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ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2006年11月14日(火)
悟る法

どこだかで人生に悟りを開きたいのだが、そうやって煩悩を捨て去ってしまうとエロ創作オタ趣味等、大事なものが失われてしまうので大変不都合である、という問答を見ました。
そこにあった解決法。



「速やかに悟りを開いて、また閉じればいい」



……確かに最強です、開閉式悟り。惜しむらくは自分自身でさえ騙しきれそうにありません。
最近、色々な話を総合してみるだに、恋愛と悟りは同カテゴリーで勘違いと同義語なんじゃないかと思う次第。勘違いって意外と素晴らしいものですね。



2006年11月09日(木)
『名もなき毒』感想(ネタバレ)

宮部みゆきという人は昔から、ごく普通の生活を送っているごく普通の人々を描くと、途端に筆が冴える。彼女の小説は本質的に世間話で、登場する人々の身の周りの話に「うん、でもそれはさあ……」と言いたくなったところが真骨頂だ。この小説も、一応推理小説やサスペンスの体裁はとっているものの、ミステリーのことなんて忘れてしまったほうがいい。

知らない人が多いようなので説明しておくと、この本は続きものの二作目である。ただし、一作目は読まなくても一向に構わない。読んで気になったら前作「誰か」をひもといてみてもいい。実際そうしている人も多い。

ストーリーは、何か一つの大きい事件を追うというより、小さな問題やちょっとした身の周りの話を複雑に絡み合わせて、「毒」というキーワードでまとめあげている。一番大きい問題は無差別連続毒殺事件なのだが、見ようによってはこの事件と犯人は本筋ではないようだ。どこから何が出るか分からない、じわじわ実感されてくる悪意が、まさに毒のようで気味が悪い。はっきり言って上手い。

キャラクターも非常に人数が多い割に「えーと誰だっけ……」ということがない、鮮やかな書き分けられ方をされている。その中でも、誰もが「まず、こいつ!」と指を差すであろう、原田いずみの人物描写が強烈だった。

理想の自分と現実の自分との間にギャップを抱え、それを埋めるために自分にとっては真実である嘘をつきまくり、嘘の結果である自分の不遇に常時尋常でない怒りを抱えていて、他人への責任転嫁と攻撃衝動に明け暮れる……って、うわあいるいる、いるよこういう人……。orz

また、「ミスを指摘すると言い訳するか、相手に食ってかかる。しかも仕事はウルトラ無能」だとか、「自分はかくかくしかじかの被害を受けたという嘘八百を、周囲の人間にまいて回る」だとか、「煮え湯を飲まされた前の職場の人が、いざ事情を話すとなると思う存分彼女の悪口を言えるので勢い込んでいる」だとか、妙にディティールが正確なので頭が痛くなってくる。結婚式のシーンなんて背筋が凍りそうだった。

さすがにここまでひどくはなくても、身につまされる人が多いのか、原田いずみに対するいるいる・あるある度数は異常に高い。多分、こういう例が身近にあるかどうかで、この小説の面白さは乱高下すると思う。完全に話の通じない人を相手にする羽目になったいたたまれなさというのは、体験した当人でなければ中々想像がつかないものだと思うので。

あっさり書いてしまったが、こういういかにもいそうな人物を、身につまされるくらい生き生きと書くことができるというのは、物凄い出力の賜物だと思う。よくミステリー小説では、話が回ってオチがついたところで、「で??」と聞き返したくなってしまうくらい薄っぺらなものがあるが、宮部氏はその逆である。

悪役から通りすがりから、そのへんの街の工場長さんまで、神経の通っていない人間は一人も出てこない。ただ、あまりにいそうな人ばかりなので、「ああはい、知ってるよ」と勘違いされると、そのまま物語を通り過ぎられかねない。ただそういう人は、もともと相性が合っていないと思うが。

杉村三郎(これが主人公の名前……)氏のシリーズは、この後も続いて刊行されるそうなので、しばらくチェックしておこうと思う。その前に楽園が先だが。最近の本としては、外れる心配があまりない安全牌です。



2006年11月08日(水)
アニメ『ゲド戦記』感想(ネタバレ)

だいぶタイミングがずれていますが、見に行ったので一応感想。



田舎の百姓屋で大人と子供が四人で畑仕事やってるところへ、近所の金持ちが襲ってきて飛んだり跳ねたりする話。
以上。







で終わらせるといくらなんでもアレなので、もうちょっと考証します。話がすーごい狭いなあ、これ。いや、普通のアニメ映画としては普通だと思うけど、天下のジブリスタジオと天下のアーシュラ・ル・グウィンを引っ張り出したらまずかったんじゃないの?

