうで・・・文句なしに名著だと思う。38歳でこれを書いたとは、闊達なものである。若書きの気負いこそないが、取り上げる絵師の魅力を世に知らせたいという意欲は随所にほとばしる。

江戸絵画史の中で異端とされがちな岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳の6人を論じたもの。今でこそ、よく話題にされる絵師たちだが、34年前には知る人ぞ知る、というレベルであったに違いない。正直なところ、私が日本の絵に関心を持ち始めたのは、展覧会で目にした若冲や国芳などに、日本の絵の持つ思わぬ側面に目を見開かされたからである。そのこと自体、辻さんのこの本に恩恵をこうむっているのかもしれない。

文庫だから図版が小さいのはやむをえないとしても、絵と文章がうまくかみ合って、論旨にとても説得力がある。文章もうまい。文飾が過剰にならず、さりとて、ぶっきらぼうな報告書風からは程遠い。大体、絵や音楽を文章で説明するのは、想像する以上に難しいことであるから、言葉だけが走ったり、あるいは紋切り型で真意が伝わらなかったり、と厄介なものだが、辻さんの文章は断然読みやすい。・・・ここでまた38歳かあ、とこなれた筆にため息がでる。

日本画はどうも、と思う人にこそ、こういう奇想の画家たちの作品は訴えるものがあると思う。なんとなく頭の中に出来ちゃっているステレオタイプとは大きく異なるはずなので。

★★★





落ち葉かき雑感
2004年11月29日(月)

日が沈む前に帰ってきたので(『走れメロス』みたい?!)落ち葉かきをした。本当は落ち葉なんかそのまんま放っておきたいのだけれど、積もった葉っぱで老犬が足をとられそうだったし、雨が一回ふると間違いなく汚らしくなって、掃除もやっかいなので、やむなく、である。イタヤカエデとカキ、ヤマボウシ、ヒメシャラといったあたりが落ち葉の製造元。

雨さえ降らなければ、落ち葉のまんまのほうがきれい。落ち葉かきをすると、地べたが露出し、芝のはげたところや、オオバコの類の雑草が生えているところなど、見え見えになってしまう。

ダイオキシン騒動以来、庭先焼却処分が出来なくなって、つまらない。子供が小さいときは集めた落ち葉で焼き芋をして遊んだ。芝生の上で焼き芋をしたので、翌年はその部分だけ芝がすっかりはげたこともあった(あほだ。農家のおばさんに笑われた。)。そういえば、老犬は焼き芋が好きだった。焼けすぎてこげこげになったのまで食べていた・・・あの頃は若くて元気だった。
 
それにしても落ち葉くらい焼いてもいいんじゃないかしらねえ・・・いつぞや植物学の先生に尋ねたら「塩基-clを持つものは、一応すべて問題があるんですよねえ・・・」と言葉を濁された。日常語訳するに、理論上は×だが、現実は○にしたっていいと思う、という響きであったけど。

大学の構内などでも、落ち葉の時期は日がな清掃の人たちがお掃除につぐお掃除。ん10年前の初冬の雨上がり、真ッ黄色にしきつめられた落ち葉のじゅうたんに感激した朝はもう来ないのね。

どうでもいいけど、ヨンさまニュースやりすぎ愚劣。おっかけるおばさん連中も暇だなあと思うが、マスコミは最低。友達が「純愛はドラマの中にだけ残り」という川柳を詠んでいたので、私もそれに和すことにする。

  韓流に乗って流れるオレの金 ・・・ヨン様ファンの亭主




年末よしなしごと
2004年11月28日(日)

昨晩の『ドン・パスクワーレ』、シラグーサ、きれいな歌唱で大変結構でした。話そのものは実にくだらないし、不自然ですが。シラグーサにはあんまりカリスマ性はないが、何ともいえず素直に伸びる声が魅力。ピアノ伴奏のアリア集はあるけれど、私としては古典歌曲を録音してほしいな。

さて、年末が近づいてくる。去年までは、某生協のお正月企画にあわせて、ミニおせちなどを買い、餅つき機にお餅をつかせ、一応はお正月らしい食卓を整えるということが続いていたのだが、その生協を止めたがために、今年はどうしたものかと思案にくれる。おせちの習慣を放棄すると、何やら親やら死んだ祖父母やらに申し訳ないような気がしてくる。とはいえ、面倒な割りにおいしくはないし、あきるし、胃の調子は狂うし・・・。

家族の人数が多いとお正月はもちろん、節目節目のイベントの思い出が充実しているのではないだろうか。両親と同居していてくれる兄一家のところに、お歳暮としてすき焼き用の肉を手配したのだが、それに決めたのは、ひたすら自分のノスタルジーだった。

家族みんなですき焼きをつつく、すぐになべの底が見えるようになるので、次々と具が追加される、誰が何を取った、というようなことで兄弟のいさかいが始まる、叱られる・・・今となると、これが本当に暖かい家庭の情景として思い出される。うちは3人家族だし、鍋の時期はなんだか寂しい。息子はそんなもんだ、と思っているのだろうけれど、一人っ子ってこういうところでも、ある種の経験からは完全に疎外されているんだなあ、と思う。


言ってみるだけ
2004年11月27日(土)

HD/DVD録画のデッキが時々話題になる。
i-podも話題にのぼる。
液晶テレビも登場する。
どれも「買えば〜」というところでいつも話が終わる。
夫も私も買いにいくのが面倒なのである。

昼時、宝くじで3億当たったら?という愚にもつかぬ話題が出た。
想像力の貧困な私は貯金することしか思いつかない。
いきなり金持ちのまねも出来ないしさ。

100万くらいなら使えるか、と聞かれた。
このくらいだと、なしくずしに生活費に化けそう。
それも勿体ないから当たった記念に金でも買おうか、といったら、
ヨーロッパへオペラ見に行けば、というので、
ああ、それもいいかも、と。

500万あると、アマチュアには贅沢なバイオリンが買える。
このくらいの額なら物に変えてもいいな。

で、誰か宝くじ買いにいってくれるの?
という頃には、テーブルには誰も残っていない。

宝くじって本当に当たった人はどうしているんだろう?
家買ったりするのかしら?

買わにゃ当たらぬ宝くじ

これから『ドン・パスクワーレ』見ます。
朝から3本目のオペラです。もちろんテレビ。
わたしゃこの程度の暮らしが似合いかも。


『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』
2004年11月26日(金)

『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』 金水敏 岩波書店

「鉄腕アトム」のお茶ノ水博士の話し方は実際にあるのだろうか?「博士」といわれるような人たちはああいう話し方をするだろうか?という疑問がこの本の発端である。 ― ノーベル賞を取った小柴先生や白川先生(島津の田中さんは若いからこの際除外)はどうだったかと思い出してみると、彼らが特殊な話し方をしていたような印象はない。普通のおじさんだった。

でも、私たちは普通にお茶の水博士の話し方を、そういうものだとして受け入れているし、同じマンガを引き合いに出せば、「エースをねらえ」のお蝶夫人の言葉も、そういうものだとして納得している。

実際に誰もそんな話し方はしないのに、なぜ?というわけで、ヴァーチャル日本語という概念につながっていく。それは類型的な人物造型と密接に関係し、その人物の役割を示す特殊な表現だと著者はいう。役割語か ― なるほどそうかも。

そういう表現が生まれる経緯も面白いし、役割語が一種の差別を助長しているという点も、確かにそうだと同意できる。が、背筋に冷たいものを感じたのは、今我々が普通に使っている<標準語>も明治維新後の臣民に与えられた一種の役割語=文化的ステレオタイプであるということだ。

