a short piece

2005年05月05日(木) face fake【28】

5月の緑に、雲ひとつない青空。
花を落としたばかりの桜の枝葉もこの太陽の下では美しいだろう。
湿り気のない空気は22度。
背の高いビルが立ち並ぶ街を過ぎる潮風も心地いい。
これだけの爽やかな青空の下、不似合いな声で相方が唸った。

「なーこれ、こんな待ってまでみるもんなのか?」

クィーンズスクエアからグランモールを抜け、回廊を渡ったところで、目の前に広がった光景に、仁王くんが普段はみせない口の形をみせた。
それは二文字。唖然だ。

「そうみたいですね」

横浜美術館前。けやきがきれいに連なる並木道と石畳。グランモール公園には平たく水を湛えた噴水がふたつ。すっきりとした長方形の水盤が綺麗に据えられていた。
この簡素すぎるほどのシンプルな水場が気に入っていたが、あろうことか、それを指差しつつ仁王くんが、けけっ♪とかなりイヤな感じに笑った。

「いつも思ぅんだがの…これって旅館の檜風呂みたいじゃねー?」

…なんという失敬な表現をするのか。この公園を設計したした方が聞いたら眩暈がしそうだ。
本来はいやに広いスペースに感じる公園だが今日ばかりは違う。
当然だ。この公園に隣接する横浜美術館では世界にその名を誇る美術館の単独展覧会が開催されているのだから。
グラウンドに水をまく前のホースのように蛇行し群れる二列渋滞の行列。
その最後尾には『入場40分待ち』と書かれたプラカードが据えられていた。

「げーっ!まじかぃ」

仁王くんがすっかり温くなったSTARBUCKSのカプチーノを音をたてて啜った。

「下品ですよ」
「はぁい」

空になったCupを器用に畳んで持っていたPORTERのメッセンジャーバッグにつっこんだ。
列は立ち止まることはなく、半歩ごと前進する。この感じではさほど待たずにはすみそうだ。

「俺はMONA LISAくらいしかしらんかったがのう」

と、俗物なこといってガムをぱくっとあけた口にほおった。
招待券を頂いたのは私だ。だがやはり誘う人選を間違ったかもしれない。
いつも持ち歩いてる文庫を取り出すと、挟んである栞をひきぬいた。
だが一つ文字を読む間もなく、なぁ、とやっぱり止めがはいった。

「誰の絵が好きなん?」
「え」

思いがけなく言葉に詰まる。

「今回の展示にきてるといいんですが…」
「へぇ。誰」
「…カミーユ.コロー」

知らないなぁ…といわれても別に驚きはしない。別にマイナーな画家ではないと思うのだが、日本では案外知名度は低いと思うのだ。特に仁王くんのようなワカモノには。案の定、彼はしばし黙る。脳内データベースが無言に検索されているようだ。

「いいんですよ。世界中の誰しもが100%知るほどの作品はないですからね」
「そうなん?」
「でも見たらきっと、どこかでみたことがあるかも…位には思いますよ」
「微妙な話やの」
「誘って迷惑でしたかね」
「並んで迄、絵を見たいとは思ったことは今までないけどなぁ」
「二枚貰いましたからね」
「真田は誰と行く気やったん?」
「ご本人に聞いてみたらいかがです?」
「ご遠慮致しますわ」

きかんでもわかっとるもん。私より少し高めの、クセのある声が愚図る。
2人しか聞こえない位の小さな声で、たわいのない会話で顔をつき合わせる。
携帯をかけている前の人との境は50センチもない。
私達が後ろについてから、後ろ姿のすらりとした彼女はずっと様々な友人に電話をかけては同じことを話していた。
どうやら彼氏を振ったらしいらしいが「振られた」ことになっているのが気に入らないらしい。『はっきりしないから別れてやったのはこっちなのにさぁ!どうなのよ、これってさ』
そういって憤怒を大きな声であらわにしている。
正直いって、こういう場でそんな声でする話ではないはずだ。

「こんなんだから、そうなるんだと思わん?」

彼が唇を尖らせて、ふうっとガムを膨らませる。
まったくです。
少しずつ前進する歩みは止まることなく進み、ついにはエントランスを潜るまでに近づいてきていた。展示会用に設置された、その入場口には有名なジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの『トルコ風呂』。そのレプリカが飾られていた。

「えらい豊満なねーちゃんばっかだのぅ」
「こら」

チケットに入場のスタンプを押され、カタログを貰い、展示室に入る。
歴史画から始まる展示は予想よりも大作が多い。順序よく群れ成したまま、絵画の前を牛歩する観客。その頭の上から、2人で覗き込む。

「みえますか?」
「50%offくらいの画面でな」

私よりほんの少しだけ低い位置で、頷く彼の腕を取って先を急ぐ。

「いっこずつみなくていいんか?」
「いいんですよ。好きなように見ればいいんですから見えるところから行きましょう。肖像画のところに行っていいですか?」
「お。目当てがあったんやな」

