そよ風


2006年08月31日(木) やっと、二十年後に・・・

ちょっと、怖いかも・・・


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その二十万円というお金が自分達に利益をもたらすのか、
全く無駄となってしまうのか、
二人にとっては、ちょっとした冒険だったと思う。
なにしろ年代的にも、無駄使いが大嫌いで、
金銭にはかなり細かい人達だったから。

しかも投資の対象である長男の嫁は、はなはだ頼りない。
二人が嫁に期待するもの(よく気がつく、よく動く、シッカリしている、等々)
に関して、すべて自分達の期待レベルからは、ほど遠い存在だ。
だいいち、活発でシッカリ者の嫁ならば、とっくに運転免許などは取得しているはず。

とは言っても、当時、私の周囲には、同年代の女性で運転免許を持っている人は
多くなかった。地域差もあるとは思うけれど。
たしかに、駅から徒歩五分、近くにはスーパーも病院もあるという環境、
車の免許がなくて不便だとはあまり感じなかった。
なんと言っても、車の運転にも興味が無かった。
だいいち、私は極度の方向音痴でもあるし、
のんびりと歩くのが好きな人なのだ。

「これからの時代は、お嫁さんが車を運転できんと困るんや。
 昼間、男の人は会社に行って家に居ないから、何かあった時は
 お嫁さんが病院に連れてってくれんとなー」と、姑は言った。

「私があんたみたいな歳やったら、絶対に免許を取るわ」と。

それでも、いっこうにその気にならない嫁。

とうとう、「費用を全額こっちで負担するから、運転免許を取ってほしい」
と、二十万円のお金を持って、私に頼みに来た。

ざっと二十年前の話。私は三十代半ばだった。
二人とは、もちろん主人の両親だ。

親に頼まれて、しぶしぶ(?)免許を取得したはずの私だったが
その効力は、この二十年間、ほとんどすべて自分自身の為にだけ発揮された。
パート先への通勤、買い物、趣味、など、いろいろ。

私の運転免許が実際に両親の為に役立つことは、あまりなかった。
舅が八十歳を越えても、なお自分で運転していたからだ。
しかも、私とちがい何処にでも車で行く人だった。京都、奈良、四国にでも。

しかし、長い入院生活を余儀なくされた舅。
よくぞこんな交通の不便な田舎に来たものだと、感心したくなる病院。
しかも、我が家からも、主人の実家からも、車で一時間弱かかる。
家の近所には、公立の病院だってあるというのに。

親戚の医者に紹介されて初めて行った病院に、そのまま入院となって三ヶ月、
姑はこの時ばかりと、何度も私に言う。

「ほんまに、あんたが免許を持っててよかったわー」

姑の友人達を送迎する時も、おそらく事情を知っておられるのだろう。

「良かったねぇー、免許を持っていて」と、口々におっしゃられる。

大阪と和歌山を往復する日々が続く。日によっては二往復。
私も正直、少しは借りを返せた気分などを味わってしまう。
それもやっと、二十年後にね・・・

でも、これから先のことを考えると、少し不安だ。
今まで、どこに行くにも舅運転の車ばかりだった二人は
タクシーを利用するということを全く知らない。

それでも、あの時の二人の行動がなかったら
私は、生涯、自分で車を運転することはなかっただろう。

でもきっと、それなりに、車に頼らない健康的な生活を送っていて、
もっとスリムな体系を維持できていたかも知れない。

なんてね! いろいろ考えてしまうわけ。

ハンドルを握りながら・・・



2006年08月27日(日) お手伝い

今日は、パパさんの日曜大工をシッカリお手伝いするのニャ。

まず、キリで穴をあけるニャリ。 

なかなか真剣な手つきのロン。

でもやっぱり、手より口にかぎるぜ! 

これぞネコ式工法? 

次は真面目にドライバーをまわすニャリ。 

よしよし・・

やっぱり、ココもネコ式でやるニャ!


やっと完成ニャリ♪ 

ロンちゃん、付きっきりのお手伝い(?)、ありがとう。
おかげでなんとか無事に終了しました。



2006年08月22日(火) バイパス手術、その後

障子の上を歩くのは楽しいな♪


これで、最後の一枚かニャ。

お手伝いありがとう。おかげで古い障子紙、とても剥がしにくかったわ。


<舅のバイパス手術日記の続き>

もうすぐ三ヶ月にも及ぶ舅の入院生活、
病室の窓から見える景色も刻々と移り変わった。

入院当初は、灰色と褐色の乾いた地面だった窓の外は、
あっという間に、水を湛えた田んぼの広がる田園風景となった。
心臓の手術を終えた舅が、ICUから一般病室に戻る頃には
田植えも終わり、広々とした田んぼの中で、小さな苗達が
行儀良くきちんと整列して、風に揺れていた。
そして、降り注ぐ真夏の太陽の下で、日に日に成長し、
今、病室から見えるのは、鮮やかなグリーンのカーペット、
大きく伸びた力強い緑が、ひしめき合いながら広がっている。