常々私は言葉ほど民主主義的多数決で決まるものはないと思ってきた。多くの人が便利だと思う言葉は流行語にとどまらず定着する。悪名高い「ら抜き言葉」はその代表だろう。自称正しい日本語の使い手たちがなんといおうが、言葉は変化し続ける。しかし、個々の単語ではなく、大枠の<標準語>という大きな役割語が政府によって、マスメディアを通じて国民に送られ、定着していたのだ。う〜〜む、むむむむむ、気がつかなんだ。これはゆゆしいことですね。

著者の本業は文法である。そのためか、個別の社会言語学的問題にはあまり深入りをしないし、結論を急がないけれども、「役割語」という概念の持つ奥行きは十分に感じ取ることができる。論じる余地がまだまだ広く残されていそうな感も覚える。これからこの分野での論議が活発になると面白そう。

全体的には日常卑近なものから例をとって説明されているので、わかりやすく面白く、かつ懐かしく読める。言葉の好きな人には一読を勧めたい。
★★★



犬も月見る?
2004年11月25日(木)

獣医どのの言葉通り、ちょっと寒いなと思うと、老犬は変調を呈する。フリースの犬コートを着せているのに、冷え込みがあると老犬の体は正直に反応する。人でいうなら喘息のように息のたびにゼロゼロ音がするし、吐くようなそぶりをする。吐こうとしたって、肺にたまった水は吐けないのだよ、ちいちゃん。

仕方なく利尿剤を与える。何度か用足しに庭に出て、かさかさと枯葉を踏んで歩く。月の光に犬と人の影がおちる。葉を落とした木の影も。月の光がわからないようなところには住みたくない。

牀前月光を見る、という漢詩が月の光と連動して思い出される。中学か高校の教科書にあった詩。月光の冷たさは漢詩にふさわしい気がする。たぶん日本語で受け止めるしかない私個人の言語的な限界のせいだろうけれど。

今日は月が明るいから、星を見るにはよくないが、冬空のシリウスは本当に美しい。あほな我家では、死んだらあの星に行くんだよと老犬にいって聞かせている。そこまで立派な犬かいな・・・。




『後鳥羽院』
2004年11月24日(水)

水曜日は会議の日ってことで、今日もむなしく長丁場。バカはあくまでもバカのまんま・・中くらいに賢い人は中くらいのまんま・・自分のことしか考えていない私は、やっぱり自分のことしか考えない。毎週、一皮一皮剥けるようにみんな賢くなれればいいのにね。

バカ1号=オヤジ2号が困るのは、話がいい方向へ動いているのに、その気配を感じられずにぶちこわすこと。おまけにこいつはカメレオンのような奴で(いや、そういったらカメレオンが気の毒か)、反論をされると、とたんに塩ナメクジのごとく、縮こまって、すぐ反論をした人の意見に乗り換える。同僚は「いいじゃん、簡単でさ。あんな動かしやすいオヤジいないわよ」というけれど、私は嫌だな。顔も嫌い、声も話し方も嫌い。オヤジに寛容なこの同僚は、当局からの紙きれには青筋立てて怒る。でも、私は目の前にいない人が作った書類には何が書いてあっても、あんまり心が動かない。面白いもんだ。

丸谷才一『後鳥羽院 第2版』のことを書いてこう。今、手許に本がないので、粗々にだけね。

最初の版が出たのはもうたっぷり昔だったと思うが、帝王にして稀代の歌人である後鳥羽院に目をつけて、たんねんにその歌を読み解いた若き日の労作である。読み自体には、なるほど、も多いと同時に、そうかねえ、もあるが、論を追うのはとても面白い。院の芸術性を持ち上げすぎではないかと思うし、先行歌との比較もしつこいぞ、と感じるが、でも、「読む」とは本来こういうことではないか。古典はこのごろ学者専用になってしまい、自由な読みに自主規制がかかりがちだが、それでは閉塞状況を招くばかりだ。丸谷才一のような人には、つまらん小説を書くのではなく、目利きの評論を書いてほしい。(稼ぎにはならんだろうけどさ。)

私自身は後鳥羽院やその周辺歌人を知らないほうではないと思うが、これを自由に味わうには不足もいいとこだった。引用歌が自家薬籠中にないと、感性の部分で共感するには至らないね。そらんじることが何よりだが、今となっては無理もいいとこ。慙愧、ざんき。

それにしても、教養不在の昨今、後鳥羽院=承久の乱=島流しされた天皇、という高校の日本史で習ったことが、どのくらい常識として人々の記憶に残っているだろうか。それがあるかないかで、この本に対する関心はひどく違ってくるのではないのかしら。

ご本人はもうこれで後鳥羽院はいいや、というところなんだろうが、できれば『時代不同歌合』を丸谷流に読み解いたものをまとめて読んでみたい。書いてほしいな。

そうそう、第2版を出すに当たってつけたした後鳥羽院の歌とモダニズムとの関わりは私には蛇足と思える。半端な比較文学的視点ってなにやら胡散臭い。
★★



ヲタ・・・
2004年11月23日(火)

ヲタ息子から携帯で外泊の許可を尋ねてきた。
今日は早く帰るといいながら、「夕食いりません」のメールをよこしたばかりではないか。だらだら遊ぶのは×。

外泊自体がいけなくはないけれど、ヲタ息子の場合、だらだらと一夜明かしたあげく体調をくずし、喘息を起こすという道筋が見えているので、不許可を出す。(大体、昨日も一日ヲタ活動に励んでいたから、今朝すでに体調が△だったじゃないか。)大学生にもなっていちいち親の許可では気の毒なこって、と思わなくもないが、それが嫌なら自立しろ、といわなくてはならない。

大体、学祭の初日の午前中にオケ公演をした直後から、楽器は親にあずけて、午後はヲタのイベントに行き、翌日もヲタ、今日もヲタ・・・ヲタで世に出たいなら、文転してそれに関係することを学べ、と去年の今頃何度いったことやら。

誘われると尻尾を振ってどこまでもついていくところは、オヤジそっくりである。

おまけにヲタ仲間は信用度が低いのでなおのこと許可が出ない。大学生って本人たちの考えているよりはるかに身を持ち崩す可能性が高いと思う。大体プライドの高い連中が集まっているし、子供の能力を過信している親も多い学校だから、いったん崩れだすと回復不能になっていく連中が結構いるのだ。大学入学が栄光?の頂点みたいな連中。・・・かくいう私も崩れかけでがけっぷちを見た人なので、余計心配する。若いときに勉強しないと、後で取り返しがつかないんだからね。

子どもというものは保育園から大学まで、「みんな・・・だ」というフレーズを口にするけれど、あの<みんな>こそ、<今付き合っている都合のいい仲間>と定義しなくてはならない。先だっても息子いわく「みんな何かかんか単位は落とすものらしいよ」 ― ヲタサークルだけだって!<みんな>が落としているはずないだろうが。

今日は一日楽しかったのに、夜になってこういうやり取りをすることになり、全くヲタが悪い


前振りは庭木、そのあとS学会
2004年11月22日(月)

夏みかんの木がたわわに実をつけた。徒然草の第十一段を思い出す(「神無月の頃、栗栖野といふところを・・・」)。高校生のとき私はなぜ兼好がそういうのかさっぱりわからなかった。庭木好きの多いこの住宅街に越してきて最初の冬、青空を背景に実をつけた夏ミカンの木を見かけた途端にその謎が解けた。うちのは死ぬほどすっぱい苦い夏みかんであるが、肥やしもやらないのに毎年よく健闘してくれる。老犬の貢献だろうか。

