草原の満ち潮、豊穣の荒野
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44 幻の海〜ギターラ

いつもの酒場の店内。
喉自慢の親父達が昼夜問わず
入れ替わり立ち代わりで訪れる。

ブルーが来るのはいつも夕方。
昼間は適当に木が生い茂った森の奥で日光を避け
それでも辛くなれば
ひっそり泉に沈んでやり過ごす。

勿論、恋人達や家族連れのピクニックの前で
獣化した姿を晒す程間抜けではない。
普段は水辺に佇んで、時には足下に転がって来た
ボールを子供に投げ返してやる事もあった。


どれだけブルーが地上を知らない、と言っても
街をしばらく見ていれば目立たなくなる方法も
トラブルを避ける方法も見えてくる。
彼には地上も海も基本的に変わらないように見えた。

そこに生きているのは『人』であり
決まり事さえ外さなければ、ある程度の自由が許される。
海でもそうだった。


ひとつだけ決定的に違っていたのは
スラムや辺境の者が『人』として見なされていなかった事。
ブルーが神殿に引き取られてから知った『自由』
限られた者にだけ与えられた

『自由』


海の事なんかもうどうでもいい。
今、自分は限られた中にいる。
そのままで。

時折の獣化で地獄の苦痛にのたうつ事さえ
耐えられれば普通に自由が手に入る。
あの魔鳥の幼生の時のように、気を付けてさえいれば
ご機嫌な日々が送れる。


ブルーはそんな気がしていた。
スラムで暮らした頃をもっと良くした環境、そんな状態が
悪いはずもない。
海での自分達のようにこの地上の何処か
辺境に同じような存在がいるのかもしれないが
そんな事知った事じゃない。
うっかり太陽を浴びれば生死に関わる。
まだまだ注意すべき事がたくさんあるのだ。

いや、死ぬ試みが失敗して以来、自分の身に
何が起こっているのかすらまだ把握しきれていない。

ただひとつ、彼が確信しているのは、今
『以前よりは気が楽、な状況になっている』事だった。







「おい!お前いつまで調整してんだよ」


客のひとりが髭の間から唾を飛ばして怒鳴った。
伴奏屋、と称する男が難しい顔で腕組みしている。
彼の前にあるのはどう見ても
がらくたにしか見えない『楽器』のようなもの。

「ううむ。何かが足りない...」

「いいからとっととやれ!俺は歌いたいんだ」

「うるさい、お前の歌なんぞ酒が腐る!
ここにあるのは世紀の大発明寸前なんだ。
しばらく伴奏屋はやめだ」

「なんだと?誰の歌が腐るだって?」

「お前だ、お前。
カエルが束になって潰されてるような声しやがって」

「屠殺場の豚の悲鳴の間違いだろ」

「誰だ今言ったのはー!!」


無茶苦茶な言われように当の男が半泣きで叫ぶ。
プライドの問題だ。
ブルーは端で聞きながらにやにやしている。

「なんだ青小僧!お前まで笑うか!」

「私は何も言ってませんよ。巻き込まんで下さい」

「その青っちろい顔で笑われるとムカつくんだ。
新参の癖に生意気なんだよ!」

「そんなに怒鳴ると大事な喉に障りますよ。
ここにいい薬がありましてね、おひとつどうです?」

「あん?」

「カエルの声も出し様で渋いハスキーヴォイスに
なるってもんですぜ。
男の声はやっぱ渋みですよ。
ついでに媚薬も運のいい事に何故か、ありまして
併用すればご婦人方に絶大な効果がございます。

勿論それもアナタのその渋い声がなきゃタダの水。
ここにある薬はまさにアナタの為に
あるようなモンですよ...」


「青小僧、お前いい奴だな」

「そりゃあもう、私は皆さんの旅商人でございますから」


ブルーは袋の中から大事そうに小瓶を出した。

「おお、こいつが..」

「海の人魚もとろける声の第一歩です」


カエル男は嬉しそうに小瓶を手に取った。

「いくらだ?」

「金貨5枚」

「げっ、なんだそりゃ!ボッタクリもいいとこだろ!」

「そう思うなら買わなきゃいいでしょう。私はどっちでも
いいんですがね」

「うっ....」

「夜な夜な美しいご婦人方に囲まれて
朝まで眠らせてもらえないかもしれないなあ...」

「本当か?」

「ま、それも渋い声があってこそ。
ココだけの話ですが、ご婦人方はご面相より声の方が
アッチの方でも効き目があるとか」

「アッチってドッチだ」

「ドッチもコッチも。声は全てにおいて
強力な武器ですぜ。ツラは三日で慣れる、と言いますが
声のひどい奴は救いようがない」

何気に失礼な言葉も妄想が渦巻いたカエル男の耳には
入らない。


「買った!」

「あ、飲んだらしばらくは声を落として
喋って下さい。聞こえにくければ耳もとで
囁けばいい。怒鳴ったり大声を出したりすると
効き目が失せますからご注意を。
ひと月もすりゃモテモテですよ」


