そよ風


2005年03月29日(火) 就職活動の思い出

昨日、息子の就職活動のことを日記に書いて、
四年前の娘の時のことを思い出しました。

毎日のように会社説明会や面接に駆け回っていた頃、
疲労が重なり、熱が出て気分が悪くなり、電車の中で倒れるように
しゃがみ込んでしまったことがありました。

家に辿り着いてから娘は言った。
「やっぱりお母さん達の年代の人達が、親切やった」と。

「次の駅で電車を降りていっしょに病院へ行きましょう」
と声をかけて下さったおばさんも

席が空いた時、他の人が座ろうとしたのをサッと遮って、
座席を確保して「ここへ座りなさい」と呼んで下さったおじさんも、

「どちらも、お母さんとお父さんと同じくらいの年代だったよ」
ということでした。

ほんとうに感謝したものです。

翌日には東京まで二次面接を受けに行くことになっていました。
でも解熱剤で無理やり熱を下げても、体調がどうしても回復せず、
新幹線に乗るために新大阪まで行ったにもかかわらず東京行きを断念、
家に戻ってきました。

いろいろなことがありましたね。
もちろん私は話を聞かせてもらうだけでしたが、
けっこう楽しい話も思い出に残っています。
面接が終わった後に、全く知らない間柄だけど同じ会社を志す同士達、
いっしょにお茶を飲みながら情報を交換したり、励ましあったり。
「私だけ大阪弁だった」という日もありました。

振り返ってみれば、就職活動という時期、いろいろな体験ができて、
そんなに悪くなかったのでは?

なんて言ったら怒られてしまいそうです。

やっぱり本人は大変だったでしょうね。

限りなく黒に近いグレーのスーツに黒いバッグ、
就職活動中の学生はひと目でわかります。
「頑張ってね」と心の中で声をかけたくなる私です。



2005年03月28日(月) 息子の就職活動

昨日は名古屋で下宿している息子のところへ主人と出かけた。
愛知万博の開幕から最初の日曜日、車の大渋滞に巻き込まれるのでは?
そんな心配をして朝早く出かけたけれど、近畿自動車道、
西名阪、東名阪、名古屋高速、すべてスイスイ走りぬけ、
いつもと同じ約三時間のドライブで息子の部屋に到着した。

昨日の名古屋での一日、就職活動の状況などを聞かせてもらいながら、
母親として真剣に反省することがあった。

今に始まったことではないが、息子の少し言葉足らずな性格が
ここに来て、とても気になるのだ。
今までは単に「あの子は無口で大人しい子だから」と思ってきた。
そして「男の子だから、それでもかまわない」と
そのことを深く気にもせず、ここまで来てしまったように思う。
でも、今頃、それを後悔してしまう。
母親として怠慢だったかな・・と。

息子は、自分の考えをきちんと言葉で伝える努力をあまりしない。
自分を理解して欲しいと強く願わないのだろうか。
中途半端な言葉だけでも、相手は理解してくれると思うのだろうか。
それとも親に対してだけなのだろうか。

面倒見の良いやさしい姉、息子に甘かった母親(私です)、
そんな中で幼少時代を過ごした息子は、自分自身で言葉を駆使して
いろいろな要求を伝える機会が少な過ぎたのかも知れない。

私は、ものわかりの良過ぎる母親だったのか?
いいえ、たぶん意識して息子にきちんと話をさせるという努力を
怠ってきたような気がする。
息子の発する言葉が不十分でも、すぐに「うんうん、わかったよ」
と言ってしまう母だったと思う。

なんて、今頃、後悔しても遅いんだよね。

それでも、小、中、高、大学と、それなりに友人達にも恵まれて
楽しい時期を過ごしてきたのだから、それはとても嬉しい。

友人達とは長い付き合いの中で、少しずつでもお互いに性格や人柄を
理解しあえて友情も成立する。

でも就職採用試験での面接は、やはり第一印象が大事だ。
自分自身をその場でアピールしなければならない。
「そのうちにわかってもらえる」というような悠長な関係ではない。