金柑もよく実をつけた。以前はこれでマーマレードを作った。洗面器に一杯収穫して、やっと一瓶できるくらい。なにしろ金柑1個から1ccくらいしかジュースがとれない。でも、さわやかなおいしいマーマレードになる。(ただし実のサイズは市販品の3分の2くらい。)暮れの忙しい頃に面倒なので、2,3年前からマーマレード・プロジェクトは中止。実も木も放置。老犬は地面に落ちた金柑を溺愛します。そういえば、この犬は姫シャラの実も必ず口にするなあ。

今年のヒットは鳥のおみやげの南天が赤い実をたくさんつけるようになったこと。長いこと、塀際に倒れ掛かったもさもさ騒々しいブッシュでしかなかったが、今年はまあまあ愛らしい。今のうちにネットをしておけば、鳥に食べられることもなく、お正月に使えるかもしれない。でも思ってみるだけで、そんな面倒なことをする御仁は家にはいない。(今年はブルーベリーもたくさん生ったが全部鳥の餌になった。)

島田裕巳(オームのとき、ワイドショーでドジな発言をして結局ポン女を辞めた宗教学者)の書いた『創価学会』 (新潮選書)のことを書こうと思ったのだけれど、だんだん面倒になったので、簡単に。

学生の書いたレポートみたいな本。参考文献を読んでまとめただけみたいな印象で、宗教学者としての島田さんの目がどこを向いているのか、私にはようわからんです。創価学会の歴史的経緯みたいな基礎知識はわかりやすかったけど、一度は宗教学者の看板を上げた人がこんな程度の本でお茶を濁していていいのかしらん。物足りない記述ばかり(スキャンダラスであれ、ということではありません)。

新潮社はこのところずっと創価学会の敵だった。この新書ではそのあたり、本当に軽〜く、軽〜く。別に敵対しなくてもよいのだが、ここまで軽くていいものだろうかね・・・もしや、さりげなく和解を申し入れている本だったりして??



音楽よた二つ
2004年11月21日(日)

学祭で、息子のオケの発表があるというので、聞きに行く。12月の定期公演の下さらいみたいなものである。当然、期待はしていない。

・・・それにしても情けない演奏だった。高校のオケも下手だったが、それはそれでエネルギーと主張があった。けど、これは・・・。彼がオケでひくのは好きだが、このオケにはイマイチ打ち込めないという状況がよくわかった。

ヴァイオリンは構えを見れば、うまいか下手かがかなりわかる。プロのオケのバイオリニストたちを見ると、弓の動きや体の動きがよく揃って波のようで目に心地よい。しかしアマ・オケだと、それがばらばらで、目障りである。アマ・オケでも弓のアップ・ダウンはもちろん揃えるのだが、その音を弓のどこでひくかまでは、いちいち教えられないことが多いらしく、皆自己流で強引にやるので、動きが乱れてしまう。息子のオケなんてまさにその見本みたい。大体、姿勢が悪くていい音の出せる人はいない。(ナイジェル・ケネディは例外中の例外)そんなわけで音楽に集中できなかった。もっと基本の姿勢を大事にしてもらいたいなあ、と思うばかり。

ま、問題は弦だけじゃないのだけどね。金管楽器のピストン壊れているんでしょうか、といいたくなったし。こんなオケを笑顔で指揮してくれる一応プロの指揮者さんは人格者だなあと思う。それとも坊ちゃん嬢ちゃんのお遊びだと割り切っているのかしら。

12月の本番にはもうちょっと聞けるようになって欲しい。恥ずかしいです。(ここまで書いてカンパし忘れたことに気付く。)

さて、これを書きつつ片目で見ている『愛の妙薬』ネモリーノ役のアキレス・マチャード君がなかなか素晴らしい。前にマントヴァ公(『リゴレット』)を歌うのをテレビで見たが、そのときも感動の歌声だった。確か拍手に答えて、同じアリアを2度歌った。

豊かな声量で深みのあるつやつやした声。おまけに演技もうまい。惜しむらくは、まったく惜しむらくは、ちび・でぶ・童顔の3拍子であること。ネモリーノ役はこの人のためにあるような役柄でいいけれど、テノールって大体2枚目役だからねえ、セックス・アピールがなんぼかは必須でしょう・・・でも、マチャード君が来日したら絶対聞きに行かねばならない。これからの活躍も楽しみ♪


昨日はちと早計だったかも―『悲しみの港』
2004年11月20日(土)

本題の前に一言。
今日も仕事でした。出先から職場に戻るとき、新横浜で乗り換えだったので、駅ビルのラーメン屋で昼食。「ねぎ水菜チャーシュー麺」を頼んだのに、出てきたものには貝割れがこんもりと。間違えたのかな、と思ってよ〜く見ると、チャーシューの下に水菜がちらほら、で、ねぎはいずこ?さらに目を凝らすと・・・ああ、ねぎだ。

なんだか納得いかないなあ、と思いながらいただきました。味はまずまず。伝票の裏には「職人が手間ひまかけて慈しんで育て上げたスープと麺・・・」の文句。私の語感じゃあ「慈しんで育て上げる」ものといえば、いくら譲歩しても農作物までなんですがね。鶏がらの鶏なら、まあ慈しみもいたしましょう、生きているうちは。

大体、「職人が手間ひまかけて」と勿体ぶるのもお金を払うお客に対してどうかと思うんだけれどねえ・・・手間ひまかけるのが当然なんじゃないの?それで商売しているんだからさ。

さて、 『悲しみの港』読了。前半部では主人公の感情につきあうのがすごく厄介でつまらなかったのですが、次第にがまんできるようになり、最終的には、このどこか私小説めいた作品をよく出来た小説だなあと思うまでになりました。よく出来た、というのは、一つには破綻がないということ、もう一つは、この形をとらないと伝えられないだろうな、と感じられるような、主人公の精神的成長、周囲のいろいろな人への愛情や感謝、文学を目指す決意などが包括的に描かれていると思ったからです。藤枝という土地の地域性もうまく生かされ、杉崎たみという骨太婆さんの人物造形がとても魅力的です。

昨日の段階では恋愛小説か、と思っていたのですが、むしろ主題は主人公の成長・脱皮で、恋愛はきっかけに過ぎないようです。前半部で妙にうっとうしかった主人公の独白が、次第に意味のあるものとして聞こえてくるようになり、主人公につきまとっていたある種の重苦しさが消散していくことに気付いたとき、小川国夫の手腕に感心しました。見事です。やっぱり前半部の主人公はつまらない嫌な奴なんです。

しょうがないなあ、と思って、読み始めたのですが、これは教えてくれた知人に感謝をするべきでしょう。ただし、これが好きか、といわれると、やっぱり私にとっては好きなタイプの小説ではありません。


「源氏物語」はすごいんだけど・・・
2004年11月19日(金)

朝、息子のおかげでもたついて、特急に乗る羽目になる。
楽でいいんだけれど、余分に1200円も払わないといけないし、それ以上に行楽客に混じって自分だけ仕事、っていうのが精神衛生上よろしくない。

ひさしぶりに「源氏物語」を取り出しみた。
「葵」「賢木」のところだけ、ちょろっと読んだ。その時代においても、今においても卓抜した作品だなあと思う。どうして彼女だけにあんなことが書けたのだろう?人間観察の目が卓抜しすぎよ。「源氏物語」に比べれば、清少納言はもちろん、和泉式部も道綱母もかわいいもんだ。彼女たちは自分の感情に拘泥しているだけなのだから。

