遠雷

bluelotus【MAIL

銀色
2005年06月29日(水)

本と同じに、CDもいたって適当に取り扱う人でした。わたしは、CDの盤面に触るのなんてもってのほか。側面しか触らないということをしてきましたが、Hは裏面に指紋がつくのを気にしないなんてものではなく、ケースにも入れずにそのままかばんに放り込んで気にしないのです。CDケースに入れて持ち運んではいましたが、めんどうになったのかわすれたのか、ある日初めてバッグからむきだしのそれを取り出したときにはとてもびっくりして、小言をいうのすら忘れたほどです。

形見分けの際に、CDもいくつか貰ってきました。どれもこれもむきだしのままに引き出しや押し入れに転がっていて、ケースに入っている方が少なくて入っていても違うものだったり。ちょっとお目にかかったこともないくらい、よくこれで聴いていたのだと感心するくらいに傷だらけでした。むきだしのまま、傷だらけのまま、ばらばらになっているディスクたちはそのままHの姿のようでした。嘘つきで、傷つきやすいくせに自ら痛めつけるようなことをする。いろんなものやことばがつまっている。恥ずかしがりなくせにちょろちょろしている。ヤケになって当たってくだけてしまう。そんなHに。

幼少の頃の体験から、モノに執着するということができないのだと言っていました。それでも聞くことは好きだったらしく、たくさんのCDがありました。そして、好きだと言っていて、確かに見たことのあるはずのタイトルがみつからないものもたくさんありました。

先日やっと一年経ってディスクを研磨サービスに出し、きのう、戻ってきました。そしていま、まず一枚をかけながら、これを書いています。なぜかそれは2枚同じものがあり、片方はどうやら直らなかったらしく聞けない状態でした。そのバンドの曲の中で一番だという曲が、わたしとHで同じだったことに驚きうれしくなったことを覚えています。そして、その曲がこのアルバムのなかには入っていて、ダビングしてもらったテープしか持っていなかったわたしはやっと自分の手にCDを手に入れたことになります。

改めてその曲を聴きました。今まで漠然と聞いていた歌詞におどろきました。ケースがなかったのでネットで歌詞を検索し、なんどもなんどもその曲を繰り返して聴きました。なにかの曲を聴いたり、映画を見たりして「これは絶対自分のことだ」などと思うのは気恥ずかしく、いやです。しかし今回ばかりは、これはわたしのことではないのだろうかと泣き出してしまうのを止められませんでした。ただ好きだっただけの曲が、忘れられない曲になりました。

わたしも持っているものが一枚、それはあるジャンルのなかで一番好きと共通していて、しかもあまりメジャーではなかったことから二人とも驚いたそのバンドの、一番好きなアルバム。聴かせてもらったことのあるものが数枚。映画を見たHが気に入って繰り返し車の中や家でかけ続けていたサントラ、ずっと昔から好きだったグループなど。ほか、聴いたことはないけれど知っていたり興味があったり、Hと何度か話題にしたことのあるものが数枚。削ってピカピカになったものもあり、かすかに傷の残っているものもあり。全部直っているのかどうかはわかりませんが、一枚ずつ聴いてゆく楽しみができました。しばらくのあいだは、今かかっているこのアルバムから進むことはできないでしょうけれど。


スイッチ
2005年06月26日(日)

何でもない日なのに、不意打ちのように過去の私たちが顔を出し、この一年間思い出さなかったような小さなことや話の内容まで思い出されることがあります。
あのときあの店でこんな話をしたか、そのとき何を食べていたか、Hがどんな顔をしていたか。
折に触れてはHと過ごした時の内容をなぞるように思い出すことをしてきましたが、この、今頃になって思い出す出来事がまだまだあります。
そんな瞬間をこれからの楽しみ(苦しみ?)にとっておきたい気持ちと、時が経つことで記憶が曖昧になる前に全部一通り思い出したい気持ち。
前に思い出したときには見逃していたできごとが次には鮮明によみがえることもありますから、これが理想の思い出し方なのかしらとも思います。
そして一度思い出したことは、割と忘れにくいような気がします。
今日も思い出は多々あれどいつも前を通っている店が目に入った瞬間に、ああこんな話をしていたなと思い出した内容がありました。

小さな思い出は意外にハッキリ覚えているのに、なぜかプロポーズされた夜の記憶に虫食いがあったり、大げんかした時のことや内容を覚えているのに理由を忘れていたりします。
まだまだ、わたしの中には取り残された思い出が残っています。


読むということ
2005年06月21日(火)

