草原の満ち潮、豊穣の荒野
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24 鐘〜苦い酒

オンディーン。

彼はいつも夕暮れになると鐘つき堂へ上る。
打ち鳴らす為ではない。


「やってらんねえ」


彼は背伸びをしながら喉元のボタンを外し
遥か下を見下ろした。



何処までも豊かな海底都市が広がる。
穏やかな潮流、豊かな実り。暖かい気候。
妖魔や荒れ狂った海獣は屈強な兵士と
魔術師の強力な結界に遮断される。

街の中央には海の焔を納めた塔。
燃え続ける海の焔。海で暮らす者達の命の灯は
遠く離れた街道を行く旅人にも届けられていた。


その先は暗い海。
道なき道の果て、地図にない辺境の地。
光はそこにも届いていた。
辛うじて届くわずかばかりのものではあったが
『ブルー』はそこで育てられた。


置いて来たみすぼらしい外套と想い出。
懐かしい人々。
かつてのやせて汚れた子供はもういない。
そこにいるのは聖職者の神紋を
清潔な長衣にあしらった若者。
まだ学生ながら知識と経験も積みつつある。
充分な食事も与えられ急激に伸びた背丈。
体格は成人のそれに近付いていた。

17歳。








眼下の街に灯が点る。豆粒程の人々が家路へ急ぐ。
微かな夕餉の匂い。
彼は再び暗闇の彼方へ目を向けた。
リラの食卓は今も騒々しいだろうか。
あれから2年。








「老師様が呼んでるよ」


階段をひとりの学生が上って来た。
同年代の人魚。




「....」

「何かあったの?」

「だったらなんだ」

「いや....別に。なんだかいつもと違う気がしたから...」

「見張らなくても逃げねえよ」

「そういうわけじゃ...」

「クソライオンの言い付けだろ。
いつもケンカの邪魔ばかりしやがって
目障りだ」


人魚は腫れた頬に大きな湿布を貼付けていた。
やや長い濃紺の髪は地味に結わえられている。
見るからに気の弱そうな薄い紺の瞳。
いつもオドオドと顔色を伺うようせわしなく動く。