自分の感情といえば、あまり親しくない知人が「いいですよ〜」というので、おつきあいの一環に小川国夫の小説を読んでいる。適当に図書館で借りてきたので、その作品の評判は知らないのだが、『悲しみの港』という。小説家を志して、でも結局田舎へ帰ってきた男と、彼の作品を読ませてくれという若い女との話のようだけれど、主人公の男の一人称小説である上、入れ子スタイルで作品内部に別の小説があったり、夢の話があったりと、めんどくさいったらありゃしない。感情に拘泥した部分が多いのはとっても厄介。知りもしない人が個人的な事情をどう悩もうとわたしゃ関係がないんです。

なんとか半分ほど読んだのだが、挫折しそう・・・でも、つきあいだから最後まで頑張ってみようか。あ〜、めんど。どの作品がお勧めか、まで聞いておけばよかった。

たぶん何にせよ、しゃべりすぎはうっとうしいよね。古典はあっさりしていていいっす。



たまには自分のヴァイオリンのことも
2004年11月18日(木)

午前中、ヴァイオリンのレッスン。午後から仕事。
今回、エチュードが美しくひけて、とりあえず満足。でももう1回見てもらうことにする。エチュードが歌えるようになると、結構楽しい。(まっとうな曲はそこまで行きつけない。)曲があがると子どものときはうれしかったが、大人の今は「あ〜、新曲、めんどくさ〜」である。だって、そこそこひける曲を磨くほうが楽しいじゃありませんか。譜読みからえっちら、おっちらやるのってホント疲れる。

1曲を長くやると飽きるということをよく聞くけれど、私はどうもそういうタイプではない。長くひいていても、あらら、とその曲の新たな魅力を発見することが、私ほど下手でもどこかしら出てくる。この繰り返しに耐えるのは名曲だけ。それは文学と同じだなあと思う。「おくの細道」とか「徒然草」とか、古典は何度読んでも読むたびに、それまで気づかなかったことに気づく。駄作は逆に読むたびに最初の感動が色あせる。

今やっている曲は、教室仲間の高校生が中学生のときに発表会でひいた曲なので、そのときのCDを聞きながら練習する。音程や何や疵はあるけれど、いかにも青春の抒情を歌い上げているので聞きほれる。彼がメニューヒンの演奏だという同じ曲のCDを貸してくれたけれど、それよりよっぽど彼自身の演奏のほうが訴えるところがある。素人の演奏には、プロ以上にその人の感性があらわになるからだろう。その感性がなくて技術だけでひく素人の演奏ほど聞いてつまらないものはない。というわけで、彼と同じ曲をさらう私は、「青春の日は遠く過ぎ去り」という気分でひく・・・けど実際には、「中年老いやすく楽鳴りがたし」という気分に追いやられるのだ、ははは。



言わせてもらいます!
2004年11月17日(水)

いま、職場の組織改変をめぐって大騒動。こういう状況だと男のほうがだらしがないんじゃないか、と思えてくる。同じ職場に同じ立場でいるなら実力は女のほうが上、という説に与したくなる。

ジジイ1号は、上層部に対する感情的な批判だけは一人前なのに、そのくせ出かけていって「ふざけんな!」と言い捨ててくるような意気地はない。内輪の会議だと、高倉健にでもなったみたいな口ぶり・・・それもう、1年前から聞いてるって言うの。

ジジイ2号は、後ろ向きの愚痴とえらそうな理想論ばかりほざく。しかも長い。お前の発言なんか聞いてどうなる?私はこの人は、こういう事態を招いた戦犯の一人だと思っているから、何をほざこうが、聞く気にならない。この男のおかげで私は津軽人に偏見を抱くことになった。

ジジイ3号は無能なので実害はないが、学校だけは私と同じらしい。いまだに40年前の高校の実力テストの点数をマジで自慢する。聞きもしないのに発言の前振りに「私は○○大学を卒業しましたが」としょっちゅうほざく。それだけなら罪がないとはいえ、発言するたびに out of point のジジイである。失笑を買っても、それが理解できないすごい奴。私は一度こいつに軟派されかかった・・・世界中でこいつが最後の男だったとしても、ご免こうむります。悪いが、本当に病気なんじゃないか、と思う。頭悪すぎで心配になる。

私は絶対、あんたらと玉砕は嫌だからね!

同僚の名誉のためにいえば、マシな男も何人かはいる。でも、やっぱ女のほうが現実的。ダメ男は加齢とともに、ダメ指数がうなぎのぼり

それにしても、物事の終わりを考えるのは悲しい。個人が努力してもどうにもならないことがたくさんある。定年を迎える寂しさがちょっとだけ想像できた。


『グアヴァ園は大騒ぎ』
2004年11月16日(火)

『グアヴァ園は大騒ぎ』 キラン・デサイ /村松潔 訳 

インドで生まれ、10代後半からは英米で教育を受けた新人作家の作品。執筆当時はコロンビア大学の学生だったとか。

スラップ・スティック・ムービーはあるけれど、この小説はスラップ・スティック小説である。郵便局勤めの冴えないサンパトが局長の娘の結婚式のときに、ついに切れて、パーティー会場でお尻を見せるような醜態に及び、当然、首になる。サンパトは家出をして廃棄されたグアヴァ園の木の上で暮らすようになるが、ほどなく家族に見つかる。

家族が息子を普通の生活に戻そうとするのもつかの間、抜け目ない父親は彼を「聖者」に仕立て上げる。彼の発するどうってことのない言葉が、急にご託宣となり、信者が果樹園へと押しかける。それを目当てに父親はみやげ物などを売る。その間、サンパトの木上生活にさまざまな工夫がこらされ、地上に降りずとも、快適な毎日が約束され、木の下で母親は料理に励む。父親は、株投資のために、せっせと貯金をする・・・これだけでもかなり、どたばた劇なのだが、それに加え、街の映画館に出没していたいたずらな猿とその仲間やら、アイスクリーム売りに恋する妹やら、そもそも多少狂気がかった母親やら、母親の料理に麻薬が入っているのではないかと疑うスパイやら、いろんな人が出て来て、題名どおり大騒動

どうも息子の「聖者性」はグアヴァの実とも大いに関係がありそうだ。

どたばた劇の中に、時々寓話的な部分があり、悪ふざけにあふれたスピーディな展開である。それ以上でも以下でもない。サンパトの言葉は含蓄に富むようでもあるが、くだらない与太のようでもある。同様にこの作品も人間の存在を風刺するようでもあが、単に笑い飛ばしているだけのようでもある。才気あふれる若い子が書いたというのが、もっとも至極である。

★★ (新潮社)



なつかしや、 お子様バイオリン
2004年11月15日(月)

来年のバイオリン発表会に向けての保護者打ち合わせ会に行く。息子は今春先生を変えたので、私はOBの母で楽隠居なのだが、世代交代が進んでいないので、推し進めに出席。要するに若いママたちに仕事を押し付けるために行く。

うちの先生は音楽以外のこととなると、蚤の心臓なので、保護者が守ってあげなくっちゃ、という心境。したがって、発表会がらみの会計その他雑用全般を保護者会で行う。実行委員長は以前から別の人がやっていてくれるのだけれど、古株のおばさんが一人いるほうが何かと便利なので、これまで使われてきた。やり手の実行委員長の暴走を止めたり、話し合いを適当に進めたり、と、そんな役回り。(考えてみれば、私はどうも実行力のある人の調整役みたいな仕事をすることが多い。猛獣使いといわれたことも・・・。)

なかなか充実した話し合いとなり、世代交代も無事進み、夕食時にその会の話となった。息子が「ぼくは最初の発表会で何をひいたんだっけ?」というので、13年前の録音テープを取り出して、家族一同大笑い。ほとんどエンドレステープのように単調なゴセックのガボットが入っていた。リアルタイムで聞いたときは、小さいのに立派なもんだ、と感激したのだが、今聞くと、こんなものにつきあわせてお客さんに申し訳なかったと思うばかり。