どうやら、わたしはストレスがたまると本を買いまくるらしいということに最近気がつきました。もともと本が好きで、テレビを見るより本を読むことが好きでした。高3のころ友達関係があまりうまくいかない時期、受験勉強もせずに図書室に籠ったものでした。学生時代は先立つものがないですから各種図書館で止まっていましたが、今考えると去年の今頃も、宗教書だろうと現代詩だろうとも、流行のエッセイでも漫画でもなんだか大量に買い込んでは読みあさっていました。そして今も。

本代というものは馬鹿にならないので、古書や新書をじっくり選んで買う。それを心がけてきました。でもタガが外れたように読み切れないくらいの本を買い、そして読むのです。図書館も大好きなのですが、なぜかその静かな空間で読むということへの興味が薄れているのはなぜでしょう。

Hも読むことが好きで、棺にも一番好きだと言っていた本と最後に読みかけで伏せてあった本を入れました。待ち合わせの時や、連絡もなしに家を訪ねていった時のHの姿を思い出すと、いつも本を手にしていました(その姿と、文庫本のねじりこまれたポケットつきの後ろ姿はひとそろいのように思い出されます)。私はやや偏った読書傾向があるので、Hの読んでいた本の幅広さには感心していたものです。少しずつ、影響されて読み始めたものがありました。あの時も私がなぜか毛嫌いしていたHの好きな作家を読み始めていた時でした。その長編の続きを読むことは、面白い分だけ辛くて、あのように苦しく小説を読んだことは初めてだったと思います。

もっと、色々と聞いておけばよかった。本当にそう思います。色々な感想や批判などを話し合って、どのようなものをお互い読んできたのかということを、もっとたくさん。少しずつですが自分の読みたい物以外にもHの読んできたと思われるものを読み始めているので、一冊でも多く読むためにはもっと聞いていればよかったと。部屋からも遺品として本が大量に出てきましたが、あまり物質としての本に固執しなかったHはどんどん処分をしてしまっていたらしく、好きだと言っていた本すら見つからない状態でしたから。

一気に全部読んでしまうのはもったいないので、できる限り噛み締めて読めるペースだとするとこれから何年もかかるでしょう。できることなら、Hの生きてきた年数分だけの時間をかけて読めるのならば理想なのです。そして、最後には、今はまだ読めない(幸いにというか恥ずかしながらというか、私が未読だった)Hが最期に読みかけだった魯迅の「阿Q正伝」を読めるようになれればと思います。

できる限りこの日記には固有名称を出さないように気をつけていましたが、その本のタイトルだけは書いてみます。ご存知でしょうか、この本には「狂人日記」というタイトルの作品も入っています。伏せて開いてあった部分は、その「狂人日記」の部分でした。そう、あまりにできすぎていて、何を考えながら読んでいたのかを思うと何とも言えない気分です。以前、Hが読んでみようかと思っていると言っていたことも覚えています。話のメインテーマは違うようなのですが、それでも、読むことによって多少なりとも追いつめられた気持ちになったのではないだろうかなどと、考えてしまうことも、あります。


かたち
2005年06月17日(金)

私に幸せになってほしいと、Hの友達Sが自身のブログに書いていました。そのことについても例の、そのときもそのあとも立ち会ってくれた友人Gと昨日のチャットのなかで話しました。とりあえず、どんな形でも、彼らも、私も、一生かかってHの分まで幸せというものを探していくのしかないのではないかと彼は言いました。

私も今は現世的な幸せを望む気にもなれませんし、単に出会いも何もあったものじゃない生活ですからその心配も無いのですが、では私の幸せとはなんなのでしょうか。私が幸せだと思えれば幸せだといえるのだと思います。それが仕事に生きることでも、ああいう夫婦になりたいねと二人で憧れていたG夫婦が私たちの分も幸せな人生を送っているということでも、思い出にすがって生きていくことだとしても、私がそれを幸せだと思えるのならば。

今は、幸せな日々があったことが悲しくてしかたないとしか思えません。でもいつか、幸せな日々があったことが幸せだと感謝できるようになることが、思い出にすがって生きていく人生の正しいすがたなのではないかと考えます。ただただ、過去に逃避して、悲しむだけで、罪の意識や後悔にさいなまれるだけが思い出にすがるということではないのではないかと。他人がそんなものが幸せだなどと認めなくても、私がHにもHに出会えたことにも感謝して生きていけるというなら、幸せなのではないのでしょうか。そこにたどり着くかどうかはわかりませんが、今現在感じている、罪の意識を持ち続けて持ち続けて持ち続けて、すべてが晴れる必要は無いけれどいつか振り返って少しでも晴れていたら、それもきっと幸せになれたのだと言っていいのではないでしょうか。(それでも、償い続けなければいけないけれど、と、今の私は付け足さねばいられません)