季節が過ぎ、今の美しい緑が輝くような金色に変化する時
さぞかし、また素晴らしい風景が窓の外に展開するのだろう。

でも、私達は誰もそれを病室から見たいとは望まない。

一ヶ月の入院の予定だった舅の心臓バイパス手術、

手術後、なかなか回復しなかった舅の意識の混乱、
なかなか閉じなかった胸部の切開部分、
なかなか炎症が治まらなかった傷の化膿、

でも、予定より二ヶ月もオーバーしたけれど
昨日、初めて医師より「退院」という言葉を聞いた。
今月中には、なんとか・・・
よかった! バンザイ!


手術後、集中治療室から戻ってきた舅は、何も憶えていなかった。
今、自分が何処にいるのか、
なぜ、こんなベッドに寝ているのか、
どんなに私達が説明しても納得できず、
点滴の管や尿の管が繋がっているにもかかわらず
無理矢理、起きて帰ろうとする。
それを必死で止める周囲、
そんなどうしようもない日々が続いた。

実際に、点滴の管の接続を途中から外してしまい
血まみれになったり(逆流するのだろうか?)
引きちぎろうと暴れたり、まるで別人のようだった。
普段の舅だったら、たとえ経緯を憶えてなくても、
説明すれば理解しようと努力するはずだった。
無茶な実力行使で、永年連れ添った姑や周囲を
困らせるような人ではなかった。

年老いても、また病人であっても、イザとなると男性は力が強く、
老いた姑はもちろん、嫁の私ですら、
その行動を力づくで止めることは並大抵ではないと知った。
認知症の介護に携わっておられる方達の苦労を、
ほんの一端だけではあるが、初めて知ったというか・・・

手術後にボケ症状が出るのは、高齢者には珍しいことではないらしく
「そのうち、正常に回復しますよ」と医師から言われていたが、
いっこうに回復の兆しが見えず、一週間、十日過ぎても、
舅の意識の混乱は続いた。

なぜか、いつも夜になると問題行動を起こすらしく
個室だったが、周囲の患者さんからも「うるさくて眠れない」と
訴えられたり、ナースセンターから看護士さん達が、
何度もとんできてくれたりしたそうだ。
毎朝、私が病室に行くと、憔悴しきった表情の姑がウトウトしていて
姑の健康状態もほんとうに心配だった。

一生、このまま回復しないのではないだろうか・・・という不安も
チラホラするようになった頃、
術後二週間が過ぎてから、まるで霧が晴れるように
舅の意識は回復し始め、すっかり正常に戻った。

みんなが元気を取り戻し、もうすぐ退院できるね!と喜んだのも束の間、
ある日、傷口が大きく化膿し、抜糸も終わっていた縫合部が、
再び裂けたようになっていた。

高齢(80代前半)、しかも長年インシュリン注射を打っている糖尿病患者、
それが、回復の遅い原因なのだろうか。
傷口の化膿はなかなか治まらず、パックリ穴が開いたよう傷口、
しかも毎日の消毒がかなり痛みを伴うらしく、再び舅は機嫌が悪くなった。

膿が出なくなるまでの辛抱だから・・・
穴が塞がるまでの辛抱だから・・・早く塞がるといいね、

そんなことを言い合いながら、化膿してから二ヶ月、

穴は、やっと小さくなってきた。
今では、敏感すぎて、気難しくなってきた舅、
「なんか、おじいちゃん、やりにくくなったわ。」と姑は呟く。

ともに80代の老夫婦、
「老老介護」は今、いろいろな問題を起こしているが・・・


さて、舅が退院するとなって、私が一番ヤレヤレと思うことは、

実は、お弁当作りから開放されること。

病院がとても不便な場所にあるので、毎日のお弁当作り、
これが、不精嫁の私にはけっこう大変だった。
昔かたぎの姑には、絶対、冷凍食品なんて使えないし、
けっこう、年齢の割りに食欲旺盛な方だし。

姑は「おにぎりだけでエエよ」と言ってくれるが・・・
ここは、栄養をとって貰いたいという優しい気持ちの嫁
というよりは、嫁の見栄、というのが本当のところか。
だって、息子の高校生時代のお弁当作りより、はるかに熱心だ!

朝から、ハンバーグ作って、カボチャを炊いて、インゲンの胡麻和えや
ポテトサラダ、まだまだアレもコレもと・・・
お弁当の献立の本を図書館で借りたり、ネットで検索したり・・

で、なぜか、私が肥ってしまった。 なんで??