そのあと、9年前のものを聞く。エックレスのソナタであった。このときは、会場で聞きながら、叙情的なフレーズがよく歌える子だなあと思ったし、今聞いても、その印象は変わらない。だいたい、彼は今でもそういうフレーズが得意だ。

このときのテープに、親の私がデュオをしたのが入っていて、これには涙がでるほどの大爆笑。相方は都内の区立保育園のいまや園長先生なのだが、ご詠歌のごときスローテンポ、ノン・ヴィブラートで粛々とひいている。音程は常にふらつき、はらはらさせるし、おまけに途中で、ぱたっと音が止まる(相方が忘れた)。よくぞまあ会場の人が黙って聞いていてくれたものだ・・・以降、先生は大人の生徒にソロをやらせない。

すっかりなごんだあとに、先生がよくぞここまで教えてくださったものだと電話でお礼が言いたくなったが、言われたほうは突然で面食らうだろうから、やめにした。バイオリンってまともにひけるようになるまでに、凡人の場合は案外長い時間がかかるものだなと思う。



図書館のことなど
2004年11月14日(日)

土日に何も予定が入らない週末は久しぶりである。今日も一つ間違えば、お酉さまに入谷まで行かねばならないところであった。

地元図書館へ行く。大体、1人12冊2週間なんていう貸し出し量が間違っていると思う。2週間で12冊消化できるのは、読書専従の日々を送るご老人か、次から次と読んでやるのがご教育と思っている子連れママだけではなかろうか。図書館へ足を運ぶ難しさを慮ってくれているのなら、12冊1ヶ月にしてくれたらいいのに、なんで2週間なんだろうか。

私は昔の規定に従って7冊借りた。いつもと同じく延滞するに決まっている。延滞しても本が動くのが図書館のため、という言葉を信じて利用する。紛失したことのないのが唯一のとりえである。読んだものからちびちびカウンターで返すと、「まだこの本が延滞ですね」と声をかけられて、謝ることになるので、夜中にブックポストに入れることにしている。

駅頭で返却できるといいのにな。ついでにいえば、駅頭で早朝、移動図書館をしてくれるのもいい。

昼のニュースで紀宮婚約を知る。お相手はアルファ・ロメオのオタクのようだ。都職員でそんな高級車が持てるとは思えない。いずれ相応の人なのであろう。・・・夜のニュースでご本人がインタビューに応じていた。まるで、自分が皇居に嫁に行くような遠慮がちな口ぶり。この人のママは良縁に恵まれてありがたい、と思っているのか、それとも・・・。明日の都庁は大変だろう。

このニュースで北朝鮮拉致被害者関係のニュースが薄まるかと思うと、複雑な気持ち。横田めぐみさんのご両親がお気の毒だ。世間は新しい話題が好きで、まっこと気まぐれだからね。



やっぱりN響はNHK
2004年11月13日(土)

久々のチケットとり、電話かけをした。N響のBプロはぴあやe+では扱わないんだそうで、何度もN響のチケット窓口に電話をすることになる。毛がにのカバコスが聞きたい。なかなかの技巧派で、男性的な野太い音でひくギリシア人である。

チケットとりの電話がかからないのは、別にどこでも売り出しの日はそんなもんだから我慢できるが、今日は昼過ぎまでつながらなかった。定期会員シートの売り出しもあったからか。ただ、何これ?!と思ったのは、昼ぐらいから、つながったと思うと「こちらはNHK交響楽団・・・」とテープが流れて「しばらくしてからおかけ直しください」なのだ。ただの話し中とか、「こちらはNTT・・・ただいま大変混みあって」なら電話代はいらないのに、なまじ「NHK交響楽団・・・」なんていってつながると、電話代の無駄。何考えているんだろ?やっぱりNHKだ。(N響のチケットとりは初体験なり。大体N響好きでもないから。)

さて、老犬は日差しに浮かれたのか、昼過ぎまで、から元気ではしゃいでいた。用足しに庭へ出たら、走り回って、あ〜、これはいかん、と思うまもなく、千鳥足になり、悲鳴をあげて倒れた・・・学習能力低すぎ。失神すると、目玉は虚空をさまよい、四肢は痙攣する。慣れたとはいえ、今日はさすがにもう行きっぱなしか、と覚悟の一瞬、そこへ宅急便のお兄さん到来。その声で意識を回復した犬はよたよたと立ち上がって吠えそうになる。あわてて抱き上げて玄関に入れた。

宅急便で届いたものは、ノイハウスのチョコレートであった。我家の好みをよくご存知で、ありがたいこってす。ただね、住所が隣の市になってましたよ・・・それでも届くんだ・・・。

夫は囲碁大会、爺の道ひた走りである。息子はオタクサークル。こんな状態で健全な大人になれるのだろうかとやや心配。犯罪者にだけはなるなよ、と祈るばかり。




『日本史の中の天皇』
2004年11月12日(金)

『日本史の中の天皇 宗教学から見た天皇制』 村上重義

いまどき天皇が神だと思っている人はいないだろうけれど、神のような超越した存在だと思う人はいるかもしれない。天皇制というのは不思議な制度だと、かねてから思っていた。特に武家政権と両立していた時代のことなど、実に奇妙な、極端にいえば、名前だけの叙位任官権と改元権を与えられて細々とやっていく伝統芸みたいなところもあるし、実権が全くない歴史が鎌倉時代以来長かったのに(天皇が島流しにされたりもしたし)、明治維新から70数年ほどの間に限って、極端な絶対君主になっちゃって、かと思えば、敗戦でいっきに「象徴」だなんて、いったい何なの?

でも、「天皇」と名がつく書物は、往々にしてまず結論ありき、みたいな感じなので、あまり手を出さないでいた。予め用意された都合のいい資料を披露されての幼稚な議論につきあわされるのって嫌じゃありません?さりとて、ちんぷんかんぷんも困るけれど。

この本は、宗教学者が書いたもので、三種の神器とか、天皇家の祭祀とか、天皇家の祖神とか、なんとなくそんなもんだ、と思っていたことが逐一解説されており、それだけでも読む価値があった。天皇家とかかわりの深い儀式がずいぶんと中国起源であることもびっくりだが、もっと驚いたのは、明治になってから形式が整えられた新しい祭祀が多いこと!まるで明治維新で日本は神官に率いられた古代国家になったみたい。明治維新って近代化ばかりと思っていたら、まったく逆行するようなこともしていたようです。この列島で暮らす人々の生活の中から生まれていた祭りを破壊して、観念的な神道の祭りを押し付けたようで。(天皇だって、神道オンリーになったのは明治になってから。幕末の孝明天皇までは仏葬だったとか。)

淡々と記されてはいるが、憲法上の天皇の規定は戦前と大幅に違うのに、皇室典範のほうはあまり変わっていないらしく、そのあたり、急いで前例を踏襲して決められたままいまや60年が経過。こんなことでいいのかなあ・・・。そもそも国民が無関心なために、昔ながらのやりかたでも後ろ指を指されないのですね。もっと風通しをよくしないと健康に悪いです。

国民が歴史的、文化的な特色や制度的現状を知らなさ過ぎるのはちょっと問題ではないの?それでは議論にもなりはしない。関心のある人は、こういう本を読んでみるのもいいと思う。主義主張のある人には物足りない本かもしれないが、それにしても、ずいぶん知らなかったことがたくさんあるのではないかしら?