とにかくもHと私が出会って、愛し愛され(と、信じています)一緒に過ごした日々があった事実は変えようもないのですから。Hが死んでしまったということは、かつて生きていたということなのですから。


開封
2005年06月16日(木)

昨日もあてどなく出かけるつもりでいましたが、雨ということもあり、パソコンを立ち上げてメールを読み返したりしているうちに一日が過ぎました。

辛くてなかなか読み返すことのできない、はじまりからのメールにすべて目を通しました。なんと、おだやかな、信じられないくらい幸せな時があったことでしょう。つき合いだして少々してから(むしろつき合う以前から)すでにHのなかでは病気が進行していて、家庭では問題が起こっていたのでした。しかし私はそれを知らず、仕事にやりがいがあった時にはH本人もそれを跳ね返す活力がありました。変なことで関係がこじれそうになったり、些細なことでけんかもしました。でも、つき合いだす前の辛い日々のあとではそれもきっと幸せだったのです。

ここにいこう、あそこに行こうと計画を立てている私たち、面白いネタをさがしてはくだらないやりとりを延々としている私たち、仕事のつらさや状況をお互い報告し合い、不必要な一言を曲げて取って気持ちがすれちがってしまったり、どんなこともすべてがあまりにキラキラして見えました。だんだんと携帯のメールに切り替わっていったので、パソコンの中のメールは途中までのものです。そのはじめころのいいところだけかみしめるように読んで、どのメールからも涙が止まりませんでした。

昨日も一人だけで過ごそうと思っていたのですが、人寂しくて仕方が無くなり、ついメッセンジャーにつなげて一日じゅう会話をしていました。最初はそのことには触れず、でも、結局その話をはじめてしまい、また泣きながらキーボードを打ち続けました。この日記以外では、一番の友人にも殆ど深いところまで話さないようにしていましたが、あのとき立ち会ってくれていた人には他の誰にもいえないことをついつい話してしまいました。

命日の日の落ち着きから、もう私の涙は少なくなってしまったと思っていたのですが、涙というものは枯れることがないのですね。読んでは泣き、話しては泣き、エンドレスでかけている好きだった曲のCDを聞いては泣き、あの日のいまごろ何をしていたのだろうと思い出しては泣き。考えてみれば、発見したのは次の日な訳ですから、去年の14日より去年の15日の方が私の心はつらかったのでした。

いまでも、見つけたときのことや彼の様子、私の錯乱している様子がチカチカと頭にうかびます。警察に状況を話している状況。部屋に入ってしばらくしてからはじめて、おかしい、と思ったときの気持ち。霊安室が寒かったこと。私を面倒見続けてくれた友達が、はじめて声を詰まらせ顔を伏せたときのこと。初めて過去形でHのことを話してしまったこと、そしてそれにすぐ気づいた瞬間。まぶしいくらいに晴れていたのにいつのまにかその日の夕方になって空が暗いことに気がついたときのこと。携帯を開いたら私が送ったメールが開封されていないのを見たとき。私の親に初めて恋人がいたことから全部説明したときのこと。警察でHの家族たちを迎えたときのこと。その日初めて睡眠薬というものを飲んで眠ったこと。敷いたままのふとんにかかっていた私の買ったシーツ。こんな状況でもやっぱり冷静な自分がいることに腹が立ったこと。涙が止まらないということを初めて知ったということ。慟哭というものは息ができないくらい苦しいものだと知ったこと。バナナやパンなんて買っていって、なんて私はおめでたいのだろうと笑いたくなったこと。ドアの重さ。私の声はどこから出ているのだろうと思いながら話していたこと。状況検分をしているときに野次馬に来た近所の人が私のことを見て「かわいそう、あんな立場になったらどんなに辛いだろう」などと言っているのを聞いて私はかわいそうなのかと思ったこと。死んでしまったということはもうHに会えないのだということなのだと突然思ったこと。

夢のように現実感が無いのに、こんなにはっきり、まだ、覚えています。去年の昨日のすべてを。


一日
2005年06月15日(水)

お参りに行ってきました。昼間の明るい時間を避け、夕方に。おかげで人は少なく、静かに過ごせはしたのですが…お供え物を狙ったカラスが着々と私の背後に集結している気配に恐れをなして、それほど長くはお祈りできませんでした。彼に怒られそうですが、真剣に怖かったのです。カラスの視線をあんなに感じたのは初めてです。