宮崎吾郎という時点で誰でも考えるだろうけど、この映画はとにかくとにかくネームがビッグ。それに反して実体部分が不安、というか宮崎吾郎が不安。

映画と同時にものすごく有名になった、主題歌の手蔦葵もド新人だが、困ったことにこちらはものの見事にビッグネームを受け止めてしまっている。吾郎氏も自分にできる範囲で受け止めておけばよかったものを、よせばいいのに全編真面目に仕切ろうとするから、より一層傷は深い。

これについて某友人に意見を求めたところ、「見えぬものこそ!」と主張された。「天才の父に絶対敵わず、圧倒的な差にうちひしがれる凡人のドラマを読み取るんだよ!」 この友人、映画館の椅子に体操座りして歯を食いしばりながら見たそうだ。残念ながら私はそこまで変態ではない。

なまじ看板が大きいのでアイパッシングも大きく、無駄に悪評が高い。悪評を聞いてインパクトを求めていく駄目映画マニアにとっては、「そこまで言うのはなあ」とちょっと小首を傾げる程度だ。一応、起承転結つけてまとめてあるし、普通のアニメ映画だったし……ま、原作ファンが腹立ててるのはよく見ることだし、結局分からないからいいや……。あたりに落ち着くような気がする。



と、いうか。
実を言うとよく覚えてないんですよ、中身を。



見てから少し経ったというのもあるけど、改めて思い出そうとしたら細部がかなりおぼろげになっていた。ある意味、作品としては悪評よりもまずいんじゃないのかと思う。無かったことにされかかっている。

スタジオジブリは一企業として存続をはかっていかなければならない。そのために何としても宮崎駿の遺伝子を存続させようとしたと思う。しかし、仮にもエンタテイメントとして興行を打つ会社が、存在をスルーされたら最後なんじゃないですか?

というあたりで、友人の評に戻る。確かに見えぬものこそなんである。作品そのものよりも、それ以外のものの方がインパクトがずっと大きい。だから、真に楽しみたいと思って情報を集めている人がいたら、本編はおまけだよと言っておく。「宮崎吾郎は建築家」だの、「原作者の出した非難声明」だの、探して見つかるものが一番面白いから。



2006年11月06日(月)
俺の小宇宙が(以下略)

何だか、「我が青春の」シリーズでまとめたくなってきました。
ミクシィ内サーフの成果です。あえて無説明でご覧ください。



兄さん、僕やったよ! 誰の手も借りずに、やっと一人で……!!



2006年11月05日(日)
サルベージ4「『分からない』を考える」

大学の研究室にいた頃、ほとんど毎日のように失敗の実験をしていました。私の腕が悪かったというのもありますが、元来が実験というのは失敗するためにやっているようなもので、その中から論文に使える数値が二つ三つ拾えればいい方です。

だいたいの実験は、あらかじめ結果が予定されています。”論理はこういう風であるから、このようにすればこうなるはずである”という意図のもとに実験を行うわけです。もちろん理屈どおりになんか運びゃしません。

学部の四年生や修士は教授の言うとおりに実験するので、理論だけは立派なもののはずなのに、それでも上手くいきません。で、どうなるかっていうとなーんにも分からないわけです。あまりに分からないことだらけなので、たまに分かることがあるとすっ飛んでいって自慢します。(研究者は死ぬまでこれを繰り返す種族です)

もちろん、論文等で表に出すことは全て”分かった”何かであるので、明らかにすることは重要です。おおげさに表現すれば、科学の歴史はひたすら”分かる”ことの価値を追い求めてきた結果です。ですが、そこで短絡的になりがちな態度を戒めるために、私たちは”分からなかった”実験を忘れてしまわないようにと教えられました。難しく表現すれば、ネガティブデータの尊重と申します。

失敗した実験を完璧に忘れてしまうと、まったく同じ実験と同じ失敗をやらかしかねないという実務上の問題もさることながら、そこには”分からない”部分を省いては、自然界の姿が正確には掴めないという思想があったと思われます。

何度も言いますが私の実験が下手だっただけじゃなく(血涙) 実験、つまり何かを分かろうとするこころみのほとんどは失敗します。自然とは、基本的に分からないものです。分かっているほんの僅かなことの裏側に、山のように巨大な分からないことがあると理解していなければ、得られる理論は片手落ちになりかねません。

また、”分からない”という状態は、実は”分かった”という次の状態になるまでの扉でしかない場合もあります。その意味では、いつかその扉を開けるための鍵が手に入ったとき、間違いなく戻ってこれるように扉の場所を覚えておく必要があります。

上記の鍵と扉を合わせるためのシステムが地球規模で確立したために、人類は手の届く限りの世界を”分かる”によって開拓してきました。情報化社会です。その一方で”分からない”に耐える力は徐々に衰えているし、理由の分からない状況に正しく地位を与える技も、片隅に押しやられているようです。