などと、まあ、いろいろ私が心配しても仕方のないこと。

主人の親は「名前の通った会社でないとアカン」などと言うが、
(実はそれが今の私の物凄いストレスになっている)
私達としては、とにかく自分に合った職場に就職して欲しいと願うばかりだ。



2005年03月25日(金) ふるさと

昨日の新聞の朝刊に「地価下落率、関空対岸は底無し」の記事。
ベスト10のうち7地点までを大阪府南部の岬町が占めたそうだ。

そう、私達夫婦の出身地、今も双方の年老いた親達が住む町だ。
下落率とあるからには、少しは高くなった時期もあるのだろうか。

貧しい町だと思う。
海のすぐ近くまで山が迫り、広い田畑も少ない。
大きな産業もなく、関電さえも近い将来撤退すると聞いている。
交通の便も悪く、買い物にも不便。
実家の付近は年寄りだけの世帯がほとんど。

町には一本の鉄道が通っている。単線の多奈川線。
高校、大学時代には、毎日のようにお世話になった。
私が小さい頃にできた「みさき公園」には
数え切れないほど行ったよ。

家を継ぐといっても、ボロ家があるだけ。
遠く静岡に暮らす兄夫婦は、この家に帰ってくるだろうか。
私達には懐かしさがあるけれど、大阪市内育ちの兄嫁は
こんな退屈な町で生活できるのだろうか。

この町に、このまま変わらずにいて欲しいという気持ちもある。

でも道路事情を改善すれば、もう少し人口が増えるのでは?

花壇はもちろん、果樹園や畑もできるような広い庭のある家が
安く手に入るなら、不便でもまたあの町で暮らしてもいいかな、
あと十年くらい先のことだけど。

そんなことを最近チラリと思うようになった。

歳とったのね・・私。



2005年03月24日(木) 心配なこと。

トイレのウォッシュレットの便座が壊れてしまいました。
パソコンはもちろん、たいていの家電や道具を修理してくれる主人も
今回はお手上げ。

悲しいかな、人間はいったん文化的な生活に慣れ親しんでしまうと、
再び、それのない生活は耐え難いものなのです。

昔は、いいえ、これまでの我が人生五十○年のほぼ八割の永い年月を、
ウォッシュレットの便座など知らずに、ずっと生きてきましたのに・・

壊れた便座というのが、リモコンのボタンひとつで
蓋も便座も開閉するという便利な機能がついていました。

そうすると、やはり次に購入するのも、
それと同レベルか、それ以上という物が欲しくなります。
ダメですね。いちど楽な生活に慣れた人間は・・・

昨日は便座捜しに、半日走り回ってしまいました。

みどり電化、ヤマダ電機、コジマ電気、ホームセンター甲南、
ダイキ、イオンの電気器具売り場、ベスト電器、
全く同じ機種なのに、なんと値段は何処もちがう!
けっきょく、一番値段の安かったヤマダ電機店で買いました。

どの電気器具店も我が家から車で10分以内の範囲にあり、
考えてみれば、すごい店舗の数ですね。
以前は、ニノミヤ、和光、とかにも行ったものですが・・
これだけひしめき合っていたら閉店に追い込まれたのも無理ないかな。

さて、新しい便座は、もうボタンも押す必要がないのです。
センサーの働きで、おトイレのドアを開けた途端、
勝手にギギィーと蓋が上がるのでびっくりしました。
ドアから出ると、また自動で蓋が閉まります。