カエル男は嬉しそうに代金を払って帰って行った。
半分程まわりの客から借金をして。


男が出て行ったと同時に見ていた客が爆笑した。

「おいおい、ブルー、お前さんあんなイカサマ
あとで怒鳴り込まれたらどうする気だ?」

「イカサマじゃありませんよ」

「ええ?」

「私は海の方から来たんでね。あまり知られてない
秘薬もそこそこ調達可能でして」

「秘薬ってどんなだい?」

「企業秘密につきお答え致しかねます」



伴奏屋、と呼ばれた男が楽器を放り出し
酒を頼みにやってきた。
カウンターで商売物を広げたブルーをちらりと覗く。


「おい、若いの。お前どう思う?」

「は?」

店の主人が目で相手にするな、と合図する。
この年配の伴奏屋はずっと完成しない『楽器』を抱えて
飲んだくれているのだ。
客達の大半は心得ていて、歌の合図のように声をかける。

『おい、伴奏をくれ』と。

従って彼は伴奏などろくにやった事がない。



「弦の数を減らしてみたのはいいんだがどうしても
うまく音が出ない。大体こう弦が多くちゃ
弾くより調弦の時間の方が長い。
なあ、そう思うだろ?」

街で見かけられるほとんどの弦楽器は、吟遊詩人達が抱えた
11弦から25弦と、どれもたっぷりの弦が張られた
複弦のものばかり。
調弦や調整の手間は相当のものだろう。


「...つまり弦の長さで整理すりゃ
いいんでしょう?」

「そんなもんわかっとるわい!若造。
ワシはとうの昔からそこに注目しとったのだ。
ただどうしても丁度いい音の塩梅がつかめん。
フレットの長さもいろいろ延ばしてはみたんだが」

「ふうん」

ブルーは彼の傍に座り込んだ。
よく『見る』事で大体の構造は把握できそうだ。

弦楽器の基本構造は弾かれた場所で
空気の振動を様々に調節し、音を生み出している。

更に複数の弦をかき鳴らす事で
様々な高低の波形が生まれ、重なりして
旋律が流れ出していくのを見るのは
面白い眺めでもあった。

高い音は小刻みに早く広がり、低い音は大きく
ゆるやかに広がっていく。
速度は水中より遅いが、一風違ったそれはそれで興味深い。


弦が多い程複雑な音を出す、という事は
確かに手間がかかる。
弦を減らすなら丁度いい『和音』の場所を
最大限に探して簡潔化する必要がある。
気分が良くなる『和音』の位置はブルーにとっても
心地よく美しい形に見えた。



