遠雷

bluelotus【MAIL

二人でお茶を
2004年07月31日(土)

仕事帰りに、某新古書店に立ち寄って本を見て、その後コーヒーを飲みながら買ったばかりの本を読みました。書店はふたりで時々行ったところ。カフェは初めて入る店。もちろん本を探しながら胸が苦しくなりました。新しい店に入ってもやはり胸が苦しくなりました。

Hはもう新しい本の頁を繰ることができない。おいしいケーキを見つけても、よくやったように二人で半分ずつ分けることもない。今まで行ったことのある場所に二人で新たなできごとを増やすこともできない。まったく新しい場所で得られるものはHの居ない思い出。

日々生きて、生活をすると言うことは新しい思い出を積み重ねてゆくことなんですね。この先一人でお茶を飲む回数が、二人でお茶を飲んだ回数を超えてしまうのはいつになるのでしょうか。Hを思う苦いコーヒーも、本を読みながらの紅茶も、生きている限りは飲み続けていくしかないのです。ただ一つ、絶対飲むことが叶わないのは、二人で飲みたいとHが言った”老後の縁側で飲むお茶”。


奇跡的
2004年07月30日(金)

「ああいう旦那さんを探しなさいね」
本日職場の人に言われたひとこと。

私は販売職です。年齢層高めの女性顧客が多い店なのですが、今日は一組御夫婦連れでの御来店があり、奥さんの買い物に文句も言わずに財布は出すという御主人を見ての言葉でした。(その人は彼氏の存在を知りません。)お財布は別として、まさにそういう旦那になれるであろう人だったのです。好みがここまで似ている人(それも異性で)がいるとは思わなかったという程だったので、人と一緒の買い物が苦手な私が気にならずに一緒に歩ける数少ない一人でした。今月、色々自棄買いをしましたが、その最中も「一緒にいたらどんなに楽しかっただろう」「この服は絶対好きだろうな」と、彼と一緒に買い物をしているかの様な気分でした。

そもそも初対面でマニアックな話に花が咲き、好きな音楽も(ポピュラーなものからかなりマイナーなものまで)かなりの確率でかぶっていて、本を読むことが大好きなうえにこれまた一般的嗜好でないのに好きなジャンルも共通で、服やインテリアの好みにいたるまで、とてもとても近かったのです。他の人とではデートでこんなところに行くとは考えられないよねという所にもよく行きました。食べ物の好みすら似ていました。笑いのつぼも合っていました。なにより美意識というものが同じだったと思います。

私も煩悩の多い人間ですから、将来の事を考えた時に今後だれかと付き合ったり結婚することがあるのだろうかと、ふと頭によぎることもあります。あるかもしれませんし、ないかもしれません。あったとしても、彼ほど好みのあう人はいないでしょうし、彼ほど私を愛してくれる人もいないでしょう。その愛情を今は疑ってしまう瞬間があることも確かですが、出会って3年目になっても「前よりもっと好き」なんて言ってくれる人がほかにいるとは思えません。なにもかも、比べてしまうでしょうね。

誰よりも一緒にいて楽しい人が誰よりも私を好きでいてくれたのです。こんなに幸せなことがほんの一瞬でもこんな私の人生にあっただけでも、幸せすぎたのかもしれません。


コミュニケーション
2004年07月29日(木)

私は筆無精で、こうして日記を書いていることすらかなり珍しいくらいです。特にメールなどはあまりまめにやりとりもせず、更に電話嫌いで単独行動が好きと来たからには、寂しがり屋だったHにはかなり寂しい思いをさせていたようです。自分としては気をつけて連絡をしているつもりで、彼も私ががんばっているつもりなことを理解してくれようとしていたのですが、そもそも自分のレベルと人のレベルが違い過ぎ、そのことでなんどか喧嘩もありました。

いま私は寂しくて寂しくて仕方がありません。誰かと話したい、メールがこないとさみしい。休日に予定が無いのがつらい。Hと付き合う前は、こんなに長くまともに付き合った人もいなく、一人っ子だった為に一人が好きで、友達とべったりするわけでもなくて、部屋でごろごろしたり一人でどこかに行ったりということが好きでした。付き合ってからその生活リズムは変わってきましたが、それでも永年つちかった性向は簡単に変わるわけは無く、時々「出かけず部屋でのんびりしたい」と思うことも多々ありました。でも、「一人じゃないという安心感を持った上での一人になったつもり」という甘い密を吸ってしまっていたのですね。友達はいてもそれぞれの生活がある。親にべたべた甘える年でもない。とにかく寂しいのです。

今こういう状況で、やっとHの訴えていた寂しさ、苦しさ、不安が本当に理解できた気がします。ごめんね。本当にごめんね。


今日のできごと
2004年07月28日(水)

友人と食事をしてきました。
連絡はとっていましたが、ここ2ヶ月程は会っていなかったので、彼女に直接例の話をするのははじめてです。「彼氏が鬱である」ということはちらっと話してあったので、死んだと言う報告をした時に予想はしていたとのことで、あるていど説明はしました。色々説明することにも慣れてきた様です。時々詰まりながらも、取り乱さずちゃんと話ができました。たぶん、これ以降は細かい事情を新たに人に説明することはもうないでしょう。(この日記以外で、ですね)

鬱だと言うことを話していない友人には「病気で亡くなった」という言い方をしています。自死であったという事を言わないでおくというのは楽な一方、今回の事に対して何がつらいかということが説明できず苦しくもあります。病気であったなら、世界の中心で愛を叫んでいればいいのかもしれませんが。

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あまり声を大にして言うことでもありませんが、本日、月のものがはじまりました。亡くなる少し前に終わってから後ずっと無く、絶対ありえないとわかってはいたのですがもしや妊娠でもと思わないでもありませんでした。でも、もし、本当に妊娠していたら?

