遠雷

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夏いろいろ
2005年08月21日(日)

あんなに来てほしくなかった夏も、そろそろ終わりの気配が見えてきました。あまりの暑さに結局は半袖を着ています。着てしまえば何ということもないのに、あんなに怖かった初夏の頃が嘘のようです。

本日の文章は本当にダラダラとりとめのないものです。ご了承下さい。




もともと、夏が好きではありませんでした。海に泳ぎに行くこともなく、キャンプなどのレジャーに行くこともなく。学生時代に暑い夏があったわけでもなく。秋が待ち遠しいだけの、夏。そんな、なにもしていないわたしにも夏の終わりは何となく切ないような気分にさせられます。わかりやすくメランコリックな気分に浸ることのできる秋よりも、今が。(それとも夏を満喫していればそんな暇はないと言うことなのでしょうか)

なぜか一番切ない気分になるのは、昔から車の中でした。まぶしい日差しの下でも、夕暮れ時でも、お盆過ぎになると切ないのです。基本的には一人の時ですが、今日は友人と一緒だったのにそのような気分になりました。ああ、秋が早く来てほしいのです。まだまだ私には夏の日差しも楽しそうな若い人たちの姿もまぶしすぎます。

夏にもいろいろ外に出かけていたはずなのに、連想するのは扇風機を回しているHの部屋です。向かいのG夫婦と花火をしようとか、通路越しの部屋の窓と窓に竹を渡して流しそうめんをしようとか、いろいろ計画もあったはずなのに何もしていません。私が厭がって一度も泳ぎに行ったこともなく、行きたいけれど暑くて延ばし延ばしになっていた野外フェス、花火大会。夏のお出かけっぽいものと言えば、結構有名な夏祭りにでかけていったことぐらいでしょうか。そうそう、結婚のことを言い出されたのは夏の夜の河川敷に停めた車の中でした。

すだれがかかった窓、クラシックな扇風機の音、ショットグラスに氷ひとかけらを入れて飲む麦茶、初めて冷や奴とざるうどんを夕食に用意したときに妙にHが嬉しそうだったこと、子供の頃からの夢だったと言って冷凍庫に何パックも入れていた色とりどりのチュ−ペット、車の中でエンドレスで流し続けた外国映画のサントラ。お出かけの非日常ではなく、なんでもない日常。それが今のわたしにとってはどんなに非日常的なことでしょう。そして、それらの記憶は夏のはじまりの昼日中であっても私を切なくさせつづけました。終わり近い今はなおさら、去年と今年のHのいなかった夏の記憶を重ねているので余計に切ないのでしょう。

私はもともと自室にいる時はよほど暑いときでないとクーラーをつけません。暑くて汗が流れるのは気持ち悪いですが、それをがまんしてジリジリするのが何となく好きなのです。そしてふっと気がつくと日が暮れていて、涼しくなった頃に汗を拭くことがとても気持ちがよいのです。去年の夏は、汗を流してみたり、涙を流してみたり…なんだかきたないですね。いまも同じように汗をかきつつパソコンに向かっていますが、短い文章を書くことにも長い時間をかけていることは変わらないのに、一年前の私のようには涙を流していません。

あんまり暑くて頭がぼうっとしているときは涙なんて出ないように思っていましたが、去年のわたしはどんなタイミングでもスイッチが入ると泣いていました。さすがにあまりに暑いときは、泣きながらも背中の汗とこもった熱気を心のどこかで感じつつ、それでも泣いているのだ私は…などと考えながらもやはり泣いていたような気がします。しょっぱいのは汗なのか、涙なのかわからないくらいに。

去年の夏はHとの思い出だけを思っていればよかったのに、今年の夏はHのいない去年の夏のこと、私がどんな風に過ごし泣いていたかも思い出していなくてはなりませんでした。それが、一年以上の月日が過ぎてしまったことなのだと改めて思い知らされています。


白い蝶
2005年08月17日(水)

夜、駅のあかりの周りには群れ飛ぶ羽虫の群れ。今日もたくさん飛んでいました。でも、あまり夜中にモンシロチョウを見かけることはありません。ましてや駅で見た覚えは、思いつく限り、わたしにはありません。今日はいつもより改札から遠い場所に降りてしまい、長いホームを歩きながら飛び回る虫を見て思い出したことを書きます。