きっと、ますます、私はズボラな人間になるでしょうね。
便利で賢い機械のせいで、老化が促進されるのは間違いなしです。

心配しています。

よそ様のお宅でおトイレを拝借した時、きっと蓋を閉め忘れるだろうな。

お下品な話題でどうもすみませんでした。



2005年03月22日(火) レナーテさん

旧東ドイツのドレスデンに住むレナーテさんと我が家との文通が
始まったのは、45年くらい昔のこと、私がまだ小学生の頃でした。
当時の私にとっては、アメリカやヨーロッパというのは、
ほんとうに遠い存在、そして憧れの国々でした。

手紙を翻訳して読んでくれる父の傍らで、いつも遠い外国の情景を
頭に浮かべながら、ワクワクして聞いていたものでした。

ある時、レナーテさんから送られてきた人形の写真が、
あかずきんちゃんの物語に登場するオオカミに似ていました。
おばあさんに化けたオオカミです。
それを手紙に書いた時、ちょっと驚くような返事がきました。

あなた方は、なぜ、あかずきんの話を知っているのですか?
いったい誰からきいたのですか?
あかずきんの物語は私達の国のグリム兄弟が書いたものです。
どうして、あなた方は知っているのでしょう。
私達はあなたの国の物語を何ひとつ知りませんよ。

私達があかずきんちゃんの話を知っているということが
レナーテさんには不思議で仕方がない、ということが不思議でした。
当時のほとんどの日本の子供は、あかずきんちゃんの話を
知っていましたから。

テレビとステレオの前で撮った写真を送れば
「あなた方は、日本でも相当の上流階級にちがいない」ときました。
(当時、白黒テレビはほとんどの家庭にあった)

私達もまた、当時は社会主義国だった東ドイツという国の生活の一端を
手紙で知り、驚かされることがたくさんありました。

お互いに生活や文化の違いに驚き合いながら文通は続きました。
父が亡くなるまで、ドレスデンと大阪の間を
何度、手紙は行ったり来たりしたでしょう。

手紙だけでなく、着物、下駄、日本人形、ハシなども
船で海を渡りました。

私が高校生の時に父が突然亡くなりました。
ドイツ語とロシア語しかできないレナーテさんとの文通は途絶えました。
もう36年くらい前のことです。

でも、近年復活したのです。
細々と続いてます。レナーテさんももう60代後半。
今でもドレスデンで暮らしています。

私は有料のドイツ語翻訳を頼んでいます。
メールをやり取りする時代が来るなんて、あの頃予想もしなかった。
やはり統一ドイツになった影響も大きいのでしょう。



2005年03月21日(月) 同乗者

行きつ戻りつしながらも、季節はどんどん進行し、
フと気がつくと、「アレ?春を通り過ぎてしまったのでは?」
と思うような強い陽射しの一日でした。

コペンの同乗者としては、心配な季節がやって来たと言うべきでしょうか。
主人がルーフを全開にして走りたがるのです。
私はイヤだよー!

ルーフを開けて走ると、強い風がまともに顔に当たって、
隣でアンパンやタコ焼きに大口でかぶり付けなくなるじゃないですか。

さっそうと、オバチャン風スタイルで乗り込めなくなるじゃないですか。

いまだに、地面に降り立つ時には、「エッ・・コラ・・ショ!!」
このカケ声が無くては、コペンのシートから起き上がれない私です。




日記を書くのが少しおっくうな今日この頃、
何か言葉を出すと、ついついグチになってしまいそう。

私のグチ日記は、自分もまた弱くて心の狭い人間だと、
公表するようなものだから。

この辺で気持ちを切り替えないとね!