「じいさん、手伝おうか」

にやりと笑ってブルーは
放り出されたがらくたを手に取った。



数日後。



「おい、あの薬、オレにもくれ」

「僕も...下さい」


ブルーの商売は繁盛していた。
カエル男が美女を連れて歩くようになったからである。

「ああ、アナタはダメです。
この薬には向き不向きがあって、向かない人が飲むと
毒になるんだ。いけません」



伴奏屋が隣で肩を竦めた。
がらくたは前より数段すっきりしていた。

「あの若造、声を見抜いて客を選んでやがる....」


振り返ったブルーがべろりと
舌を出して笑った。
小瓶の中はただのシロップ。
それらしく色をつけた『秘薬』
媚薬も水。


「本当に声って奴は使いようだね」

自信をつけたカエル男は放っておいても自分を
磨く方法を見つけ男を上げた。
実際、声の質は良かったのだ。
喋り方や歌い方が合っていなかっただけだ。

違和感が耳障りさを強調していたのを
ブルーは最も美しい波形の位置になるよう
喋り方のアドバイスを与え、修正したのだ。

タネはどうであれ、ブルーにとって
この上ないカンバン男となった。


「運のいい事に
ここに丁度....」



酒場の旅商人は唄よりそれらしい商品作りで忙しい。
いつしか海から持って来た品も
あらかた売り払っていた。
ひとつだけ青い球体を除いて。

彼はごくたまに気が向けば唄い、その時は必ず
あの伴奏しない伴奏屋が一緒だった。
ブルーの唄声より、その不思議な弦楽器の和音に
人々は夢中になった。

哀愁を帯びた旋律の調弦がなされ
独特の音楽を生み出す弦楽器。
ブルーはごくたまに
もっとも美しい記憶を乗せて唄ったが
気付く者はほとんどいなかったし
彼もそれで良かった。

そしてその『美しい記憶』はほんの数人の心に
ささやかに刻まれた。
以前、ブルーを小物、と片付けた黒衣の男もまた
そのひとり。

『魔獣』をのこのこ連れ込んだ
大馬鹿者は少しばかり心象を改善したようだが
それさえもブルーにはどうでもいい些末な
日常の出来事。


旅商人の青い男はこの街に腰を落ち着けるかどうか
考え始めていた。










43 幻の海〜フライ・ブルー

夕暮れ近い街角。
ブルーはいつものようにフードを深く被って
店へ向かう。

馴染み始めた空気。
風を楽しむ余裕はまだない。
乾いた風を感じる度に腰に下げた水瓶を
フードの上からぶちまけ通行人が振り返る。

青い男。

ヒダルゴでは黒い肌の人間があちこちで
力仕事をしているのが見られる。
ブルーの青白い肌も同じような扱いを受けていた。
珍しい唄を歌う流れ者の見せ物芸人。

正体不明よりいくらかマシな認識である。
王侯貴族のように丁重な扱いなどないが
そのへんをうろついていても『スラム』へ追い返される事も無い。
気楽な『街人』のひとり。
日常もまた然り。
尤も喰う為に某かのルールに従う必要はあったが。


「稼ぎにゃならんが喰いっぱぐれはなし、と」

情けない独り言を呟きながらブルーは通りを歩いて行く。
太陽さえ出ていなければ胸を張り堂々と歩いていただろう。
時折有色人種や人外を嫌う者が顔をしかめる以外
誰ひとり彼を咎めない。
妙に毛深い男がすれ違い様、笑って手を振った。

「ご同輩、元気かい」

「ああ、そっちは?」


互いに名も知らない。

やがて彼は雑多で賑やかな大通りに出た。
馬や数頭立ての大きな荷馬車が走って行く。
どこかの家の飼い犬が吠える。
猫が素早く馬の足下を走り抜けひやりとする。
どこかで馬追いの歌が聞こえる。
夕食用の足を縛られたうさぎがぶら下がった肉屋。
まるはだかの鳥が大中小並ぶ店頭。

色鮮やかな緑や赤の野菜を積んだ屋台の隣で
卵売りが大声を張り上げている。

ブルーの青は街の一色....




