初日 最新 目次 MAIL HOME


ムシトリ日記
加藤夏来
→ご意見・ご指摘等は

2005年01月31日(月)
甘えるのって得意ですか?

と言われたら、即「いいえ」か一拍おいて「……いいえ」の女性、多いんではないかと思います。自立・独立・一人でやれ、が正義になっている昨今、たとえ恋人だろうと、誰かの力を頼りにしたり、「やって」と頼むことは、思っているよりずっと勇気のいることでしょう。

特に、自分でやるのも相手にまかせるのも同じのような、微妙なラインの仕事をさっさと片付けちゃう、そこの手際のいいあなた。
自分の仕事をとられちゃうと、ずるけているような気がして、どうも落ち着かない真面目なあなた。



あなたの彼氏によく聞いてみてください。実は、結構寂しがっているかもしれません。



単独で物事を完成させることは、確かに立派です。ですが、反面寂しいことでもあります。あなた自身が、たとえば彼氏が困難に立ち向かっているとき、それに何も手を貸せないという状態を思い浮かべてみてください。誰かを助けたいという欲求は、人間誰しも普通に持っているものです。好きな人の望みを満たしてあげたいと思ったら、勇気を出して言ってみてください。「あなたの助けが必要です」と。

と言っても、もちろん日常にはそんな困難なんてなくて、「きれた電球まで手が届かない」とかがせいぜいだと思いますが。

ま、電球レベルの困難でもいいです。悪びれずに「お願い」と言ってみるところから始めてください。そして、換えてもらったらいっぱいの笑顔で「ありがとう」と言ってあげてください。一人で電球を換えてしまうのとは、嬉しさの絶対量が違うと思います。




MSNのコラムがあまりにムカついたので、同じ趣旨とほぼ同じ文字数で改題した文章です。
一応コラム文の練習という意味もあり。



2005年01月25日(火)
雑学

週末の大河ドラマのあとで、何気なく検索して知ったことです。




おんぞうし ―ざうし 3 【御曹司/御曹子】 〔「曹司」は部屋(へや)の意〕

(1)名門の子弟。 「社長の―」
(2)公家の子息でまだ独立していない者。
(3)(平家の「公達(きんだち)」に対して)源氏の嫡流で、独立していない子息の敬称。特に、源義経。

(エキサイト国語辞典より)




これ見ると、どうやらこの言葉はもともと義経個人を指す言葉だったようですね。それがやがて、一般的な用法に転化していったという流れのようで。これ一事をとっても、日本人にとって源義経がどれほど重要な英雄であったかがよくわかります。

以下つらつら考えたことです。
あの時代にもっとも語り伝えられたのは「平家物語」……平家の物語であって源氏の物語ではありません。題名かぶったからじゃないのとかいう事情は置いておいても、より中間的な見方である源平合戦記でもなく、よくは知りませんが勝者である源氏の側に立った物語でもなく、一時的に隆盛を極めて、やがて消えていった平家という一族の物語、敗者の物語として、我々は一時代をとらえています。
考えてみれば歴史が移り変わるとは、勝者が移り変わるということです。ある時によしとされた価値観が、別のものにとって代わられるとき、これを時代が変わったと称します。そうなったとき、それまで勝者であったものは、敗れ去って消えていく以外にありません。そういう目で見れば、歴史というものはすなわち敗者の歴史であると言えるでしょうか。無論それは、全く同時に勝者の歴史でもあるわけですが。

源平の時代というと、もう800年も前のことです。これだけ離れてしまうと、もう歴史なのやら物語なのやら分からないレベルではありますが、この二つが本質的に同じものであることを考えると、論議としては一緒にしてしまってもいいのかもしれません。
ところで、しょうがないんでしょうが、源義経がモデル眉毛なのはなんとかならないんでしょうか。



2005年01月23日(日)
公式モノについて

モリゾーとキッコロ



黄緑はともかく、緑は「言うことを聞かない子供をとって食う」という噂です。
久しぶりの帰省の際、こいつらがプリントされた材木を発見してビビりました。



とりあえず話は見てからです。



何も言わないっていうか、言えない。



2005年01月12日(水)
日本人の光景(なぜか「ハウルの動く城」ネタバレ入ってます)

