鮎見時子の日記
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2005年10月28日(金) 性教育のメグヒックリングさんの講演会行って来ました。

メグヒックリングさんの講演会行って来ました。
幼稚園児から小学生向けくらいの子どもと親のワークショップも
あったけど知ったのが遅くチケット完売。
4歳の娘でも若干幼いというか4歳になったばっかり程度で
だからまあ残念年な気持ちもちょっと諦め

ちなみに
日本での公式サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~zv6m-ishr/videodoc/meg.html
発見したので、
来年もしあれば・・・
北海道はメグネット北海道っていうのがあるみたいで
ほぼ毎年来ているみたいだから期待を。

でも、3年前、メグさんの専門家向けワークいったら
そのときもうリタイア
後継者も育てたしもう自分で講演やワークやらない
これが最後と言い切っていたんだど
日本が気に入ったのか心境の変化か・・
止めてしまうのもったいないから現役はうれしい限り。

講演そのものは
一般向けのさわり程度だったけど

やっぱり性は明るく健康的に。。。が前面にでていて
すっきり。

というかともすれば、
性暴力被害者になってもしあわなかったらと
考える理想の性って机上というか
性暴力被害者に限ったことじゃないけど
大人が考える性って明るいことを強調したがる

たとえば子どもの自慰行為
いけないことじゃないとか
そういう健康で自然にこだわるけど

メグさんはもしみたら
楽しいことなのはわかるけど
鼻くそ人前でほじらないのと一緒で
プライベート空間人のいない場自分の部屋とかで
やることも教えないといけないと。

ちなみに性教育やろうと思ったきっかけは
性器の名称をスラッグしかいえないで
恥ずかしく癌など重大な命にかかわる病気
病院恥ずかしくかからず手遅れになってしまった
患者をみたからだそう。

この話時々してるけど
夫も陰嚢に癌が出来、結構大きくなっていって
幸い片方手術で取っただけで再発もないけど
まあ、まさか癌とか腫瘍とか思わないというのもあるけど
見えるし触れば塊もすぐわかるけど
意外とはずかしがって夫もかなりおおきくなっていったけど
ドクターが言うにもっと大きくなって手遅れでくる人おおいんだと。

女性の乳癌や子宮頸がんよりもっと
結構、男性の性器のがんの早期発見遅れてる・・
ってでもしこりの自覚は絶対小さいうちにできる場所にも
かかわらずっていうところが
性を恥ずかしいものにしかみれない問題のせいなんでしょうね

ちなみに大きくなるの早いです。夫
なんかころころしてるとか言い出して気にもしてなかったけど
正常な側の1.5倍2倍?まで2ヶ月程度でした。
でも、ちょうどお盆で規制終わってから病院いく?とか
のんきなこと考えていましてでもそれでいってよかった
後回しにしてたら転移とかしてたかも。
癌って痛くないんです。いたいとか自覚症状でたらもう中期か末期
初めて知りました。

それにしても
メグさんの講演行って
20代で看護婦天職だから資格取ればと2回占い師にいわれ
無視したこと今更後悔。
職場でもとるチャンスあったんですよね。。。

看護婦保健婦って病棟勤務しか
想像できなかったの。
20代のハローワークでもほしかった。
でも
酷評した「結婚帝国」13歳のハローワークにも
けちつけていた。
夢や自己実現と労働の違いをごっちゃにさせると。
なんか、あんたたち
将来自分の年金の財源心配してるんか?と気分悪い。
職業の選択肢がいっぱいあるという情報とっても大事で
(NHKでも色んな仕事の新人さんをドキュメントしてる働くって
楽しそうってイメージ大事なんだよ)
で、確かに青い鳥探しみたい甘ったれも混在してるけど
それはそれでそれじゃだめだと説教なり
しつけなり金銭の自立も大人になったらさせる親世代の責任。

甘やかしてる親の世代に説教しろよとおもいました。


2005年10月21日(金) 「結婚帝国女の岐かれ道」酷書評

読んでしまってむかついてネットで非難していたら
私のフェミニズムの認識を訂正してもらう言葉にであった。

*フェミニズムは女性が女性であるということだけで差別されることへの
抵抗をさし、
あの本、フェミニズムじゃない部分多すぎると・。

あの対談は、フェミニストとして結婚出産した、独身でフェミニストとして
成功した、成功者同士の対談で
成功した経営者どうしの対談なら夢があるけど
成功したフェミニスト同士の対談なんて反感かうの当然かもと。

**

そうあれはフェミニズムじゃない。
そう納得。

中年以降って自分がどれだけ頑張ったかの話は、
きく側の心境考慮しないとただの自慢、嫌味ほかなしってこと
常に配慮が要る。
喋りたかったら相手を選べ、自助や同類内輪で満足すべきで
本で対談ってのは・・・
ジェンダーや虐待の話の世界でお二人とも名まえくらいは
有名人だしね。。。
自分の印象下げるような出版はやめておけばよかったのに。