「君は何処から来たの?
他の皆と違う感じだし、あの老師様にも
よく呼ばれてるみたいだし...」

「知ってどうする。
言っとくがオレはお前らが死ぬ程嫌いなんだよ。
ここの連中は司祭も学生も全員
ひとり残らずだ」

人魚の言葉を早口に遮る。
眼下の街に目を向けたまま、人魚を見向きもしない。



「特にあのマーライオンのクソ野郎。
あいつには反吐が出る」


人魚が眉を潜めた。


「やめなよ。誰かに聞かれでもしたら大変だよ。
ガレイオス様は厳しい方なんだから」

「ああ、ガキでも平気で殺すからな。
あんな奴がいずれここの指導者になるなんざ
正気の沙汰とは思えんね」


「ぼくは...そうじゃない...と思う...」

ぼそぼそと独り言のように人魚が呟いた。



「はん?」

「いや...だってさ
厳しい方じゃないとこういうの
勤まらないんじゃないかな...って」


人魚は己の顔すら見ていない相手を
用心深く覗いてから続けた。




「昔はいろんな種族がさんざん諍いを続けてた。
4つの神殿が各地に設置されて
ようやく平和になって環境も整った。
皆が安全で幸せな暮らしを手に入れられた。

それを維持する為にも
公平に統率出来る人物が必要だよ。それに....」


オンディーンは腕を組むと向きなおり
人魚の学生を眺めた。


「続けろよ」


「え....あの...。...うん。

ち...中央で管理してる以上
ルールは守らなきゃ....。

少しくらいは厳しくなっても仕方ないよ。
皆が勝手な事言い出したら
......また戦争ばっかりやってた頃に戻るわけだし....」


「で?」


「多少の犠牲はあっても...」

「ガキひとりくらい気にするな、か」

「そ、そんな!」


「そんな事...ぼくは
.....言ってない...」

視線に耐えられなくなって下を向く。



「口に出すバカはいねえだろ」

「き..君こそどうしたいんだよ」

俯いたまま人魚が問いかけた。




「街道の先にある辺境の
街や村を知ってるか?」

「街道の先?地図にはそんなもの.....」

「あるンだよ」


「そんなバカな!あんな荒れた場所に?
妖魔だってうろついて..」


「あっはっは!てめえら一生守られてろよ」



オンディーンが笑いながら歩き出した。
夕暮れは既に夜。暗い階段を降り始める。

「待てよ!ちゃんと教え...」

つんざくような鐘の音が鳴り響いた。
時を告げる音。
耳を塞ぐ人魚。


高笑いもかき消され足早に降りて行く。
鐘の音が全身を包むように追って来る。





「こんな街ブッ壊れりゃいい」



まだ鳴り止まぬ鐘の音。

吐き捨てたその呟きは
人魚の耳には届かない。













苦い酒




「なんの用だじじい」

彼は深海の浜辺を足早に歩いていた。
瓦礫に座る老人に呼び掛ける。
月があり得ぬ海を照らす。

「一杯やらんか」

長い白髭を撫でながら老人が酒瓶を放る。
少年はぞんざいに受け取るとそれを
砂浜に叩き付けた。



「酒に当たるな、たわけが」



老人はやれやれと叩き付けられた酒瓶を拾い上げ
無事である事を確かめる。

仁王立ちで波間に立つ少年。
老人を刺すような目で睨んでいる。

「やれやれ」
「!」

派手な水音。
しっかり立っていた筈の少年の両足は
いともあっさり蹴り倒されて
波間に沈められた。


「お前は毎日毎日海に叩き込まれねば
話もできんと見える」

ひっくり返った少年の頭を覗き込むと
老人は深く溜め息をついた。





「話す事なんか」

波間に座り込んだ少年が吐き捨てた。


「聞きたい事もないか」

「.......」




「まあ飲め。
....っと。
古いと栓も固くてかなわん」


手間どって開けた酒瓶。
老人は先にラッパ飲みしたあと少年に回す。
彼はヤケクソ気味に瓶を呷った。




「ぶはッ!!なんだこりゃ」

ペッペッと口に含んだ液体を
吐き出しながら叫ぶ。


「てめえこの何飲ませやがった!!」

「酒に決まっとる。ま、ちと古いがの」

「こんなクソまずいモンが酒だァ!?」


酒瓶を投げ付けるように老人に戻す。

「うむ。味が変わってしもうた」

「はあ?」

「若い頃沈没船から拝借した極上のワインも
数百年経てばこんなモノかの」

「ワイン?」

「地上の酒じゃ。昔飲んだ時は
旨かったんじゃが」

「いつの話だ」

「100万年程前だったかの」

「ふざけんじゃねえぞ。おい」

「少しは賢くなったか。面白くない」

「...くたばれ死に損ない」

「生憎元気いっぱいじゃよ」

老人が白い髭をプーと吹いて笑った。
少年は苦虫を噛んだような顔で
唾を吐き続ける。




「ちとサバ読んだが年代ものには
違いないわい。酒もわしも」

「まずくて飲めたモンじゃねえよ」

「ああ、全くじゃ....」


老人が別の小瓶を懷から出して再び少年に放る。
彼は匂いと味を確認してから
用心深くちびりと呷った。


波の音。
しばし黙って飲んでいる
老人と少年。
他に誰も見当たらない浜辺。
少年は空になった瓶を脇に置いた。

「おい...」

「なんじゃ」



「....あんたに聞きたい事がある」

「ん?」

老人が呷った手を止めた。


「真面目に聞くから真面目に答えろ」

「ほほう?わしはいつも真面目じゃが」


少年が立ち上がる。
一歩下がり老人に目礼を向けてから口を開いた。



「老師、あんたは誰よりも長く生きている。
年寄りにはそれなりの敬意を払うべきだと思ってる。
その上であなたに訊ねたい事がある」

「...聞こうか」


老人がゆっくりと少年に向き直って立つ。
背筋を伸ばした背丈はまだ、少年より頭ふたつ軽く越える。
少年は丁寧ながら強く問うた。




「何故、多数の人間が死傷した村に
たった3人しか出向けなかった?
神殿には被災した人々に対応した組織もある。
海流の女神の慈悲の元にその救いは
無償で受けられる。