「あぶない!どいてくれー!!」

「馬を止めろ!!」


屋台主達があわてて屋台を奥に引き寄せ
ぼろぼろと果物や野菜が転がった。
ぐしゃりとりんごを踏みつぶす馬の蹄。

「どうどう!」


数人の男達が飛び出して暴れる馬を宥めにかかる。
ひとりが素早く馬に繋がっている荷車を切り離した。

「荷台が...うわーっ」

切り離された荷台はつんのめって御者は
屋台のりんごの山に飛び込む羽目になった。



「ひっでえ...」

ブルーがぼやきながら立ち上がる。
彼は今、誰が見ても青く見えなかった。
飛んで来た荷台の小麦粉を頭からひっかぶり
ゲホゴホと咳き込む姿はフライ前の食材。

彼は今し方ひっかけていた水の事を後悔した。

「大丈夫?」

背後から笑いを堪えているのがモロばれの呼び掛け。

「クソったれ、面白がってんじゃね.....」


これ以上無いくらい不機嫌な顔(ただし見た者は全員
見事に爆笑していたが)で彼は振り返った。

「......どうぞっ」

白いブラウスに黒いエプロン型スカート姿の若い娘。
彼女は短かい言葉と共にハンカチを差し出した。

「....」


色鮮やかなスカーフで覆った頭から
長い銀の髪が溢れて揺れる。
大きな瞳は金色。
清潔そうなハンカチは純白。

ブルーの脳裏を先日デライラに言った言葉がよぎった。



「ありがとう。あなたの方もお怪我は?」


繰り返すがブルーは自分の姿がどんな事になっているか
充分把握できていない。

「う、うん、大丈夫。ありがと」

若い娘の返答は短い。何故なら口を開いて笑い出すのが
あまりにも彼に対して気の毒であったから。

「申し訳ない。
これじゃハンカチがもう使えませんね...」

ブルーはフードを脱いで髪を素早く整えながら
謝罪した。日はほとんど暮れ、もうフードを脱いでも
問題ない...と言っても今のフライ食材状態ならば
真昼でも問題ないのだが。


「いいよ、どうせそのつもりだったから。それより
あーあ、これじゃ半分は台無し。店にも担いでかなきゃ
なんないか」

馬は既におとなしく引かれている。
前足を庇ってぎこちない。

「全く馬の蹄鉄の手入れがなっとらん!」

馬を取り押さえた男達が馬主をこんこんと説教して
荷どころではないようだ。


「私が手伝いますよ」

ブルーはひとつ粉袋を担ぐと笑顔で娘に尋ねた。

「どちらへ持って行けば?」

「...ぷ。あっごめん、えと、そこの通りの先にあるパン屋」


フライ・ブルーは一番重そうな粉袋を担いで歩き出した。

「あ、ほんとにいいの?」

娘はあわてて自分もひとつ持ち上げ歩き出した。
バランスが取れずよたよたと危なっかしい足取り。
小さめの粉袋はほとんど破れ、残ったのは大袋ばかり。

「娘さんがこんな重い物持つ事はない。
置いといて下さい。私がやりますよ」

ブルーは事もなげに担いで進む。
何往復か後、荷袋は無事パン屋の厨房へ辿り着いた。


「ありがとう。なんだかかえって大変な事
やってもらっちゃった」

「いいえ、大した事じゃありませんよ。あのくらい」

ブルーは笑って手を振った。

「待ってて、お礼に何か...」


娘は店内に飛び込みパンを探した。
生憎夕刻でほとんど残っていない。

「店長〜!もうなんにもないよ」

僅かばかりのパンをかき集めると彼女は店の外へ
飛び出した。

「あれ...?」


誰もいない。
すっかり夜になってもう彼の姿は何処に
紛れたか見当たらなかった。


「うわー。お礼もまともに言えなかったよ。
オレ」

「どうした?イザック」

パン屋の主人が手伝いの『少年』に声をかけた。

「いやさ、小麦運んでた馬車がひっくり返っちゃって
通りすがりの人が運ぶの手伝ってくれたんだ」

「またどっかで会ったら礼を言えばいいだろう」

「それがさ、顔全然わからなかった....」

「なんだそりゃ?」

「おまけに『娘さん』だって」


イザックと呼ばれた金の瞳の少年はスカートの端を
摘んで苦笑いした。


「娘っこの手伝い募集だったんだから仕方ないだろ。
嫌ならよそ、行くか?」

「いやあん」



店主がごそごそとカウンターに張られた小さな紙に
印を付ける。

「阿呆がまたひとり、と」

「ひでー、店長」

「オマエも面白がってる癖に何を言うか」

「そのぶん、たまに追っかけられるけどね」

「騙したなあっ!てか」

「そー、そー。」


笑いこけるふたりの男。



「...とは言え、店長。
ウチの店に小麦運んでくれたわけだしさ」

「わかってるって。なんか別に焼いとくから
持ってってやんな」

「だから、顔がわかんねーんだってば」

「いちいち粉ひっかけて探すわけにもいかんか。
ま、仕方ない。
下心があるなら通って来るだろ。
なけりゃ礼なんかいらねえと思うぜ」

「どっちもなんだかなあ、だよ...」






星空の下。

その頃ブルーは。

「めっちゃくちゃ重かった......」


拾った棒を杖代わりに突きながらよたよた歩く姿は老人。
たどりついた酒場の裏口へ回るのもおっくうで
入り口から入って行った。


素晴らしい唄い手は爆笑の渦でもって
迎えられた。
当の本人だけが洗面所の鏡に己の姿を見、がっくりと
肩を落としていた。


「...マジかよ......」


よく笑う明るく可愛らしい娘さんの笑顔はコレか。
フライ・ブルー。
気分はブルー。