最初の展示室を素通りして一気に肖像画のフロアまで抜けてしまおう。
どうせ入り口が混雑しているのは30分くらいだ。後からゆっくり戻ってくればいい。
どうせ仁王くんには興味のない世界だろう。そのまま手をとったまま、フロアの人混みを抜くように進む。
あと10歩で、時事的絵画のフロアに踏み込もうした、その瞬間。

「ア、待った、比呂士」

え。
突然、立ち止まった彼に引き止められ、絨毯をつま先が無駄に蹴った。
うす暗闇の中で、つんのめるように立ち止まる。

「どうしました?」

「これ…来てたんだなぁ…」

それは彼の前に分れた人波の間から大きなカンバス全身を覗かせていた。
暗い緑がかった水面に両手を縛られたまま、浮かぶ殉教の乙女。
画面の半分以上は暗く漆黒で塗りつぶされ、遠い空から射す暮れの光に反射した湖面に漂う乙女の白い死に装束だけがまぶしい。
立ち止まり、魂を抜かれたように佇む姿に、私は慌ててカタログをチェックした。

ポール・ドラローシュ作『若き殉教の娘』。

水に濡れた髪は金糸の綿のよう。
閉じた瞼には苦悩の色はない。ただ死した額のうえに浮かぶ光の輪が、殉教の証なのだろう。

「すきなんですか?」
「これ貸出されてての…みれんかったんや…」

へえ。
彼がこのような、ある意味でファンタジックな絵画を好むとは。
なんとなく絵と本人の対比のほうが興味深く、2人で並んで見つめる。

「…やっぱ好みの顔じゃ」
「この女性が?」
「うん」
「まあ確かに…貴方の好みですかね」
「こういうストイックな感じがたまらん」

なんだか。いいんでしょうか。
少しだけ不純な色を察知し、視線だけチェックする。
その横顔は変わらず、真剣に絵を見つめていたが、その目の色まで覗き込んで確認する勇気はなかった。

「いこか」
「え、ええ」

先程とは逆に仁王くんに腕をとられ、居心地悪く彼女の前を後にする。
ルーブルで彼が出会えなかった彼女は写真ではなく、こうして本当の姿を
彼にみせることができたわけだ。彼の理想と期待を裏切ることのない、怜悧な美しさと凄絶なまで美を晒して…。
僅かな感慨に一瞬耽ったとき、はたと気がついた。

「ちょっとまった!仁王くん、ルーブルにいったことがあったんですか?!」
「あるよ。中一ん時の春休みに」

聞いてないですよ!そんなこと。つい空いてしまった口がうっかり塞がらないまま、引き連れられてフロア上。

「行ったことないって、いったことないやろ?」

暗がりでも後姿でも判る微笑みに、気恥ずかしさがこみ上げる。
絵画なんてまるっきり興味がないと勝手に思っていたのは私だけか。
つかつかとオリエンタリズム、動物画の展示室を抜けて、はいっとほうり出されたのは肖像画の間。

「ここからコローが出始めるんや」

正解ですよ、仁王くん。
観客の少ないささやかな肖像画の前に立たされて、なんとなくうな垂れる。
完敗だ。
まさに、これだ。私がみたかった絵が引き連れられてたたされた、この目の前に掲げられていた。

足元に落ちる小さな泉。
全体に茶を帯びた庭に佇む亜麻色の髪をスカーフに隠した少女。
伏せた瞳に、小さくつんとした鼻梁が美しい。その手にした菊のような花も、まるでジュリエットのようないでたちも。
私にとって理想の象徴だった。

カミ−ュ・コロー作「泉水のわきに佇むギリシアの少女」。

その可憐さも、少し陰のある意味深な横顔も。
図録で見ていたものより、数段すばらしかった。

「これが柳生の好みのタイプか」

ふんふん、と勝手に解釈して頷かれても困る。が、否定もできない、この事実と現実。
嬉しい反面、純粋に感動できない切なさに私は無意識にチケットを握り締めた。
絶対、また会期中にひとりでくる!
そればかりを心に念じ、でもやはり勿体無いので、時間の限りに彼女との初めての逢瀬を堪能した。

若干つきつきと刺さる誰かの視線を頬に受けながら…。



横浜美術館前。
あっちこっちと展示室中を往復し、やっとフロアを出た頃にはすっかり太陽が陰っていた。
先程までは日差しを反射していた公園の水盤にも美術館の影がさしている。傍に並ぶけやきの葉がその水面に映りこみ、溜まる水色は濃い緑色にかわっていた。
まるで、あの絵の水辺のように。

「なんか、ここに突き飛ばして水んなかに転がしてやりたい衝動があるんやけど…」
「もしここで背中を押したら殺しますよ」
「いやん」

夕暮れの風に煽られてさわさわと小さく波打つ水面に寒気を感じる。
有意義だったのか、感動的だったのか、破廉恥だったのか。
何がなんだか判らないまま、私は石畳を小走りに歩き始めた。
判ったことはひとつだけ。

お互い様だということだ。

明日にでもまたチケットを買って、ひとりで見にこよう。
振り向き、美術館に誓う。それだけを堅く誓う。

本当に、すみません。

また、明日。
本当に出直してきます。





 < 過去  INDEX  未来 >


pigzunko [HOMEPAGE]