司祭や神官達はそう指導していたにも関わらず
何故?」





老人が穏やかだがきっぱりと答えた。


「彼等は規格外じゃ」



「それがてめえ自身の答えかよ!!」



少年が叫んで老人に掴み掛かった。
失望とこんな奴らの慣習に僅かでも従った己を
呪いながら。





「!!」

「動くと首を落とす」




少年が信じられないという顔で老人を見上げた。
自分の首筋には長い刃物のようなものが
当てられている。

老人が刃物を隠し持っていたわけではない。
それは深い皺が刻まれた掌の指3本程を
鋭い刃に変じて少年の首を鋏み込んでいた。




「...殺しやがれ...
今すぐとっととブチ殺しやがれッ!!








老人は恐ろしく冷たい声で言った。




「お前は子供ひとり
守る事すらできんかったのう」







激しい水飛沫と共に少年は頭から波間に深く
叩き込まれた。



「考えろ」



ひと事だけ言い置いて
老人はさっさと浜辺の外へ歩き出した。
扉をくぐればそこは深い海の底。

幻の浜辺で少年はひとり
泣いた。

頭上には獅子のレグルス。
それすらも遠い幻。




23 ふたりの弟子

ある朝。

年老いた司祭は、二人の弟子を連れて
辺境の村を訪ねた。


道すがら鼻歌まじりの老人。
ふたりの弟子はそれぞれ仏頂面と
苦虫を噛み潰した顔で黙りこくって歩いている。

ひとりはまだ若く17前後の少年。青の髪
青い瞳で オンディーンと呼ばれていた。

もうひとりは30いくつかに見える青年。
弟子と呼ぶには落ち着いた風情。
視線を決して下に落とさず
老人の後を規則正しい歩幅で歩いて行く。

鬣をたくわえたマーライオンのその男は
ガレイオスと呼ばれていた。


一方オンディーンは、背中に担いだ大荷物をガチャガチャと
騒がしい音をたてて歩いている。
口元をこれ以上曲がるか、というくらいひん曲げ
足元に石があれば蹴飛ばすのを忘れない。

「おい。薬瓶が割れる。丁寧に運ばないか」

ガレイオスが不機嫌そうにたしなめた。
オンディーンは 横を向いてべろりと舌を出す。

「ならてめえが運べよ」

「....そのならず者みたいな物言いは
やめろと何度言わせる」

「育ちが悪いんでね。嫌なら追い出しゃいいだろ」

「....老師。よろしければ即刻叩き出しますが?」

「兄弟子がああ言っとるがの。荷物持ちがおらねば
ちと困る」


笑いながら指をパキ、と鳴らす老人。
少年の顔が青ざめ舌打ちした後
荷物の音は止んだ。


「よろしい」


老人がからからと笑った。

眉間に縦皺だけが、揃ったふたりの弟子。
やがて、小さな村に着いた。



「なんだ...こりゃ」

オンディーンが呻くように呟く。半壊した家屋
至る所に死傷者が倒れている。
村というより村の跡。
巨大な岩が無造作に転がっている。


「潮の流れが変わるから立ち退けと
忠告だけはしとったんじゃが....
妖魔共除けの結界も破れてしもうたか」

「.....」

淡々と兄弟子が、死者と負傷者を選り分けて行く。
老人は村の 入り口と出口の壊された結界を
修復し始めた。
複雑な呪歌と共に見えない魔方陣が
組み上げられていく。


「お前は何をしにきたんだ」

弟弟子の顔も見ずに叱責する兄弟子。
少年はあわてて荷物を下ろすと
治療を開始した。

体力のない者から選んで
慣れた手つきで処置をしていく。
それでも応急なものでしかない。
足や腕をもぎ取られ、血を流し過ぎた
瀕死の子供や老人には眠りの呪歌。
運が良ければ目を覚ますだろう。