2006年08月08日(火) 変な箱

本日の主役は、横たわる美猫、ロン様ではありません。
箱に注目して下さい。ホラ!このとおり、タネもシカケもありません。

ただの箱です。

でもこの写真、なんだか、変!!

でもないかな・・・ 
箱は少々、くたびれてるけど、まだ破れてはいないのですヨ。

実はこの箱・・・・穴があいているんです。(ひょっとして常識かも・・・)
我が家に来た時から、この箱が大のお気に入り! 特にこの穴が好き!

穴から出ている手も、上の写真と比べるとずいぶん雰囲気が変わりました。
昔(?)は、モミジのように可愛い手だったのにね。

蓋の上を滑り台みたいに、よくすべって遊んでました。

今は体重が重くなって、乗った途端にあの写真のように、ひっくり返ります。



2006年08月04日(金) 赤と青

笑うロン

しばらく、こんなかわいい姿で眠りこけてました。


赤○○、青○○
とくれば、○の中はいったい何?

私は青の経験はない。

しかし、青も赤も二度と受け取りたいとは思わない。

五十歳半ばにして初体験。
それは、七月に入ったばかりの梅雨の晴れ間の日だった。

よりによって、その日の私はけっこう頑張ったと思う。

朝早く起きて、二人分のお弁当を作り、七時過ぎに家を出た。
舅の入院している和歌山市内の病院に到着したのは八時頃。
すぐに病室で付き添っている姑を乗せて、再び大阪方面へと走った。

その日は姑が岸和田のT病院で診察を受ける日だった。
一時間後の九時過ぎにT病院に到着、九時半の予約なのに
診察が終了したのは正午に近かった。
再び和歌山の病院に戻ってから、遅い昼食を姑と二人で食べた。
もちろん、私が朝から頑張って作った散らし寿司だ。

その日は、軟弱不出来な嫁としては、まあまあ頑張ったつもりだった。
なんてったって、私は車の運転があまり好きではないのに、
大阪、和歌山間を二往復、峠を四回もこえて、
全部で四時間も運転したことになるのだから。

ところが・・・任務を終えた気持ちで、ひとり和歌山から我が家に帰る途中、
大阪に抜けたところで、見事にネズミ捕りにひっかかってしまったのだ。
たしかに、私は急いでいた。
受け取ったのは、赤切符というものらしい。

免許をとって約20年、無事故、無違反の私は
赤切符、青切符と言われても、何のことだか・・・

何日か後、裁判所に出頭して、高〜い反則金を納め、
免停期間三十日を一日に短縮するがために、
一日がかりで違反者講習を受講し(13800円也)
やっと最後のテストに合格して、ゴールド免許を返してもらったのは、
ひっかかった日から、ちょうど一ヶ月後のことだった。

何が一番しんどかったかって、
すべてを、主人には当然、周りのみんなに隠し通したこと。
絶対にバカにされるし、怒られるし、あきれられるし、
金額を聞けば、きっとみんな不機嫌になると思うし・・・

だから、バレないかといつもヒヤヒヤしていた。

ちなみに、なぜバカにされるかというと、
車には、スピード違反取り締まり機に反応する感知器が
ちゃんと装備されていたからだ。
しかし、この感知器は時々無関係な場所でも鳴ったりするので
あの日、さかんにピッ、ピッと警告音を発していたにもかかわらず
私のマンネリ化した耳は無視してしまった。
まるで、イソップ童話に出てくる嘘つき少年みたいな感知器だ。

でも、上手い具合に隠し通せた。
裁判所に出頭する日と講習日は、ニセの用事を作って
病院に行かずに家を留守にした。

罰金70000円也は、機内食パートで稼いだヘソクリを使った。

あれ以来、スピードメーターと睨めっこしながら走っている。

でも、あの山の中に作られた広〜い片側二車線の新しい道路、
民家もなく、まっすぐで見通し抜群、
しかもいつもガラガラに空いているあの広い道を
時速50キロで走るのは、けっこうなんとも難しい。
下り坂の一番スピードが出る地点での瞬間測定は辛いね。

今まで、違反とは縁のない私だったので気付かなかったが
雨が降っていなければ、あの時刻のあの場所付近には
毎日のように、潜んでいらっしゃるのだと最近ようやく知った。

仕方が無いと言えばそれまでだが、私の後ろにピタッとくっついて
走っていた車は、何のお咎めもなしに走り去った。
よくある話だけど、やっぱり、この差はあまりにも不公平。

それにしても、早く退院してほしい。
こんな道、そうでなければ走ることなんてないのに。


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