2005年03月18日(金) グチ日記

先日、高校時代のブラスバンド部同窓会の案内メールが届いた。
「クラリネット四人娘へ」と宛てられたメール。

ウフフ・・・ありがとうございます。
かつての四人娘は全員スクスクと成長しましたよ。
昔は一生懸命クラリネットを吹いていた四人おばさん達、
今、口から流れるのは音楽ではなく、にぎやかなお喋りばかりです。


同窓会の世話役をして下さっている同期のY君とは、
メールといえども高校卒業以来、約35年ぶりの対話、

しかし悲しいかな、この年代の話題は久しぶりとはいえ、
ほぼ半分の確率で介護の話題になってしまう。

Y君のお宅でも、奥様とヘルパーさんとが年老いたお母様の介護をされる毎日、
とても大変な様子がメールでも伝わってくる。

同期の別な友人からも、認知症のお義母様の介護を
家族と交代で24時間体制で行っていると、先日メールがあったばかり。

子供の幼稚園時代のママ友達とも、会えば介護の話で長くなる。
以前は学校の話や趣味の話ばかりだったのにね。

五十代になり、家のローンも終わり、子供達がやっと経済的に独立して
ホッとするのも束の間、双方の親が年老いて介護が必要になってくる。

といっても、私の周りの三人は(主人の両親と私の母)
全員八十代に突入したが、揃いも揃ってこちらが負けそうなくらい元気だ。
(皆、クチが一番元気、というのがちょっとネ・・)

自分を情けなく思うことは、

親の介護とはほとんど無縁に生きている同年代の人達を、
無性に嫉妬してしまう時があるということ。



2005年03月17日(木) 賞品にくっ付いてきた物は?

先日、永年会員であるJAFからの贈り物、ETC車載器がやっと到着。
さっそく主人の恋人コペンに搭載してセットアップ完了、
高速道路でちゃんと作動するかどうか試験ドライブに行くことになった。

確かに便利だ。
料金所が近づく度に、財布を引っ張り出してゴソゴソする手間が省ける。
スピードを落として突入すると、寸でのところでパッとゲートが上がる。
と同時に、ETC車載器から女性の興奮気味(?)の声が飛び出す。

「ツウカ デキマス!!」「ツウカ デキマス!!」

そして弾んだ声で「○百円、領収しました!」
(なんだか、とっても嬉しそうに聞こえるよ)

ふだんは節約の為、カーナビを駆使して一般道路を走るような場所も、
この日ばかりは、わざと高速道路を選んで走った。
買い物と同じで、カード払いはついついお金の無駄使いをしてしまいそうだ。
でも毎日の通勤で阪神高速を走る主人は、やっぱり便利でしょうね。
それに、あのETCギャルの元気な声も毎日聞けるし・・・

この日は、三時から手術を受けることになっていた主人、
先日、私が(悪い出来物では?)と死ぬほど心配したあの不気味な「イボ」の手術だ。

ETCお試しドライブから帰って、すぐに市民病院に出かけた主人、
イボを切り取るのは、10分もかからない簡単な手術だったらしい。
しかし、ただのイボは保険が利かず7200円もかかったそうだ。

保険の利かない、良性のただのイボでよかったのだけど・・・

どうして、けったいなイボなんか突然発生したのよ!

ETC車載器が、本人の知らぬ間に抽選で当たって喜んでいたけれど、
この変な不気味なイボも、その時いっしょに当たってくっ付いてきたのでは?

けっきょく差し引きゼロだったのね。

ちょうど欲しかった物が当たって大喜び、あげく・・変な気を起こして(?)
ユニセフの津波基金に寄付してしまったけど・・・

「だから良性のイボだった」ってことにしておこう。



2005年03月16日(水) 写真さがし

結婚式の披露宴で使うのでしょうね。
娘から、写真を何枚か送ってほしいと頼まれました。
可愛く写ってる写真をと・・・
赤ちゃん時代、幼稚園、小学校の頃、写真ならドッサリあるのだけど、
これが、なかなか選ぶとなると難しい。
テレビ番組でよく見る、有名タレントや俳優の可愛い頃のアップの写真、
あのイメージで捜すものだから・・・とても難しいのです。

私は、迷カメラマンだったようですね。
多くの写真が背景を重視するあまり、肝心の子供の姿はピンぼけ、
又は写真の中での姿が小さ過ぎるようです。
人物、周りの景色、どっちが主役? と尋ねたくなるような写真がいっぱい。
娘がとてもかわいく写っている写真にかぎって、
隣に変テコな格好をした弟やスッピンの母親の顔がある。

こんなことなら、幼い頃から結婚式を意識して
かわいい一人だけのアップの写真を、もっと写しておくべきだった!