軽い怪我の者に薬の使い方を指示して
渡す。数百人の負傷者をたったひとりで
処置しているのだ。
悪態ひとつつく余裕もない。

治療を終えた子供が大口を開けて
泣き喚く。怪我人が辛そうに目を閉じた。

「ドちび、殴られてえか」

少年に横目で睨み付けられた子供が黙り込む。

「お前が泣くと弱った奴がおっ死ぬんだよボケ」

バキボキと怪我人の折れた骨の位置を正す。
凄まじい悲鳴が絶えない修羅場。
失神してくれた方がこの際助かる。
麻酔薬にも限りがあるのだ。
並んだ負傷者は青ざめた顔を引きつらせた。



ガレイオスはやぐらを組ませ、死者の処置
....氷葬を指示している。
積み上げられた遺骸をまとめて、永久氷岩の
墓標にするのだ。

呪言の詠唱を始めるガレイオス。
やぐらに積まれたものはすべて 凍り付き
巨大な氷柱と化して行く。

「......」

少年は一瞬だけそれを見ると、またすぐ
作業を続けた。
生後間もない赤ん坊が悲鳴のような泣き声をあげ続ける。
傷ついた母親は倒れたまま身動きすらしない。
よしよし、と指先でとん、と額を突く。
ささやかな呪言。
ふうっと眠る赤ん坊。その隙に傷口に薬を塗った。


老司祭はすでに、入り口に強固な結界を
張り終わって出口へ移動していた。




負傷者はいっこうに減らない。
後にまわされた大人達が不平を並べはじめる。
続けられる簡単な治療の呪言と薬の処置。

緊張をほぐす暇もない。
次第に呪言に集中できなくなって行く。
効かない呪言。
額に汗が吹き出し流れ落ちて行く。
作業が滞り始めた。


ざわめく負傷者達。
もともと荒っぽい辺境の種族。
少年は焦り始めた。こんな場合何が起こるか
見当はついている。己の育った街の空気と同じだ。


空気が険悪なものに変わり始めた。
少年の疲労と緊張もピークに達している。
暴動寸前の空気。
怯えた子供が再び泣きかけて少年の顔を見た。
少年は祈るような気分で唇に指を立てる。
子供は泣かなかった。