いつもの通りにお供え物を食べて(カラスが荒らすので置いて帰れない決まりなのです)、黒ビールを半分飲んで半分流して、霊堂をあとにしました。いつもと違う感慨はあれど、毎月通っていることもあるうえについ3日前にも来たせいもあって、我ながらあっけないほどのひとときでした。意識がカラスにいっていたせいかもしれませんけれどね。

そのあとにターミナル駅に出て、つき合いだした頃にいつも待ち合わせをした場所にしばらくたたずんでみました。初めて会ったとき以外は、いつもそこで待ち合わせをしたものです。改札口の斜め向かいの駅の柱に立って、彼はいつも文庫本を読んでいました。私が着くと、手ぶらのときはその本をジーンズのポケットに突っ込むことが最初私には気になって仕方が無く、新刊だろうと古本だろうと彼の本はいつもボロボロでした。

立っていると、改札の向こうから、遅刻したときの済まなそうな顔がやって来ないことが不思議でなりません。私の姿を認めてニッコリしながら近寄ってくる気がしてならないのです。こんなに、数分置きの電車から数えきれないほどの人が流れ出てくるというのに、なぜたった一人がいないのでしょうか。隣の女の子たちの待ち人は次々やって来るのに、わたしの待ち人は永遠に来ないのでした。私も昔したように本を読んだり、改札を眺め続けて、あきらめて、その近くの時々入ったカフェに行き彼の頼んでいたメニューを食べながら、またもや彼が駅の方からやってくるような気がして外を眺め続けていました。

「その時間」をひとりで家で過ごすことはできませんでした。友人といっしょということもできませんでした。一番好きと言っていたバーに行き、一番好きだった席に座り、お気に入りだったお酒を飲みました。ベンチ式の席なので、いても大丈夫なように隣を開けて。実は先日一度立ち寄っていたので、バーテンが私のことを覚えていてくれたので適度に話しかけてくれて、つられて常連らしき人たちと会話をしているうちに「その頃だろうと思われる数十分」が終わりました。はじめは一人で難しい顔をして本を読んでいたのですが、取り乱すことも無く過ぎて、彼には申し訳ないかもしれませんが少し安心をしつつ。

最近はそれほど飲んでいなかったことと、私があまり飲まないお酒だったので少々酔っていました。店から家までの長い道のりの車中、電車のなかで話したくだらないこと、恥ずかしがる私に頼み込んで手を握り嬉しそうだったこと、はじめの頃のドキドキした思いなどを思い出しながら、いつのまにか私は眠っていました。本当は起きていなければならなかったのです。眠ってさえいなければ、あのとき「つらい」というメールに気がついて返事をしてあげられたのに。どこまでいっても、私は、だめだったのでした。

やはり後を追うこともできず。


一年
2005年06月14日(火)

みんな、この一年どのような思いで過ごしてきたのでしょう。
Hの友達のブログなどでHのいない集まりの記録を見るたび、彼らからも、Hからも、何と大きなものを奪ってしまったのだろうと思います。もちろん、Hの家族たちからも。

確かに居た、存在して笑って泣いていた人がいない。

居ないということを思い知らされたり、居ないことを忘れそうになったり、あまりに生々しくリアルに思い出されたり、ただひたすら私が今ひとりだということやひとりで生きていくかもしれないこれからの人生が悲しかったり、勝手に死んでしまったことが悔しかったり、裏切られたと思ったり、なんで死なせてしまったのだろうと後悔したり、あのときなぜああしなかったのだろうと自分を責めてみたり、私の知らない姿を知ったり、ちょっと立ち直ったり、またぶり返したり、私はそんな一年でした。

私が死ぬなら、今日だと思ってきました。
でも、いま、私はまだ死ねない。ごめんね。死ぬのは怖いんです。私は親を残していけません。彼のように友達が多くないから、私のお葬式は寂しいでしょう。仕事も、今の状態でほったらかしにできない(したいけど)。

昨晩もむこうから来る電車を眺めながら、飛び込むのは簡単だと考えていました。でもできない。たとえ今狂っているのだとしても、私は悲しいくらいに常識的でしかないのでした。


一度、皆といっしょにお参りに行きましたが、また今日もこれから出かけるつもりでいます。お酒は飲まないようにしていたけど、今日は解禁して、飲んできます。

今日の夜書こうかと思っていましたが、出かける前に、この一年の区切りとして、これからの一年へのスタートとして、今これを書いています。
この日が来ることが怖くて、夏が近いことを否定したくて、バカバカしいけれど半袖で外に出ることをしていませんでした。でももう今日は来てしまったし、私はお参りにいくことしかできないのです。半袖は着れないけれど。

いってきます。



BACK   NEXT
目次ページ