でも娘は初めての子、赤ん坊の頃の写真はアルバムに整理できないくらい
実はいっぱいあるのです。
それに比べて下の息子の写真はなんて少ないのだろうと、
あらためて感じてしまった私です。



2005年03月11日(金) 年寄りのひがみ?

いよいよホワイトデーが近付いて来ました。
一ヶ月前に過ぎ去ったバレンタインデーの話題を
いまさら蒸し返すのも何ですが・・・

娘の彼氏のお母様からバレンタインチョコがいっぱい届いたそうです。
もちろんお母様から息子さんへの贈り物、

「おいしかったわ〜、高級なチョコレートがいっぱい♪」
娘は何のこだわりも無く嬉しそうに報告してくれた。

「わぁ〜、ええなあ・・・」
甘党の母親も本気で羨ましい。

でも娘が職場の同僚にその話をすると、
「ええっ? それはちょっと辛いね。
彼からお母様に止めるように言ってもらったら」
と言われたそう。

もしも義母からバレンタインチョコが主人に送られてきたら、
それも、普段あまり買わないような高級なチョコだったら、
(我が家の場合ありえないことだけど)私は大喜びすると思う。
たとえ、もっと若かりし頃でもよ。

喜んで当然の如く半分私が頂きますわ。
いえ、おそらくもっとたくさん、私のお腹に入ってしまうでしょう。

でも先日、川西市に住む友人にこの話をした時、
彼女もまた「私だったら、絶対にイヤやわ」と言った。

この差はいったい何なんでしょう。

年代の差でもなさそう。

全然平気な私は、バレンタインチョコという物に対して、
深い愛情の意味を感じていない、ということね。

私にとって、母親からのバレンタインチョコレートは
誕生日のケーキやお菓子と全く同じ。

きっと、今まで生きてきた長い人生の中で、
バレンタインデーにワクワクするような
色気のある経験が全くなかったということなのだ。

ああ、貧しい人生経験だわ。

でも、正直ホッとしていたりして。

若かりし頃はけっこう内気な性格だったから。
今みたいにバレンタインデーが流行ってなくて良かった!
たとえ義理チョコでもウロウロしてしまったかも。



2005年03月10日(木) 私だったら欲しいな。

火曜日の夕刊に「医師への謝礼金」の記事が掲載されていた。

「正規の治療費以外、医師への謝礼や付け届けは一切不要です。 
日本の医療はお金を包んだからといって治療内容が変えられる
システムではありません。」という内容。

でも、やはり耳に入ってくるんですよね〜。
「いかにして、他の人に絶対に見付からずに、
担当の医師にお金を受け取ってもらえたか」って話、
まるで武勇伝のように語り伝えられてきましたよ。

母の知人は、レントゲン室から担当医師に渡すようにと預かった
レントゲン写真入りの大きな封筒にお金を忍び込ませたそうだ。

「でも公立病院なのに、ほんとうにその医師は受け取ったの?
何か合図のようなものはあったの?」

「渡した当人にだけわかるように、ちゃんとお礼を言ったそうよ」

ということだそうだ。

また、もうひとりの知人は、廊下で医師とすれ違った瞬間を狙って、
白衣のポケットにお金の封筒を滑り込ませたという。

医師が出てくるのをずっと見張っていたのだろうか。
瞬間に目にも留まらぬ速さで、他人のポケットに物を入れるなんて
なかなか高度な技のような気がするが・・・特訓でもしたのかな?