ほっとしたのも束の間、ひとりの男が彼の前に立った。



「...並んで下さい。順番がある」

「その薬はオレ達までまわりっこねえ」

「そんな事ありませんよ。もう少し待ってて下さい」


「なんで充分な物資を持って来ないんだ。
誰が見たって足りるもんか。

お前らは安全な場所で暮らしてよ、
オレ達の苦労なんざ欠片も
知ったこっちゃねえんだろうがよ。
ここだって行くとこさえありゃとっくに...」


「頼むからどうか待ってて下さい。
オレ急ぎますから」


少年は懇願で
男の恨み言を遮った。


「お前らなんか信用できるか!」

「!!」


子供が悲鳴をあげた。
泣くのをがまんしたあのちびだ。


「オレ達のやり方を教えてやる。若造」



抱えられた子供の喉元に
男の刃物が突き付けられていた。


「薬と物資をよこせ。お前も言う通りにしてもらう」

「それが大人のする事か!」

「お前らにゃわからねえ」

「そんなモンわかるかよ!!」


思わず叫んで立ち上がる。

ふらつく足元。
たちまち数人の男に取り囲まれた。

老司祭はまだ村はずれから戻らない。
兄弟子がじろ、と睨んで様子を把握している。


くそ、コトを荒立てたくないってのに。
この状況はよくない。


薬を後ろ手に隠しながら、拒否の意思表示で
睨み付ける。子供はまだ10にもなるまい。
刃物は喉からすでに
うっすらと血を流させ始めていた。

「やめろ!バカ!!てめえの村のガキを...」

「それがどうした。こんなガキどうせ育ちゃしねえ。
村はこんなで喰うモンもねえんだ。
ココはそういうとこなンだよ!!」

「....」

言葉を継げない。


ガレイオスが足早に歩み寄って来る。
助かった。奴は嫌いだがこの際そんな事
言ってる場合じゃない。


マーライオン。
顔は強固な意思を思わせる獅子のそれ。
強大な爪と体力を持ちながら
魔術に長けた優秀な頭脳も合わせ持つ種族。

並の者ならひと睨みで怖じ気付く。
子供を盾にした男も、当然怯んで
しどろもどろに叫んでいる。


「こ...子供を殺すぞ」






息を飲んで睨み付け、子供を奪う隙を伺う。
これ以上怪我人を増やされてたまるか。
あのおっさん、少々ケガしてもオレは知らねえぞ。



ずい、とマーライオンが男に近付く。
男はあわてて子供を盾に後ずさった。



まずい。あのちび刃が喉にもろに当たってやがる。
何考えてやがるんだ、クソライオン。

子供は悲鳴すらあげられず泣いていた。
血が流れている。

「ちょっと待ってくれ!子供が...」




「..ッ!」


マーライオンが太い腕を一閃したのと
男が叫び声をあげかけたのは同時だった。




「.................」




ころころと転がって行くふたつの頭。



そのうちの小さなひとつが
眼を見開いて立ち尽くす少年の足元に
当たって止まった。



涙をいっぱいにためた瞳。




マーライオンはふたつの胴体を、出血を避けつつ
死者のやぐらへ 放り込んだ。



「わあっ!!こいつ人質が通用しねえ!!」



集まっていた男達はいっせいに散った。

ガレイオスは眉ひとつ動かさず
顔を上げたまま見下ろしていた。



あとには動けない負傷者とオンディーン、
それからふたつの 頭だけが残った。






「.......冗談.....ぶっこいてんじゃ...

ねえ....」


絞り出すような声。


「.......冗談.....ぶっこいてんじゃ...

ねえぞ....

この...クソが...」


視線を足元の小さな頭から上げる。
肩を震わせて大きく息を吸い込む。



そして、彼は叫んだ。





「冗談じゃねえぞ!!このクソライオン!
てめえ何考えてやがんだッ!
なんでガキまで一緒くたにやりやがった!!
あのおっさんだって少し脅しゃ放しただろ!!
なんでブチ殺さなきゃならねえんだよ!
答えろ!クソ...」


叫びながらマーライオンに掴み掛かった少年は
腹部への膝蹴り一発で座り込み
声を失った。


...クソめ。
このクソったれボケ野郎が....

呻きながらへたり込んだ少年は
睨みつけ眼で尚、叫び続けた。



「最低限だ。これでバカな事を考える者はいなくなる」

それだけ無表情に返すと
何事もなかったかのように仕事を再開する兄弟子。
老司祭も戻って来た。



「どうした?手が止まっとるぞ」


マーライオンと少年を交互に見て老人が声をかける。

「.....なんて事...しやがる...クソド外道が...」


繰り返す少年。

その手には小さな頭部がひとつ。


老人はふむ、と辺りを見回しひとつ息をついた。


「....なんて事しやがるんだ....畜生め....」


呪うように呟き続ける少年の手から
頭部を取りあげ、背中を軽く叩いて告げる。


「作業に戻れ」



穏やかだが、有無を言わさぬ厳しさが含まれた声に
少年は唇を噛んだ。



帰路。

あれから一晩中作業は続いた。
老人も加わってなんとか全員処置が行き渡った。

ようやく次の昼すぎに村を出る。
黙りこくった少年。
老人はいつもと変わらず飄々と歩いて行く。
兄弟子もなんら変わりはない。



少年だけが静かに怒って歩いていた。


「くそったれ...」


相手にすらしない兄弟子。
明るい日射しの道。
見えて来た都の神殿と塔。





やがてぽつりと老人が呟いた。







「ちゃんと弔うてやったよ...」


ふたりの弟子は黙ったまま歩き続けた。



















22 海流神話〜戦闘人魚

ある男の記憶。


彼は海流神に仕えていた。
深海中央都の心臓部。

海の焔を塔の頂上に祀り護っていた。


その頃からもう女神は『いなかった』
あるのは女神と呼ばれる海の焔がひとつ。
凄まじい光を発し何重にもクリスタル状の
遮蔽壁に覆われ、海を照らし
深海をまるで太陽の当たる場所のように
整えて機能していた。