ものごとが明らかになること、情報が伝達されることには、果たしてそれほど価値がありますか。



この価値を相対化して眺められればいいですが、偏重した結果その他の部分が見えないようだと、気づかないうちにバランスを崩しかねません。



2006年11月04日(土)
サルベージ3「○○の半分」:価値

以前、友達と町歩きをしたときの思い出です。
方向音痴で自分がどっちを向いているのかさっぱりつかめず、知らない場所を行くときはいつでも、悪い夢の中をさ迷っているような気分になる私に、友達は呆れていました。彼女は旅行が大好きで、旅によって知らない物事や見たことのない景色を知るのが無上の喜びであるという人でした。


私 「だから旅行とかに出るのも、不安であまり好きじゃない。すぐに体調を崩すし」
友 「でもそれって、人生の半分を損してると思うんだけどなあ!」



また少しして、基本的に女同士で過ごすことが多く、男性がどちらかと言えば苦手である私にも、友達は呆れていました。


友 「人類の半分は男だよ。それって人生の半分を無駄にしてるよなあ」


……ありゃ。
計算がおかしい。

それに気づいたのは、言われてから半年経ったときのことでした。

例えば、世の中には本を読まない人もいます。それは確かに何だか、大雑把に言って人生の半分くらいを損しているような気が、私にもします。私の先生には、終生山に登っていた人もおります。先生にしてみれば、山のない人生なんてものは半分生まれてこなかったようなものでしょう。よく知りませんが、台風が来ると海に入りたがるようなサーファーの方々にとっては、海がなくなったら人生を半分なくしたようなものだと思います。本は置いておくとして、海や山はかなり危険があるので、人によってはそれに打ち込んでいること自体が、人生を無駄にし続けているように(『そんな下らないことのために……』)感じられると思います。

どれも真実です。そうやって半分半分と色んな人生の『半分』のことを考えていったら、何だか物凄く嬉しくなりました。人生の半分、とんでもない可能性の塊の中からやってくるものなんだなあ、と思ったもので。

友人が本当に言いたかったこととは確実に違うと思いますが、何か違うものの見方を見つけたような気分でした。

大切なことは、目に見えません。見えないものが四次元のマトリョーシュカみたいに、いくら重なっていても、その計算は少しも間違ってはいないということです。



2006年11月03日(金)
サルベージ2「カルネアデスの板」:緊急避難

標題はすごく正直に申し上げますと、『金田一少年の事件簿』から拾ってきた言い回しです。個人的な出典はともかく、この言葉自体は少しも軽いものではありませんで、古代ギリシャの哲学者カルネアデスが発した設問を指し、現代に至るまで法の世界では実際に使用されている、緊急避難の概念を表すものとなっています。

設問は以下のようなものです。



「ある舟が難破し、二人の男が海に投げ出された。そこに浮いているものは板が一枚しかなかった。二人ともがしがみつけば板が沈んでしまうことが確実な場合、力の強い男が弱い男を押しのけ、要は相手を殺して生き残ることは許されるか?」



『自分の生命の危機をもって、相手の生命を奪う理由とすることは、罪であるや否や?』
もっと乱暴に表現すれば、

『隣の奴の命より自分の命の方が大事だと言い切っていいのか?』

人間社会の法は、実にはっきりこれを無罪と断定します。善であると規定しているわけではありません。生き残ったものが罪の意識を負わずにすむということも、恐らくないでしょう。しかし、訴追は不可能である、というのが、程度の差こそあれ正当防衛と同様に導入されている、緊急避難の原則です。

ここに示されているのは、罪が物理的に有限なものである、ということではないかと思います。状況はどうあれ殺害を行ったという事実に変わりはないにも関わらず、ほかの条件が成立していれば罪の物理的な表現である刑罰は行われません。状況判断を加味して量刑を行うという点で言えば、法全体の立場がそうだと思われます。

当たり前ですが、現実世界に無限はありません。多分に精神的・宗教的な根拠を持つ罪は、時に現実に行われたことよりもずっと大きな広がりを見せることがあります。しかし、それに対して実行される刑罰は一定の抑制を受けざるを得ません。つまり、非常にしばしば理不尽です。

それは、ある人間の集団を人間関係の面で運営していくための技術―――政治―――の一部として生まれた、法というものの宿命を考えれば、仕方のないことではないかと思います。人類の歴史、文明そのものを、人間関係扱いすることに納得してもらえればの話ですが。