講談社学術文庫って好きです。こういう本が1000円以下で入手できるって大事なことだと思う。
講談社学術文庫
★★★





音楽よた
2004年11月11日(木)

今日は車で仕事に出かけたので、本が読めなかった。あと50ページくらいだから、電車だとすぐに読み終えられるのに、ちょいと残念。

フィッシャー=ディースカウがブレンデルと録音した「冬の旅」を聞きながら、運転して、sの子音にぞくぞくする。stと続くところでtの息が漏れるのも相当ぞくぞくもの。う〜、そんなにささやかないでよね。

この間買ったCD、赤いほっぺのアンスネスのモーツァルトpf協奏曲が思いのほかきれい。エレガント。ノルウェー室内オーケストラなんて聞いたことがなかったけれど、弦が大変美しくて、アンスネスのpfがそこにうまく出入りして、気持ちのよいモーツァルトだと思った。9番K.271です。アシュケナージの若いとき録音したのは、これに比べりゃまるで蛮族。

10月はせっせとコンサートに通ったけれど、これからは12月にフィンランドの全然有名じゃないオケの切符が買ってあるだけ。何しろ2000円だか3000円だかの破格の安さだったから。第9を聞く趣味はないし、東欧のオペラもあんまり魅力を感じないし、ヘンデルの「メサイア」をちょっと迷ったのだけれど、なんとなく面倒で買いそびれたから、12月は暇。あ、息子のオケの公演があった。これには全然魅力を感じないが(春に聴いたとき、こじんまりとしてつまらなかった)、親子の義理で行かないわけにもいくまい。その前に大学祭でやるのも聞かねばならんのかしらん・・・。


パンクドッグ
2004年11月10日(水)

きのう油まみれの犬を洗うのに、油を落とさなきゃと考えて、人間用の固形石鹸(かかった油と同じ某生協の品)を使ったところ、まあ、油はきれいに落ちたのだけど、そのあとが、パンクロックの人みたいに、ワックスで固めておったてたような三角形の毛並みになってしまった。毛先が分離しないで何本か固まっている状態。パンクドッグである。指先でほぐすとほぐれるが、またすぐ、三角にまとまってしまう・・・犬用の高いシャンプーにもそれなりの理由があったのだね・・・。

昔、友人のおねえさんは、犬も四足、羊も四足、とばかりに毛糸洗いの洗剤を使ったとか聞いたけれど、ウーライトやエマールで洗うとどうなるのだろう??ふんわりするかしら?

早く本来の犬の毛に戻ればいいな。


息子のヴァイオリンの先生から、めでたく退院とのお電話を頂戴する。実は私はこの方にお会いしたことがない。声だけ聞くと、笠智衆(だっけ?寅さんの御前さま)に似ている。悪いが大した声ではない。息子の話を聞くと、柳家小さんのような風貌が思い出される。でもまあ、いいんだ、あの声ならどんな顔でも一緒。


万力グラフィー
2004年11月09日(火)

マンモグラフィー初体験・・・万力グラフィーと呼びたいほど。
同僚に「あれって痛い?」と聞いたら、「ちょっとちくっとね」なんて答だった。
とんでもないこってす。激痛です。気を失いそう。煎り豆を食べて歯を折ったときの激痛でもこれよりは相当許せる。
看護師さんが「はい、息を吸って、前を見て、片手はこちら」なんていうときには、目がくらみ、息どころじゃなかった。

こんな痛い思いをした<わたし>は十分ご褒美に値する、と思って、帰りにタワーレコードへ寄る。アンスネスのモーツァルトpfコン、ポッジャーのヴィヴァルディ、ヴェンゲーロフのアンコールピース集を買って出ようとしたら、妙に耳障りのいい「詩人の恋」。いったい誰じゃいな、と思いきや、ゲルハーヘルだという。最近彼の評判が高いことは知っていたが、4年位前に初リサイタルを小さなホールで聞いたときには、あんまりいいと思わなかったのに、うんと声に重みが増していて、あらあら、と驚き、それも買って帰る。全然脈絡のないCDばかりである。あの痛みで脳みそもやられたかもしれない。

さて、夕食を作っていたら、今度は犬が受難であった。フライパンに油をしこうと手にした油ポット(某生協の共同購入品)、その取っ手が突然はずれ、油の入った部分が、折悪しく真下にいた犬の背中に落下。あ〜ら、ワンコは油まみれ。床にもべっとり。ぎゃあ〜。

獣医さんからはシャンプーなんかは負担だから止めるように、といわれているのだけれど、背中の油はあまりにもひどく、息子と相談して、とにかく油まみれのところだけ洗った。興奮させないように、まさしくお犬さま待遇でお洗いもうしあげ、お拭きして差し上げる。

なんか疲れることばかり・・・でもないか。ポッジャーのヴィヴァルディは典雅であります。古楽器ならではの歌いぶり。ケネディの超特急ヴィヴァルディとは全く別物。



今日も頭はヴェンちゃん
2004年11月08日(月)

会議、長引く。
年齢性別に関わらず、本当におバカがいる。
議長が気の毒になった。でも議長のおバカあしらいが見事で面白かった。まず持ち上げておいて、無視をするのがうまい。ああいうのには、ひっかからないようにしよう。

終了後、階段で一緒になったら、議長(いつぞやバレエの券をくれた人)が「あ〜、オペラでも見たいなあ、このごろろくなことがない」というので、「私はヴェンゲーロフを♪・・・」と威張ってやった。「こんな会議じゃなあ、オペラにはならんなあ・・・演劇かいな」というから「モリエールでしょう」といってやった。あ、そこまでいっちゃあヤバイ、ヤバイと思ったが、いってしまった。

昨日の「花の好きな牛」が気になっている・・・私は過去にどこかで聞いたことがあるのだ・・・古楽好きのアクセサリー屋さんから、修理上がったという電話をもらったついでに、「昨日、ヴェンちゃんがね♪・・・」と話したら「その曲はクレーメルが録音しているはず」といわれた。3年前だったか、クレーメルとクレメラータ・バルティカの公演がとても楽しかったのだけど、そこで聞いたのだろうか??でも、それならそうと覚えていると思うんだけれど。あのときはモーツァルトをフィーチャーした曲が中心だっただろうし。気になってしかたないから、これから今までとりためたヴェンちゃんのビデオのチェックをせねば。あるいは、大昔に行ったようなお子様向きコンサートで聞いていたりして?


「花の好きな牛」 ヴェンゲーロフ again!
2004年11月07日(日)

ヴェンゲーロフにすっかりはまったおば様のご招待で、オネエサマとともに、またまたヴェンゲーロフを聞きにサントリーへ。今回の出し物はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。実は4年前の来日のとき、新日フィル(現田)×ヴェンゲーロフで聞いて、圧倒された曲である。若さ炸裂の素晴らしい演奏だった・・・というわけで、私はあんまりその記憶を汚したくなかったが、70歳も半ばを過ぎたおば様のお誘いはむげに断れない。

今回、オケは一種のユース・オーケストラ、指揮はデュトワ。あんまり期待できないね〜、なんていいたいことをいって待つうちに開演。案の定、第1楽章はオケのほうが心配になるような出来。せっかくのカデンツァも浮いてしまう。なんだかヴェンちゃんが遠慮しいしい、気を使って演奏しているという印象。第2、第3楽章はまだましだったけれど、オケのバイオリンは弱いし、ホルンをはじめ木管楽器は「電子オルガン」的な音だし(こちらの席も悪かった)、おまけにどうも音量スイッチに大中小しかないような・・・あ〜あ、4年前の息を呑むようなベトコンは再来しなかったな、と思いながら、演奏が終わる。協奏曲はまさに「協」でないと成立しないことがよくわかった。