せめて唯一の彼の生きた証になったかもしれない。
もっと前に妊娠していたとしたら、今頃結婚して、彼も生きる気力がわいていたかもしれない。
でも。
私に一人で父無し子を育てていけるのか、今の状態でそこまで彼の為に尽くせるのか、彼の子を心から愛せるのか…。
でも。
生まれかわりも知れない新しい命を、殺すことができるでしょうか。

でも、私には、自信がありません。
私は冷たいのでしょうか。
欲しくても欲しく無くても、彼の子供を宿すなんてことは不可能なんですけれど。


なぜ。
2004年07月27日(火)

今朝、テレビを見ていたら自殺に関する話題がありました。
あまり突っ込んだ内容ではなく、中途半端だなと思って見ていたのですが、そのなかで自殺者数が交通事故による死者より多いという去年のデータを表示していました。来年に発表される2004年のデータの、何万人分かの一にHが含まれるのかと思うと、またもや苦しくなってきます。

昨年で約34000人だったと思いますが、その人たちが自ら死を選んだことによって、一体何万人の人たちが苦しい思いをしていることでしょう。親兄弟、友人や恋人たち。ある程度の年齢だとしたら結婚していて子供もいるでしょう。そうなると3万人の何倍、何十倍の人たちが喪失感、裏切られた思い、自分が殺したのではという罪の意識、これからの生活の不安などを抱えて日々暮らしていることになります。

死んだらどんなに楽だろう、と私もあれから何度も思いました。でも私には自殺するなどという勇気もなく、そして残されたものの苦しみが誰よりもわかっているはずの身では到底そんなことはできるはずもありません。ただ、駅のホームに立っていると「誰か私の背中を押してくれないだろうか」、道を歩いていれば「通り魔が来たりしないだろうか」とばかり考えていました。

彼は鬱病、というより強迫性障害と診断されていましたので、仕事の不安などから自死を選んだ人からすれば病気だからと思えて楽なのかもしれません。でも、そう思い込もうとしても、やはり「あの時こうしていればまだ今生きていたのに」に戻ってしまいます。最後に電話で話したのは私なのですから。自分の体調が悪かったので部屋に行く予定を翌日に延ばしてしまい、何か言いたそうだったのに電車に乗るからとあまり話もせず、いつもなら様子がおかしいと気になって友達に見に行ってもらったりするのにそんな気も回すこともできず、薬が効いたため電車で熟睡してメールにも気付かず、着いて何度か電話をしたら出なかったのに次の日行くからいいやと思ってしまったのです。後で確認したら、出なかった電話の後に私が送ったメールは未開封のままでした。以前から何度も何度も信号を出していたのに、結局は私もどこか油断していたのでしょう。
さあ、これでも「自分が殺してしまった」と思わないわけありません。

一方で私もHを責める気持ちも、もちろんあります。
私は頭痛もちで、その状態のひどさを彼もわかっているはずなのに。
次の日、仕事の後にも会うけれど朝にも部屋に行くよと言ったのに。
私が預かっていた病院に行く為の診察料を渡す予定だった=明日、病院に行く予定だったのに。
私のことを自分以上好きになる人なんて絶対いないよと何度も言ったのに。
会ってすぐに、「年をとっても一緒にいたいと思った」「縁側でお茶を飲みたい」と言ったのに。
結婚の話が進まないことがプレッシャーならプロポーズはなかったことにして、足下が固まったら改めてと言うことにしてもいいよと言ったら、「それでも結婚したいからそれはしない」と言ったのに。
何より、「何度も首にひもをかけるけど、もし本当に死んでしまったらそれを発見するのは君だから、その時の君のショックを考えると死ねないと思ってやめるんだ」と言ったのに。

「病気だから仕方ない」
わかっているんです。体の病気と同じなんです。
抗癌剤をつかっても、転移のスピードに間に合わなかった、と同じなんです。
でも、それならなんで、もっとちゃんと看病してあげられなかったんだろう。
病気だったとしても…手当てが足りなかったからであって、やっぱり私が殺してしまったんだ。
それとも、本当は私のことなんて大して好きじゃなくて、もしかしたら憎んでいてこんなひどい仕打ちをしたのではないだろうか? ……。
自死ということで、一番大切なはずの「彼の私に対する愛情への確信」、「私の彼に対する愛情」すら揺らいでいってしまうのです。