読んで気分悪くなるだけの本だったけど
むかついた話をネットでしまくった縁で

フェミニズムとDVの関係についての
私のイメージをフェミが細木数子の仲間だなどと
突飛な表現以外での文章化のヒントに出会った。

DVの支援をフェミがになう主力になったのは
フェミニズムが女性の問題の支援をやってる必然。

だけどそこにおおきい問題というか、
自分から求める加害者以外支援者は最初から
パートナーの言い分のみを聞く敵として登場し
そこが問題をこじらせてるような。
病理抱えてるのわかっていて対応が違う結果を
やっぱり加害者は加害者という態度が
私の道徳観と一致しない。
もちろん当たり前だけど、加害者の更正の責任を支援者や
被害者が背負う必要はない前提での話しだけど・

ついでにいえば被害者にとって加害者が更正すれば問題解決って
そんな単純じゃないとも思う。

被害者のなかでどのくらいの割合でそうなるかわからないけど
トラウマ後遺症、パートナーの回復するしないと関係なく一生
被害者としての自分を抱える二次被害と向き合っていかないといけない人も
いるだろうし、
もしパートナーが回復したらその後やり直す別れるかの決定は別ものだし

DVの支援もおきた、おきてる目に見えてる過去といまだけを
視野にしていても抜け落ちてるし
被害者だからって親の責任義務は免除じゃないし

でおもうんだけど
なぜDVはカタカナ英語で定着したんでしょう。
「パートナー虐待」にならなかったのがいまとなっては疑問
でも虐待は虐待というか
子ども虐待、これから徐々に明らかになる高齢者虐待

虐待の加害者、被害者という共通病理DVにだってあるはずなのに。


2005年10月16日(日) 過保護過干渉という名の虐待行為

被虐待児だった自分のことを
文章にしようと思って書き始めた二章目。
ちなみに一章目は「殴られない幸せ」
すでにUPしてあるけど書き足し推敲分を
この後、予定。

多分高機能自閉症なんだなと自覚した話も
入れたいけどいれたらごっちゃで誤解招きそうなのも嫌。
でもいれないとすっきりしない・・・

過保護過干渉という名の虐待行為

親の養育責任は子どもの自立能力をはぐくむ支援も入っているはずである。
過保護過干渉はその正反対。
子どもの自立能力や
それを育てることで発生する自尊心を押しつぶしてしまう虐待行為である。
虐待行為を受けて育った子どもたちなのだから、
過保護過干渉を受けた子どもはその影響で大人になっても
爪あと歪んだ心を作り直す作業に苦しむ現実があると思うのだが、
実際、ほとんど理解されない。語ろうとしてまず聴かされる言葉は、
「今更親のせいもない」この言葉で自己点検自己修正の出発点さえ、
いきなりさえぎられてしまう。