さて、問題はその後。ヴェンちゃんがアンコールをやってくれた。ユニセフの大使として、ウガンダの難民の子どもたちの施設でひいて大うけだった曲なんだそうだが、絵本でおなじみ「花の好きな牛」 、そう、フェルディナンドのお話のひき語りである。

お話を語りながら、フェルディナンドが花の香りに包まれてのんびり寝ているときのテーマ、同じ牛たちがけんかをしたり、遊んでいたりするテーマ、フェルディナンドのママが心配してモーッと鳴くくだり、マドリッドから闘牛用の牛を探しに来る男たち、蜂に襲われて猛烈に走り回るフェルディナンド、闘牛の開始・・・とまあ、器用なこと、器用なこと。そしてもちろん楽しいことこの上なし!ウガンダの子どもでなくても、拍手喝采。

これが最後の生ヴェンちゃんかしら、と思っていたけれど、あんな楽しい曲で思い残すことがないわ〜」とおば様も大満足。お供のオネエサマも私も大満足。かわいそうなのはデュトワでござい、ユース・オケでござい、といわなくっちゃ。あのアンコール曲、強烈すぎ。

その後のおしゃべりもはずんで、遅い帰宅となった。私たちは、ヴェンちゃんこれからどう変化して行くのかしらね、一流オケとの協奏曲が聞きたいね、無伴奏ならイザイをやって欲しいな(実は4年前にやったらしい)、などなど、今後もヴェンちゃん公演は何が何でも出かけよう、みたいなことになるのだが、「これが最後」というおば様の言葉がどこか心にひっかかって、申し訳ないけれど、残酷な盛り上がりだったかも・・・もちろんそんなこと先刻お許しだろうけれど。



岩佐又兵衛@千葉市立美術館
2004年11月06日(土)

岩佐又兵衛、まあ、行ってみるか、と出かける。先輩がセットアップした専門家入りのプラチナグループに引っ付いてこないかという誘いも受けたが、日程が合わず、一人で出かけることにした。(私はもちろん素人、もつべきものはいつまでも後輩を案じてくれるよき先輩)、

予想外の素晴らしさ。又兵衛のことは浮世絵の画集で見て、ちょっと面白いじゃん、くらいには思っていたが、ここまでとは思わなかった。
さすがは千葉市立美術館・・・ここは浮世絵の専門家が館長で、いい学芸員もいる。いつかの師宣展のときもとてもよかった・・・又兵衛の魅力をよく感じることができた。なんていうか、一つの型にはまらないで、すごい、としかいえないボキャブラリーの貧しさ。時代も画風も違うけれど、北斎の器用さと相通ずるものがあるかもしれない。隅々まで個性的で、<習った>という感じがしない絵なのだ。実際には土佐派の影響を受けている線とか、いろいろ分析できるらしいが、お師匠さんから粉本を与えられて、そのまま受け入れた絵柄だとは思えない。たとえ、その絵がありふれた画題であっても。

ぎらつくような色彩から薄墨、墨画まで、自由自在。絵巻など一人ひとりの表情に心が読み取れるようなこだわり。総カラーのマンガみたい。女房の髪のほつれまで描くディテールの妖しさ。きちんと見ていくと何時間かかるかしら、というほどの屏風絵。類型的で当たり前の歌仙絵でさえ、歌人に個性を与えて描く。その辺に微妙に又兵衛の教養を感じてしまう。元禄以降の浮世絵師では無理なのでは?

この際立つ個性には、織田信長の逆臣の子として、一族皆殺しの中、かろうじて逃れたという出自が関わるのではないかしら?下剋上の時代が終わって、繁栄を約束されるものと、そうでないものの色分けが決まった。そうでないものの中にはただ鬱屈する者と、逆に、何かを見てしまったことで世俗にこだわらず己の生き方を決めた者がいたのではないか?世捨て人ではないものの、生きることに対する価値観が内省的なところにあった、というか・・・又兵衛ってそういう人だったんじゃないかなあ、と直感。「精神性」なんていう言葉を持ち出すのは的外れかもしれないが、でも一種そういうものが感じられる絵の数々だった。(何にせよ、精神性というほど便利でいい加減な言葉はないが。)

千葉にいたる途中、ヲタ用のマンガ屋に息子がマンガ(のごくごく一部)を売りに行くのを手伝い、私も紀ノ国屋の袋一杯のマンガをマンガ屋のカウンターまで運んだ。(マンガを売るのなら、二袋でも三袋でも運んでやるさ。)

又兵衛を見てからは美容院に寄り、速攻で帰宅、昨日と同じく8時。昨日のようなことにしないため、犬をケージから出すとき、文字通り、手を当てるようにしてなだめて落ち着かせ、用足しをさせ、食事をさせ、薬を与え、それからやっと自分の食事である。はぁ・・・。(夫は友達のお見舞い兼飲み会、息子はマンガ屋のあと部活)



キリ様、お気が強うござんす・・・
2004年11月05日(金)

OPERANEWS に、キリ・テ・カナワのインタビュー記事が出ていた。何を隠そう、私を最初に魅惑したソプラノはキリ様であった。思わず、様をつけたくなるような、あの優雅さ。gracefulなムードは彼女ならでは。以来、少しずつ耳が肥えたから、彼女を凌ぐ歌い手はいくらもいるわな〜、と思うものの、でも最初の人というのは存在が大きくて、60歳とはいえ、やっぱりきれいだわさ、とうっとりしまう。お手本にもならない美しさ。昨年春に生キリ様を聴いたときも、歌声こそ年は否めなかったが、立ち姿は、やや猫背ながら、おきれいでござんした。おじ様ファンが熱狂しておられたのももっともでありんす。

でもインタビューの雰囲気は滅茶苦茶気が強そう。ディーヴァなんて気が弱かったら勤まらないだろうけど、お友達にっていわれたら、ひいちゃうな。
What she did have in abundance was a fiercely competitive spirit.
20歳過ぎまでオペラをレコードでさえ聴いたことがなかった歌が上手なだけのニュージーランドの娘が、ロンドンへ来て、数年後にはフィガロの伯爵夫人を歌うようになるのだから、こう書くのが妥当とは思うが、実際のところ、こわっ!

と、そんな記事を車中で読みながら、8時頃帰宅したら、寂しがりの犬が大騒ぎ。最近調子がいい、と思っていたのがいけなかった。飼い主帰宅の喜びに興奮して、久しぶりに派手に失神・・・大きな大きなおしっこの海・・・1日中我慢していたのよね。おしっこの海はバスタオルでふき取れば、まあなんとかなるけど、帰宅8時くらいでこれじゃあ・・・こういう逝きかたは勘弁してもらいたい。また聖フランシスコさまにお祈りせねば。


犬がらみヨタ
2004年11月04日(木)

このところ暖かいので犬の調子がよい。病気のせいだけでなく、年のせいだと思うが、だんだん痩せてきて、尻の骨やら肩の骨やら、手で感じられるようになり、ちょっと悲しい・・・けどまあ、11歳だもんね。

出掛けに、うちのよりもっと老犬―ほとんど骨に皮を張っただけの子―を連れた顔見知りのお婆さんに会う。ワンコが外へ出たがる限りは出してやるのだ、と前に聞いた。当のワンコはゆっくりゆっくり、足を引きずるように歩く。傍目には痛ましいけど「お散歩が出来ていいですね」と挨拶をすると、お婆さんいわく「お宅さまはお若いのにご病気でお気の毒なことでございます」。思わず絶句、次の瞬間、お婆さんのやんごとなさを見直した。