透明な石に包まれた『命の焔』
蒼と赤、黄色、白色様々に色を変え燃え上がる。


彼はそれを護っていた。
正しくは彼等。




「ひびが...」

「ようやく収まったか」



塔以外そこは瓦礫の山。
白衣のふたりの男は廃虚に聳えるその塔と光を
眺めて息をついた。


「いつまで探す気だ」

ふたりの白衣の男の前に広がるのは
瓦礫に埋もれた多数の死者の
突き出した腕や足ばかり。

「見つかるまでですよ」

ひとりの男...まだ若く白銀の長髪に白衣の神官服。
研究者の証明を標す縫い取りと
海流神の神紋を灰や赤茶けた色に汚しながら
岩や柱、壊れた壁材をどけ続けている。

かたやもうひとりは短い黒髪の長身。
年令は白銀の男よりだいぶ年長。いでたちは同じだが
廃虚の上に座って遠くを眺めるのみ。
白銀の男はただひたすらに岩を転がし
名を呼び続ける。

友を、同僚を、学生を、己と関わりがあった数々の
人々の名前を。
時折何かを見つけては苦しそうに顔を背け
また他を探し始める。


焔が焼き払った瓦礫。
潮流が荒れ狂った廃虚。
泥流が飲み込んだ命。
海流の流れて行く方向には、
重力を失ったかのような
幾体ものひとであった有機物が漂っている。

「......無駄だ」

黒い男が呟く。
白銀の男は答えない。
その長く白い髪を白衣と同じように汚し
指先の爪を割り、重い岩を押し転がし続けた。



「あ!」


瓦礫の下、白銀の男が何かを見つけた。

小さな手。

「...やめろ。見てどうする」

銀の男は悲痛な顔でその手を引く。
最早生きてはいないと知りながら
こんな所で眠っちゃいけない、と引き続ける。

小さな子供の手をこれ以上傷つけぬよう
慎重に掘り出しながらまわりの障害物をどけて行く。
重く鋭利な残骸。
まだ熱い物すらあった。

しばらくしてようやく手の持ち主が引き上げられた。



「これは....」

眠るように埋もれていた幼児。
傷がほとんど見当たらない。
まるで生きているような......

「...生きてる!生きてますよ。この子は!!」


白銀の男が振り向いて叫んだ。
子供の胸から鼓動を聞いたのだ。
黒い男は一瞬呆然としたあと、眉間に深い皺を
刻んで眺めた。

その子は眠っている。体のあちこちに深かったであろう
傷らしきものが残っていた。
いずれも薄く、一見無傷にすら見えていた。

「....再生種か」



黒い男が立ち上がる。ゆっくりと白銀の男に
近付いて行く。

「刻んで焼き払うしかないな」

「...........」


白銀の男が子供をかばうように後ろへ隠して下がった。
黒髪の男はゆっくりと何も待たない素手を差し出した。

「渡せ」

「渡さない」


その顔は何かを決意したかのように
黒い男を見ていた。
黒い男はまたか、と頭を振り問うた。




「失敗を認めるべきだ。過ちを償うのは残った者の
役目ではないかね?」

白銀の男はその問いにまっすぐな視線を返す。
断固とした拒否の色が浮かぶ。

「犠牲をこれ以上増やすな。
失敗したんだ。もうここで終わりにしろ」


「この子に可能性が残されています。まだ
諦めるべきじゃない」

微動だにせず、子供の前に立つ白銀の男。
その目は穏やかながら、確信と怒りが浮かんでいた。



「何人死んで行ったと思ってるんです。
失敗の名の元に処分され、化け物扱いさえ
された彼等がこのまま化け物のまま
葬られるのは絶対許さない」


「地上への夢はもう潰えた。
お前とてずっと見て来てわかっているはずだ」

「それはこの子が死んでいたらの話です。
この子は生きている。しかも己の生命を
補って生きる力を授けられた。
これこそ私達が求めていた..」

「この様を見てもそう言い切れるか?」


黒髪の男は転がる死体とかつて研究施設だった
残骸を顎で差した。


「あの若い娘もそうやって安心した矢先に
魔獣化したのを忘れたかね。
老人も、子供も、若者も
何人がどんな姿に変わり果て
この惨状を引き起こしたか忘れたか?