不意に表題映画のお気に入り点を思い出したので、メモの意味でここに書いておくことにします。どこの映画館でも一番観客が笑っているのは、ソフィーと荒地の魔女が宮殿の階段を上っているシーンだと思いますが、あのおかしさの後押しをしているのが「いつの間にやら仇敵のはずの荒地の魔女を、ソフィーが心配している」という点ではないでしょうか。完全に頭にきていたはずの呪いの一件を忘れた理由は、相手がなんか大変そうだったから。しかも、いったん忘れたら二度と思い出しません。犬がスパイとかの件なんぞ、一瞬にして忘れ去られています。犬自身も同レベルですが。


映画のシーンそのものよりも、この基本的に攻撃性が欠如している雰囲気を、ごく自然に愛する日本人の特性が、わたしは嫌いではありません。


ちょっと前ですが、新幹線のホームで行列に並んでいたところ、前に並んでいたおじさんが「ちょっと荷物見ててくれる?」と一言言い残して、十分ほど姿を消したことがあります。もちろん、知らん人です。向こうにとってだって同じことです。そして、この状態は決して超レアな事件ではないと思います。

荷物自体が非常にデカくて、おいそれと持っていけるようなものではないとか、(おそらく)そもそも他人にとって価値のあるものが入っているわけではないとかいった事情はさて置き、移動中の人間にとっての荷物は準自分の体と言えます。何らかの信用がなければ、預けられるものではありません。

わたしについての情報がゼロに等しい、あのおじさんに、ホームで焼き鳥を立ち食いしているどっかの女を信用させたものはなんでしょうか。

異論もありましょうが、わたしはおじさんが荷物を預けていったのは、私自身ではなく日本という社会だと考えます。縁もゆかりもない人間の大切なものを、同じように大切に扱ってくれるだろうという信頼感、ならびにそれを疑いなく信じている以上、本人も他人の大事なものを大切にできるという自負。自己責任を基本に考えれば、このおじさんの行為は相互依存にもとづいた軽はずみな思考ということになるのでしょうが、わたしは決して嫌いではありません。十分間荷物のそばを離れることもできない社会の、いったい何が自由かと思うのです。



2005年01月10日(月)
改めてご挨拶

正月ボケどころか、十一月から二ヶ月も休眠してやって戻って参りました。皆さんお久しぶりです。前回PBCのことを思い出して書き→なつかしさに駆られて知り合いのPBCサイトに遊びに行き→そのままずっとトラップされておりました。おかしいなあ、最初はネタ探しに行ったはずだったのに。
……生乾きのミイラの口だからか、舌がうまく回りません。


間をあけすぎたせいか、確かにメモしたはずのネタも見当たらないので、最初っから書き直します。


思い返しますと、小さい頃飽きもせず繰り返した”おままごと”。PBCはあれと同種の楽しみであると思います。べつに悪口を言っているわけではありません。状況のイメージをする楽しさ、それを複数で持ち寄る楽しさが、核になっているということです。


要は架空の世界でのお遊びであるのですが、架空をばかにしたものではありません。ある人間が今現在に比べて、より良い状態になりたいと願う場合、最初にすべきことは、目指す”理想の状態”をイメージすることです。ぴったりその通りにはなれなかったとしても、繰り返しイメージすることで、無意識に理想に近づいていく可能性があります。まあ、それもあくまで副次的な効果で、やっている本人はほぼ頭の中カラッポなんですが。


ダンブルドア校長ではありませんが、『夢を見ることに夢中になったり、生きることを忘れてしまうのはよくない』のです。それが夢であることを認識している限り、PBCの世界で遊ぶのも、時には悪くありません。



ただしそれが上手くいかないのが現実です。
(すっかり小説を忘れきっていた管理人A)



2005年01月06日(木)
割り込みで謹賀新年

と、とりあえず……

生きてますから……! っていうかサボってるだけですから…!
松の内もぎりぎりなので今更何だって感じですが、皆様あけましておめでとうございます。皆様の2005年がよい年でありますように。そして自分自身の今年も、研ぎ澄まされた一年でありたいと思っております。


本年も何卒よろしくお願いします。