過保護過干渉は親側の意図でふたパターンに分かれると思う。
親が子どもに躾として能力を身につけさせたい場合の過干渉は、
一見外見の能力は身につくのだけど、
ただそれだけであって
心はつねにかつての干渉の恐怖に追い立てられていて
自己の幸せ実感もできないし、
その苦しさを表現しても周囲は親をほめるか、
立派な躾でいまのあなたがいることに感謝したらいい、
何が不満かと理解されない。
逆に私の親はこちらに属すけれど、
親自身が子どもの試行錯誤みていられない、
練習しないとうまく出来るわけがないのに、
その隙間が耐えられない親は口と手を出すので
自立能力は身につかない。
そうして剥奪された能力は、
思春期以降は、親に甘やかされて育ったからと非難される以外は、
今更親のせいもないでしょう。
努力の問題、自分がだらしないだけ、
子どものときの過去の話にも、
「いわれないように頑張ればよかったんじゃない?」
親も同じことを言いながら過干渉したのだ。
過干渉というのは努力するチャンスを奪う行為であることすら
なかなか理解されない。
子どもの方だけの問題にされてしまう。
ただ、昔はどうせ同じ過干渉なら
自立能力身についた方が人生に有利だったのにと思っていたが、
現実、そういう干渉を受けた人たちが、
能力いくらあっても何かに追い立てられ苦しんでいたり、
あるとき、息切れて精神的に倒れる人を
何人もみていたらどっちにしても虐待は虐待で、
幸せとは遠いと思うようになった。
幸い大人のいま思うのは、
私の親は過干渉はしたが過保護はしなかった。
その違いは大きく、
だからとりあえずいまの私が維持されているが、
過干渉を受けた子どもが大きくなって
後の心に残すダメージは、ほとんど認識されていない。
わかってもらえない。
私の場合は、とにかく何か決めようと思うとかなにかやろうと思うと、
目の前にいない親たちの声や監視の注視が
幻でも頭に再生され思考どころではない。
それをリセットして
いま目の前のことに集中する余計な脳内エネルギーの
浪費だけで疲れてしまうし、ストレスなのである。
そういうハンディを理解してそのうえで生きなければ、
頑張ろうと思うだけでは、空回りして
不思議に思うが
親が言い続けてきた「無能で怠け者な私」を完成させていく方向へしか進まない。
私は、そんなこと本心では望んでいないにもかかわらずだ。
少し話はずれてしまうが、
そうか私って虐待されていたんだと思った
最初のきっかけもやはり本「私は親のようにならない」
もう虐待関係の本としては古典にはいる年代に書かれた
アルコール依存症の親を持った子どもたちのために書かれた本だ。
読んでいて、そういえば
うちも子どもの私にとっては見るな聞くな言うなの世界だったよなと
漠然と思ったのだ。
親のようにならないと思うのに、気がついたら同じようになってしまう。
それとは逆に褒めること認めることが出来ない親、「なぜ出来ない」、「こんなに言い聞かせてるのに」、「おまえなんかに出来るはずがない。」口を開けば否定の言葉ばかりの親の子もまた、
なぜか親はそんな風になってほしくなくて言うにもかかわらず、
子どもは親の言った言葉どおりの人生に向かうことがなぜか起きている。
どうしてかは実際にはどうでもいいけど、
その軌道修正は、意思の問題だ、頑張らなきゃだめでしょう。やれば出来る単純なことなどなど、
耳にたこができるほどあらゆる場面で聞かされるほど単純ではない。
なぜならアルコール依存症の親の虐待とおなじく、
否定ばかり聞かされ過干渉の虐待された後遺症としての
いまを生きているからだ。
中年のいま開き直ってそう思う。
そしてその前提をはずさないことでしか
軌道修正の方向が見えてこないことも
誰もそうはいってくれないけれどそうとしか思えない。


2005年10月14日(金) 片付けれないことも、本当のことが言えることって大事ですね。

信頼してる人に話の流れで、家片付けなさい、
病気になるよ。といきなり言われ凹んで泣きたい気分だったけど
彼女の場合、いろいろ苦労してというか人生の先輩としての
深さは信用してたんで、
だって出来ない話、あれやこれやしていて、
まあ彼女自身がなぜだか出来ないひとではないから通じないにしても
出来ないなら親に頭さげてでも、お金払って家政婦でも一度は
きれいに自分で後出来るとこまではしないとだめでしょう。
その調子じや3年5年後も一緒かもって。本当のことかもしれないけど
嫌味だな〜って思いつつ
でもその話の中でひとつそうか。。
って思うことを思いついた。
かぎ、いつも家の中で探す、
その話彼女に言わせれば
「家の中雑然としすぎだからしてなければ変わる」
たとえばかぎのおき場所引き出しの一箇所に決めておく
(見えるとこじゃなく引き出しの中とかって発言が
几帳面な彼女的だと。。笑)
それは論外、なぜか片付けられないというか手に持ったものを
なぜか。何気に元の場所に戻すことが出来ない、
そういうのがわからない人の理屈。

でもそうやって反論していて
「だって家に入るときって荷物はいっぱい持ってるし
家にはいった瞬間何するかとか思考がいっぱいで
鍵のこと優先ないうちにどこかへ行っちゃうし・・

これ書いていて
この鍵のはなしほかの友達ともしたけど
かばんの入れる場所決めておく。。
家でも決めておく。。。

同じこといっていたけど
かばんなんて出かけるときで違うし
かばん全部にいれば所決めて覚えることが
わたしの能力外。
それに、そうやって頻繁に鍵のこと思い出す作業って
やってたらストレスたまりすぎ、
無意識になにげにじゃなく最優先って全神経使うから
パニックで。。

でも。家に入ってかぎのこと考えるのは玄関の前で頭の中リセットして、
一連の動作のまんまじゃなければいい。
単純なようでむずかしいんんだよね〜。
だって家に入る瞬間って実際靴を脱ぐとか
これかなにしようとか
最近だととにかく眠い昼寝〜とか(薬の副作用もある)
いろんなことごちゃごちゃ雑然していて鍵を思い出すって
高機能自閉症には難しい。
といってもそうかリセットか・・玄関入るとき気持ちリセットして
まず手に持ってる鍵のここだけ考えるというのは
そんなに難しくないかも。。

で、思ったんですけど、
一時期ちょとだけ成人ADHDのお仲間自助も出たけど
あまりに多岐いろんな人がいて、
そももそ物が片付けられないは
捨てられない、
捨てるのは平気でも整理整頓できない
後者は整理整頓の上手な人から、学ぶそれが
かなり基本かもしれない。
でも出来ないことが理解でき根気よく教えてくれる
才能って誰でも持ってないからね・・・