ただし、当然社会の価値観と個人の価値観は別物です。どーしてもマンガの話になりますが、冒頭に挙げた金田一少年の事件簿の犯人の描き方はこの点で、実に単純明快かつ極端で象徴的なものでした。物理的な制限(事情)を無視し、頭の中で一つの罪を無限に拡大させていった結果、犯人にとってその他の人間の存在は極端に縮小し、(以下ネタバレ反転) ただのイニシャルでしかなくなってしまいます。彼にとってそれを消すのは大したことじゃありませんが、社会的にはその行為は虐殺だったわけで。

ここまで分かりやすくはなくても、特に遺族の処罰感情は結局のところ何にも代えることができず、その意味で公正な判決はあり得ない、ということになるのでしょうか。

罪と罰を感情としてとらえた場合、冒頭の設問は非常に論じにくいです。これが、内面世界にある罪と罰が、外にある現実と触れ合う場所についての設問だからではないかと思います。(変な言い方になっていますが、要はこの場合の罪と罰の両方が、現実の都合によって定められたということ)罪というものが完全に大多数の人の都合によって決められているのならともかく、そうでない個人的な部分が大きい限り、カルネアデスの設問は小さくない意味を持っていると思います。



2006年11月02日(木)
サルベージ1「カワイくんのこと」:福岡中二自殺事件

昔々の小学校の頃、私のクラスにカワイくん(仮名)という男の子がいました。カワイくんは当時どこのクラスにも一人はいた、明らかにずば抜けて最下層に組み入れられるいじめられっ子でした。身なりは不潔で、性格は底意地が悪く、勉強もお話になりません。誰もが近くに寄りたがらないので、席替えのときは彼一人逆ジャンケンの対象です。負けた人が隣になるという意味で。

当然のごとくクラス中から爪弾きにされていた彼を、もっとも率先していじめていたのは、誰あろうクラス担任の定年間際の女教師でした。この人は今考えてもどうかと思われるような言動(以前に担任したクラスと引き比べて、お前らは出来が悪い、と授業中に繰り返してあてこするなど)をとる人だったのですが、カワイくんに対する態度はかなり強烈なものがあったと思います。

尾篭な話で申し訳ありませんが、カワイくんは教室でたびたび失禁する子でした。それを教師がいちいち片付けなければならなかったことには同情します。幼稚園児じゃあるまいし、休み時間にトイレにいけない事情は何もなかったのに、明らかにカワイくんのそれは回数が多すぎましたから。

しかしこの女教師は、自分が始末したカワイくんの大便の色形を授業中に冗談の種にしました。カワイくんの失禁は教師のお得意の持ちネタで、子供は皆大喜びで追従していました。また、笑った顔が気持ち悪いだとか、考え方が不愉快だとか、探せばカワイくんをからかうネタは誰にでも普通に見つかりました。あの当時カワイくんを攻撃することに、心から罪悪感を覚えていた子は、一人もいなかったと思います。それは先生もカワイくんのことが嫌いだ、という安堵感に裏打ちされていました。


そんなある日、授業中に新ネタが披露されました。


その前の日に家庭訪問を行ったカワイくんの家で、女教師は話もせずに引き上げてきたのだそうです。カワイくんのお母さんは前もって予告してあったにも関わらず、その時お酒を飲んで寝ていて、訪問した先生を面罵し、話どころではなくなったということでした。カワイくんのお母さんは夜の商売の人だったようです。お父さんの話というのも、聞いたことがありません。

小学生の自分でも『え……』と一瞬戸惑ったのを覚えているくらいですから、大人の教師にカワイくんの生活の状況を察することができなかったはずはありません。しかし、この事実も先に申し上げたとおり、クラスにとってはネタでした。誰にも、親にすら味方になってもらえないかもしれないカワイくんは、ノリとネタでいくら傷つけても罪悪感を覚えない、劣等生の一人でしかなかったのです。

最近騒がれている件について、身につまされる人が多いのは、かなり多数の人がカワイくんのような同級生を持ったことがあるか、少なくとも話を聞いたことがあるからではないかと思います。特定の子が嫌われるまでには様々な経緯があります。が、結局その状態を推し進めていくのは数の論理と、閉鎖的な空間でしかありません。

後になって状況に気づき、不正義の片棒を担いでしまったという後悔を覚えても、それを回復するチャンスがまるでないこと。そして、自分たちがどんな異常な状況にいたかを、それが完全に過ぎ去ってから思い知ること。この二つの理由で、カワイくんのことは消えない記憶になって残っています。



2006年11月01日(水)
再起動

なんとなーく、特に大した理由は無く、日記を書いてはアップしないことが続いています。いつものごとく一度黙り込んでしまうと発声が上手くいかなくなる模様。

とりあえずサルベージ品を上げていって発声練習します。

全然関係ありませんが「とりあえず」と言っておいて放置しっぱなしのオフラインページを更新してみました。と言っても以前出した本とまるっきり同一の様式になりますので、何だかコピペでもしたかのようです。よろしければご利用ください。