犬がカウントダウン状態になってから、犬グッズや犬本を見る気がしない。ひところは犬本のコレクションをしていた。犬猫本についていえば、9割は屑だと思う。大体、赤ん坊の話とペットの話には屑が多い。その立場にあれば誰もがそう感じるようなことを、いかにも自分だけが発見したような独りよがりの筆致になるからだろう。素人臭いってそういうことかもしれない。いわれれば、そうそう、ということなのに、自分では全然気づいていなかった、というようなことが書いてなければ、つまらない。飼い主の気持ちにしても、犬のしぐさにしても、である。

クリスマスが近づくと、今年もご贈答用の犬本、猫本があふれるだろう。でも、もう見ない。

私のお気に入りの犬本は、1冊だけ、といわれたら、『犬、最愛のパートナー』(J.W.ブラウン、絵J.T.ウィリアムズ)晶文社をあげる。タイトルはめちゃめちゃダサい。どーしょうもないくらいひどい。原題は“Simon, The Pointer”という。これを読んでほろりとしない人とは絶対お友達になれない。


明月記@五島美術館
2004年11月03日(水)

休日だからある程度は混んでいると予想したけれど、予想以上の混み方でした。こういうところがこんなに混むのに、どうして本となると、つまらないものしか売れないのだろう?ここで熱心に見ている人たちは普段何をしているのだろうか?

「明月記」は藤原定家の日記。断簡はいろんなところにあるから、ごくごく部分的にはこれまでも目にしたことはあった。でも、今回は冷泉家所蔵の60巻がいっきに、しかもかなり長めに広げて、展示室中のケースのほとんどが「明月記」。圧巻でした。全部見るなんて絶対飽きそう、と思ったのだが、開いてある部分の記事を要約した説明パネルのおかげで、飽きることなく、退屈することなく、見て回ることができた。全部の量を思うとほんのちょっとの条しか見ていないはずなのに、それでも、とっても「明月記」全体を感じることができた。

定家って今更私が書くまでもなく、おかしな人だと思う。あんまりかっこいい生き方の人だとは思えない。比べれば、後鳥羽院の勝ち。でも、そのかっこ悪さと歌の美しさのアンバランスが魅力のうちかも。結構人間味ある、というか、人並みに世俗的というか。

貴族の日記なんておおむね単純な記録―業務日誌みたいな―だけれど、でも、たま〜に出てくる一言が妙にしみじみしたりして、面白い。年をとって時間をもてあますようになったら、「明月記」の訓注つきの本など買って、ちびちび読むのもいいかもしれない。

帰りがけ、知人に頼まれた図録まで買ったら、出掛けにお財布の中身を補充しなかったせいで、漱石が1枚もなくなった。ぎゃあ、という感じで、銀行を探し、お金をおろしたら、出来立てほやほやの新しい諭吉が派手な装いで出てきた。


『横書き登場』
2004年11月02日(火)

温度差が違う人がいると会議は疲れる。私はあきらめがいいのだろうか?現実的なのだろうか?それとも単に逃避的なだけ?少なくとも人と一緒に燃えるということは苦手だし、人を襲う大きな不条理に比べれば、仕事上の不運なんてしれたもんだ、ということだけは頭のどこかにいつも張り付いている。

さて 『横書き登場』  屋名池誠
日本語の横書きの歴史を追った労作である。
右からの横書きと左からの横書き(これは左からの横書き)があることにきづいている人は少なくないだろう。右横書きは一字ずつの縦書きなのだ、と知っている人も多かろう。でも、それって本当にそうなの?

というわけで、屋名池氏の追求が始まった。実際、この本を読んでいて驚かされるのは、いつから左横書きに統一されたか、とか、なぜ横書きが始まったか、などの発見ではなくて(それも尤もな論証であるが)、書道を対象から除外しても、書字のスタイルとはかように多様であったか、ということ。

それにしてもよくまあ、たんねんに様々な書字様式を集めたこと。曼荼羅の経文に始まり、木綿襷の和歌、オランダ本草、蘭字を模した装飾の額縁、古い切符や広告、造幣局の帳簿、夏目漱石のノート、左右対称の横書きのある雑誌、お嬢様雑誌のキャプションに時刻表、街角の看板、レコードのラベル、マッチ、ポスター・・・ありとあらゆるものに字というのは書かれているのだねえ・・・。

こういう資料の収集途上で、著者は一度ならず空しい思いに駆られたに違いない。集めること自体はしばらくやってコツをつかめば、ある種のルーティンになるだろうし、どだい個々のものは単独では全く意味をなさない。古人の知的営みでもなければ、歴史に関わる文書でもないのだ。ゴミのような資料を集め続けたその根気に拍手、である。

たかだか新書とはいえ、これはなかなか日本語表記史の金字塔。縦書き専用から右横書き併用縦書きを経て、左横書き併用縦書き、そして今は縦書き併用左横書き時代に入ったところだということになる。国語の教科書もいずれ横書きになるのだろうかね。私の予想では、最後まで縦書きが堅持されるのは漢文の教科書だろう。学生のとき、横書きを試みたのだけれど、どうしても返り点がうまく処理できなかったから。

岩波新書
★★★





『音楽と社会』 バレンボイム/サイード対談集
2004年11月01日(月)

『音楽と社会』 バレンボイム&サイード

バレンボイムに限らず、音楽家にはユダヤ人が多い。しかし、バレンボイムほど発言して、物議をかもしだす大物音楽家はいない。新しいところでは、今年に入ってからも、イスラエルからもらった何だかの栄誉賞の賞金をパレスチナの音楽学校に寄付して、栄誉剥奪だとかで一騒動あった。その前にはベルリン国立歌劇場の常任指揮者の人選をめぐって出てきた政治家の反ユダヤ的発言への反論。その前に、イスラエルでのワーグナー上演をめぐるごたごた、アラブ、パレスチナの若い音楽家とイスラエルやドイツの若い音楽家とをいっしょにしたワークショップ・・・、言論的にはさほど考え抜いた言説だとは感じられないが、音楽家としてはユダヤーパレスチナ問題をめぐって非常に積極的に動いている人だといえる。

かたやサイードは『オリエンタリズム』で一世風靡のパレスチナ人学者(ただし、パレスチナで成長したわけではない)で、パレスチナをめぐる発言や活動も多く、この対談集がどのようなものなのか――政治的な色合いの濃いプロパガンダ的なものなのかどうか、気にしつつ、¥2800の値段に逡巡し、買わないでいた。バレンボイム自身は割合とナイーブな発言者だと思うので。

読んでみると、♪音楽への愛情と関心にひっぱられて、パレスチナ情勢の不条理をどう捉えるか、なんていうろころまではなかなか到達していない。譜面の解釈や音作りなど音楽談義にかなり時間が割かれ、ワーグナーを中心にすえての社会や政治との関係、反ユダヤ主義などで、音楽4分の3、社会4分の1といったところか。話題をリードしていくはずのサイードはピアノをひくし、音楽大好き人間だから、そりゃあバレンボイムから聞き出すとなれば、音の話が聞きたかろうよ、と、結果こうなってしまうことは、想像の範囲内である。

しかし、ときどき思うのだけれど、世界は西洋音楽に席巻されすぎてやしないだろうか?音楽こそ文化的帝国主義の尖兵なんじゃないか?かくいう私も謡曲だの長唄だのよりは、断然西洋ものを取るのだが、これって民族固有の音をなくした、漂泊の耳なんじゃないかね?このことを思うと、ちょっとだけ居心地が悪くなる。西洋音楽だけが普遍性を持つものだとは考えたくないので。

みすず書房
★★★
* * *


バレンボイムは肩を痛めて、先月ベルリンでのコンサートをキャンセルしたとか聞くが、来年2月の東京は大丈夫かしらん?




BACK   NEXT
目次ページ