ただし、この策は失敗に終わり、その場で返されてしまったとか・・

でも、その涙ぐましい努力とアイデア、すごいです。

義母は75歳で心臓の大手術をした。
今の元気な心臓を支えている三本の太い血管は、
すべて体の他の場所にあった血管だ。

和歌山県立医大に入院していた義母は、その手術のために
岸和田市の徳○○病院に移された。
心臓バイパス手術においては、かなりの実績があるからだ。

朝から夕方5時まで、ほんとうに長時間の手術だった。
翌日、医師から術後の経過報告を受けた時、
義父は用意しておいた謝礼金の封筒を差し出したそうだ。

小さな部屋で、義父と医師の二人だけだったけれど、
決して受け取ってもらえなかったという。

徳○○病院は公立ではないのに。

義父母は決して賄賂的な気持ちではなく、
心からお礼の気持ちを示したかったのだと思う。

その医師のきっぱりとした行動のお陰で、
徳○○病院は決して謝礼金も付け届けも受け取らない清い病院、
という固定観念が私の中に確立されている。

こっそり封筒に混入されていたお金を受け取った病院は
「悲しいかな、公立病院なのに賄賂に弱い」という評価。
単細胞な私としては当然のなりゆきだ。

新聞記事によると、「謝礼金を心苦しく思い、断るのに苦労している」
という良識ある医師も多くいらっしゃるということだが・・・


ところで、話はガラリと変わるのですが・・
心臓の血管を入れ替えたお陰で、80歳の義母は元気過ぎる毎日、
明後日も、老人向け給食作りのボランティアに行くそうです。
ほんとうに価値ある手術だったと思っています。



2005年03月09日(水) なんとか無事に・・・

今日は二度目の配食ボランティアの日。

今回お弁当を配達したお宅は、少し気を使うケースが多かった。

寝たきりのお年寄りのお宅では、
靴を脱いで寝室までお弁当を運んだ。
お弁当代も、私が押入れを開けて、小銭入れから三百円をとり、
「三百円いただきましたよ」と目の前で見てもらう。

いっしょに付いて入って下さった運転手のシニアの方には
顔見知りだからか、ちらっと笑顔を向けて頷くけれど
初めての私には知らん顔。

次から一人でやっていけるかしら?

それに、やはり物騒ではないのかな?

もう一軒、足の悪い方がおられ、
玄関に入って「こんにちは〜」と何度も叫んでいると、
怒ったように「足が悪いんやから、入ってお弁当を椅子に置いて!」

ヘナチョコの私は、ちょっとクジケ気味だ。

でもいい運動にはなるね!
これも、エネルギー発散のためよ!

マンションの三階に配達する時、エレベーターには乗らず
お弁当を持って、ダダダダーとダッシュして階段を駆け上った。

シニアの人が「えっ? もう行って来たん?」

でも、その後で初めて聞いて知った。

お弁当の中にお味噌汁が入ってるって・・・

そのまま? 食べる時にお湯を注ぐとかではないの?

どうりでプラスチックなのに大きくて重いお弁当箱だと思った。
保温容器になってるのね。

「ほんとに、そのままのお味噌汁なんですか?」

私があんまり何度も尋ねるものだから、

「あのー・・逆さまにしたんですか?」と心配顔。

まさかね! でも中に液体が入ってるのを知っていたら、
もう少し慎重になっていたでしょうね。

ひっくり返したり揺すったりしていないけど、
階段を勢いよく駆け上った振動は、ちょっと大きかったと思う。
普通の御椀と蓋ということだそうだから、
まあ、大丈夫でしょうよ。



2005年03月08日(火) 仲良し

八十歳になる義母は友達が多い。

特に仲良し四人組のオババさん達、
毎月昼食を持ち寄って食事会をしたり、
お弁当を持ってお花見やハイキングに出かけたり、
年に一度は一泊の温泉旅行などにも行く。

いつからの仲良しなのか、聞いてビックリ!