その白いひらひらしたものがあまりに突然に現れたので、一瞬それが蝶だとわからなかったことを覚えています。Hのお通夜の帰り、ひとり電車を降りたわたしの数メートル先に、一匹のモンシロチョウが飛んでいました。このあたりでは6月にはあまり見ることのない蝶、それも夜、煌煌と照る蛍光灯の下でもそれはとても白くて、不自然なほどにぽっかり浮かんでいました。ひらひらと言うよりふらふらと、漂うように。その蝶に吸い寄せられるように歩いていたわたしは、劣らずふらふらとした足取りだったことでしょう。

蝶が死者の使いであるとか、魂であるとか言われていることなど頭からすっかり抜け落ちていました。そのときはただ、「そうなの? やっぱりHなの? 会いにきたの? 迎えにきたの? 別れにきたの? 違うの? どこにいくの? なんでここにいるの?」みたいなことをひたすら考えていたように思います。蝶は、そのままどこかに行くわけではなく、改札口の、駅員が立つ窓のそばまで行くと、そのあたりをしばらく漂っていました。それはほんの数分間のことだと思いますが、一緒に電車を降りた人たちもいつのまにかいなくなり、ひたすらじっとその蝶を見つめて呆然としているわたしひとりしかそこにいないことにふと気づきました。駅員も私がいるのでなんとなく窓の向こうに立ったままなのでそこに立ち続けるわけにもいかず、ましてやその蝶を捕まえて帰るわけにもいかず。なにごとか言い訳を自分にいい聞かせながら、立ち去りました。

最初、このことを人に言うのはあまりにお話めいていて恥ずかしいような気もしましたが、気がつくとわたしは「ゆうべ、蝶を見た。駅に迎えにきていたの」と人々に繰り返していました。

翌日のお葬式に行く前、帰り。改札を通るたびに「昨晩10時頃に改札に立っていた駅員に『蝶が飛んでいたのを覚えていますか。どれくらい、飛んでいてどこに行ったか知っていますか』と聞いてみたい」と思い、でももし誰も知らなかったらどうしようと怖くて、またもや改札で蝶がいたあたりを見つめて立ちすくんでいました。もちろん翌日にはその蝶は跡形もなく、そしてあれからわたしは蝶を一度も見ていません。今年の春も、もちろん6月も、今日も。

偶然なら偶然でも構いません。あの日、あの時間に、あの場所に偶然に蝶が飛んでいたということ、それだけでしかないことはよくわかります。でも、それだけでいいのだと、そう思います。もう二度と蝶など見ない方がいいということではありません。これから出会う蝶は私とは他人なのですから、会おうと会わなかろうと関係がないだけです。わたしには、あのときにあの蝶がいたというそれだけのことが重要なだけ。

ただひとつの思うことは、周りのことなど気にせず、自分から立ち去るのではなくて蝶がいなくなるまで見つめ続けていたら、その後のわたしは、今のわたしはどうなっていただろうということです。


デート?
2005年08月15日(月)

休みの日は、約束でもない限り自分一人で外出しようと言う気にもなれません。暑いからということもありますが何しろ忙しく、仕事しかしていないような日々を送っています。

そんな中で、月一回のお墓参りが気分転換のひとつになっているのかもしれません。緑の中をてくてくと歩き、しばしお線香と格闘し(風が強くてなかなか火がつかない)、住み着いている猫のチェックをし、ベンチでビールを半分飲んで、よく遊んだ街に寄ってお店を冷やかし、夕食をゆっくりとって、帰りにバーでHの好きだったモルトやカクテルを数杯。

まるでデート。それも、Hがとても喜びそうなデートコースです。皮肉なことに。

特に昨日はお盆です。きっと帰ってきていたのです。ついて歩いていたかもしれません。その割にはなぜか昨晩は歩いていたらナンパされました。私はチャラチャラした格好をしているわけではないので、めったにないことなんですが…うす暗い道だったからでしょうか? それとも、Hはいつもの駅でおりてしまっていたのでしょうか。まったく、どうせなら最後まで責任もって送ってほしいものです。



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