そういう人に出会いたいな〜。

これ書いていても
涙出てきたけど。
本来ならここまでこんなに片付けの出来ない人じゃないはず。
被虐待、過保護過干渉の
おかげで頭の中で感情とも記憶ともなんふだかわからない
ノイズの負荷で鬱々しまくり。。。で空回り。

失ったものに涙が出る。

でも多分その冒頭の彼女と話していて
どうも私の今回の生きる宿題は生活大事にする自分なのかな・・
痛いというか難しいというか
だって、朝ご飯作って
(といっても前の日の残りに冷凍うどん入れただけ、自分だけなら食べないけど娘がうるさかったから)
でその段階で夕飯どうしようとか考えて。。

そういう逆算って実は結構脳には負担かける。
そもそも食べること興味ない。
夕食お菓子でも平気。。。。

それじゃまずいし、
それに誕生日クリスマスなどなど全然興味ない。
普通の1日でOK。
今はいいけどこれから娘が大きくなったら
興味のない裏方をやること考えただけで憂鬱。
一応してもらったからね。。で楽しかったし
子どもは楽しいんだよね
大人になったら好きな大半とどうでもいいごく少数派に別れるけど。




2005年10月10日(月) 個性と障碍の境目

昨日友達に
アスペルガー症候群の話をして、
(その友達の子どもが小学生で早生まれプラス発達のんびりチャンなので)
精神科医の発達の終結目安
診察室にきて今日はどう?って聞かれ
ハイおかげさまで、調子いいですなどなど会話が成立してきたら
もう大丈夫と思い
これが神様に聞いてとか、そんなの豚のけつとかそういう返事のうちはだめって
知って
ああ病院での今日どうしました?って
挨拶だったんだ
言わないけど私もそんな聞かれてもうまく答えられないような・・とか
思ってたもん、
って話に
それっておばちゃんとか結構
「そんな調子悪いからきたとか答える人いっぱいいそうでそれも
アスペルガー?」

と聞かれ
う〜ん考えてしまった。
何を軽発達障碍とそうじゃないか分けるかって境目。

とっさに思い浮かばなかったけど
個性と障碍の境目。

これはつまりバランスの問題。
おばちゃんのそのお返事、そうお返事しても
でそれが挨拶で診察がスムーズならOK
ちょっと言葉にこだわる人って程度だし
中年のおばさんがやるのは社会性的に
医者からも好き嫌いはあっても許容がある。

場の流れからはみ出さない
これが社会性という能力なわけで
(ただしこれもバランスの問題で単純にそういいきれないけど)

様はなんとなくみんなができてしまうことをできない
できないことがだめというより
できないことで受ける本人の不利益があるから
その支援がいるから障碍という名がつくというかあったほうが
いい子ども、大人がいる。

友達のとこの子どもももし
この先どうも。。っておもうなら発達支援を探した方がいい話をしたんだけど
よかったのかな〜。
何がわかってないかどう説明すればわかるかってことは
やっぱり専門家の知識にはかなわないと思うよと・・・
といっても早生まれだしね。
でも2年生後半でそろそろ早生まれだし。。。と
それだけじゃないかも。。。の境目で
その子のお友達ともう一人
発達のんびりちゃんコンビだったんだけど
もう一人の子はそろそろ思春期、自我もでてきて叱られることばかりに
屈折反抗期物投げたりかんしゃく起こすようになったって。
しんどいだろうなその子も。

それにしても、発達障碍もそうだけど
子どもどうしだけの人間関係の濃さが薄いというか
鬼ごっこで泣いた話
「だって凍り鬼っていったのにやっぱりたかたか鬼とか
なんだかおにとかすぐルールかえるんだもん」

それってそれをやる子がいつもいつもなら軽発達障碍?だけど
本来ならそういう自分が負けたくない気まぐれを
やって迷惑かけて嫌がられて反省しそうやって社会性育てるもんなんだけど
話は泣いたところできれちゃうんだよね今は・・・

泣いた子も文句を言うとかいえないならいえないなりの
どうサバイバルするかって知恵をつけるのも社会性。
人間関係って喧嘩しては仲直りしてまた喧嘩してってことで
成立していて
嫌いな人がいてもいい。排除はだめってことや
相手がなくの見たら良心がとがめる本来の感覚って7,8歳前にゆがむと
のちのち問題だし。。。

・・・それにしても
発達障碍の子どもの支援にかかわりたい野望(笑)
あるんだけど
それにはまずとっさに喋る言葉がすべて。
そうとうどこかで支援訓練でもないとだめだね。。。
なにが一番ってマイナス評価はしない。
というか一番にまずほめる言葉共感なりがでないと
話にならない。それだけはよくわかった。


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