子供の幼稚園の時に、いっしょに役員をした仲間だという。

すご〜い! 

主人の弟が幼稚園の時というから、45年以上の友達ということか。

PTAの役員は大変だけど、生涯、親しく友人関係が続くのであれば、
ほんとうに価値あること、

きっと、一致団結して子供達のためにと、一生懸命だったのだろう。

若かりし頃の義母の姿が目に浮かぶ。
(たまには、持ち上げることもある)

その義母の一生懸命な性格、のんびり路線の嫁(私だよ)には、
時々煙たいのだけど・・・

でも、やっぱり、すごいなと思う。(今日の嫁は素直だ)

だって、その逆バージョンの話をよく耳にするからだ。

今まで仲良しだった人が、いっしょに役員になってから、
仲が悪くなったという話の方が多い。


残念なことに、四人組は今は三人組となった。

もう去年のことになるが、四人でいっしょに温泉旅行を楽しんで
帰って来た日に、ひとりが突然亡くなった。

そういうことがあっても不思議ではない年頃だけど・・

ほんとうに時間の過ぎる早さを感じてしまう。



2005年03月07日(月) 出会い

今は就職活動に忙しい息子の高校入試の思い出です。

中学時代卓球部に所属し、卓球が大好きだった息子は
ただひたすら、私立U高校に憧れを抱いてました。
当時大阪府下では、卓球ナンバーワンの高校でした。

中学生になってから卓球を始めた息子の実力は、
大したものではありませんでした。
(個人戦で府下中学生のベスト16に残った程度)
でも、大学進学においてもかなり実績のあるU高校でもあり、
私達も息子の熱意を認めて応援をしていました。

息子は、卓球の強豪チームに入って練習することを夢見て、
私達は、進学校であるU高校でしっかり勉強して欲しいと願って、

U高校という目標に向かっていました。

親子の気持ちは一致しているようで、実はそうでもなかったかな・・

担任の先生からもOKを頂き
クラスの皆にも「僕は絶対にU高校へ行く!」と
宣言していたそうです。

願書を提出する日も近付いてきたある日、
中学校から帰宅した息子は、U高校の卓球部の練習を見たいと
ラケットを持って、ウキウキと出かけて行きました。

そして、その数時間後、息子は泣きながら帰ってきたのです。

涙をポロポロ流して・・・



息子の実力では、U高校卓球部のレギュラーになるのは難しい、
レギュラーにならなければ、試合にも出場できない、
練習さえもじゅうぶんできない、それが現実だ。

しかも、U高校は勉学もスポーツもとても厳しく、両立するのは無理だ。

もっと卓球が強くなりたいのなら、自分がレギュラーになれる実力の
高校を選びなさい。練習も存分にできるし、試合にも出場できる。

U監督が息子に言って下さった内容です。

さらに具体的に、N高校かS高校がいいのではないか、と。

ほんとうに誠実な対応をして下さったと感謝しています。

その日のうちに、電話で中学校の先生と相談し、
けっきょくU高校監督が勧めてくださったN高校に急きょ変更しました。

N高校は、卓球においても勉強においても
U高校より、ワンor ツーランクくらい下のレベルでした。

でも、息子はN高校の進学クラスにいながら、卓球部も頑張ることができ
なんとか、近畿大会まで進出することができました。
また、現役で国立大学に入学でき、充実した高校生活を送ったと思います。

あの時、U高校の監督のアドバイスがなかったら・・・

一度きりの短い出会い、しかも息子にとっては
決して嬉しい出会いではなかったけれど・・・

ほんとうに感謝です。



2005年03月04日(金) 泣くのはどっち?

「息子の結婚式のビデオを見に来ませんか?」
友人から誘いの電話があったのは先日のこと。

正直、ありがたいような、ありがたくないないような・・・

なんといってもその友人の家は遠い。
川西市の山奥だ。(失礼・・)

頭の中でソロバンがパチパチ、
往復の交通費約二千円、手土産のケーキ千円、昼食代千円、
約四千円の出費は痛い!
なによりも、そんな遠くまで往復する気力も体力も湧いてこない。
やはり、今ちょっと疲れ気味なのかな?