自死することで自分を殺すだけでなく、周りの人々の人生もまた殺していることを、自死者達は知っているのでしょうか。


街角
2004年07月26日(月)

もういないのだ、ということに慣れて来たと思ってついつい油断をしてしまいます。

この一年は、私の職場とHの部屋が電車で10分程だったため、部屋は勿論ですが職場近くで待ち合わせることが多くありました。この街でけんかもしたし、ふざけあって、食事をして、あまりに思い出が多すぎます。

どこもかしこもHが歩いている気がするのに、いつもの待ち合わせ場所に、なぜ立っていないのでしょうか。なぜ、待ち合わせの時間潰しによく行っていた本屋でくだらない本を真剣に立ち読みしていないのでしょうか。

直後は人目もはばからず涙を流して歩いて、よくお茶を飲んだ店に行っては泣き、喧嘩をして仲直りした場所に行っては泣いていたのですが、さすがにもう恥ずかしいまねをしなくていい程度に落ち着いたものと思っていました、が。だめですね。落ち着いたように思っても、ひと月くらいするとまた悲しみがぶりかえすよと言われていたのは本当でした。たまに違う道を歩いてみたりすると、それだけで苦しくて叫びだしたくなります。そんな、「わたし悲しいの!!」というアピールをしてるかのような自分はとても嫌なのですけれど。
今日もしばらく足を踏み入れていなかった路地に行ってしまったので、どうにもならなくなってしまいました。かろうじて泣き出さなかったので良しとしますが。

ただ、もしかしたら、最近泣くことにも慣れ、不在にも慣れて、泣くことが減ってきたことが辛いので無理に自分を追い込もうとしている気もします。
そうなると、純粋に彼だけの為に泣いているのか、自分の為に泣いているのかわからなくなってきて、よけい自分を追い込むのです。そうなるとまた、Hがうらめしくて憎らしいのに、やっぱり歩いていると居ないことが寂しくて会いたくて。

ぐるぐる街を歩き廻りながら、私の思考も感情もずっとぐるぐる回り続けています。
こうして書いていても回り続けています。
もう存在していない彼を中心に。


少しずつ消えていく痕跡
2004年07月25日(日)

今日は、彼の住んでいたアパートの片付け。

大家さんの都合でしばらく片づけに入ることができず、随分時間が経ってからの掃除です。
私は仕事だった為手伝っていません。
彼のお兄さん夫婦と近所に住む私達の友人夫婦が片付けました。

そもそも彼が一人暮らしをはじめたのは、一緒に住んでいた父親とうまく行かず、その為に職を失うまでになり、鬱になり自殺未遂を繰り返し、このままではどうにもならないという状況からでした。
以前は別の女性と同棲していたのですが、別れて家に戻ってからずっと厳しい状態ではあったようなのですが、仕事に張りがあったり、(うぬぼれのようですが)私と出会ったりして、なんとか持っていたようなのです。
しかし塵も積もれば。
いろいろなことが重なり重なりして、何はともあれ離れなくちゃだめだよと、貯金がないことを気にする彼をせきたてて、逃げるように引っ越しさせたものでした。
結局は、仕事の関係でまた父親とは繋がりをもってしまったのですが…。

私と彼の家は電車で一時間半ちかくかかり気軽には会いにいけなかったので、私が丁度中間地点に転職したこともあり、私の職場の近くに部屋を求めました。
なぜか探した部屋が私の友人のすぐ近所で、すわこれは運命とばかりにそこに部屋を決め、ミニバン一つで足りるくらいの荷物で引っ越しをしました。
家財道具がなにもなく、家具や家電を二人でああだこうだ言いながら揃えたことが、ついこの前のことに感じます。
必要なもの以外の、洒落た家具や雑貨類は、毎月一つづつ揃えていこうねとお店を覗いては愉しみにしていました。
結局、仕事がうまくゆかず、食べていくのに精一杯になってしまった為、その計画もはじめの数回しか叶いませんでしたけれど。

彼が亡くなった後に、形見わけの品物を選んだり、探し物があったりして何度か部屋には入っていますが、いなくなってからもまだ部屋がそのままというのは…、辛くもあり、嬉しくもありました。
家具や、食器や、それこそ歯磨き粉のチューブにいたるまで何から何まで思い出があります。
私の手で片付けたかったという気持ちと、思い出のすべてがどんどん部屋から消えていくのを見たくなかった気持ちが両方。
いまこれを書きながら、なにも無くなった部屋を想像してみましたが、不動産屋に連れられて初めて見に行った時のことしか頭に浮かびません。
もう、あの部屋は、私の入ることのできる部屋では無くなってしまったんですね。
一キロくらい歩いて抱えてきた500円の古めかしい扇風機をかけて、黒ビールを飲みながら、寝転がって司馬遼太郎を読んでいる人はもういません。
あの扇風機もありません。
窓にかけたすだれが風に揺れることもありません。
思い出だけでなく、あの部屋で話したこれからの計画も消えてしまいました。
そして繰り返していたらしい自殺未遂の痕跡も同じく消されているでしょう。

せめて、あの部屋で、苦しんでいたと同じくらいの楽しかった思い出が彼に残っていますように。



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