我々が出来たのは『女神』を護る事だけだった。
この塔を護り、彼等に安息を与える事しか
残ってなどいない」



白銀の男は一度だけ下を見た。
足元に転がった死体の半分は集められた人々だった。
黙とうのように目を閉じ彼は再び顔を上げた。

「覚えていますか?」


白銀の男はひとつの童話を諳んじはじめた。


       むかしむかし、南の浜に
       特別な椰子の木がはえていました。
       その木はまっすぐ
       月に向かってはえていました。
       一本だけの神様の木で
       月や星をひとやすみさせるために
       はえている木でした。

       それはとても高く
       空にむかってのびていました。
       月や星はその枝に腰掛けて、こっそり
       ひとやすみしては
       夜空へ登っていったのです。
 
       ある夜、ひとりの少年が月をさわりたくて
       木に登ろうと思いました。
       とても高い木です。なんにちもずっと
       登り続けなければなりませんでした。
       少年はとうとう力尽き、下に落ちました。
       まっさかさまに落ちて行く少年を
       風が吹き飛ばし
       その体は海へ落ちて
       沈みました。


黒い男は聞きながら表情を歪めて言った。


「どけ...。過ちは償わねばならない」

「いいえ。こんなことは償いなんかじゃない。
理不尽な悲しみには怒るべきだ。
抵抗すべきだ。
諦めてまだある命を絶つのは間違っています」

「その子を誰が保証するというんだ」

黒い男がイラついた声で問う。





「それが我々の仕事ではなかったか」

静かな声。はっきりと白銀の男は答えた。



「死んでしまった彼等こそが犠牲だ。
集められた人々は昔話を信じて自らやってきた。
空へ、南へ行こう、と。
遥かな地上へ。
遠く、道は長いけれど、誰かが行きつけば
あとに皆が続いて行ける、と。

そう皆が信じたからこそ彼等は身を投げ出して
実験台になったのだ。
地上で生きられる強い抵抗力、身を守り
荒野を切り拓く強い肉体と精神力。
困難を乗り越えて導く海流神のしもべ。

その誇りを彼等は命と代えたはずだった!」



「もう夢は終わった。無理だったんだ....
このまま引きずれば犠牲を増やして行く。
それがまだわからないのか。

俺だって好き好んで処分してきたわけじゃない。
最後の通告だ。

..................渡せ」


白銀の男は首を振った。
黒髪の男の手が彼の喉元に近付いても。

「あなたの選択は間違って...」


白銀の男は最後まで言葉を続ける事はなかった。
ゆっくりとその頭部は後ろに
赤い血を噴き上げながら海流に流されて行く。

黒髪の男の指先はその細胞配列を変え
固く鋭い刃となってその言葉を永遠に断ち切った。

頭部を失った体はゆっくりと崩れ落ち
二度と動く事はなかった。



「..............」


微かな震えと共に倒れた部下と小さな子供を
凝視する黒い男。
子供は目を覚まし、彼を見上げて笑った。


指先の凶器を子供に向ける。
子供の笑い声と共に黒い男の体中の傷が
消えて行く。暖かい生命力を取り戻して行くように
心地良い感触。

まだ子供は幼い。
首のない体の傍に座って笑っている。
倒れた死体には何一つ変化は起こらなかった。



「うおっ!!!」


黒い男が激しい叫びと共に岩へ己の拳を叩き付けた。
塔を見上げて男は吼えるように叫んだ。

言葉にならない叫び。
子供の笑い声に耳を塞ぎながら彼は
叫び続けた。

もう誰もいない。
夢も祈りも願いの声もない。
ひっそりと進められた願い事は
大惨事を以て潰えてしまった。

指先の刃が光る。

塔の焔の光は死者を照らしだす。
黒い男にこれを見ろ、といわんばかりに。

男は子供の傍にひれ伏して泣いた。
何時間も何時間も泣き続けた。





戦闘人魚。
海流の女神に仕えるもの。
地上への移民を夢見た果ての魔獣。
護る為に殺した。

己も実験体の移植を受けた化け物であったにも
関わらず。

彼がどんなに何日泣き続け衰弱しきっても
子供の笑い声が彼を回復させる。
彼は何年もそうやって慟哭し続けた挙げ句
いつしか髪は長く伸び白く変わり果てていた。


古い古い時代の記憶。