でも、「娘さんの結婚式も近いし、何か参考になるかもよ」
そんな友人の親切な思いやりをムゲに断るわけにもいかず・・

で、昨日、折りしも三月三日のひな祭り、
遠路遥々、川西市の山奥まで出かけてきた。

交通費二千円也と無駄なエネルギーを節約するために
すぐ近くまで通勤している主人のコペンに同乗したのだった。


さて、息子さんの結婚式のビデオ鑑賞は予想外に面白かった。

花婿の父親に当たる友人の旦那様、
新郎新婦からの花束贈呈の辺りから、ひとり様子が変・・・
感極まって涙がポロポロ溢れてくる様子。
最後の挨拶をする段になり突然、「ゥオオー!!!」って、大泣き。
あわてて「すみません」と言って、必死で気を取り直すも、また泣く。
涙にむせびながら、途切れ途切れ、やっと挨拶を終了した旦那様。

凄まじき「花ムコの父の涙」だった。

その間、隣の新郎新婦は複雑な表情。
さらにその隣の新婦のお父様、シラ〜っとした表情に見えるのは気のせい?
花嫁の父の演出を奪われてしまったのでは??
なんて余計なことを思ってしまう私達。

ちなみに息子さん、決して養子に行ったわけでもなく、
友人宅の近くに住んでいる。

失礼極まりない三人の主婦達は、涙、涙、で挨拶の旦那様の姿に
ケタケタとお腹を抱えて大笑いしたのだった。(ごめんね)

友人の旦那様、朝出かける時に
「ビデオの最後の場面、絶対に友達に見せるなよ!」
と何度も念を押し、
「うん、うん、わかってるって!」
と友人は安心させて送り出したそうな。

いや〜、結婚式ビデオ、とても参考になりました。

感極まると、予想外の自分の姿を曝け出してしまうというか・・・



2005年03月02日(水) コペン効果

「コペン効果」のせいで、とてもご機嫌麗しい最近の主人、
とにかくドライブに出かけたくてウズウズしている。
一泊で何処かにドライブに行こうとしつこく迫る。

毎日の通勤だけでは物足りないのですか?

学生時代にアルバイトでお金を貯めて、
初めて中古の車を買った当時を思い出すという。

嬉しくて毎日その車で走り回っていたという三十数年前、

今、その時の気持ちと全く同じだと嬉しそうに言う。

私だって憶えているよ。

あの黄色いダイハツフェローには、よく乗せてもらったから。

「下駄を鳴らして奴が来る〜♪」
「ゆかたの君は〜ススキのかんざし〜♪」
そんな曲がいつも流れていた車の中。

大学に到着する前に「ベル」でコーヒーを
鳳のアトラスでケーキを食べてのドライブ通学。

主人を若い頃のあの嬉しかった時と、
全く同じ気持ちにさせてくれたコペンの力は偉大だ。

早朝から夜遅くまで仕事の毎日、子供の結婚や就職、年老いた両親のこと、
いろいろあって精神的にも忙しい筈の主人なのに、
心から喜んだりワクワクしたりするスペースも、ちゃんと存在する。

私なんて、ひとつでもイヤな事や少しでも辛い事があると、
精神全体が黒雲に覆われたようになり、喜ぶべきことでも喜べないのに。

これはこれ、それはそれ、心の中もきちんと分けないとダメですね。

ちなみに、お腹の中はきちんと分かれている私。

どんなに満腹でも、ケーキやお菓子は入るし美味しいと感じる。


そうそう、昨日、会社から勤続三十年の表彰状と記念品を頂いてきた主人、

コペンがなによりの御褒美となってよかった。


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